赤坂氷川神社 / 東京都港区

神社情報

赤坂氷川神社(あかさかひかわじんじゃ)

御祭神:素盞鳴尊・稲田姫命・大己貴命
旧社格:准勅祭社・府社
例大祭:9月15日(隔年・神輿連合渡御)
所在地:東京都港区赤坂6-10-12
最寄駅:赤坂駅・六本木駅・六本木一丁目駅
公式サイト:http://www.akasakahikawa.or.jp/

御由緒

 天暦五年(951年)武州豊島郡一ツ木村(人次ヶ原)に祀られ、1000年以上の歴史を有する。創祀から100年後の治歴二年、関東に大旱魃が発生、降雨を祈願するとその験があり、以来よく祭事が行われた。
江戸時代に入り、幕府の尊信は篤く、八代将軍・徳川吉宗公が享保元年(1716年)将軍職を継ぐに至り、同14年(1729年)に老中岡崎城主水野忠之に命じ、現在地(忠臣蔵・浅野内匠頭の夫人、瑤泉院の実家・浅野土佐守邸跡)に現社殿を建立、翌15年(1730年)4月26日に遷座が行われ、28日に将軍直々の御参拝があった。以降、14代家茂公まで、歴代将軍の朱印状(港区文化財)が下附された。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/02/02(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/12/29(御朱印拝受)
参拝日:2015/08/02(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

[2017/02/02拝受]
(東京十社めぐり御朱印帳)

[2015/12/29拝受]
(東京十社めぐり御朱印帳)

[2015/08/02拝受]

御朱印帳

初穂料:1,500円
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意している。
御神木になっている大銀杏(港区天然記念物)の葉をあしらったもの。
水色、ピンク、緑の3色用意されていた。
東京十社めぐり御朱印帳(通常版・木製版)も用意。

東京十社めぐり御朱印帳(木製)
初穂料:1,500円
社務所にて。

「東京十社」発行の御朱印帳。
従来の紫色タイプと2016年より頒布となった木製タイプの2種類を用意。
最初のページから東京十社の説明記載あり。(詳細画像:Twitter
各社専用のページが用意されていて、右側に御由緒、左側に御朱印を拝受するようになっている。

[表面]

[裏面]

授与品・頒布品

交通安全ステッカー
初穂料:300円
社務所にて。

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考察

東京十社・赤坂鎮守の氷川さま

東京都港区赤坂に鎮座する神社。
旧社格は准勅祭社、その後、郷社から府社に昇格し、赤坂周辺の鎮守。
現在の東京十社のうちの一社。
「氷川神社」が正式名であるが、区別のため地名から「赤坂氷川神社」と称される事が多い。
江戸時代は徳川将軍家に庇護され、江戸七氷川のうちの筆頭とされた。
徳川吉宗の命によって造営された江戸時代の社殿が現存している。

平安時代に創建・大旱魃に雨を降らせた霊験

社伝によると、天暦五年(951)武州豊島郡一ツ木村(人次ヶ原)に創建と伝わる。

近江国の蓮林僧正が東国修行に訪れた際、夢の中に老人が現れ「我はずっと土の中に埋まっている者なり。掘り出してくれたらこの所の守護神になろう。」と告げたため、周辺を探したところ、金色に輝く地面があり、掘ってみると十一面観音像が出現した。
そこで一ツ木村にその十一面観音像を祀り、「一ツ木村の観音」と名付け崇敬を集めたのが始まりとされている。

一ツ木村(人次ヶ原)は俗称・古呂故ヶ岡と呼ばれた地。
現在の赤坂4丁目あたりで、赤坂不動「尊威徳寺」がある付近。

治暦二年(1066)、関東に大旱魃(だいかんばつ)が発生。
民衆が当社に降雨を祈ると、その霊験があり雨を降らせて川をなし万民を助けたと伝わる。
この事から「氷川明神」と称され、地域から崇敬を集めた。

「氷川神社」は荒川流域の武蔵国(埼玉・東京)に多く見る事ができ、「氷川」の名は、出雲の簸川(現・斐伊川)の名に因み、荒川を簸川に見立てたとされる。
農業用水として大切な半面、氾濫の多い河川の守護神・農業の開拓神として祀られる事が多く、当社も雨を降らせて川をなしたという伝承から、神仏習合の元、創建時の十一面観音像を御神体とし、氷川神として崇敬を集めたのであろう。

以来、よく祭事が行われるようになり、地域からの崇敬を集めたと云う。

江戸七氷川の筆頭に数えられる

江戸時代に入ると、赤坂周辺は町屋・武家屋敷が造られ町奉行管轄地となる。
一ツ木村も赤坂一ツ木町と呼ばれ、当社は赤坂一帯の鎮守で、別当寺は「大乗院」(現・廃寺)が担っていた。

江戸時代の筆者不詳の古随筆『望海毎談』には「江戸氷川七社の一」と記されている。
江戸に鎮座する「氷川神社」を代表する「江戸氷川七社」のうちの一社で、中でも筆頭だったと云う。

不明な点も多いものの当社の他に「麻布氷川神社」「渋谷氷川神社」などが挙げられる。

麻布氷川神社 / 東京都港区
麻布総鎮守。江戸氷川七社の一社。セーラームーンに登場する神社のモデル。源経基により勧請。浮世絵に描かれた麻布一本松。江戸時代に遷座・徳川将軍家からの庇護。江戸切絵図から見る当社。現存する神楽殿や神輿庫。港七福神めぐり・毘沙門天。御朱印。
渋谷氷川神社 / 東京都渋谷区
渋谷区南端一帯の鎮守。金王相撲・江戸郊外三大相撲。江戸七氷川。江戸名所図会に描かれた江戸時代の当社と渋谷。御朱印。

徳川吉宗による社殿造営と遷座

享保元年(1716)、紀州藩主であった徳川吉宗が第八代将軍に就任。
すると当社は吉宗から多大な庇護を受ける事となる。

これは当社が紀州藩中屋敷の産土神であった事によるもの。
紀州藩中屋敷は当社の氏子地域であり、産土神であった当社を篤く崇敬した。

享保十四年(1729)、吉宗は老中・水野忠之に命じて、現在地(旧赤坂今井台)に社殿を造営。
享保十五年(1730)、創建の地の赤坂一ツ木町から現在地への遷座が行われた。
この社殿が現存しており、吉宗の命によって建てられた社殿となっている。
同年、吉宗が直々に当社に参詣をしており、篤く崇敬したのが伝わる。

以後、第十四代将軍・徳川家茂まで歴代将軍による社領200石もの朱印状を賜り、徳川将軍家に篤く庇護される事となる。

また、当時の祭礼は6月15日に行われており、「山王日枝神社」(現・東京十社)の山王祭と同日であったため、交互に隔年で大祭を行ったと伝わる。
神輿渡御には氏子町赤坂21ヶ町の山車13台が巡行する規模の大きな大祭であった。

『諸国御祭礼番附図』によると、天下祭と呼ばれた「山王日枝神社」「神田明神」の例祭に次ぐ江戸で三番手、東日本で四番手に位置する規模であったと云う。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地や吉宗が藩主であった紀州藩中屋敷の位置関係は、江戸の切絵図からも見て取れる。

(赤坂絵図)

こちらは江戸後期の赤坂周辺の切絵図。
左上が北の切絵図となっており、当社は図の中央に描かれている。

(赤坂絵図)

当社周辺を拡大したものが上図になる。
赤円で囲ったのが「氷川明神」と書いてある当社で、現在の鎮座地と同じ場所。
青円で囲ったのが「紀伊殿」と書かれている紀州藩の中屋敷。
緑円で囲ったのが、かつて当社が鎮座していたと思われる赤坂一ツ木町の一角。

紀州藩中屋敷のすぐ近くに当社が鎮座していた事が分かり、当社が氏神であった事が分かる。
紀州藩の藩主の四男として生まれ、紀州藩主となり、その後、第八代将軍をとなった吉宗にとっては産土神であったため、大変手厚く庇護したというのが伺える。

忠臣蔵との繋がり深い当地

当社の現在の鎮座地は、『忠臣蔵』とも関わりが深い事で知られる。

当社が遷座する前の当地には、浅野土佐守邸が存在していた。

浅野土佐守邸は『忠臣蔵』で有名な、浅野長矩(浅野内匠頭)夫人の実家で、三次浅野家の下屋敷が置かれていた。

元禄赤穂事件後に出家した夫人・瑤泉院(ようぜんいん)は、三次浅野家の下屋敷があった当地に移居。
死去するまでこの地で幽居したと云う。

その後、三次浅野家(浅野土佐守)は享保五年(1720)に断絶・廃藩。
幕府が徴収した土地を当社に与えたのであろう。

当社近くの南部坂には、大石内蔵助が討ち入り前に訪れて、瑤泉院に別れを告げたと云われる「南部坂雪の別れ」伝説も残る。

但し「南部坂雪の別れ」は創作であり事実ではない。

江戸名所図会や浮世絵に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

「赤坂氷川社」として、見開きで描かれている。
境内の主要配置は現在とあまり変わらず、この時描かれている社殿も現存。
江戸時代の様子がかなり残っていると云えるであろう。

注目すべきは参道と鳥居の位置。
現在は社殿から正面に参道が伸び鳥居や社号碑があるため、こちらが表参道にも思えるが、江戸時代にはこの正面参道は存在しておらず、氷川坂に面した南西が参道となっているのが分かる。

当社は浮世絵にも描かれている。

(二代歌川広重・江戸名勝圖會)

こちらは二代歌川広重が描いた『江戸名勝圖會』から「赤坂氷川」を描いたもの。
冬の雪景色を描いている。
やはり氷川坂に面した南西が参道になっており、鳥居を潜って右手に社殿がある形。
こうした配置などは現在とあまり大差がない事が伺える。

現在も氷川坂に面した南西の参道には境内社や神池、鳥居や狛犬などが多く置かれており、正面ではなく南西側の参道が表参道という扱いになるのかもしれない。

明治以降の歩み・山車や宮神輿の復活

明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、准勅祭社に列する。

准勅祭社に指定された十二社のうち、東京23区内の神社十社が現在の「東京十社」となる。

明治三年(1870)、准勅祭社は廃止となる。
明治五年(1972)、郷社に列格。
明治十三年(1980)、府社に昇格した。

明治十六年(1883)、当社の隣に鎮座していた村社「本氷川明神社」を合祀。

本氷川明神社は江戸時代は当社に隣接する「盛徳寺」敷地内に鎮座していた神社で、「江戸七氷川」に数えられた一社。
当社が遷座してくる以前より鎮座していたため、「本氷川」と呼ばれていた。

昭和四年(1929)、遷座二百年祭にあたり、社殿朱漆塗替、格天井の花鳥壁間鳳の絵図を加えるなど改修整備が行われた。

昭和二十年(1945)、東京大空襲の戦災によって手水舎・神楽殿・神輿庫などが焼失。
吉宗の命で造営された社殿は焼失を免れ、現存している。

戦後になり境内整備が進み、江戸時代の様子を残したまま現在に至っている。
現在は「東京十社」のうちの一社に数えられている。

近年では、かつて祭礼で巡行していた山車や宮神輿を復活させるなど様々な努力をされている。

江戸時代からの参道と現在の正面参道

最寄駅は赤坂駅か六本木一丁目駅で、徒歩数分の距離に広い境内を有している。

社殿の正面にあるのが正面参道。
江戸時代にはこちらの参道はなく、明治以降に整備された。
社殿の正面にあるため、こちらから参拝される方も多い。

鳥居を潜ると広い境内となる。
その先に鳥居があり、左手に手水舎。
その先に楼門・社殿と続く。

一方で、氷川坂に面した南西にも参道がある。
江戸時代の頃にはこちらが表参道となっており、現在もこちらの参道がとても立派。
石段を上った先に二之鳥居。
二之鳥居を潜って右手に手水舎・楼門・社殿がある形となっている。

江戸時代からの名残を残しているのが南西の参道と云えるので、個人的には氷川坂から入るのがオススメ。

徳川吉宗が造営した社殿が現存

社殿の前には楼門が立つ。
その先が神域となり社殿となる。

社殿は享保十四年(1729)に造営されたものが現存。
八代将軍・徳川吉宗が、老中・水野忠之に命じて造営させた社殿からは、吉宗の政策を感じる事ができる。
「享保の改革」を行い倹約政策を取った吉宗らしく、徳川将軍家寄進の社殿は派手で絢爛豪華な社殿が多い中、当社の社殿は彫刻を施さず、とても質実簡素な社殿となっているのが特徴的。
派手さはないものの、見事な意匠も感じ取れ、個人的にはとても好きな社殿である。
この社殿は東京都有形文化財に指定されている。

昭和四年(1929)、遷座二百年祭にあたり、社殿朱漆塗替など改修整備が行われた。
拝殿の天井には、河合玉堂の弟子であり氏子であった長華崖による格天井の花鳥、宮部衆芳による壁間の鳳凰の絵図が加えられた。

社殿内につき撮影はしていないため、詳細は公式サイトをご覧頂きたい。

赤坂・六本木の氏神様「赤坂氷川神社」の公式サイト。御由緒とご祈祷・神前結婚式・授与品のご案内をしています。

社殿の手前左手には宮神輿庫。
以前はこの位置に、奉納絵馬や額などが置かれた額堂があったのだが、平成二十八年(2016)に宮神輿が復活したため、境内整備によって変更となっている。

勝海舟が名付けた四合(しあわせ)稲荷・雰囲気たっぷりの西行稲荷など

境内社は数多く、それぞれが様々な歴史を伝える。

南西参道の途中に「四合稲荷(しあわせいなり)神社」が鎮座。
明治三十一年(1898)、当地周辺の稲荷社を4社合祀し当社に祀られた。
大正十四年(1925)、昭和九年(1934)にも周辺の稲荷社を合祀している。
「四合稲荷(しあわせいなり)」という社名は、赤坂在住の勝海舟が命名したもの。

4社が合祀される事で「四合」を「しあわせ」と読むところなど、勝海舟らしい粋なネーミング。

その左手に「西行稲荷社」が鎮座。
大正十年(1921)に当社に遷座した稲荷様で別名「火伏の稲荷」とも云われ、火災除の御利益があると信仰されている。
とても雰囲気のある一角になっており、こちらへ参拝される方も多い。

「四合稲荷」の向い側には神池。
あまり水は張られていないが太鼓橋がかかり風雅な一角。

正面参道の途中左手には「九神社」が鎮座。
天祖神社・春日神社・鹿嶋神社・八幡神社・諏訪神社・秋葉神社・厳島神社・金刀比羅神社・塞神社、の九社を合祀した境内社となっている。

更に社殿の左手に稲荷社が2社鎮座している。

都内で二番目に古い狛犬・石灯籠・御神木の大銀杏など

境内には歴史を伝える奉納物なども多く置かれている。
中でも狛犬は数多く置かれており、それだけ当社が崇敬を集めたと云えるだろう。

楼門の手前にある一対の狛犬は、都内で二番目に古いとされる狛犬。
延宝三年(1675)の奉納で、江戸時代初期の狛犬となっている。
紐状の尾に、巻き毛とどこか可愛らしさを感じる意匠。

都内最古は「目黒不動尊」こと「瀧泉寺」の承応三年(1654)の狛犬とされている。

南西参道の石段を上った先には立派な獅子。
躍動感のある現代風の狛犬となっており素晴らしい。
他にもそれぞれ表情の違う狛犬がいるのでそれぞれ確認するのが楽しいだろう。

楼門前に置かれる石灯籠も歴史を感じるもの。
赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町の講中が、享保九年(1724)に奉納したもの。
当社が当地に遷座する前より奉納されていたもので、創建の地より遷された事が分かる。

正面参道の右手には立派な大銀杏のご神木。
樹齢400年の巨木で、当社が当地に遷座した享保十五年(1730)には、既に100年以上の樹齢だったと見られるため、古くからこの地で育った御神木。
港区の天然記念物に指定されている。

この奥には滑り台など児童公園がある。
格式のある神社でありながら、そうした地域の憩いの場となっているのが素晴らしい。

正面参道の鳥居を潜ってすぐ左手には力石。
境内の土中から発見されたと云い「三十五貫」(約130kg)と切付が残る。

他にも歴史を伝える奉納物などが多数置かれている。
江戸時代の史料などから見てもあまり変わっていない境内であるため、江戸の情緒を感じる事ができる境内となっている。

銀杏をあしらった御朱印帳・東京十社めぐり御朱印帳も2種用意

御朱印は社務所にて。
平成二十八年(2016)に竣工したばかりの新しい社務所はとても綺麗。

豊富な授与品、御朱印帳も複数用意している。
オリジナルの御朱印帳は、御神木になっている大銀杏の葉をあしらったもの。
水色、ピンク、緑の3色を用意。

東京十社めぐりの専用御朱印帳も用意。
従来の紫の表紙のものと、2016年より頒布となった木製表紙のものの2種類。
東京十社の各社専用のページが用意されていて、右側に御由緒、左側に御朱印を拝受するようになっている。

詳しくは当ブログの「東京十社 御朱印一覧」記事にて。

東京十社 御朱印一覧
東京十社の「東京十社めぐり御朱印帳」と御朱印画像一覧です。東京十社についての歴史など詳しい説明も掲載しています。

所感

赤坂周辺の鎮守として崇敬を集める当社。
江戸時代には第八代将軍・徳川吉宗から篤い崇敬を受け、以後は徳川将軍家より庇護された。
吉宗の命によって造営された社殿が現存しているのがとても素晴らしい。
現在までに安政の大地震・関東大震災・東京大空襲などがあった中、それらの被災を免れているのは奇跡的とも云え、社殿は吉宗の政策や意向を感じ取る事ができる質実簡素な素晴らしい社殿となっている。
境内は赤坂にありながら江戸時代の名残を残しており、歴史を伝える物も多い。
派手さはないが、東京十社の中でも渋さのある良社であり、個人的にはとても好きな一社。

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神社画像

[ 正面鳥居・社号碑 ]


[ 正面鳥居 ]

[ 正面参道 ]

[ 南西大鳥居 ]

[ 狛犬 ]




[ 南西参道・石段 ]

[ 南西二之鳥居 ]

[ 狛犬 ]


[ 楼門前鳥居 ]

[ 狛犬 ]


[ 手水舎 ]

[ 狛犬(境内最古) ]


[ 楼門 ]

[ 楼門・石灯籠 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 宮神輿庫 ]

[ 収蔵庫 ]

[ 絵馬掛 ]

[ 社務所 ]

[ 九神社 ]


[ 案内板 ]

[ 神輿庫 ]

[ 力石 ]

[ 石碑 ]

[ 案内板 ]


[ 大銀杏 ]



[ 包丁塚 ]

[ 稲荷社 ]


[ 収蔵庫 ]

[ 四合稲荷神社 ]



[ 西行稲荷社 ]





[ 太鼓橋 ]

[ 神池 ]

[ 石碑 ]

[ 案内板 ]

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