山王日枝神社 / 東京都千代田区

千代田区

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概要

皇城之鎮・皇居を鎮護する山王さま

東京都千代田区永田町に鎮座する神社。
旧社格は准勅祭社、その後、官幣大社まで昇格。
現在は神社庁の別表神社で、東京十社のうちの一社、東京五社の一社にも数えられる。
江戸城(皇居・皇城)の裏鬼門に位置し、明治以降は「皇城之鎮」として崇敬を集めている。
正式名称は「日枝神社」だが、他との区別から「山王日枝神社」や「赤坂日枝神社」と称されることがあり、当記事では扁額などにも使用されている「山王日枝神社」とさせて頂く。
古くは「山王大権現」と称され、現在も「山王さま」と呼称する崇敬者が多い。
当社の例大祭は江戸三大祭の一つ「山王祭」(天下祭)として知られる。

神社情報

山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)

御祭神:大山咋神
相殿神:国常立神・伊弉冉神・足仲彦尊
社格等:官幣大社・准勅祭社・別表神社
例大祭:6月7日-17日(山王祭)(隔年・神幸祭)
所在地:東京都千代田区永田町2-10-5
最寄駅:溜池山王駅・国会議事堂前駅・赤坂見附駅・赤坂駅・永田町駅
公式サイト:https://www.hiejinja.net/

御由緒

 御祭神大山咋神は須佐之男神の御孫神で山末之大主神とも称えられ山水を司り、萬物の生成発展を守護する神である。
 日枝神社の歴史は鎌倉初期、秩父重継は江戸貫主を名乗り居館に山王社を勧請したことに始まる。文明年間には太田道灌江戸城築城にあたり川越山王社を再勧請し、更に徳川家康入府以降、城内鎮守の神、将軍家の産土神と崇められ、紅葉山から麹町を経て萬治二年当地に移遷された。
 日本三大祭のひとつ、また江戸三大祭の筆頭として知られる山王祭は江戸時代にはその神幸行列が城内に入り、将軍自ら上覧したことから天下祭また御用祭とも称された。
 明治維新の東京奠都によって江戸城は皇居となり、日枝神社は皇城鎮護の神として、皇室の御崇敬殊に篤く、大正天皇御即位当日には官幣大社に列せられた。氏子地域は都心の七十余町に及び、生業の隆昌をはじめ子孫と家門の繁栄を守護し給うその御神徳はまさに宏大無辺である。(境内の掲示より)

歴史考察

江戸を開拓した江戸氏による創建

社伝によると、平安時代末期に創建したと云う。
江戸郷を開拓した江戸氏によって創建され「山王宮」と称された。

江戸氏(えどし)
武蔵国の国人領主の氏族。
江戸氏の初代当主・平重継(江戸重継)は、平安時代末期に武蔵江戸郷を領地として江戸氏を称して江戸貫主(江戸氏の惣領の意味)となり、江戸を開拓した人物として知られる。
重継は江戸の桜田の高台(後の江戸城本丸周辺)に居館を構えたと云う。
子の江戸重長(えどしげなが)は、源頼朝に従い有力御家人として活躍した。
熊野三山である「熊野那智大社」(和歌山県東牟婁郡)にある文書では貞治元年(1362)に「豊島郡江戸郷 山王宮」と記されていることから、それ以前に創建した事が分かる。

「山王宮」と称されたように山王信仰の神社として創建された。

山王信仰(さんのうしんこう)
比叡山麓の「日吉大社」(滋賀県大津市)を総本社とする信仰。
山王とは「日吉大社」で祀られる神の別名で、比叡山に鎮まる神を指している。
神仏習合の時代は「山王権現」と称される事が多く、現在も「山王さん」「山王さま」と親しまれている。
山王信仰の神使は猿。
日吉大社 | 平安京の表鬼門鎮座 方除・厄除の大社 神仏霊場 滋賀県17番

江戸城を築城した太田道灌による勧請・江戸城の鎮守

文明十年(1478)、太田道灌が江戸城を築城。
江戸城の鎮守として当社に「川越日枝神社」(現・埼玉県川越市)の御分霊を再勧請したと云う。

太田道灌(おおたどうかん)
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城や河越城を築城した事で広く知られ、江戸城主として江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。
川越日枝神社(かわごえひえじんじゃ)
埼玉県川越市小仙波町に鎮座し、旧社格は県社。
円仁(慈覚大師)が川越の星野山「無量寿寺(現・喜多院中院)」を建立した際、鎮守として山王信仰の総本社である近江国「山王権現(現・日吉大社)」(滋賀県大津市)の御分霊を勧請したと伝わる。
太田道灌は江戸城だけでなく、埼玉県川越市の河越城も築城していて河越城主でもあった。そうした繋がりで「川越日枝神社」から当社へ再勧請させたものと思われる。

当時は江戸城内に祀られ、江戸城の鎮守を担った。

徳川将軍家からの篤い崇敬・徳川歴朝の産土神

天正十八年(1590)、関東移封によって江戸入りした徳川家康は江戸城を居城とする。
当社は江戸城内の紅葉山に新社殿を造営の上で遷座。
徳川家康より五石の朱印地を賜り「城内鎮守の社」とされた。

紅葉山は江戸城の本丸と西丸のほぼ中間にある丘。

二代将軍・徳川秀忠の代になると、天下普請によって江戸城の拡張や大改造が行われる。
その際に社地を江戸城外の麹町隼町(現・国立劇場付近)に遷座。

天下普請(てんかぶしん)
江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事。
江戸城など城郭普請が特に知られる。
これまでは江戸城内にあったため庶民の参拝が許されていなかったが、城外に遷座した事で庶民の参拝もできるようにする意図があったとされる。

元和三年(1617)、秀忠により100石の朱印地を賜る。
寛永十二年(1635)、徳川三代将軍・徳川家光からの寄進も含め計600石の朱印地を賜る。
家康や家光からの朱印状は現在も宝物殿に展示されている。(現在は撮影禁止)

朱印地(しゅいんち)
幕府より寺社の領地として安堵(領有権の承認・確認)された土地のこと。
朱色の印(朱印)が押された朱印状により、所領の安堵がなされた事に由来する。

徳川将軍家からは「徳川歴朝の産土神」として崇敬を集めた。

明暦の大火によって焼失・現在地へ遷座

明暦三年(1657)、明暦の大火により社殿を焼失。

明暦の大火(めいれきのたいか)
江戸の大半を焼失させた大火事で、振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。
江戸三大火の1つで、その中でも江戸時代最大の延焼面積・死者が発生。
江戸城の天守閣を含む、江戸市中の大半が焼失し、この明暦の大火を機に、江戸の都市改造が行われる事となった。

万治二年(1659)、徳川四代将軍・徳川家綱が赤坂の松平忠房の邸地を当社の社地に指定。
同年遷座し、「天下奉平・万民和楽の都」を守護する祈願所として崇敬したと云う。
これが現在の鎮座地となっている。

この地は江戸城から見て裏鬼門(南西の方角)に位置するため、江戸城の裏鬼門を鎮護すると云う役割を果たすことになる。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(外桜田永田町絵図)

こちらは江戸後期の桜田門外の切絵図。
左上が北の切絵図となっており、当社は図の右下に描かれている。

(外桜田永田町絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。

「日吉山王大権現社」と記され、広い社地、参道にも鳥居が多く記されている。
隣接する「観理院」が別当寺であり、その下に10坊が置かれていた。

左にある赤坂御門がいわゆる赤坂見附であり、当社は外濠の中に鎮座していた。

見附(みつけ)
外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のこと。
江戸城は主に江戸城三十六見附(えどじょうさんじゅうろくみつけ)と呼ばれ、赤坂見附・虎ノ門・半蔵門・桜田門・大手門・四谷見附など主な36箇所が知られていた。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「日吉山王神社」として、見開きで描かれている。
境内の規模は現在とそう変わらない見事なものだが、仁王門・随神門があり社殿も大変立派であったのが窺え、現在以上に華やかで立派な境内だった事が伝わる。

(江戸名所図会)

社殿を中心に拡大したのが上図。

実に立派な社殿が描かれている。
東京大空襲で焼失するまでこの社殿が残っていて、当時は国宝指定される程であった。
また鐘楼もあり神仏習合の様子を窺え興味深い。

広重の浮世絵に描かれた当社

当社は浮世絵にも多く描かれている。

(銀世界東十二景)

歌川広重が描いた『銀世界東十二景』から「赤坂山王」。

江戸の雪景色の名所12箇所を描いた『銀世界東十二景』で当社が選出。
朱色の美しい社殿と銀世界が描かれている。
こうした中でも参拝に訪れる人々の姿も見る事ができる。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

(東都三十六景)

二代目歌川広重が描いた『東都三十六景』より「山王権現雪中」。

『東都三十六景』では二代目歌川広重が「山王権現雪中」としてやはり雪景色を描いている。
当社の雪景色は、白と赤の対比が見事で非常に印象的だったのではないだろうか。

(江戸名勝図会)

二代目歌川広重による『江戸名勝図会』もの。

境内の賑わいと人の様子が窺える。
説明書きには「江戸第一の大社」との記載も見られ、江戸でも筆頭の大社であった。

二代目歌川広重(にだいめうたがわひろしげ)
歌川広重(初代)の門人。
はじめは重宣(しげのぶ)と称していたが、安政五年(1858)に初代が没すると、広重の養女お辰の婿になり、二代目広重を襲名した。
広重の晩年の作品『名所江戸百景』にも参加し、一部は二代目の作とされている。

天下祭と呼ばれた江戸随一の山王祭

当社の例祭は「山王祭」と呼ばれ、「江戸三大祭り」の1つに数えられた大祭。

江戸三大祭り
神田明神」の「神田祭」
「山王日枝神社」の「山王祭」
富岡八幡宮」の「深川祭」
神田神社(神田明神) / 東京都千代田区
江戸総鎮守・神田明神。東京十社。天下祭と呼ばれた神田祭。将門塚の祟り・平将門公を合祀。徳川幕府によって江戸総鎮守へ。EDOCCO。神社声援。『ラブライブ!』『ホロライブ』『にじさんじ』などのコラボ。だいこく様とえびす様。御朱印。御朱印帳。
富岡八幡宮(深川八幡) / 東京都江東区
江戸最大の八幡・深川の八幡様。東京十社。江戸勧進相撲の発祥の地・横綱力士碑。北斎や広重の浮世絵に描かれた深川八幡。江戸三大祭りの深川八幡祭・日本一宮神輿・水かけ祭り。深川七福神の恵比寿神。七渡弁天。伊能忠敬像。東京産ひのき御朱印帳。御朱印。

中でも当社の「山王祭」と「神田明神」の「神田祭」は江戸を代表する大祭で、隔年で交互に行われ、両祭りは「天下祭」と称された。
この両社は江戸を守護する神社として、徳川将軍家から特に崇敬を集めたため、祭りの際には山車が江戸城に入って将軍に拝謁する事が許されていた。

天下の徳川将軍に拝謁できるため「天下祭」。

そうした山王祭の様子も『江戸名所図会』には大きく描かれている。

(江戸名所図会)

(江戸名所図会)

見開きにて見事な山車の姿が描かれ「天下まつり」と記されている。
次ページには4ページに渡り祭りの様子を描いている。
大変な規模の祭りであった事が分かり、隆盛を極めた江戸を代表する祭りであった。

現在も「神田明神」の「神田祭」と交互に神幸祭が行われている。

現在は電線などのため山車ではなく神輿となっているが大いに盛り上がる。

山王祭 - 日枝神社
日枝神社がおくる日本三大祭の山王祭公式サイト。山王祭の詳細情報を提供しています。
山王祭の御旅所(神輿が休憩または宿泊する場所)となったのが、現在の「日本橋日枝神社」。
日本橋日枝神社(日枝神社日本橋摂社) / 東京都中央区
山王日枝神社の日本橋摂社。山王祭の御旅所が起源・山王御旅所。江戸時代には本地仏の薬師堂が置かれ遙拝所が2社並ぶ。日本橋茅場町鎮座。運気上昇の上向き狛犬。戦前の鉄筋コンクリート造社殿。明徳稲荷神社。株価上昇のかぶ守。御朱印。蕪と兜の御朱印帳。

明治以降の歩み・官幣大社へ昇格・戦後の再建

明治になり神仏分離。

江戸城が徳川将軍の居城から天皇の皇城となる事で「皇城之鎮」として崇敬された。

明治元年(1868)、准勅祭社に列する。

准勅祭社に指定された十二社のうち、東京23区内の神社が現在の「東京十社」となる。
東京十社 御朱印一覧
東京十社の「東京十社めぐり御朱印帳」と御朱印画像一覧です。専用の御朱印帳も紹介。東京十社についての歴史など詳しい説明も掲載しています。東京十社とは、昭和五十年に定められた東京23区内の10の神社。東京十社めぐりの参考になりましたら幸いです。

明治三年(1870)、准勅祭社が廃止。
明治五年(1972)、府社に列する。
明治十五年(1882)、官幣中社に昇格。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

当宮の鎮座地は赤円で囲った場所で今も昔も変わらない。
今も昔も東京を代表する大社であった。
地名を付ける場合は「赤坂日枝神社」などと呼ばれる事が多かったようだが、既に現在の住所である永田町の地名も確認できる。

永田町(ながたちょう)の地名由来
永田町の名前が正式に成立したのは明治五年(1872年)のこと。
江戸時代の永田町一帯は武家地で、馬場のあった道筋に永田姓の旗本屋敷が並んでいたため「永田馬場」と呼ばれていたことが由来とされる。
明治時代は主に軍用地とされたが、昭和十一年(1936年)に国会議事堂が完成すると政治の中心地として現在に至っている。
千代田区ホームページ - 町名由来板:永田町一丁目(ながたちょういっちょうめ)

大正元年(1912)、最高位である官幣大社に昇格。
現在も残る「元官幣大社」の社号碑。

これは当社が「皇城」の鎮守であったため格式が上がっていったものと思われる。

大正四年(1915)、官幣大社に昇格した事から旧御旅所である「日本橋日枝神社」が境外摂社とされた。

現在も「日本橋日枝神社」は当社の境外摂社と云う扱いになっている。
日本橋日枝神社(日枝神社日本橋摂社) / 東京都中央区
山王日枝神社の日本橋摂社。山王祭の御旅所が起源・山王御旅所。江戸時代には本地仏の薬師堂が置かれ遙拝所が2社並ぶ。日本橋茅場町鎮座。運気上昇の上向き狛犬。戦前の鉄筋コンクリート造社殿。明徳稲荷神社。株価上昇のかぶ守。御朱印。蕪と兜の御朱印帳。

(東京府史蹟)

上写真は大正八年(1919)に洪洋社が出版した『東京府史蹟』より。

旧社殿の外観と拝殿内部が分かる貴重な写真。

社殿の形式は権現造にして、現存神社中最も舊く最も優れたるものの一に属し、江戸初期神社建築の代表的遺例なり。

『東京府史蹟』で当社の説明として記されている一文。
当時現存していた神社で最も古く最も優れている社殿とあり、当社の社殿(本殿・幣殿・拝殿)は当時の国宝に指定されていた。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

上写真は大正十二年(1923)に東京市公園課が出版した『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』より。

当社の表参道から中門と社殿を撮影した様子。
社殿の他に、この中門、さらに透塀も国宝指定されていた。

昭和二十年(1945)、東京大空襲で多大な被害を受ける。
国宝指定されていた社殿など境内の多くが焼失。

国宝指定されていた本殿・幣殿・拝殿・中門・透塀が焼失している。

昭和三十三年(1958)、現社地御鎮座三百年祭として社殿を再建。
これが改修されつつ現在の社殿となっている。
同年、神門・廻廊・参集殿が完成。

昭和五十三年(1978)、式年大祭が行われ宝物殿が造営、社殿の修繕などが行われた。

その後も境内整備が進み、現在に至っている。

境内案内

複数ある参道・山王信仰を伝える山王鳥居

最寄駅は溜池山王駅で、駅名の山王は当社が由来。

溜池山王駅の由来
当初の仮称駅名はこの一帯にあった池の名前に由来する「溜池駅」。
但し、駅が港区と千代田区の境界に建設されたことにより、港区側が仮称通り「溜池駅」の駅名を、千代田区側が「山王下駅」の駅名を希望したため、両区の意見を取り入れ、地名を合成することで「溜池山王駅」で決着した。

鳥居や参道は複数あり東側にあるのが社殿正面の表参道。
この石段が男坂と呼ばれる表参道。
左から迂回する坂は車の出入りも可能で女坂と呼ばれる。

南に面して外堀通りの山王下(日枝神社入口)交差点近くには南参道(山王橋参道)。
こちらには巨大な山王鳥居で、扁額には「山王日枝神社」の文字。
赤坂駅からはこちらの参道が最も近い。
エスカレーターが設置されているため、足腰が弱い方でも参拝しやすいのがこちら。
最新の都市型参道と云える。

北側にも裏参道。
こちらにも山王鳥居があり赤坂見附駅から近い。
昭和九年(1934)奉納の大きな狛犬。
境内には狛犬ではなく、神使である神猿像が置かれているので、参道を唯一見守る狛犬。
社号碑には「山王日枝神社」の文字、左手に稲荷参道が続く。(稲荷参道については後述)

こうした当社の参道入口にある鳥居はいずれも山王鳥居。
山王信仰の総本社「日吉大社」(滋賀県大津市)で発祥となった鳥居であり、主に山王信仰の神社に見る事ができる。

山王鳥居(さんのうとりい)
明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をした鳥居。
仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとされる。
山王信仰の象徴であるため山王鳥居と呼ばれていて、山王信仰の神社にはこの鳥居を建立が置かれている場合もある。
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再建された立派な神門・皇城之鎮

稲荷参道を除くいずれの参道から石段を上ると、神門の近くに手水舎。
竹から水が流れる仕組み。
そして表参道の前に立派な神門となる。

神門は昭和三十三年(1958)に社殿が再建された後に再建されたもの。
外側から見ると左右には神域を守る左大臣と右大臣。
扁額には「日枝神社」の文字。
内側の扁額には皇城の鎮守を表す「皇城之鎮」の文字。

江戸時代の当社には仁王門・随神門・中門があり、当時の姿を戻すべく再建された。

戦後に再建された立派な朱色の社殿

神門を潜ると立派な社殿。
昭和三十三年(1958)に再建された社殿。
江戸初期の旧社殿は当時の国宝に指定されていた程だったが東京大空襲で焼失。
鉄筋コンクリート造で再建された現在の社殿もとても立派なもの。
江戸時代の旧社殿と同様に朱色を基調とした社殿。
皇居を守護する「皇城之鎮」として菊紋も施されている。
周辺の高いビルとや緑の鎮守の杜の対比も都心の大社ならではだろう。

山王夢御殿・指定有形文化財の青銅灯籠

社殿の右手には神楽殿を兼ねた山王夢御殿。
さらに藤棚なども整備。

拝殿前に一対の灯籠。
徳川将軍家によって奉納された青銅灯籠。
万治二年(1659)奉納と大変古いもの。
国宝であった社殿などは東京大空襲で焼失したが、こうして古い奉納物は幾つも残されている。
千代田区の有形文化財に指定。

[ID:35954] 銅製燈籠 : 資料情報 | 収蔵資料データベース | 千代田区立日比谷図書文化館(文化財事務室)
千代田区が所蔵する資料のデータベースです。現時点では区指定文化財、歴史資料(群)、民俗資料、考古資料(区内遺跡情報)、自然資料、学校資料の情報を公開しています。
拝殿前では様々な催しも
こうした広い境内では様々な催しが行われる。
2017年2月に撮影したもので、節分の前日に撒豆台が設置されている様子で、節分になると大相撲力士や著名人が豆を投げる姿は恒例となっている。

山王信仰の神使は猿・境内の神猿蔵

神道において神の使者である動物を「神使(しんし)」と呼ぶ。
それぞれの神に神使がいる事が多く山王信仰では猿が神使とされる。

神猿(まさる/さるがみ)
山王信仰の総本社である「日吉大社」は、比叡山(ひえいざん/ひえのやま)の地主神であり、比叡山に多く生息する猿を魔除けの象徴として扱うようになった。
山王信仰では猿が神の使いされ、「日吉大社」では「猿神(まさる)」とも称される。
魔除けの象徴ともされ「まさる」と読む事で「魔が去る」「勝る」といった縁起のよい名にも通じる。

神使が猿であるため当社の境内には狛犬ではなく神猿像が置かれている。
昭和二十八年(1953)に奉納された神猿像で拝殿右手には雄の猿像。
拝殿左手には子を抱えた雌の猿像。

上述した神門も内側には同様に雌雄の木造神猿像。
雄の猿像。
子を抱いた雌の猿像。

当社の授与品・御朱印帳なども猿をデザインしたものが多く、神使である猿を大切にしているのが伝わる。

神門を潜って右手には美しい藤棚

神門を潜って右手、拝殿の手前には藤棚を整備。
毎年4月中旬-5月上旬あたりに綺麗に咲く藤の花。(2022年4月23日撮影)
美しい藤の花と社殿。
藤の花と神門。
都心で藤を楽しめるのは嬉しい。

猿田彦神社と庚申の日・朱色の鳥居が並ぶ稲荷参道

社殿の右手に境内社が並ぶ。
山王稲荷神社・八坂神社・猿田彦神社。

右手が猿田彦神社と八坂神社。
猿田彦神社の御祭神である猿田彦大神は、「導きの神」として知られる。

猿田彦大神(さるたひこおおかみ)
『古事記』『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する神。
天孫降臨の際、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊を道案内した神であるため、「導きの神」とされる。
国土の神・道案内の守神であり、中世には庚申信仰や道祖神と結びつき、民間信仰としても広く信仰を集めた。
「庚申信仰」と結びついたのは、「猿」の字が「庚申」の「申」に通じた事によるもの。

そのため、60日に1回訪れる「庚申の日」は、当社でも「庚申祭/庚申さま詣」が行われる。
この日のみの授与品なども多い。
御朱印も庚申の日のみ「猿田彦神社」の御朱印を頂ける。
更に猿田彦神社の天狗御朱印帳の頒布も行われる。

令和六年(2024)の「庚申の日」
2月26日・4月26日・6月25日・8月24日・10月23日・12月22日
庚申祭 | 日枝神社
庚申祭のご案内 猿田彦大神は、皇孫命を御先導申し上げた御事績により道案内の神として信仰されています。私たちが人生の岐路においていずれの道を進むべきか思案にくれるとき、その行路の別れ道(岐・ちまた)にあって、御神徳を発揮さ
庚申信仰と庚申塔(こうしんとう)
全国に残る庚申塔は、こうした庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。

左手にあるのが山王稲荷神社。
当地の地主神として祀られていたお稲荷様で、当社が当地に遷座した際に末社となった。
戦災によって悉く焼失した当社だが、この万治二年(1659)造営の山王稲荷神社の社殿のみが焼け残り現存。

「山王稲荷神社」「八坂神社」の御朱印は正月三が日と各例祭日限定で授与している。

両社の横に一対の古い狛犬。
古くは「神田明神」境内に鎮座していた「南伝馬町天王社」に奉納された狛犬だが、火災で焼失した際に当社に「祇園社(現・八坂神社)」を勧請し、この狛犬も遷す形となった。
文政三年(1820)奉納の美しい毛並みを施された狛犬。

この山王稲荷神社へは北側の裏参道からも行ける形となっている。
赤坂見附駅から近い裏参道。
この左手が通称「稲荷参道」と呼ばれる。
石段を上った先に、山王稲荷神社の奉納鳥居が並ぶ参道。
朱色の鳥居が数多く立ち吸い込まれそうな空間。
細長い石段と奉納鳥居が続く。
こちらは比較的穴場となっているが個人的にはオススメの参道。
ぜひこちらの参道からも詣でて欲しい。

徳川将軍による朱印状や国宝刀剣の展示もある宝物殿は無料

神門の手前左手には宝物殿が置かれている。
昭和五十三年(1978)の式年大祭の際に造られたもの。(上画像は定休日の火曜につき閉館)

宝物殿の開館日と開館時間
火曜・金曜は定休日で、開館時間は10:00-16:00まで。
現在は撮影禁止。筆者は撮影時に許可済み。

この宝物殿は入場料無料で拝観する事ができる。
こちらは入ってすぐにある太田道灌の像で、中には当社の歴史を伝える貴重な品々が飾られている。

中でも注目すべきは徳川将軍より送られた当社への朱印状。
右が徳川家康による江戸城内5石の朱印状で、左が徳川家光による600石の朱印状。

更に当社に奉納された刀剣などの展示もある。
国宝の太刀「則宗」は、一般的には「菊一文字」「菊一文字則宗」の名で知られる。

則宗(のりむね)
福岡一文字派の祖で備前国の刀工。
後鳥羽上皇の御番鍛冶を務めた事から、皇位の紋である16弁の菊紋を銘に入れることを許され、一文字派は銘を「一」とだけ彫り、更に菊の紋を彫ったので「菊一文字」と称するようになった。

当社に、現在保存されている刀剣は31口。
そのうち国宝1口・重要文化財14口・ 重要美術品1口となっている。
時期によって展示は変わるが、国宝や重文の刀剣をその目で見る事ができる。

他にも多くの文化財や歴史を伝える貴重な品々が展示されていて、徳川将軍家による崇敬の賜物による貴重な数々が、無料で見れるので休館日以外はぜひこちらにも足を伸ばしたい。

御朱印・令和記念の復刻御朱印

御朱印は神門の内側右手に御朱印の授与所を設けているのでそちらで。
いつもとても丁寧に対応して下さる。

御朱印は「日枝神社」の朱印に、上下に緑の葵の印。
「皇城の鎮」「日枝神社」の墨書きで美しい。
御朱印を頂くと参拝記念の栞と木札ストラップを頂けるのが嬉しい。
天長祭当日に参拝した際には天長祭の栞も。

また令和を記念して令和元年より復刻御朱印を授与。
左が「大正-昭和初期」の御朱印で「官幣大社日枝神社印」の文字、右が「昭和戦前期」の御朱印で「日枝神社」の文字。

更に令和二年には令和元年とは別の復刻御朱印を授与。
左が「明治/官幣中社」の御朱印で「日枝神社印」の文字、右が「大正中期」の御朱印で「官幣大社日枝神社印」の文字となっていて上述の「大正-昭和初期」とは微妙に違う。

更に令和三年に頂いた復刻御朱印。(2021年以降は全種頂ける)
右が現在の御朱印で、左が「昭和中期-平成中期」に使用されていた御朱印。

復刻御朱印
「昭和中期-平成中期」「昭和戦前期」「大正-昭和初期」「大正中期」「明治/官幣中社」の5種類。
※初穂料各500円。

祭事や各境内社の例祭には境内社の御朱印も授与。
左は山王稲荷神社の例祭日当日のみ授与の御朱印。
左は八坂神社の例祭日当日のみ授与の御朱印。

境内社の御朱印
庚申の日限定で境内社「猿田彦神社」の御朱印
正月三が日や各例祭日限定で境内社「山王稲荷神社」「八坂神社」の御朱印
栞・木札ストラップも境内社専用や例祭に合わせた仕様になっている。

数多くの御朱印帳・限定御朱印帳・東京十社めぐり御朱印帳

御朱印帳も複数用意している。
神使である猿をデザインした御朱印帳が多くいずれも可愛らしいデザイン。

筆者が頂いたのは白(銀)を基調として、デフォルメされた猿がデザインされた御朱印帳。
「hie jinja」とローマ字で書かれているのが特徴的。

御朱印帳を頂いた場合は御朱印1体の初穂料込みとなる。通常の御朱印帳の初穂料は1,000円とお手頃で御朱印代込なのでとてもお得。

御大礼奉祝や令和初の新年などを記念して限定御朱印帳も用意。
こちらは筆者が頂いた令和二年元日より頒布の記念御朱印帳。
表紙や表紙裏の文字は新元号発表時に菅官房長官が示した「令和」の文字を揮毫した茂住修身内閣府辞令専門職の筆によるもの。(白と赤の2色展開で、白と赤は表紙と表紙裏に書いている文字が逆になる。)
皇紀二千六百八十年に因み各色2,680冊限定。
裏表紙裏にシリアル番号のシール有り。

更に御大礼奉祝の記念朱印帳。
天皇陛下御即位の令和元年10月22日を記念した御朱印帳で、即位礼正殿の儀で使われた高御座(たかみくら)を箔押しデザイン。

令和四年より授与を開始した府社列格百五十年記念御朱印帳。
明治五年(1872)に府社に列格したため令和四年(2022)は150周年にあたる。

2022年3月時点の御朱印帳
限定御朱印帳:令和二年記念・御大礼奉祝・府社列格百五十年記念など
通常御朱印帳:まさる・葵・稲荷鳥居など

また東京十社めぐりの専用御朱印帳も用意。
東京十社の各社専用のページが用意されていて、右側に御由緒、左側に御朱印を拝受する形。

詳しくは当ブログの「東京十社 御朱印一覧」記事にて。
東京十社 御朱印一覧
東京十社の「東京十社めぐり御朱印帳」と御朱印画像一覧です。専用の御朱印帳も紹介。東京十社についての歴史など詳しい説明も掲載しています。東京十社とは、昭和五十年に定められた東京23区内の10の神社。東京十社めぐりの参考になりましたら幸いです。

江戸三大祭・偶数年が神幸祭の山王祭・象山車も登場

当社の例祭は「山王祭」と呼ばれ、「江戸三大祭り」の1つに数えられた大祭。

江戸三大祭り
神田明神」の「神田祭」
「山王日枝神社」の「山王祭」
富岡八幡宮」の「深川祭」
神田神社(神田明神) / 東京都千代田区
江戸総鎮守・神田明神。東京十社。天下祭と呼ばれた神田祭。将門塚の祟り・平将門公を合祀。徳川幕府によって江戸総鎮守へ。EDOCCO。神社声援。『ラブライブ!』『ホロライブ』『にじさんじ』などのコラボ。だいこく様とえびす様。御朱印。御朱印帳。
富岡八幡宮(深川八幡) / 東京都江東区
江戸最大の八幡・深川の八幡様。東京十社。江戸勧進相撲の発祥の地・横綱力士碑。北斎や広重の浮世絵に描かれた深川八幡。江戸三大祭りの深川八幡祭・日本一宮神輿・水かけ祭り。深川七福神の恵比寿神。七渡弁天。伊能忠敬像。東京産ひのき御朱印帳。御朱印。

中でも、当社の「山王祭」と、「神田明神」の「神田祭」は、江戸を代表する大祭で、隔年で交互に行われ両祭りは「天下祭」と称された。
この両社は江戸を守護する神社として、徳川将軍家から特に崇敬を集めたため、祭りの際には山車が江戸城に入って将軍に拝謁する事が許されていた。

天下の徳川将軍に拝謁できるため「天下祭」。

現在も「神田明神」の「神田祭」と交互に神幸祭が行われている。

西暦の偶数年が山王祭と覚えるのが良い。

2023年の山王祭は神輿渡御などがない年だが山車や神輿の展示が行われた。
一之宮神輿・二之宮神輿・神猿の山車人形。
巨大な山車庫が開かれての展示。

更に2023年の例大祭期間には巨大な象の山車が登場。
拝殿前、参道横に置かれた巨大な象。
初めて見るとびっくりするサイズ。
この象の山車は2024年の山王祭で曳かれる。
江戸時代の地誌にも載る象山車を復興。
江戸時代の当時から象の曳き物が人気を博していたのが分かる。

所感

江戸城(皇居・皇城)の鎮守として崇敬を集めた当社。
江戸時代は徳川将軍家より篤く崇敬され、江戸を代表する大社であった。
明治以降は「皇城之鎮」として崇敬を集め、最終的な旧社格は最高位である官幣大社に列していた事からも、その重要性が分かるというもの。
現在も別表神社として、一等地にありながら大社の規模を維持しているのも崇敬の賜物であろう。
周囲の現代的ビルと当社の組み合わせは都心ならではの光景。
今もなお「山王さま」として多くの崇敬を集め、いつ参拝しても多くの人で賑わう境内は、正に東京を代表する一社である。

御朱印画像一覧・御朱印情報

御朱印

初穂料:500円
御朱印授与所にて。

※御朱印と共にオリジナルのしおり(複数種類あり)と木札ストラップを頂ける。
※庚申の日限定で境内社「猿田彦神社」の御朱印も頂ける。
※境内社「山王稲荷神社」「八坂神社」の例祭日には各社の御朱印も頂ける。

最新の御朱印情報
10月23日は「猿田彦神社御朱印」
※60日に1度の庚申の日限定。最新情報は公式Instagramにて。当面の間は「復刻御朱印」(「昭和中期-平成中期」「昭和戦前期」「大正-昭和初期」「大正中期」「明治/官幣中社」の5種類)最新情報は公式Instagramにて。

御朱印帳

猿田彦神社御朱印
初穂料:1,500円(御朱印代込)
御朱印授与所にて。

60日に1度の庚申の日限定の御朱印帳。
最初のページに猿田彦神社の御朱印入り。
猿田彦大神の姿とも云われる天狗をデザインした御朱印帳。
防水カバーもついてくる。

府社列格百五十年記念御朱印帳(限定)
初穂料:1,500円(御朱印代込)
御朱印授与所にて。

令和四年元日より頒布開始の記念御朱印帳。
明治五年(1872)に府社に列格したため令和四年(2022)は150周年。
薄い緑を基調に神門などをデザイン。
防水カバーもついてくる。

御大礼奉祝記念朱印帳(限定)
初穂料:2,000円(御朱印代込)
御朱印授与所にて。

天皇陛下御即位の令和元年10月22日を記念した御朱印帳。
即位礼正殿の儀で使われた高御座(たかみくら)を箔押しデザイン。
橙色を基調とした御朱印帳。
裏面には天皇陛下御即位令和元年十月二十二日入り。
防水カバーもついてくる。

令和記念御朱印帳(限定)
初穂料:2,000円(御朱印代込)
御朱印授与所にて。

令和二年元日より頒布開始の記念御朱印帳。
表紙の文字は新元号発表時に菅官房長官が示した「令和」の文字を揮毫した茂住修身内閣府辞令専門職の筆によるもの。
1ページ目(表紙裏)にも同様に茂住修身氏による筆の文字。(詳細:Twitter
白と赤の2色展開で、白と赤は表紙と表紙裏に書いている文字が逆になる。
皇紀二千六百八十年に因み各色2,680冊限定。(裏表紙裏にシリアル番号のシール有り)
防水カバーもついてくる。

 

通常御朱印帳(サル)
初穂料:各1,500円(御朱印代込)
御朱印授与所にて。

オリジナルの御朱印帳を複数用意。
白を基調にして神使である猿をデフォルメ化して配置し、英語で「hie jinja」と記してある。
他にも複数用意していて、神使である猿をあしらったものが多い。
いずれも1体分の御朱印代込となっている。
限定御朱印帳もあり。
※筆者が頂いた2019年は初穂料1,000円(御朱印代込)だったが2022年参拝時は1,500円(御朱印代込)に変更。

東京十社めぐり御朱印帳(布製)
初穂料:1,200円
社務所にて。

「東京十社」発行の御朱印帳。
従来の紫色タイプと、2016年より頒布となった木製タイプの2種類を用意。
最初のページから東京十社の説明記載あり。(詳細画像:Twitter
各社専用のページが用意されていて、右側に御由緒、左側に御朱印を拝受するようになっている。

授与品・頒布品

栞・木札ストラップ
初穂料:─
御朱印授与所にて。

※御朱印を頂くと一緒に頂ける。(栞は複数デザインあり)

貼守
初穂料:500円
授与所にて。

交通安全ステッカー(小)
初穂料:500円
授与所にて。

※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。

庚申の日限定てぬぐひ
初穂料:800円
授与所にて。

参拝情報

参拝日:2023/12/28(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2023/06/07(御朱印拝受)
参拝日:2023/04/13(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2022/06/07(御朱印拝受)
参拝日:2022/04/23(御朱印拝受)
参拝日:2022/03/09(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2021/02/23(御朱印拝受/御朱印帳拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2020/01/09(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2019/07/30(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2017/02/02(御朱印拝受)
参拝日:2015/12/29(御朱印拝受)
参拝日:2015/08/02(御朱印拝受)

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