國領神社(国領神社) / 東京都調布市

調布市

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概要

千年乃藤のお宮・國領神社

東京都調布市国領に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧国領宿の鎮守。
国領宿鎮守であった「第六天社」を起源として明治になり「國領神社」へ改称。
戦後になってから現社地に鎮座していた「八雲神明社」を合祀し遷座した歴史を有する。
旧字体の「國領神社」が正式であるが「国領神社」と記される事も多い。
境内には御神木の「千年乃藤」があり「千年乃藤のお宮」とも称される。
藤の名所として知られ「調布八景」の1つにも数えられている。

神社情報

國領神社/国領神社(こくりょうじんしゃ)

御祭神:神産巣日神
相殿神:天照大御神・建速須佐之男命
社格等:村社
例大祭:9月25日
所在地:東京都調布市国領町1-7-1
最寄駅:布田駅
公式サイト:https://kokuryo-jinja.jp/

御由緒

 この神社は、國領神社(こくりょうじんじゃ)といい、鎌倉時代(1192-1333)の頃、多摩川の畔、杉森の地に鎮座していたが、たび重なる洪水のため、国領町148番地(現八雲台一丁目)に鎮守の社として遷座された。
 昭和三十七年に、八雲神明社境内(現在地)に御社殿を造営合祀し、社名を国領神社と総称する。
 氏子区域は、国領町、八雲台、染地地区に及ぶ。境内の藤の木(調布市八景の一)は昔より千年の藤と云われ、よく延び繁るので、不二(無事)に通じ災厄を防ぎ、延命、子産、商売繁昌の神木として名高い。(境内の掲示より)

歴史考察

鎌倉時代に第六天魔王を祀る第六天社として創建

社伝によると、鎌倉時代に「第六天社」として創建したと伝わる。
古くは「杉森の地」(現・調布市染地)と呼ばれた多摩川の河畔に鎮座していたと云う。

後に当社に合祀される事になる「八雲神明社(旧・杉森神明社)」も同様に杉森の地に鎮座していた。

「第六天社」と称された当社は、神仏習合時代に第六天魔王を祀っていた事が分かる。

第六天魔王(だいろくてんまおう)
天魔とも称される魔。
第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位にある他化自在天(たけじざいてん)を云う。
仏道修行を妨げている魔王と畏れられ、織田信長は第六天魔王を自称したと云う伝承でも知られる。

第六天魔王を祀る「第六天神社」は、関東圏、特に武蔵国に多く創建された神社。

江戸時代の地誌『新編武蔵国風土記稿』には300社以上もの数を見る事ができる。

悪疫退散の御神徳を念じて祀られる事が多く、当社もそうした信仰の中で創建されたのであろう。

明治の神仏分離によって多くの神社では改称・御祭神の変更が行われていて、当社もその流れを汲む。

別当寺は「常性寺」。
こちらも多摩川沿いに創建したと伝えられている。

当社に合祀される事になる「八雲神明社」も「常性寺」が別当寺を担っていた。
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多摩川の度重なる洪水によって遷座・国領宿の鎮守

慶長年間(1596年-1615年)、多摩川の度重なる洪水で「常性寺」が甲州街道沿いに移転。
「常性寺」管理下にあった「第六天社」「八雲神明社」も同様に甲州街道沿いに遷座。

遷座先の社地
第六天社:現在の調布市八雲台1(八雲台小学校裏手の都営国領町アパート付近)
八雲神明社:現在の当社の鎮座地
「第六天社」を起源とする当社であるが、現社地はかつて「八雲神明社」の社地である。

神仏習合の中、別当寺「常性寺」と共に国領と呼ばれた当地から信仰を集めた。

甲州街道が整備・国領宿の鎮守とされる

江戸時代に入ると江戸幕府によって五街道が整備。

五街道とは、東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道の5つ。

慶長七年(1602)、甲州街道が開設。
調布周辺は甲州街道沿いの宿場町として発展。

甲州街道(こうしゅうかいどう)
江戸から甲斐国(山梨県)へ繋がる街道。
現在も甲州街道(旧甲州街道)として残る。

一帯は「布田五宿」と呼ばれ、当社は布田五宿のうち国領宿の鎮守とされた。

布田五宿(ふだごしゅく)
国領宿・下布田宿・上布田宿・下石原宿・上石原宿の宿場を合わせて布田五宿と呼んだ。
宿場としては小さく旅籠は数軒、本陣・脇本陣は無かった。
但し古社である当社の社前は古くから非常に栄えていた。
布田五宿の総鎮守とされたのは「布多天神社」。
布多天神社 / 東京都調布市
調布総鎮守。延喜式内社。菅公より古い天神さま。鬼太郎の森と呼ばれる御神域・鬼太郎が住む神社。ゲゲゲ忌・鬼太郎限定御朱印。飛び出す記念御朱印。調布の地名由来・万葉集に載る和歌。布田五宿の鎮守。梅まつりコンサート・天神市。梅林。御朱印帳。

小さな宿場である国領宿の鎮守として地域の住民より崇敬を集めた。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(国領宿)
第六天社
小社。当宿の鎮守なり。除地の内北方にあり。本堂を距ること凡2町。
神明社
社地除。一畝十八歩。小社。上の北裏にあり。

布田五宿のうちの国領宿に鎮座している「第六天社」と記されているのが当社。

なお「第六天社」は別当寺「常性寺」の項目に付随するように記されている。

「当宿の鎮守なり」とあり国領宿の鎮守とされていた事が窺える。

「神明社」は後に当社に合祀する事になる「八雲神明社」。現在の当社の社地に鎮座していた。

國領神社へ改称・八雲神明社と合祀と現社地へ遷座

明治になり神仏分離。
明治四年(1871)、村社に列した。
明治八年(1875)、現在の「國領神社」へ改称。
神仏分離を機に御祭神を神産巣日神へ変更。

神仏分離以後の「第六天社」
「第六天社」は、神仏習合の色合いが濃いため、関東に鎮座していた多くの「第六天社」は、御祭神や社号の変更を余儀なくされ、各社に合祀されるなど衰退の一途を辿る。
御祭神は、「大六天」の社号から、神世七代における第六代の面足命・惶根命に変更される事が多かったが、当社のように神産巣日神(かみむすびのかみ)へ変更するなど、各社の対応は分かれた。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

緑円で囲っているのが当時の「國領神社」の鎮座地。
現在の八雲台小学校の裏手にあたる。
通りから参道が伸びていた事が窺える。
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、地図上には神社の地図記号を見る事はできないが当時は「八雲神明社」が鎮座していた。
国領といった地名を見る事ができ、当社は一帯の鎮守であった。

甲州街道と旧甲州街道
地図を見比べるとよく分かるが、現在の甲州街道はまだ存在していない時代。
現在、旧甲州街道と呼ばれる街道が江戸時代からの甲州街道であった。
周囲は田畑ばかりの農村であったが、街道沿いは町家が広がり発展していた事が窺える。

大正六年(1917)測図の古地図を見ると当時の様子がより分かりやすい。

今昔マップ on the webより)

大正時代の古地図には「國領神社」と「八雲神明社」のどちらも神社の地図記号が記してある。
先程と同様に緑円で囲っているのが当時の「國領神社」の鎮座地で、赤円で囲っているのが「八雲神明社」が鎮座地で、ここが現在の当社の鎮座地にあたる。

戦後に入り地域の区画整理と境内整備が進む。

昭和三十八年(1963)、都営国領町アパートの建設計画に伴い「國領神社」の旧社地を都へ移譲。
「國領神社」と「八雲神明社」を合祀する事となり、「八雲神明社」の境内に社殿を造営。
これが現在の社殿で、結果的に「國領神社」は現在の社地へ遷座した事となる。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

甲州街道の沿いに鎮座する國領神社

最寄駅の布田駅から北へ数分、甲州街道沿いに鎮座。
甲州街道沿いの現在の社地はかつて「八雲神明社」の社地。
「國領神社」の旧社地を都に移譲するにあたり昭和三十八年(1963)に「八雲神明社」と合祀。
「八雲神明社」の社地が「國領神社」の社地として使用される事となった。

鳥居は昭和三十八年(1963)に建立で当社の成り立ちの一端を伝える。

鳥居を潜ると右手に手水舎。
小さな手水舎であるが使用して身を清める事ができる。

手水舎の裏手には東鳥居。
こちらは昭和三年(1928)建立の鳥居であるため、まだ「國領神社」と「八雲神明社」が合祀される前で「八雲神明社」時代の鳥居であろう。

合祀と共に造営された木造社殿

参道の正面に社殿。
昭和三十八年(1963)に造営された木造社殿。
「国領神社」「八雲神明社」が合祀されるにあたり新たに造営された社殿。
拝殿には数多くの千社札が貼られている。
主祭神としては「國領神社(旧・第六天社)」の神産巣日神を祀り、「八雲神明社」の天照大御神・建速須佐之男命を配祀する。

合祀にあたり「八雲神明社」の社地に遷座する事となったが、主祭神から見ても国領の鎮守であった「國領神社」へ「八雲神明社」が合祀された形なのが窺える。

境内社の稲荷社2社

社殿の右手に境内社。
古い石鳥居が3基。
その先に石祠。
左が瘡守稲荷、右が八雲稲荷で、古くから当地で信仰されているお稲荷様。

調布八景の藤の名所・御神木の千年乃藤

境内の大部分を占めているのが藤棚。(2021年4月の藤の見頃に撮影)
参道の左手は大きな藤棚が組まれている。
そのため当社は藤の名所としても名高い。
この御神木の藤を「千年乃藤」と呼び「調布八景」にも数えられている。

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かつては「八雲神明社」の社地だった当地。
慶長年間(1596年-1615年)に「八雲神明社」が当地へ遷ってくる前からあったと云う。
そのため樹齢は約400年-500年と見られていて、畏敬の念を込めて「千年乃藤」と称される。
藤の見頃になると調布の名所となる。
藤と社殿。
こちらは2022年4月に撮影。
この年も美しく藤が咲いていた。

2023年4月の見頃に撮影。
2024年4月に撮影。
毎年の楽しみとなっている。

災厄を防ぎ守る御神木の千年乃藤
「千年乃藤」は幾歳月を経てよく延び茂るので「延命・子孫繁栄・商売繁盛・万物繁盛」に通じ、また「フジ」の字は「不二・無事」に通じるため、災厄を防ぎ守る御神木として信仰されている。

藤の見頃に合わせて「国領千年乃藤まつり」を開催。(画像は2022年のもの)
お花見屋台やステージなどで賑わう。

見つかりません | 國領神社

月替り御朱印や限定御朱印を用意

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して下さった。

御朱印の受付時間は9時-12時/13時-16時まで。

御朱印は中央に「國領神社」の朱印、右上に「奉拝 千年乃藤 調布八景」の印。
右が通常御朱印で、左が2020念11月に頂いたアマビエ御朱印。

アマビエ
江戸時代の史料に残る妖怪。
豊作・疫病などに関する予言をしたとされ、「疫病が流行したら、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と告げ海の中へと帰って行ったとされる。
新型コロナウイルス流行でネット上で注目を浴び、現在は様々な場所でイラストやグッズ展開などを見る事ができる。

藤の開花時期には限定御朱印も。
こちらは2021年4月に頂いた藤の御朱印。
2023年4月に頂いた藤の御朱印(右側)。

千年之藤をデザインした藤の御朱印帳

オリジナル御朱印帳も用意。
千年之藤をデザインした藤の御朱印帳。
当社らしい藤尽くしのデザイン。
美しい藤と共に。

通常の御朱印は記帳済み(初穂料500円)での頒布となる。

期間限定!藤の飛び出す御朱印

2022年4月の藤の季節には当社としては初めての飛び出す御朱印を用意。
開くことで飛び出す藤の御朱印。
立体的に藤を楽しむ事ができるユニークな御朱印。
4月10日-5月の連休頃まで授与。

2023年も昨年に引き続き同様の飛び出す御朱印を授与。
2023年に頂いたもの、美しい藤と共に。
2024年に頂いたもの。

所感

旧国領宿の鎮守として崇敬を集める当社。
かつては第六天魔王を祀る「第六天社」のうちの一社であった。
旧別当寺「常性寺」と共に多摩川の畔に鎮座していたが、多摩川の度重なる氾濫・洪水によって甲州街道の近くに遷座する事となり国領宿の鎮守された。
その後も神仏習合の中で崇敬を集め、明治の神仏分離によって現在の「國領神社」へ改称。
戦後になり現社地に鎮座していた「八雲神明社」を合祀する形で、現社地へ遷座している。
現社地には古くから「千年乃藤」と称される藤があり、現在は藤の名所として知られている。
規模としては小さな神社ではあるが、境内の殆どを千年乃藤が占めているのでインパクト大。
藤の季節はとても美しい境内となるようで、調布八景にも数えられている。
国領の歴史と美しい藤を伝える良い神社である。

御朱印画像一覧・御朱印情報

御朱印

初穂料:500円・1,000円(飛び出す御朱印)
社務所にて。

※月替り御朱印や祭事や季節に合わせて限定御朱印有り。

最新の御朱印情報
11月1日-30日まで「銀杏と菊御朱印」「銀杏と千歳飴御朱印」
※詳細は公式サイトにて。
御朱印の受付時間は9時-12時/13時-16時まで。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:2,000円
社務所にて。

オリジナル御朱印帳を用意。
千年乃藤で知られる当社らしい藤をデザインした御朱印帳。
通常の御朱印は記帳済み(初穂料500円)での頒布となる。

参拝情報

参拝日:2023/04/19(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2023/04/19(御朱印拝受/御朱印帳拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2022/04/20(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2021/04/21(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2020/11/24(御朱印拝受)

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