目黒大鳥神社 / 東京都目黒区

目黒区

概要

目黒総鎮守・目黒のお酉さま

東京都目黒区下目黒に鎮座する神社。
旧社格は村社で、目黒村(下目黒村・中目黒村)の総鎮守。
江戸時代には目黒詣での一社として江戸庶民から崇敬を集めた。
11月の酉の日に行われる酉の市が毎年賑わう。
正式名称は「大鳥神社」だが、他との区別のため「目黒大鳥神社」とさせて頂く。
氏子からは「お酉さま」と呼ばれ親しまれている。

神社情報

目黒大鳥神社(めぐろおおとりじんじゃ)

御祭神:日本武尊
相殿神:国常立尊・弟橘媛命
社格等:村社
例大祭:9月9日に近い土曜・日曜
所在地:東京都目黒区下目黒3-1-2
最寄駅:目黒駅・不動前駅
公式サイト:https://www.ootorijinja.or.jp/

御由緒

景行天皇の御代、当所に国常立尊を祀った社がありました。日本武尊は景行天皇の皇子であり、天皇の命令で熊襲を討ち、その後に東国の蝦夷を平定されました。この東夷征伐の折、当社(大鳥神社)に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らんことをお願いなされたところ、首尾よく東夷を平定し、部下の目の病も治って、再び剣を持って働く事ができるようになったので、手近に持って居られた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。この剣を天武雲剣と申し、当社の社宝となっています。
社伝によると、その後「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る」とあり、大同元年には、社殿が造営されました。社紋が鳳凰の紋を用いているのはこのためです。また、江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。尚、この江戸図に記載される社は九社しかなく、江戸九社の一つにかぞえられています。当社の酉の市の起源も古く、浅草の酉の市と並び、江戸時代に始まっています。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2024/01/01(御朱印拝受)
参拝日:2023/11/11(御朱印拝受)
参拝日:2023/09/09(御朱印拝受)
参拝日:2023/04/06(御朱印拝受)
参拝日:2023/01/01(御朱印拝受)
参拝日:2022/11/16(御朱印拝受)
参拝日:2022/09/10(御朱印拝受)
参拝日:2022/04/16(御朱印拝受)
参拝日:2022/02/01(御朱印拝受)
参拝日:2022/01/01(御朱印拝受)
参拝日:2021/11/21(御朱印拝受)
参拝日:2021/11/09(御朱印拝受)
参拝日:2021/09/11(御朱印拝受)
参拝日:2021/03/26(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2021/01/01(御朱印拝受)
参拝日:2020/11/26(御朱印拝受)
参拝日:2020/11/14(御朱印拝受)
参拝日:2020/11/02(御朱印拝受)
参拝日:2020/09/05(御朱印拝受)
参拝日:2020/03/25(御朱印拝受)
参拝日:2020/01/01(御朱印拝受)
参拝日:2019/11/20(御朱印拝受)
参拝日:2019/11/08(御朱印拝受)
参拝日:2019/09/07(御朱印拝受)
参拝日:2019/08/01(御朱印拝受)
参拝日:2019/06/29(御朱印拝受)
参拝日:2019/05/01(御朱印拝受)
参拝日:2019/01/01(御朱印拝受)
参拝日:2018/11/01(御朱印拝受)
参拝日:2018/09/08(御朱印拝受)
参拝日:2017/11/30(御朱印拝受)
参拝日:2017/09/09(御朱印拝受)
参拝日:2016/11/11(御朱印拝受)
参拝日:2016/09/10(御朱印拝受)
参拝日:2015/11/17(御朱印拝受)
ほぼ毎週

御朱印

初穂料:500円
授与所にて。

※正月、例大祭、酉の市などで限定御朱印あり。
※酉の日は御朱印に酉の日の判子、毎月1日の月次祭では注連縄判子が追加。
※以前は例大祭や酉の市など特別な日のみ御朱印を授与していたが、令和元年より通常時も御朱印(別紙のみ)の授与を再開。
※2017年までは初穂料300円、2018年より初穂料500円に変更。

最新の御朱印情報
3月下旬-八重桜開花期間中は「八重桜判子入り御朱印」(予定)
3月10日・22日は「酉の日判子入り御朱印」
3月1日は「注連縄判子入り御朱印」
※なくなり次第終了。最新情報や詳細は公式X(Twitter)にて。
通常時の御朱印受付時間は9:00-16:00まで。(休みの日もあり)

授与品・頒布品

熊手開運御守(大)
初穂料:1,500円
酉の市特設授与所にて。

※酉の市の時のみ授与される熊手商の熊手とは別の神社の熊手で、小・中・大のサイズ有り。
※以前は大1,200円だったが2020年以降は大1,500円へ変更。

安全安全ステッカー
初穂料:500円
授与所にて。

奉祝令和御大典御守
初穂料:500円
例大祭特設授与所にて。

※令和元年の例大祭を記念して授与された御守(首下げ木札)

歴史考察

日本武尊の伝承・神宝の十握剣

社伝によると、景行天皇御代(71年-130年)には既に当地に国常立尊を祀った社があった伝わる。

国常立尊(くにのとこたちのみこと)
日本神話の根源神。
『日本書紀』においては、最初に出現した神とされている。
国土形成の根源神、国土の守護神として信仰される事が多い。

その社に、日本武尊が東夷平定の折に立ち寄り、東夷平定と目を負傷した部下たちの平瘉を祈願。
戦勝した上に、部下たちの傷も治癒したため、盲神(めくらがみ)と称えられ、持っていた十握剣(とつかのつるぎ)を奉献したとされる。

日本武尊(やまとたけるのみこと)
第12代景行天皇皇子。
東国征討や熊襲征討を行った伝説的な英雄として『日本書紀』『古事記』などに載る。
十握剣は、天武雲剣という名で当社の神宝(非公開)となっている。

鳥明神と称された目黒区最古の神社

その後、日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降りたため、「鳥明神」として祀られる。
いわゆる白鳥伝説からくる、日本武尊をお祀りする大鳥信仰という事になるのだろう。

白鳥伝説(はくちょうでんせつ)
日本武尊が亡くなった後、白鳥となって大和を指して飛んだという伝説。
『日本書紀』『古事記』共にそうした記述が残されている。
そうした伝説から大鳥信仰は日本武尊を祀る神社が多い。

大同元年(806)、社殿が造営。
当社ではこの年を創建の年としており、目黒区内最古の神社ともされる。

江戸図に描かれた江戸九社のうちの一社

室町時代の『長禄江戸図』には「鳥明神」として当社が描かれている。

%e9%95%b7%e7%a6%84%e6%b1%9f%e6%88%b8%e5%9b%b3(長禄江戸図)

この左上にあるのが目黒で拡大したものが下図。

%e9%95%b7%e7%a6%84%e6%b1%9f%e6%88%b8%e5%9b%b32(長禄江戸図)

「目黒本村」と目黒周辺が描かれている。
左手に鳥居の記号が見えるが、これが当社。
この『長禄江戸図』には9つの神社しか描かれていないため、当社は「江戸九社の一社」と称している。

長禄江戸図(ちょうろくえどず)
太田道灌が江戸城を築いた頃の長禄年間(1457年-1460年)の江戸の様子を描いたとされる図で、江戸図における最古のものとされる事もある。
しかしながら、徳川家康の江戸入府前にはあったとされる「江戸前島」が描かれておらず、逆に慶長十一年(1606)に造られた「溜池」が描かれている事から、江戸時代以降の後世の作と思われる。

江戸時代以前より「鳥明神」「大鳥明神」といった名で崇敬を集めたのは間違いない。

下目黒村・中目黒村の総鎮守

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(下目黒村)
大鳥神社
除地九百九十八坪。字新屋敷にあり。本社2間に3間東に向ふ。祭神は日本武尊。大同年中の鎮座なり。当村及び中目黒両村の鎮守なり。鳥居あり、柱間9尺、大鳥大明神の五字を扁す。鳥居の内外に石階あり。
神楽堂(本社の側にあり、二間に二間半年々九月九日祭礼の日神楽を奏す)。
稲荷社(本社に向て右にあり、小祠前に鳥居をたつ)。
別當大聖院

下目黒村の「大鳥神社」として記されているのが当社。
下目黒村の鎮守、さらに中目黒村の鎮守であった事が記されている。
この事から目黒の総鎮守だったとも云えるだろう。

中目黒村のみの鎮守としては「中目黒八幡神社」が挙げられる。
中目黒八幡神社 / 東京都目黒区
中目黒総鎮守。中目黒の八幡さま。朔日詣り御朱印・桜など季節に応じた花の御朱印。藤紫と鉄紺の美しい御朱印帳・竹紙使用の御朱印帳。戦前の社殿が現存。三峯神社と三峯請。さざれ石。御神水のお水取り。江戸時代の手水舎。江戸時代から続く十二座神楽。

大鳥大明神の扁額があり、境内の規模や境内社の稲荷社など、規模は現在とかなり近かったようだ。
例大祭では神楽を奏すとあり、これは現在も伝わる太々神楽「剣の舞」の事であろう。
日本武尊の徳をたたえ、十握剣を背に八握剣を使って踊る荘厳な舞いで、現在も例大祭になると奉納されている。

葛飾北斎の浮世絵で見る下目黒

江戸時代の目黒は、江戸の外れの農村であった。
江戸後期の目黒の様子を葛飾北斎が描いている。

葛飾北斎(かつしかほくさい)
江戸時代後期の浮世絵師で、世界的にも著名な画家。
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、生涯に3万点を超える作品を発表。
化政文化を代表する一人。

(富嶽三十六景)

葛飾北斎の代表作として知られる『富嶽三十六景』の中の「下目黒」と云う一枚。

下目黒の起伏の激しい丘陵地から富士を眺めている。
当社はこうした当社は下目黒村の鎮守であった。

江戸時代の目黒
当時の目黒は人家も少ない地域で、落語『目黒のさんま』の舞台にもなったように、徳川将軍家の鷹狩り場としても知られた。
浮世絵には、鷹を預かる鷹匠の姿、彼らに跪く農夫、鍬を片手に赤坊を背負い子を連れて仕事場へ向かう農婦が描かれている。
左には農夫が坂道を登っており、下目黒の起伏の激しい丘陵地を伝えている。

江戸庶民の娯楽であった目黒詣・目黒三社

江戸外れの農村であった下目黒村ではあったが、当社や「瀧泉寺(通称:目黒不動尊)」は徳川将軍家からも庇護され、江戸庶民からも人気の高い名刹であった。
そのため下目黒村は江戸庶民が多く参詣する門前町を形成していた。

江戸庶民から人気の目黒詣
こうした目黒の寺社を巡る事を「目黒詣(めぐろもうで)」と呼び、江戸の名所としても知られ多くの人びとが参拝に訪れた。

(目黒白金辺図)

こちらは江戸後期の目黒・白金周辺の切絵図。
右が北の地図で、当社は図の左上に描かれている。

(目黒白金辺図)

当社周辺を拡大し北を上にしたものが上図。

赤円で囲った箇所に、中央に赤く「大鳥大明神」と記されており、これが当社。
当社の南にある青円で囲った箇所が「瀧泉寺(目黒不動尊)」、当社の西には青円で囲った「金毘羅大権現(高撞寺)」(現・廃寺)があり、これら3寺社が特に目黒で有名で「目黒三社」とも呼ばれた。

目黒三社を歌った麦打歌
これら「目黒不動尊」「大鳥神社」「金毘羅権現社」は、当時の麦打歌(麦打ちなどをする時にうたう作業歌)にも残る。
「目黒に名所が三つござる、一に大鳥、二に不動、三に金毘羅」と歌われるほど大勢の人で賑わった。
目黒不動尊

当社を含めた目黒詣は、江戸庶民の娯楽の一つであった。
目黒には遊郭はないため、目黒詣に訪れた人々は、その足で遊郭のあった品川宿へ向かう事が多かったと云う。

こうした目黒詣は、当時の川柳にも幾つか残っている。

餅花を 提げて難所へ さしかかり

餅花とは「目黒不動餅花」として広重も描いた目黒の名物であり、目黒から品川への道は中々の難所だったと云い、目黒詣をしてから品川へ遊びに行く様子を謳っている。

言訳けの おみやを召せと 桐屋言い

桐屋は「目黒不動尊」門前にあった飴屋で、目黒飴として目黒の名物であった。

(江戸名所図会)

桐屋の目黒飴は『江戸名所図会』にも描かれ、また池波正太郎の作品などでもよく登場する。
品川遊郭へ遊びに行くのでも、こうした目黒土産を持って帰る事で「目黒詣をしてきた」という言い訳に使ったという川柳となっている。

「目黒に名所が三つござる。一に大鳥、二に不動、三に金毘羅」と云われた程、当社は江戸庶民から崇敬を集めた。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

%e6%b1%9f%e6%88%b8%e5%90%8d%e6%89%80%e5%9b%b3%e4%bc%9a1(江戸名所図会)

「大鳥明神社」として描かれている。
当社の右手の通りが現在の目黒通りで、手前の通りが現在の山手通り。
左手にある「大聖院」は当社の別当寺であり、現在も隣接。

(江戸名所図会)

当社の境内を中心に拡大したのが上図。

稲荷社の位置、鳥居の位置など配置は若干違いがあるものの、境内の規模は現在とそう変わりがない。

最初の酉の市が開催
この後の天保六年(1835)には、当社にて初の「酉の市」が開催されている。

神仏分離と戦後の歩み

明治になり神仏分離。
明治五年(1972)、村社に列した。

明治二十二年(1889)、市制町村制によって三田村・上目黒村・中目黒村・下目黒村が合併し目黒村が成立。
当社は下目黒一帯の鎮守として崇敬を集めた。

明治に入ると、当社から目黒不動尊の近くはちょっとした花街として発展。特に目黒不動尊の門前には30軒近くの芸妓屋ができ、昭和初期にかけて目黒芸妓として有名であった。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
当社から南の「目黒不動尊」にかけて発展した町屋となっていて、茶屋や花街が多く置かれた。
西には緑円で囲った「競馬場」の文字があるように、明治四十年(1907)に「目黒競馬場」が開場。
東京の娯楽エリアとして栄えた事が窺える。

目黒競馬場
明治四十年(1907)から昭和八年(1933)まで存在した競馬場で、現在の府中にある「東京競馬場」は目黒競馬場が移転したもの。
昭和七年(1932)には記念すべき第一回「東京優駿大競走(日本ダービー)」が開催された事でも知られる。

大正十二年(1923)、目蒲線の開通。
農村であった当地も、住宅地に変わっていく。

関東大震災後には宅地化が更に進み、現在の目黒・下目黒を形成していく事となり、そうした一帯の鎮守として当社は崇敬を集め続ける事となる。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。

昭和三十六年(1961)、拝殿を再建。
昭和三十七年(1962)、本殿を再建。

平成十八年(2006)、御鎮座1200年祭が斎行。
平成二十九年(2017)、「平成の御社殿保存修復事業」が行われる。
例大祭前日の9月9日に竣功奉告祭が斎行された。(画像は竣功奉告祭当日のもの)

境内案内

目黒通りと山手通りの交差点に面して鎮座

当社は目黒通りと山手通りという2つの大通りの「大鳥神社」交差点に面している。
交通の要衝に鎮座。

大通り2つの交差点とあって交通量の多い鳥居前。
山手通りに面しているのが表参道。
人の流れも多く常に参拝者が訪れ崇敬を集めている。

目黒通りに面して北鳥居。
北鳥居は安政三年(1856)のものが現存。
例大祭や酉の市などになるとこちら側から目黒通り沿いに露店が並ぶ。

当社に面した目黒通り・山手通りは『江戸名所図会』や江戸切絵図にも描かれているように、江戸時代の頃から当社へ向かうための道として整備。そうした古道を使い大通りへと整備された。

手水舎・大正時代の狛犬

鳥居を潜って左手に手水舎。
やや石段を上って正面に社殿。

参道途中には一対の狛犬。
大正五年(1916)に奉納された狛犬で、子持ちの阿は子も鋭い目付きなのが特徴的。
毛並みが作り込んであり獅子らしい造形。

新型コロナウイルス蔓延期間はマスク姿。

平成の御社殿保存修復事業で綺麗になった社殿

拝殿は昭和三十六年(1961)に再建されたもの。
平成二十九年(2017)、「平成の御社殿保存修復事業」が行われた。
これにより美しく綺麗な姿が蘇った。
大変良い状態の美しい社殿。
屋根の銅板葺替え工事並びに御社殿の保存修復補強工事が行われた。

拝殿に掲げられる長提灯には「江戸消防第二八區」の文字。
各提灯の側面には江戸の町火消しの纏(火消し組の紋)が記されているのが特徴的。
扁額にはかつての「明治神宮」宮司・甘露寺受長による「武州大鳥宮」の文字。

明治神宮 / 東京都渋谷区
明治天皇と昭憲皇太后を祀る日本を代表する神社。令和二年は鎮座百年祭。奉祝夜間特別参拝。パワースポット清正井。人工で作られた鎮守の森。50万人の鎮座祭。日本一の木造明神鳥居。縁結び夫婦楠。明治神宮御苑。日本一の初詣参拝者数。御朱印。御朱印帳。

本殿は昭和三十七年(1962)に再建されたもの。
拝殿同様に平成二十九年(2017)「平成の御社殿保存修復事業」が行われた。

修復事業が行われる前の社殿
「平成の御社殿保存修復事業」が行われる以前の拝殿も資料として掲載。
image2015年に参拝時の画像。

境内社の目黒稲荷神社

社殿の左手には境内社の目黒稲荷神社。
『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』にも記されていた古くから当社の境内社。
境内社はこの一社のみだが、4柱の神が祀られている。
倉稲魂尊はいわゆるお稲荷様、他に素戔嗚尊・火産巣火神・水速女命が合祀。

庚申塔など目黒の古い歴史を伝える境内

稲荷神社の横には古い庚申塔群や祠が並ぶ。
三猿だけの延宝塔、元禄年間(1688年-1703年)や宝永年間(1704年-1710年)の庚申塔。
屋根付きの庚申塔も。
いずれも古く貴重な石造物。
目黒の信仰の歴史を感じさせてくれる。

庚申塔(こうしんとう)
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。

神楽殿・櫛塚・御神木など

表参道の鳥居を潜ってすぐ右手には神楽殿。
例大祭になると古くから伝わる太々神楽「剣の舞」が奉納される。

社殿の右手には櫛塚。
平成元年(1989)に奉納されたもので、日本武尊と弟橘媛命の逸話にちなむもの。

弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)
日本武尊の妃。
海神の怒りによって海上が荒れ、舟が沈みそうになった時、海神の怒りを解いて日本武尊を救うため、海上に身を投げて海を鎮め、日本武尊を救ったとされる。

その右手にあるのが御神木の銀杏。
授与品の中にも銀杏をデザインしたものが揃う。

珍しい切支丹灯篭・オオアカガシの碑

境内の右手にある一画にも石造物が並ぶ。
この一画にあるのが珍しい切支丹(キリシタン)燈籠。
灯籠の下に抽象的な像が彫られているのが特徴的。
これがマリア像となっていて灯籠の形状は十字架を表現。

切支丹燈籠(きりしたんとうろう)
元々は肥前島原藩松平家下屋敷(現在の慶応大学三田キャンパス付近)に置かれていたものだが、大正期にこちらへ移された。
キリスト教を禁止された江戸時代に、隠れキリシタンが密かに信仰の対象としていたのがこの灯籠であり、当時の信仰を知る事ができる。
島原藩と云えば「島原の乱」で有名な藩で、キリシタンの弾圧にも繋がった藩。大変厳しい弾圧がある中で、あの島原藩の下屋敷に切支丹灯篭として信仰されたというのは大変興味深く、こうした灯籠が現存しているのは大変貴重。

切支丹燈籠の後方には「都天然記念物オオアカガシ」の石碑。
かつて当社にあった御神木のオオアカガシを記念した石碑。

大鳥神社のオオアカガシ
当社にはかつて立派なオオアカガシの御神木があった。
平成十二年(2000)頃から、木の大部分が枯死する事態に至ったため、挿し木で後継樹の育成を試みたものの、平成十四年(2002)に枯死が確認された上に挿し木も枯損した状態となってしまった。
これらは大通り沿いにあったため排気ガスの悪影響を受けたものと思われる。
他に当社の御神木として知られるのは上述した銀杏の木。オオアカガシも御神木の1本であった。

江戸時代から続く目黒の酉の市・熊手の粋な買い方

9月には例大祭が斎行されるが、当社では11月の酉の日に行われる「酉の市」が特に有名。
目黒11月の風物詩として地域に親しまれている。

酉の市(とりのいち)
例年11月の酉の日に行われる祭。
日本武尊を御祭神とする大鳥信仰系の神社で行われる事が多い特殊神事。
花畑大鷲神社」(足立区花畑)が発祥とされ、江戸時代から現在にかけては吉原遊廓に隣接していた「浅草鷲神社」の酉の市が日本最大の酉の市として知られる。
花畑大鷲神社 / 東京都足立区
酉の市発祥の神社。花畑(旧花又村)鎮守。酉年限定頒布の鷲掴み守。11月酉の日は酉の市・起源と歴史。源義光(新羅三郎)の伝承。義光の末裔とされる秋田藩主・佐竹氏からの寄進。見事な彫刻がある本殿は必見。立派な神苑を有する境内。御朱印。御朱印帳。

当社の「酉の市」は、天保六年(1835)、下目黒の造り酒屋・大国屋與兵衛が、「浅草鷲神社」から熊手を取り寄せたことに始まるという。
元々は目黒村の農民が野菜や実用品を売るために開かれていたと云う。

浅草鷲神社 / 東京都台東区
日本最大の酉の市で知られるお酉さま。浅草田圃に鎮座・裏手に吉原遊郭(新吉原)が移転。酉の市起源発祥の考察。24時間開催!酉の市・粋な熊手の買い方。幸福を呼ぶ「なでおかめ」・願い事を納める叶鷲。限定御朱印。鷲の御朱印帳。酉の市を描いた浮世絵。

目黒の人々にとっては、11月の酉の日に熊手が並び賑わう酉の市はお馴染みの光景。
こちらは令和元年(2019)一の酉の様子。
熊手商による縁起熊手の購入を求める勢い有る掛け声が響く。

熊手商から熊手を購入する場合は、駆け引きを楽しむのが粋とされる。

熊手の粋な買い方
威勢のよい掛け声の熊手商との値切りの駆け引き。
たっぷり値切って「まけたまけた」と言わせれば勝ち。
とは言え、値切った分だけ「ご祝儀」として熊手商に置いてくるのが、粋な買い方とされているので、あくまで駆け引きを楽しむもの。(もちろん値切った値段で購入しても構わない)
ある程度の金額以上の熊手を求めた場合は、最後に手締めとなる。
「家内安全・商売繁盛」と大勢で手を打ち、熊手を高く掲げて持ち帰る。
翌年の酉の市で、前年購入した熊手を納め、また新しいのを購入。
その際に前年より大きいのを購入するのが良いとされている。
毎年、同じ熊手商から購入し贔屓になると、入山(自分の名前を入れた札)を差してくれるようになる。

熊手商による縁起熊手の他に、拝殿前にて当社による「熊手開運御守」の授与も行われる。
小・中・大のサイズ有り。
氏子は毎年この開運熊手守を頂き大切にし、酉の市でお返しして、また新しいのを頂く。

令和五年(2023)の酉の市
一の酉:11月11日(土)
二の酉:11月23日(木)

通常時も御朱印授与を再開・カラフル御朱印

御朱印は授与所にて。
現在は基本的に拝殿前左手にある授与所にて御朱印の対応をしている。
日によっては社務所窓口での対応の場合もあり。

以前は例大祭や酉の市など特別な日のみ御朱印を授与していたが、令和元年より通常時も御朱印(別紙のみ)の授与を再開。
例大祭・酉の市などの限定御朱印
2018年よりカラフルな御朱印になり初穂料500円。
豊富に用意しているものの数量には限りがある。(朱印部分以外は印刷)
用意していたものが切れた場合は終了。

2017年までは朱印と例大祭や酉の市の日付のシンプルなものであったが2018年より変更。
賑やかな御朱印となった。(左が2018年、右が2017年の例大祭御朱印)
こちらは2020年の例大祭御朱印。
こちらは2021年の例大祭御朱印。
2022年の例大祭御朱印。
2023年の例大祭御朱印。

令和元年(2019)5月1日から数日間、奉祝御朱印を用意。
数量限定で3日ほどで頒布終了。

下画像は令和元年(2019)の酉の市・一の酉の御朱印。
これまでは朱印が「大鳥神社」だったが、酉の市では「目黒大鳥神社」の朱印に変更となっている。
こちらは2021年の酉の市の御朱印。

正月にも限定御朱印を用意。
こちらは2020年正月限定御朱印で一富士二鷹三茄子のデザイン。
2021年正月限定御朱印は南天をデザインし「難転(難を転ずる)」を意味する。
2022年の正月限定御朱印。
2023年の正月限定御朱印。
2024年の正月限定御朱印。

以前の御朱印
下画像は2017年までのシンプルな御朱印で、当時は例大祭や酉の市など特別な時しか御朱印の授与をやられていない期間があった。
2018年以降は上述のカラフルな御朱印に変更。(年によってデザインの変更あり)

令和元年以降は通常時も御朱印の授与を再開し、日によっては限定判子を追加。
左が「酉の日限定」の酉の日判子が追加された御朱印、右が「月次祭限定」の注連縄判子が追加された御朱印。
1日(月次祭)と酉の日が重なった日はどちらの判子も押印。

令和二年(2020)3月には八重桜の開花に合わせて八重桜の判子も追加。
八重桜の開花中の授与。
境内の八重桜は鳥居の左手にある。
濃い色合いの花を咲かせる。
2021年3月26日は八重桜の印がもらえる期間に酉の日が重なったのでどちらの印も付いたもの。

所感

目黒では「お不動さん」と並んで、「お酉さま」の名で愛されてきた神社。
目黒の総鎮守であり、古くから目黒の人々、さらには江戸庶民より信仰を集めてきた。
私事になるが、筆者の実家の氏神さまが当社であり、幼い頃から数えきれないくらい立ち寄り、最も参拝している馴染み深い神社である。
今はなき御神木のオオアカガシの姿をはっきりと覚えているし、例大祭や酉の市の日には手伝いに駆り出される事が今も多々あり、子供の頃から現在に至るまで思い出も多い。
目黒通りと山手通りという大通りが交差する地点に鎮座しており、交通量も多いのだが、それに比例するようにいつも多くの参拝者が訪れている。
広くはない境内だが、目黒の信仰の歴史が詰まった神社で、酉の市では熊手商が多く出て賑わうし、平時も老若男女、参拝者が途切れる事がなく崇敬されているのが伝わってくる。
古くから目黒が誇る名所の1つである。

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