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概要
東京十社・赤坂鎮守の氷川さま
東京都港区赤坂に鎮座する神社。
旧社格は准勅祭社、その後、郷社から府社に昇格。
現在は東京十社のうちの一社。
赤坂周辺の鎮守の氷川さまとして崇敬を集めている。
「氷川神社」が正式名であるが、区別のため地名から「赤坂氷川神社」と称される事が多い。
江戸時代は徳川将軍家に庇護され、江戸七氷川のうちの筆頭とされた。
徳川吉宗の命によって造営された江戸時代の社殿が現存。
現在は縁結びの神様としても人気を博している。
神社情報
赤坂氷川神社(あかさかひかわじんじゃ)
御祭神:素盞鳴尊・奇稲田姫命・大己貴命
社格等:准勅祭社・府社
例大祭:9月15日(隔年・神輿連合渡御)
所在地:東京都港区赤坂6-10-12
最寄駅:赤坂駅・六本木駅・六本木一丁目駅
公式サイト:https://www.akasakahikawa.or.jp/
御由緒
天暦五年(951年)武州豊島郡一ツ木村(人次ヶ原)に祀られ、1000年以上の歴史を有する。創祀から100年後の治歴二年、関東に大旱魃が発生、降雨を祈願するとその験があり、以来よく祭事が行われた。
江戸時代に入り、幕府の尊信は篤く、八代将軍・徳川吉宗公が享保元年(1716年)将軍職を継ぐに至り、同14年(1729年)に老中岡崎城主水野忠之に命じ、現在地(忠臣蔵・浅野内匠頭の夫人、瑤泉院の実家・浅野土佐守邸跡)に現社殿を建立、翌15年(1730年)4月26日に遷座が行われ、28日に将軍直々の御参拝があった。以降、14代家茂公まで、歴代将軍の朱印状(港区文化財)が下附された。(頒布のリーフレットより)
歴史考察
平安時代に創建・一ツ木村の観音
社伝によると、天暦五年(951)に創建と伝わる。
武州豊島郡一ツ木村(ひとつぎむら)とも人次ヶ原とも呼ばれた地に創建。
近江国の蓮林僧正が東国修行に訪れた際、一ツ木村で霊夢を見る。
夢の中に老人が現れ「我はずっと土の中に埋まっている者なり。掘り出してくれたらこの所の守護神になろう。」と告げたため、周辺を探索したところ、金色に輝く地面があり、掘ってみると十一面観音像が出現した。
そこで一ツ木村にその十一面観音像を祀り、「一ツ木村の観音」と名付け崇敬を集めたのが始まりとされている。
当社の創建に由来した十一面観音像は、神仏習合の中で信仰を集めていたが、明治の神仏分離が引き金となり、廃仏毀釈運動の中で打ちこわしの危機に瀕した。
観音像を守ろうと、当社合意のもと「大師山 報恩寺(野田厄除大師)」(千葉県野田市)へ移された。
大旱魃に雨を降らせた霊験
治暦二年(1066)、関東に大旱魃(だいかんばつ)が発生。
民衆が当社に降雨を祈ると、霊験があり、雨を降らせて川をなし万民を助けたと伝わる。
この事から「氷川明神」と称され、地域から崇敬を集めた。
「武蔵一宮氷川神社」(元・埼玉県さいたま市大宮区)を総本社とした信仰で、荒川流域の武蔵国(埼玉・東京)に多く見る事ができ、「氷川」の名は、出雲国の簸川(現・斐伊川)の名に因み、荒川を簸川に見立てたとされる。
農業用水として大切な半面、氾濫の多い「河川の守護神」「農業の開拓神」として祀られる事が多く、当社も雨を降らせて川をなしたという伝承から、神仏習合の元、創建時の十一面観音像を御神体(本地仏)とし、氷川神が勧請されたと見られる。
以来、よく祭事が行われるようになり、旱魃や大雨の災害の度に民衆を助けたと云う。
武家屋敷が造られ市街化した赤坂・地名由来
江戸時代に入ると、赤坂周辺は町屋・武家屋敷が造られ町奉行管轄地となる。
一ツ木村(人継村)も赤坂一ツ木町と呼ばれ、当社は赤坂一帯の鎮守となった。
地名由来は諸説あり、茜草が生える赤根山への坂(現在の紀伊国坂)と云う説、赤土の坂であったと云う説などが有力で、古くは一ツ木村(人継村)の小名として呼ばれていたと見られている。
寛永年間(1624年-1645年)、江戸城の門の1つが「赤坂御門」と呼ばれるようになり、ここから赤坂が一帯の地名となっていく。
武家屋敷が並ぶ赤坂一帯の鎮守として、将軍家・武家より崇敬を集めていく事となる。
なお、別当寺は「大乗院」(現・廃寺)が担った。
徳川吉宗による社殿造営と遷座
享保元年(1716)、紀州藩主であった徳川吉宗が徳川第八代将軍に就任。
すると当社は吉宗から多大な庇護を受ける事となる。
江戸幕府第八代将軍。
徳川御三家である紀州藩第二代藩主・徳川光貞の四男(徳川家康の曾孫)として生まれる。
紀州藩第五代藩主の時代は藩財政の再建に努め成果を挙げ、将軍に就くと「享保の改革」を実行し、米相場を中心に改革を行った事から米将軍(八十八将軍)とも呼ばれた。
破綻しかけていた幕府の財政を復興した事から中興の祖ともされるが、質素倹約や増税により農民を苦しめた事から百姓一揆の頻発や、景気や文化の停滞も招いた。
飛鳥山や隅田川堤などへ桜の植樹し、庶民に花見を推奨し広めた事でも知られる。
享保十四年(1729)、吉宗は老中・水野忠之に命じて、現在地(旧赤坂今井台)に社殿を造営。
享保十五年(1730)、創建の地の赤坂一ツ木町から現在地への遷座が行われた。
この社殿が現存しており、吉宗の命で建てられた社殿となっている。
同年、吉宗が直々に当社に参詣。
以後、第十四代将軍・徳川家茂まで、歴代将軍による社領200石もの朱印状を賜る。
吉宗ゆかりの神社として、徳川将軍家に篤く庇護される事となる。
江戸切絵図から見る当社
当社の鎮座地や紀州藩中屋敷の位置関係は、江戸の切絵図からも見て取れる。
こちらは江戸後期の赤坂周辺の切絵図。
左上が北の切絵図となっており、当社は図の中央に描かれている。
赤円で囲ったのが「氷川明神」と書いてある当社で、現在の鎮座地と同じ場所。
青円で囲ったのが「紀伊殿」と書かれている紀州藩の中屋敷。
緑円で囲ったのが、かつて当社が鎮座していたと思われる赤坂一ツ木町の一画。
紀州藩中屋敷のすぐ近くに当社が鎮座していた事が分かり、当社が氏神であった。
紀州藩の藩主の四男として生まれ、紀州藩主となり、その後、第八代将軍をとなった吉宗にとっては産土神であったため、大変手厚く庇護したというのが窺える。
忠臣蔵との繋がりが深い当地
当社の現在の鎮座地は、『忠臣蔵』とも関わりが深い事で知られる。
吉宗によって当社が遷座される前の当地には、浅野土佐守邸が存在。
『忠臣蔵』で有名な、浅野長矩(浅野内匠頭)夫人・瑤泉院の実家。
三次浅野家の下屋敷が置かれていた。
元禄赤穂事件後に出家した浅野長矩(浅野内匠頭)夫人・瑤泉院(ようぜんいん)は、三次浅野家の下屋敷があった当地に移居。
死去するまでこの地で幽居したと云う。
享保五年(1720)、三次浅野家(浅野土佐守)は断絶・廃藩。
幕府が徴収した土地を当社に与えた事となる。
江戸七氷川の筆頭に数えられる
元文・明和年間(1736年-1772年)に記されたと見られる、筆者不詳の古随筆『望海毎談』には江戸の氷川明神が7社記されている。
江戸に鎮座する「氷川神社」を代表する7社で、そのうちの当社が筆頭であった。
『望海毎談』に記されている7社は以下の通り。
「赤坂氷川神社」
「赤坂氷川神社」に合祀
「麻布氷川神社」
「白金氷川神社」
「渋谷氷川神社」
「小日向神社」
「簸川神社」
江戸に鎮座する「氷川神社」を代表する「江戸氷川七社」のうちの一社で、中でも筆頭として紹介されている。
江戸で三番手の規模だった赤坂氷川祭
当時の祭礼は6月15日に斎行。
「山王日枝神社」(現・千代田区永田町)の山王祭と同日開催であった。
そのため、交互に隔年で大祭を行ったと伝わる。
『諸国御祭礼番附図』によると、天下祭と呼ばれた「山王日枝神社」「神田明神」の例祭に次ぐ江戸で三番手、東日本で四番手に位置する規模であったと云う。
更に『江戸御祭礼番附』にも当社の例祭が載る。
文化十四年(1817)の例祭を描いたもの。
「氷川大明神御祭禮番附」とあり、多くの山車が描かれている。
江戸名所図会に描かれた当社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「赤坂氷川社」として、見開きで描かれている。
境内の主要配置は現在とあまり変わらず、この時描かれている社殿も現存。
江戸時代の様子がかなり残っていると云えるであろう。
注目すべきは参道と鳥居の位置。
現在は社殿から正面に参道が伸び鳥居や社号碑があるため、こちらが表参道にも思えるが、江戸時代にはこの正面参道は存在しておらず、現在の氷川坂が古くからの参道となっていたのが分かる。
但し参道の入口になる総門は南東に置かれている。
現存する社殿で、現在の楼門は中門と呼ばれていた。
社殿周りを切り取っても現在の境内と基本構造が似ているのが分かる。
江戸時代の頃からの様相をかなり残した境内なのが窺える。
二代広重の浮世絵にも描かれた当社
当社は二代目・歌川広重の浮世絵にも描かれている。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などで代表される歌川広重(初代)の門人。
はじめは重宣(しげのぶ)と称していたが、安政五年(1858)に初代が没すると、広重の養女お辰の婿になり、二代目広重を襲名した。
広重の晩年の作品『名所江戸百景』にも参加し、一部は二代目の作とされている。
冬の雪景色を描いている。
氷川坂に面した南東が参道になっており、鳥居を潜って右手に社殿がある形。
こうした配置などは現在とあまり大差がない事が窺える。
明治以降の歩み・山車や宮神輿の復活
明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、准勅祭社に列する。
明治三年(1870)、准勅祭社が廃止。
明治五年(1972)、郷社に列格。
明治十三年(1980)、府社に昇格。
明治十六年(1883)、当社の隣に鎮座していた村社「本氷川明神社」を合祀。
江戸時代は当社に隣接する「盛徳寺」敷地内に鎮座していた神社で、「江戸七氷川」に数えられた一社。
当社が遷座してくる以前より鎮座していたため、「本氷川」と呼ばれていた。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが当社で、今も昔も鎮座地は変わらない。
赤坂の地名の他、当地周辺には「氷川」「氷川町」の文字を見る事ができる。
昭和四年(1929)、遷座二百年祭にあたり、社殿朱漆塗替、格天井の花鳥壁間鳳の絵図を加えるなど改修整備が行われた。
戦前の境内を見る事ができる。
特筆すべきは現在の境内とほぼ変わらない事でで、鳥居、楼門、社殿と現在も当時の姿を残している事が窺える。
昭和二十年(1945)、東京大空襲の戦災によって手水舎・神楽殿・神輿庫などが焼失。
しかしながら、楼門より先が無事で、吉宗の命で造営された社殿は焼失を免れ現存。
戦後になり境内整備が進み、江戸時代の様子を残したまま現在に至っている。
現在は「東京十社」のうちの一社に数えられている。
近年では、かつて祭礼で巡行していた山車や宮神輿を復活。
こちらは2019年初詣で特別展示されていた、山車の神武天皇人形。
他にも様々な努力をされている。
令和三年(2021)、山車展示場を整備。
9月の例祭に公開された山車展示場と山車で、常設展示となる。
境内案内
社殿の正面にある正面参道
最寄駅は赤坂駅か六本木一丁目駅で、徒歩数分の距離に広い境内を有している。
社殿の正面にあるのが正面参道。
江戸時代にはこちらの参道はなく、明治以降に整備された参道。
鳥居は大正十一年(1922)奉納。
社殿の正面にあるため、こちらから参拝される方も多い。
氷川坂に面した東参道は江戸時代からの参道
一方で、氷川坂に面した東側にも参道。
当社を由来とする氷川坂。
かつてはこの氷川坂も当社の参道であった。
江戸時代の頃からある古い参道がこちら。
現在もこちらの参道がとても立派。
一番手前にある一対の狛犬は昭和十二年(1937)奉納。
戦前の狛犬だが当社に数多くある狛犬の中で一番新しい。
石段の手前に一対の狛犬。
ぐいっと迫力のある顔つきの狛犬。
こちらは大正四年(1915)奉納のもの。
その先に歴史を感じさせる石段。
石段を上がると一対の獅子山が見えてくる。
立派な獅子山は明治十五年(1882)奉納。
阿吽ともに子獅子がいる躍動感ある造り。
参道を通る事で、昭和初期、大正、明治と時代を遡るように狛犬が配置されている。
石段を上った先に二之鳥居。
手前には大きな石灯籠(常夜灯)が立つ。
扁額には「氷川大明神」の文字。
鳥居・楼門など古くから変わらぬ境内
2つの参道が重なる位置に鳥居。
江戸風情を残した境内の風景。
ここからの景色は大正時代の『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』に掲載された古写真とほぼ変わらなく、大正時代以前、江戸時代の頃の名残りを残す境内と云えるだろう。
鳥居を潜ると左手に手水舎。
こちらは東京大空襲で焼失したため新しくなっている。
その先に立派な楼門。
楼門の周辺には多くの古い奉納物が置かれているが、それらは後述。
古くは中門とされていた門で、楼門の先が神域となる。
徳川吉宗が造営した社殿が現存
楼門を潜ると朱色で見事な社殿。
社殿は享保十四年(1729)に造営されたものが現存。
八代将軍・徳川吉宗が、老中・水野忠之に命じて造営させた社殿。
この素晴らしい社殿からは吉宗の政策を偲ぶ事ができる。
「享保の改革」を行い倹約政策を取った吉宗らしい社殿。
徳川将軍家寄進の社殿は特に三代将軍・徳川家光に代表されるように派手で絢爛豪華な社殿が多い中、当社の社殿は彫刻を施さず、漆を使いとても質実簡素な社殿となっているのが特徴的。
派手さはないものの、見事な意匠も感じ取れ、個人的にはとても好きな社殿。
東京都有形文化財に指定されている。
昭和四年(1929)、遷座二百年祭にあたり、社殿朱漆塗替など改修整備が行われ、拝殿の天井には、河合玉堂の弟子であり氏子であった長華崖による格天井の花鳥、宮部衆芳による壁間の鳳凰の絵図が加えられた。
縁結びを願う縁結ひ(えんゆい)
社殿の手前左手には縁結びにまつわる一画。
以前は宮神輿庫になっていた一画だが山車庫が完成したため2023年より再整備。
縁結び祈願の「縁結ひ(えんゆい)」。
多くの紙が結われている。
季節の色の和紙を結い願い事の成就を祈る。
冬は朱色と雪色。
縁結いのやり方。
当社の御祭神は縁結びの神様として知られる。
勝海舟が名付けた四合(しあわせ)稲荷
東参道の途中に四合稲荷(しあわせいなり)神社が鎮座。
明治三十一年(1898)、当地周辺の稲荷社を4社合祀し当社に祀られた。
大正十四年(1925)、昭和九年(1934)にも周辺の稲荷社を合祀。
「四合稲荷(しあわせいなり)」という社名は、赤坂在住の勝海舟が命名。
幕末の幕臣で、明治維新後は政治家としても活躍。
万延元年(1860)に咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並として神戸海軍操練所を開設。
この頃には坂本龍馬を弟子にしていた事でも知られる。
戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、江戸城無血開城を実現。
明治維新後は初代海軍卿などを歴任し、伯爵に叙せられた。
「四合稲荷」については御朱印も用意されている。
雰囲気たっぷりの西行稲荷・九神社など
その左手に西行稲荷社が鎮座。
大正十年(1921)に当社に遷座した稲荷様で、鳥居は文久(1862)のもの。
古くは赤坂田町4丁目に鎮座しており、西行五兵衛と云う人物が拾った御神体を安置していた事に由来。
別名「火伏の稲荷」とも云われ、火災除の御利益があると信仰されている。
途中には朽ち果てそうな古い狛犬。
いつもお供え物が置かれていて、大切にされているのが伝わる。
とても雰囲気のある一画。
当時の御神体は紛失しているものの、現在は木箱を祀るようになったと云う。
「四合稲荷」の向い側には神池。
あまり水は張られていないが太鼓橋がかかり風雅な一画。
かつては奥から水が多く流れていたものと思われる。
正面参道の途中左手には九神社が鎮座。
天祖神社・春日神社・鹿嶋神社・八幡神社・諏訪神社・秋葉神社・厳島神社・金刀比羅神社・塞神社、の九社を合祀した境内社。
更に社殿の左手に稲荷社が2社。
山口稲荷。
桶新稲荷で、いずれも由緒は不詳ながら赤坂近辺の稲荷社が遷座したもの。
都内で二番目に古い狛犬・時代を遡る狛犬
境内には歴史を伝える奉納物なども多く置かれている。
楼門前にある鳥居近くの狛犬も古い。
弘化三年(1846)に奉納された狛犬。
江戸後期らしい造形で、阿吽共に子持ちの狛犬になっている。
狛犬の中でも楼門の手前にある一対の狛犬が特に古い。
都内で二番目に古いとされる狛犬。
延宝三年(1675)の奉納で、江戸時代初期の狛犬。
紐状の尾に、巻き毛とどこか可愛らしさを感じる意匠。
頭の上が凹んでおり、いわゆるカッパ狛犬とも云える。
頭の上が凹んでいる狛犬の俗称。
都内の江戸中期から後期の狛犬にはこうして頭が凹む狛犬を幾つか見る事ができる。
祭事などに利用されたとみられている。
上述した東参道から進むと、手前から昭和初期、大正、明治、江戸後期、江戸初期と時代を遡るように置かれているのが特徴的。
江戸中期・吉宗の時代の古い石灯籠
楼門前に置かれる石灯籠は歴史を感じるもの。
赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町の講中が、享保九年(1724)に奉納。
当社が当地に遷座するより少し前に奉納されていたもので、創建の地より遷された事が分かる。
四基は港区の文化財に指定。
ちなみに楼門を潜った先、拝殿前にも苔むした古い燈籠。
同じく享保九年(1724)奉納の石灯籠。
卍を見ることができたりと、神仏習合の時代を偲ぶ。
三層の立派な山車が復活・山車展示場
神門の右手側には山車展示場を整備。
以前駐車場だった一画で駐車場が別に整備され、2021年9月に山車展示場が完成。
とても高さがある立派な山車を常設。
右手は「猿」で弘化二年(1845)の作。
左手は「頼義」で弘化三年(1846)に松雲斎徳山による作で、明治三十年(1897)に久月(人形の久月)によって修復がされた記録が残る。
全国的にも珍しい三層型の山車。
当社の例祭は江戸時代には、天下祭と呼ばれた「山王日枝神社」「神田明神」の例祭に次ぐ江戸で三番手、東日本で四番手に位置する規模であったと云う。
そうした歴史の一端を山車で感じる事ができて喜ばしい。
御神木の大銀杏・包丁塚・力石など
正面参道の右手には立派な大銀杏のご神木。
樹齢400年の巨木。
当社が当地に遷座した享保十五年(1730)には、既に100年以上の樹齢だったと見られるため、古くからこの地で育った御神木と云える。
裏から見るとかなりダメージを負っているが、これは東京大空襲によるもの。
こうした被災をしても今も生命力高く聳え立つ。
港区の天然記念物に指定されてており、当社の御朱印帳には銀杏がデザインされている。
当社の御神木は秋には美しく黄葉する。
東京大空襲で被害を被った御神木も、こうして鮮やかに色づく。
生命力の神秘を感じる御神木。
秋の境内の美しさも当社らしさ。
御神木含め黄葉の名所と云える。
この一画に包丁塚。
昭和四十九年(1974)に赤坂青山飲料組合が使わなくなった包丁を奉納したもの。
この奥には滑り台など児童公園。
格式のある神社でありながら、そうした地域の憩いの場となっているのが素晴らしい。
正面参道の鳥居を潜ってすぐ左手には力石。
境内の土中から発見されたと云い「三十五貫」(約130kg)と切付が残る。
例大祭の赤坂氷川祭・山車の巡行や赤坂名店街
毎年9月15日には例大祭の赤坂氷川祭を開催。
江戸時代より続く赤坂氷川神社の祭礼「赤坂氷川祭」はかつて神社の宮神輿2基を氏子 21ヶ町の山車 13本が警固する形をとって巡行するものでした。
徳川八代将軍吉宗公の産土神として幕府の尊崇は篤く、その巡行は豪華絢爛を極め、山王権現・神田明神に次ぐ江戸3番手の規模を誇っていました。(公式サイトより)
神輿渡御や山車の巡行が行われる他、境内では露店も。
特に当社らしいのは赤坂名店街。
赤坂の名店がこの日だけ特別に屋台飯を出す。
中には予算数万する高級店が手軽な値段で出すものも。
夜は盆踊りで賑わう。
御朱印・祭事や季節に応じた限定御朱印
御朱印は社務所にて。
平成二十八年(2016)に竣工したばかりの新しい社務所はとても綺麗。
御朱印は通常時に2種類用意。
右が「赤坂氷川神社」の御朱印で、左が境内社「四合稲荷」の御朱印。
2018年より祭事や季節に応じて限定御朱印も用意。
当社例大祭・赤坂氷川祭の限定御朱印で、和紙に祭礼行列図がデザインされたもの。
2019年初詣の御朱印。
梅の御朱印と縁起柄である青海波の和紙を合わせたもの。
2021年初詣は波に千鳥で金銀を用意し「荒波(困難)を共に力を合わせて乗り越える」と云う意味合いで授与された。
2019年のさくら参りの御朱印。
桜の花びらをデザインしたもの。
2021年のさくら参りの御朱印は、境内神域の桜の樹木と落ち葉から抽出した特別な御朱印に。
「境内桜ノ木ヨリ奉製」とあり、福井県越前和紙の職人の手によって奉製された草木染め。
2022年のさくら参りの御朱印は銀紙に桜色。
2023年さくら参りの御朱印は桜色に薄紫。
2024年さくら参りの御朱印。
2019年の七夕に授与された星合ひ参りの御朱印。(牽牛星-ひこぼし 青色-)
2021年の星合ひ参りはデザインを一新。
2022年の星合ひ参り。
2023年の星合ひ参りでは再びデザインが変更に。
2019年の例大祭で授与された例大祭御朱印。
当社の例大祭のシンボルでもある山車をデザイン。
当社の御神木が黄葉する季節に授与される「大銀杏」の御朱印。(2019年)
当社の御神木である銀杏をデザイン。
2020年の大銀杏の御朱印は少しデザインも変更に。
2022年の大銀杏御朱印。
2023年の大銀杏御朱印。
2020年例祭の御朱印。
新型コロナウイルスの影響で諸行事が中止となったが御朱印の授与が行われた。
社紋の三つ巴紋と氷川の社号由来を表した青海波などの水の流れをデザインしたもの。
2021年の例祭も同様のデザインの御朱印を用意。
更に例祭当日の9月15日に限定数で授与された甕覗きの御朱印も。
藍の染料が入った亀の中に僅かに和紙を浸して染めた色で巫女さんによって奉製された。
美しい淡い藍色。
こちらは2022年9月15日の例大祭(甕覗き)御朱印と例大祭御朱印。
2023年9月15日の例大祭限定御朱印。
2024年9月15日の例大祭限定御朱印。
2022年11月23日の新嘗祭当日にだけ授与された新嘗祭御朱印。
2022年11月23日の新嘗祭当日にだけ授与された新嘗祭御朱印。
2023年元日に頂いた初茜御朱印。
境内のあかねより奉製して青海波から出てくる日の出を表現。
毎月1日に限定数授与の月参り御朱印
令和三年(2021)4月1日より新たに「月参り御朱印」を開始。
月参り御朱印「かさね」として日本の伝統的な配色「襲の色目(かさねのいろめ)」を用いて奉製。
毎月の色合いで季節の移り変わりを表現。
こちらは筆者が1年かけて頂いた12ヶ月分の月参り御朱印かさね。
2021年4月1日より開始した月参りの御朱印。
毎月1日9時より授与。
※以前は100枚限定。現在は300枚限定。毎月色合いが変わる。
毎月1日より100枚限定。
4月は「藤」で、表が薄紫で裏が萌黄の御朱印。
5月は「卯の花」で、表が白で裏が青(緑)。
6月は「撫子」で、表が紅で裏が薄紫。
7月は「女郎花」で、表が萌黄で裏が青。
8月は「百合」で、表が赤で裏が朽葉。
9月は「桔梗」で、表が二藍で裏が濃青。
10月は「菊」で、表が黄で裏が青。
11月は「紅葉」で、表が蘇芳で裏が黄。
12月は「椿」で、表が蘇芳で裏が赤。
1月は「雪の下」で、表が白で裏が紅梅。
2月は「梅」で、表が濃紅で裏が紅梅。
3月は「桃」で、表が紅で裏が萌黄。
御神木の銀杏をデザインした御朱印帳
豊富な授与品、御朱印帳も複数用意。
オリジナルの御朱印帳は、御神木になっている大銀杏の葉をあしらったもの。
水色、ピンク、緑の3色を用意。
東京十社めぐりの専用御朱印帳も用意しており、従来の紫の表紙のものと、2016年より頒布となった木製表紙のものの2種類。
東京十社の各社専用のページが用意されていて、右側に御由緒、左側に御朱印を拝受するようになっている。
赤坂の地名由来となった茜草で染めた御朱印帳
2023年9月15日の例大祭より新デザインの御朱印帳を頒布。
茜草で和紙を染めたオリジナルの御朱印帳。
茜草は境内で育成したもので手作り感のある素敵な色合い。
説明書き付き。
地名由来は諸説あり、茜草が生える赤根山への坂(現在の紀伊国坂)と云う説、赤土の坂であったと云う説などが有力で、古くは一ツ木村(人継村)の小名として呼ばれていたと見られている。
寛永年間(1624年-1645年)、江戸城の門の1つが「赤坂御門」と呼ばれるようになり、ここから赤坂が一帯の地名となっていく。
縁むすび参り・結婚式・東京三大縁結び神社
当社は縁結びの神社としても知られる。
毎月1回、縁むすび参り(良縁祈願祭)を斎行。
毎月1回斎行
18:00-18:30(予約制)
定員:30名
祈祷料:3,000円よりお志
※毎月1日の9:00に公式サイトトップページのお知らせ欄にて翌月の斎行日を案内。
※定員ですぐ締め切りになる事が多いので注意。
また当社での結婚式も人気が高い。
生演奏の雅楽があり、東京都有形文化財の社殿で挙式が行われる。
当社の結婚式では独自の儀式である「御櫛預けの儀(みくしあずけのぎ)」が行われる。
女性の分身ともいわれる櫛を新婦から新郎へ預ける事でお二人一体となり、新しい生活を二人三脚で営む誓いを立てる、当社御祭神の神話に基づいた独自の儀式。
当社の御祭神は素盞鳴尊・奇稲田姫命の夫婦神を祀る。
八岐大蛇(やまたのおろち)退治の伝承が知られており、奇稲田姫が八岐大蛇の生贄にされそうになったところ、出雲に降り立った素戔嗚尊が結婚を条件に八岐大蛇退治を申し出て、素戔嗚尊の神通力によって奇稲田姫を湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に姿を変え、素戔嗚尊はこの櫛を頭に挿して八岐大蛇と戦い退治したと云う伝承に基づく。
御櫛預けの儀で使用した御櫛は他の授与品・お下がりと共に新郎新婦の元へ。
四合御櫛(しあわせみくし)と名付けられた御櫛。
文化財の社殿で挙式できるだけでなく、こうした当社独自の儀式や授与品も人気要素。
こうした理由から一部では「東京三大縁結び神社」に挙げられる。
所感
赤坂周辺の鎮守として崇敬を集める当社。
江戸時代には第八代将軍・徳川吉宗から篤い崇敬を受け、以後は徳川将軍家より庇護された。
吉宗の命によって造営された社殿が現存しているのがとても素晴らしい。
現在までに安政の大地震・関東大震災・東京大空襲などがあった中、それらの被災を免れているのは奇跡的とも云え、社殿は吉宗の政策や意向を感じ取る事ができる質実簡素な素晴らしい社殿となっている。
境内は赤坂にありながら江戸時代の名残を残しており、江戸時代の面影のある境内と云える。
派手さはないが、東京十社の中でも渋さのある良社であり、個人的にはとても好きな一社。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:300円(通常)・500円(限定御朱印)
社務所にて。
※2018年より例祭や祭事に合わせて限定御朱印の授与あり。
※境内社「四合稲荷」の御朱印も頂ける。
御朱印帳
オリジナル御朱印帳(茜)
初穂料:1,500円(御朱印代込)
社務所にて。
2023年9月15日の例大祭より頒布開始になった新御朱印帳。
赤坂の地名由来になった茜草を境内で育成し和紙を染めて奉製したもの。
画像では伝わりにくいが手作り感のある素敵な色合い。
※染料の特性上、湿った状態での摩擦で色移りや色落ちする場合あり。
※直射日光の当たる場所で長時間放置すると色抜けする恐れあり。
オリジナル御朱印帳(緑)
初穂料:1,500円(御朱印代込)
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
御神木になっている大銀杏(港区天然記念物)の葉をあしらったもの。
水色、桃色、緑色の3色用意。
東京十社めぐり御朱印帳(木製)
初穂料:1,500円(御朱印代込)
社務所にて。
「東京十社」発行の御朱印帳。
従来の紫色タイプと、2016年より頒布となった木製タイプの2種類を用意。
最初のページから東京十社の説明記載あり。(詳細画像:Twitter)
各社専用のページが用意されていて、右側に御由緒、左側に御朱印を拝受するようになっている。
※筆者が頂いた2016年は初穂料1,200円だったが2023年時点で1,500円に変更。
授与品・頒布品
干支福鈴(卯年)
初穂料:1,000円
社務所にて。
※元日より授与される干支福鈴。
年越大祓茅の輪
初穂料:300円
社務所にて。
※夏越大祓や年越大祓のある6月・12月に授与。
赤坂氷川山車干支てぬぐい
初穂料:1,000円
社務所にて。
※干支が描かれた手ぬぐいで初穂料は赤坂氷川山車の復興・運営にあてられる。
四合御櫛
初穂料:─
結婚式にて。
※当社で結婚式を挙げると「御櫛預けの儀」が行われその際の御櫛を頂ける。
※通常頒布はしていないので結婚式限定。
交通安全ステッカー
初穂料:300円
社務所にて。
参拝情報
参拝日:2024/09/15(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2024/04/01(御朱印拝受)
参拝日:2024/02/17(御朱印拝受)
参拝日:2024/01/01(御朱印拝受)
参拝日:2023/11/23(御朱印拝受)
参拝日:2023/09/15(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2023/07/01(御朱印拝受)
参拝日:2023/03/24(御朱印拝受)
参拝日:2023/02/17(御朱印拝受)
参拝日:2023/01/01(御朱印拝受)
参拝日:2022/11/23(御朱印拝受)
参拝日:2022/09/15(御朱印拝受)
参拝日:2022/07/01(御朱印拝受)
参拝日:2022/03/23(御朱印拝受)
参拝日:2022/03/01(御朱印拝受)
参拝日:2022/02/17(御朱印拝受)
参拝日:2022/02/01(御朱印拝受)
参拝日:2022/01/01(御朱印拝受)
参拝日:2021/12/01(御朱印拝受)
参拝日:2021/11/20(御朱印拝受)
参拝日:2021/11/01(御朱印拝受)
参拝日:2021/10/02(御朱印拝受)
参拝日:2021/09/15(御朱印拝受)
参拝日:2021/09/01(御朱印拝受)
参拝日:2021/08/01(御朱印拝受)
参拝日:2021/07/01(御朱印拝受)
参拝日:2021/06/01(御朱印拝受)
参拝日:2021/05/01(御朱印拝受)
参拝日:2021/04/01(御朱印拝受)
参拝日:2021/03/13(御朱印拝受)
参拝日:2021/01/01(御朱印拝受)
参拝日:2020/11/14(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2020/09/12(御朱印拝受)
参拝日:2020/07/06(御朱印拝受)
参拝日:2020/06/16(御朱印拝受)
参拝日:2020/01/01(御朱印拝受)
参拝日:2019/11/21(御朱印拝受)
参拝日:2019/11/14(御朱印拝受)
参拝日:2019/09/14(御朱印拝受)
参拝日:2019/08/08(御朱印拝受/御朱印帳拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2019/07/06(御朱印拝受)
参拝日:2019/05/01(御朱印拝受)
参拝日:2019/03/30(御朱印拝受)
参拝日:2019/01/01(御朱印拝受)
参拝日:2018/09/23(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2017/02/02(御朱印拝受)
参拝日:2015/12/29(御朱印拝受)
参拝日:2015/08/02(御朱印拝受)
ほぼ月詣
コメント
お早うございます。
高層ビルが立ち並ぶ大都会に神社があるとは想像がつかない自分にとって赤坂に氷川神社という雑木林に囲まれた神社がある事を初めて知りました。赤坂は赤根山への坂や赤い坂とどちらの説であっても名づけがわかりやすい地名ですね。東京観光の神社巡りの一つとして行っていたい所ですね。
■しゃんしゃん様
お返事遅くなりましてすみません。
六本木などからもほど近い赤坂の地ですが、かなり自然が残った境内です。
境内の造り、社殿含め、江戸時代の様相をかなり残した貴重な一角で、
ずっとこうした姿を留めて欲しいと思う良い神社です。
東京十社のうちの一社なのですが、派手さはなく地味な印象なものの、
個人的にはとても好きな一社です。
ぜひ参拝してみて下さい。