芝大神宮(芝神明) / 東京都港区

港区

概要

芝神明と称された関東のお伊勢様

東京都港区芝大門に鎮座する神社。
旧社格は准勅祭社、その後に府社、現在は東京十社のうちの一社。
かつては「芝神明」と称され、今でも一部崇敬者はそう呼び親しんでいる。
かつては広大な境内で徳川将軍家より庇護された一社で、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い「関東のお伊勢様」とも称された。
近くの「増上寺」と共に参詣する人々も多く、江戸庶民からも愛された神社。
「だらだら祭り」「生姜祭り」とも称される例大祭では、千木筥(ちぎばこ)が授与され現在も人気が高い。

神社情報

芝大神宮(しばだいじんぐう)
芝神明(しばしんめい)

御祭神:天照皇大御神・豊受大御神
相殿神:源頼朝公・徳川家康公
社格等:准勅祭社・府社
例大祭:9月16日
所在地:東京都港区芝大門1-12-7
最寄駅:大門駅・浜松町駅・御成門駅・芝公園駅
公式サイト:http://www.shibadaijingu.com/

御由緒

芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005年)一条天皇の御代に創建された由緒あるお社です。
古くは、飯倉神明宮、芝神明宮と称され鎌倉時代においては、源頼朝公より篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を戴きました。その当時の賑わいは、広重の錦絵に窺うことができます。
その後の当宮の社史をみますと、明治、大正、昭和初期の関東大震災、太平洋戦争の激動期においても、数多くの苦難にも耐えて氏子並びに崇敬者に支えられ現在の御社殿に至ります。公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2023/09/11(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2020/09/29(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/03/22(御朱印拝受)
参拝日:2016/01/13(御朱印拝受)
参拝日:2015/10/15(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:500円
社務所にて。

※以前は初穂料300円だったが現在は初穂料500円へ変更、「道中安寧守」と「生姜飴」を頂けるようになった。
※兼務社「讃岐小白稲荷神社」の御朱印も頂ける。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:1,700円(御朱印代込)・2,500円(木製/御朱印代込)
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意。
千木筥がデザインされた御朱印帳。
日光杉並木古材を使用し千木筥の印判が押された大判サイズの御朱印帳。
東京十社めぐり御朱印帳も用意。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

授与品・頒布品

千木筥
初穂料:1,500円
社務所にて。

江戸時代の頃より名物として授与されている芝大神宮オリジナルの授与品。

道中安寧守・生姜飴
初穂料:─
社務所にて。

御朱印を拝受した際に一緒に頂ける。

歴史考察

平安時代に伊勢神宮を飯倉山へ勧請し創建

社伝によると、寛弘二年(1005)に創建と伝わる。
「伊勢神宮」の「内宮・外宮」を勧請して飯倉山に創建したと云う。

飯倉山(いいぐらやま)
現在の港区芝公園一帯。
芝丸山古墳と呼ばれる5世紀前後の前方後円墳が発掘されていて、当宮は飯倉山の丸山に創建したと伝わり、古くから聖地とされた古墳の上に勧請されたものと推測できる。
古くは「神明宮」と称し、飯倉山(現・芝公園)に鎮座していた事から「飯倉神明」とも称された。

源頼朝による寄進・伊勢神宮へ寄進された飯倉御厨

元暦元年(1184)、源頼朝は飯倉の地を「伊勢神宮」の御厨として寄進。

御厨(みくりや)とは、有力神社の領地・荘園の事。

元暦元年(1185)、源頼朝が神領を当宮へ寄進。
建久四年(1193)、再び源頼朝が自ら当宮へ参詣した上で、宝剣と1,300貫余の地を神田として寄進。

御厨(みくりや)
「伊勢神宮」や「下鴨神社」、さらには皇室の領地を意味する。
「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所とされ、地域の特産品を納めるかわりに神税を免除されるため、武士からの寄進地系の御厨が増加した。
飯倉御厨(いいぐらみくりや)
『吾妻鏡』によると、元暦元年(1184)に源頼朝が飯倉の地を「伊勢神宮」の御厨として寄進したと記されていて、この事から飯倉の地は「飯倉御厨」と呼ばれ当宮を含め古くから「伊勢神宮」と繋がりが深かったと推測されている。

当宮は「伊勢神宮」と繋がりが深かった飯倉の地に創建し、関東における伊勢信仰の中心地として崇敬を集めた。

中世における様々な武家からの崇敬

建武四年(1337)、足利直義が戦勝祈願を行い書状を奉納。

足利直義(あしかがただよし)
室町幕府の初代将軍・足利尊氏(あしかがただうじ)の実弟。
実兄・尊氏と共に活躍し、室町幕府では政務担当者(実権を握っていた)として実兄の尊氏と二頭政治を行い「両将軍」と併称された。
その後に内紛「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」で尊氏と対立。
鎌倉に幽閉された後に急死(毒殺説もあり)した。
この書状は当宮に『足利直義御教書』として現存。港区内最古の現存古文書として港区有形文化財に指定。
足利直義御教書 - 港区文化財総合目録 | 港区立郷土歴史館
1通 古文書 昭和56.10.24指定

康正三年(1457)、太田道灌が江戸城を築城。
太田道灌も当宮を崇敬したと伝えられている。

太田道灌(おおたどうかん)
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。

戦国時代になると、後北条氏(小田原北条氏)が関東を支配。
後北条氏の五代当主・北条氏直による制札も当宮に所蔵されている。

天正十六年(1588)、後北条氏の配下となった吉良氏から朱印状を賜る。

当時は柴村(後の芝村)と呼ばれた地で領主から百姓中が土地を安堵する書状。
吉良氏朱印状 - 港区文化財総合目録 | 港区立郷土歴史館
1通 古文書 昭和63.10.26指定

天正十八年(1590)、豊臣秀吉が小田原征伐および奥州仕置のため江戸を通った際に、当宮で戦勝祈願を行ったと伝わる。

このように足利氏・太田道灌・後北条氏・豊臣秀吉など歴代の有力武家から崇敬を集めた。

現在地へ遷座・徳川将軍家からの篤い庇護

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
天正十九年(1591)、家康自ら社参を行い朱印地15石を寄進している。

朱印地(しゅいんち)
幕府より寺社領として安堵された土地。
朱印が押された朱印状によって安堵された事から朱印地と呼んだ。

慶長三年(1598)、徳川家の菩提寺「増上寺」が、江戸城の拡張に伴い現在地の芝(現・芝公園)へ移転。

増上寺(ぞうじょうじ)
港区芝公園にある寺院。
徳川将軍家の菩提寺として知られ、徳川家霊廟には徳川将軍15代のうち6人(秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂)が葬られている。
江戸時代には檀林(学問所及び養成所)が設置され、関東十八檀林の筆頭となった。
大本山 増上寺
徳川将軍家とのゆかりの深い、大本山 増上寺の公式サイト。東京、芝にある増上寺は、600年の歴史をもち、徳川家康公ゆかりの秘仏「黒本尊」を祀る「勝運」のお寺として親しまれています。

飯倉山(現・芝公園)に鎮座していた当宮は、「増上寺」の移転に伴い現在の鎮座地(現・芝大門)へ遷座。

かつての「飯倉神明」とも「芝神明」とも称された。

慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに際し徳川家康が当宮に社参して戦勝祈願。
慶長十九年(1614)、大坂の陣(大阪冬の陣・翌年の大阪夏の陣)では、徳川方の戦勝祈願をするべく、二代将軍・徳川秀忠の正室・お江の方(崇源院)の代参として春日局が社参。

春日局(かすがのつぼね)
二代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の三代将軍・徳川家光)の乳母。
江戸城大奥の礎を築いた人物。

以後、歴代の徳川将軍家より篤い庇護を受けた。

江戸市中の度重なる火災により、社殿は幾度も焼失をしているが、その都度幕府により再建が行われている。

江戸切絵図から見る当宮

当宮の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(芝愛宕下絵図)

こちらは江戸後期の芝・愛宕周辺の切絵図。
上が北の切絵図となっており、当宮は図の中央下に描かれている。

(芝愛宕下絵図)

当宮周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲ったのが当宮で、「飯倉神明宮」と記されている。
左手にあるのが広大な敷地が「増上寺」で、当宮の創建の地。
当宮の前の通りが東海道、当宮の前は「神明町」と呼ばれていた。

街道沿いという事や、「増上寺」がほぼ隣接している事から、江戸時代には参詣者が増え大変賑わった事が窺える。

「伊勢神宮」に参拝する代わりに、当宮へ参拝する江戸庶民が多く、「関東のお伊勢様」として崇敬を集めた。

当宮の参道は、江戸でも有数の盛り場として栄え、茶屋、娯楽店・風俗店、見世物小屋などが多く出て賑わい、特に当宮近くの太々餅は土産物として名物であった。

歌舞伎や芝居などの題材『め組の喧嘩』の舞台

文化二年(1805)、当宮境内で勧進相撲が行われた際、町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件が発生。

これが後に講談・歌舞伎・芝居・錦絵などの題材とされた『め組の喧嘩』である。
め組の喧嘩の概要
当宮の境内で、勧進相撲が開かれた時、木戸御免(きどごめん)と呼ばれる無料入場が認められていた町火消し「め組」 の鳶職2人が、町火消し以外の仲間の1人を連れて中へ入ろうとするが、町火消し以外の仲間の分も無銭で入ろうとしたため、相撲小屋木戸番の力士に咎められ言い合いになる。
力士の助っ人もあったため鳶職側が折れ、相撲見物を諦め、代わりに当宮境内で行われていた芝居小屋へ向かったところ、芝居小屋でも力士を見つけ、先程の腹いせに野次り恥をかかせ、怒った力士が鳶職を投げ付け、芝居を滅茶苦茶にしてしまう。
火消しの頭や相撲の年寄の仲裁もあり、一旦は収まりかけたが、同部屋の力士が復讐をたき付け、部屋から力士仲間を応援に呼び集め、茶屋で飲んでいた鳶職たちに殴り掛かる。
鳶職たちは火の見櫓に上り、半鐘を乱打し加勢の仲間を集めたので、喧嘩の輪が広がっていき、4時間あまり続く大騒動になり、遂には与力、同心が出動して乱闘に割って入り、火消しと力士合計36人が捕縛された。
三奉行が裁判に関与・名奉行の粋な計らい
庶民の注目を集めたのは事後処理の裁き方。
町火消しは「町奉行」、相撲側は「寺社奉行」とそれぞれ管轄が違っていた上、更には農民の訴訟を取り扱う「勘定奉行」も乗り出す事となる。
評定所の基本的な構成員である三奉行が1つの裁判に関与するのは極めて稀な事だった。
結果、火消し側に厳しい裁定が出て、相撲側には甘い裁定となった。
事件の発端が 「め組」 の鳶職にあった事と、火事以外に叩くことを禁じられていた半鐘を喧嘩のために打ち鳴らして騒動を大きくした罪に問われたからである。
しかしながら、死罪などで罰せられるものはなく、全体的にそこまで厳しく問われる事がなかった。
これは当時の南町奉行・根岸肥前守鎮衛(ねぎしひぜんのかみやすもり)が「芝神明の半鐘が勝手に鳴り出したのが喧嘩の原因である」と断罪し、人ではなく半鐘に 「遠島」(島流し)を申し付けると云う粋な計らいをしたためと伝わる。

(新撰東錦絵)

明治に歌川芳年が描いた『新撰東錦絵』の『神明相撲闘争之図』。

こうしたエピソードは歌舞伎・講談・芝居・錦絵などの題材にされ人気を誇った。

この半鐘は明治になって遠島の刑が廃止された後、当宮に返却。現在も「め組の半鐘」として当宮に保管されている。

題材にされる際に脚色は入っているものの、『め組の喧嘩』は実際に当宮の境内で起こった事件であり、この事からも相撲小屋・芝居小屋など庶民の娯楽が集まる盛り場だった事がよく分かる。

江戸名所図会に描かれた当宮や例祭

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「飯倉神明宮」として3ページに渡り描かれている。
その横には「世は芝の神明宮といふ」とあり、一般的には「芝神明」として崇敬を集めていた。
現在よりもかなり広大な敷地を有していたのが分かる。

総門があり鳥居、その先に楼門と立派な参道が整備。
その先には実に立派な拝殿・本殿があり、境内には多くの境内社、裏手には神池も見る事ができる。

こうした境内社は現在は全て当宮に合祀されている。

(江戸名所図会)

社殿を中心に境内を拡大したものが上図。

特に注目すべきなのは、当宮の境内に多くある娯楽施設。
ここに見えるだけでも、茶屋、吹矢、土弓、芝居小屋を見る事ができる。
参道にはこうした茶屋、娯楽施設だけでなく、風俗店や見世物小屋も立ち並んでいた。
それだけ参詣者が多く、いわば江戸の人気娯楽スポットであった。
それ故に上述した『め組の喧嘩』の舞台にもなったのであろう。

(江戸名所図会)

祭礼の様子を描いており、当宮の例祭は当時から現在にかけて「だらだら祭り」と称される。

神輿渡御などの各種神事が行われるが、それらが長期間「だらだら」と続くために古来「だらだら祭り」と呼ばれる。

また期間中に生姜を授与しているところから、別名「生姜祭り」とも称した。

例祭で授与された千木筥(ちぎばこ)
当宮の例祭の名物は、例祭時のみ授与された「千木筥(ちぎばこ)」。
千木筥は、千木が千着にも通じるので、女性はこれを箪笥に入れて、着物が増えるのを願ったと伝わる。
門の左手に物売りが描かれているが、箱のような形をしているので千木筥の一種であろう。

左手奥に「太好庵」という看板が見える。
こちらは薬屋であり、門前町に住む医者が経営している店で、先祖伝来の長命薬として「万金丹」や「金粒丸」を売っていて評判であった。

浮世絵に描かれた芝神明

江戸有数の盛り場として人気となった当宮は、浮世絵などの題材にも多く取り上げられている。
特に歌川広重が好んで描いている。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

(名所江戸百景)

歌川広重による『名所江戸百景』で、題名は「芝神明増上寺」。

当宮と「増上寺」に合わせて参詣する人が多く、右手奥に見えるのが当宮の社殿。
夕方の様子であるので、旅支度の旅人たちは江戸に戻ってきた旅人たちであろう。
その左手に見える僧たちは「七つ坊主」と呼ばれる僧である。

七つ坊主とは、「増上寺」を出て江戸市中を毎夕七つ時(16時頃)から拍子木を打ち、念仏を唱えて托鉢して歩いた僧。

(江戸高名会亭尽)

広重によって描かれた『江戸高名会亭尽』に「芝神明社内」として描かれたもの。

『江戸高名会亭尽』は有名料理茶屋を描いたシリーズものの錦絵。
当宮の境内に多くの料理茶屋があった事が分かり、江戸でも有名な店であった。
門前ではなく境内の様子を描いており、境内にこうして料理茶屋が並ぶという、正に盛り場であったと云えるだろう。

(江戸名所之内)

広重による『江戸名所之内』の「芝神明社内之図」。

火災で焼失する前の当時の社殿の様子が分かる貴重な資料。
子供たちが鶏と触れ合っている姿も描かれているが、伊勢信仰の神使は鶏である。
境内で鶏を放し飼いにして大切にしていたのであろう。

こうした浮世絵からも当宮が江戸庶民から崇敬を集め、人気の盛り場だった事が伝わる。

明治以降の歩み・関東大震災や戦災からの再建

明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、准勅祭社に列する。

准勅祭社に指定された十二社のうち、東京23区内の神社十社が現在の「東京十社」となる。
東京十社 御朱印一覧
東京十社の「東京十社めぐり御朱印帳」と御朱印画像一覧です。専用の御朱印帳も紹介。東京十社についての歴史など詳しい説明も掲載しています。東京十社とは、昭和五十年に定められた東京23区内の10の神社。東京十社めぐりの参考になりましたら幸いです。

明治三年(1870)、准勅祭社が廃止。
明治五年(1872)、府社に列し、「芝神明宮」から現在の「芝大神宮」へ改称。
明治九年(1876)、火災により社殿を焼失。
明治十年(1877)、社殿が再建される。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

当宮の鎮座地は赤円で囲った場所で、今も昔も変わらない。
「芝大神宮」と記され、地図上でも目印になるような名所であった。
まだ江戸時代の頃の社地を有していたと思われる。

(東京府史蹟)

大正八年(1919)に刊行された『東京府史蹟』に掲載されている当宮。

明治に再建された社殿で、江戸時代のものとは違うが、神明造りの立派な社殿。
この社殿もこの4年後には残念ながら倒壊してしまう。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
当宮の社殿は倒壊した上で延焼。

昭和二年(1927)、本殿などを再建。
昭和十二年(1938)、上述の古写真のような社殿にほぼ完全に再建された。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
境内の殆どを焼失してしまっている。

江戸時代の頃から度重なる火災によって焼失していた社殿だが、明治に入ってからも計3度焼失しその度に再建された。

昭和二十二年(1947)、本殿を再建。
明治三十九年(1964)、社殿を再造営。
境内も縮小され、数多く合った境内社は本殿に合祀される形となった。

平成十七年(2005)、鎮座1000年奉祝の「芝大神宮壱千年祭」を斎行。
社務所等の改築を行い、現在の姿となっている。

境内案内

ビルが立ち並ぶ参道・立派な大鳥居

最寄駅は大門駅もしくは浜松町駅で、第一京浜沿いに社号碑があるので分かりやすい。
第一京浜はかつての東海道で、当宮への参道が伸びていたのは江戸時代も変わらない。
江戸有数の盛り場であり、参道には多くの店が立ち並んでいた。
現在は飲食店などが入るビルも建ち並び、ある意味現代化したとも云えるだろう。

境内は都心の一画にこぢんまりと鎮座しており、往年の姿は見る事はできない。

参道の先に綺麗な神明鳥居。
旧大鳥居は昭和三十八年(1963)に建立。
現在の大鳥居は平成二十三年(2011)に新たに建てられたもの。
往年の境内は失われたものの大鳥居が当社のシンボルの1つとなっている。
その下に賽銭箱があり、足腰が悪い方はこちらで参拝する事も可能。

大鳥居の先に石段。
正面に社殿があるが、手水舎は石段を上った左手に置かれている。
昭和四十一年(1966)の例大祭の際に、氏子崇敬者によって寄進された。

戦後に再建された神明造の社殿

石段の先に社殿。
明治三十九年(1964)に再造営されたもの。
伊勢信仰らしい神明造りで綺麗に整備。
幾度も焼失の憂き目に遭ったが、現在は石段の上に立派に鎮座。
現在は社地が縮小しこぢんまりと鎮座しているが、古くから関東の伊勢信仰の中心として崇敬を集めた「芝神明」の現在の形である。

謎多き狛犬・力石・燈籠・生姜塚など

拝殿前に一対の狛犬。
狛犬の造形から江戸後期あたりの古いものとも思われるが奉納年は不明。
台座には昭和六年(1931)と昭和四十年(1965)と刻まれているが、昭和年代よりも明らかに古いものなのでおそらくこの年は修復された年だと思われる。(明治後期の史料に同じ狛犬が写っているため)
大きな角を持つ阿形だが角部分には修復歴があり、中々に謎の多い狛犬となっている。

社殿の左手には力石。
力比べに使われていたもので、「五十貫余 川口町 金杉藤吉」とある。

金杉藤吉とは明治時代に活躍した力持ち力士の山口藤吉のこと。芝金杉川口町(現・芝一丁目)に住んでいたため通称「金杉の藤吉」と呼ばれた・当宮で力持ちの興行が行われた際、金杉藤吉はこの石を片手でさし上げたと云う。
芝大神宮の力石 - 港区文化財総合目録 | 港区立郷土歴史館
1点 有形民俗文化財 平成7.9.26指定

石段の下には石碑が並ぶ。
当宮の例大祭は「生姜祭り」と呼ばれる事もあり、それを伝える生姜塚。
不動貯金銀行(後の協和銀行・現在のりそな銀行)創業者で、貯金王と呼ばれた牧野元次郎を称える貯金塚。
大正時代の古写真でも見る事ができる燈籠。

だらだら祭りと称される例祭

当宮の例祭は古くから「だらだら祭り」と称される。(画像は2023年初日に撮影)
9月16日の例大祭を挟み、11日から21日まで10日間にわたって行われる神事。
長期間「だらだら」と続くため古くから「だらだら祭り」とも呼ばれる。
基本的には土日に露店や神輿も出て賑わう。
また期間中に生姜を授与した事から「生姜祭り」とも称した。当宮が創建された頃、周辺には生姜畑が繁茂していたためこれを神前に供えたと伝わる。

当宮の生姜を食すると風邪にかかりにくくなると評判を呼び、江戸時代の頃から人気であった。
芝大神宮 » 太良太良まつり

良縁や女性の幸福守護・千木筥

この例祭で江戸時代の頃から人気の授与品が「千木筥(ちぎばこ)」。

千木筥(ちぎばこ)
江戸時代の頃は当宮の例祭時のみ授与された千木筥。
千木筥は、千木が千着にも通じるので、女性はこれを箪笥に入れて、着物が増えるのを願ったと伝わる。

現在は通年で授与されているが当時は例祭時のみ授与されていた御守。
三段重ねの曲げ物を荒縄でまとめた品。
中に小豆が入っているため振るとカラカラと音がする。
特に女性からの人気が高い縁起もの。

現在は女性の衣服が増えるとして祝いの贈り物として受ける方も多く、また良縁結びの縁起物としても人気。そのため良縁結び・女性の幸福守護の縁起物として信仰を集めている。

(江戸自慢三十六興)

二代歌川広重・歌川国貞による『江戸自慢三十六興』。

例祭での当宮門前を描いており、店が多く出て常に賑わった様子が分かる。
女性の片手には上述した「千木筥(ちぎばこ)」を見る事ができる。
左の物売りで、売られているのは生姜。
この一枚に「だらだら祭り」「生姜祭り」とも呼ばれた当宮の例大祭の様子が凝縮されている。

二代目歌川広重(にだいめうたがわひろしげ)
歌川広重(初代)の門人。
はじめは重宣(しげのぶ)と称していたが、安政五年(1858)に初代が没すると、広重の養女お辰の婿になり、二代目広重を襲名した。
広重の晩年の作品『名所江戸百景』にも参加し、一部は二代目の作とされている。

その奥に「太々餅」の暖簾がかかっており、これが江戸屈指の名物。
当宮の「だらだら祭り」にちなんだ「太々餅」で、土産として大人気であった。

現在は千木筥やそれを模した根付などが通年授与されている。

御朱印は道中御守と生姜飴を頂ける・御朱印帳

御朱印は社務所にて。
いつも丁寧に対応して下さる。

御朱印は「芝大神宮」の朱印と「芝神明」の朱印。
こちらは9月の頂いたもので「だらだらまつり」の印も押印されている。

御朱印を頂くと道中安寧御守(栞として使える)と、生姜飴も頂ける。
上述した通り、当宮の例大祭は「生姜祭り」とも呼ばれ、当宮の生姜を食すると風邪にかかりにくくなると信仰を集めた。

オリジナルの御朱印帳も頒布。
千木筥をデザインした御朱印帳や木製の御朱印帳、東京十社めぐりの御朱印帳も用意。

東京十社 御朱印一覧
東京十社の「東京十社めぐり御朱印帳」と御朱印画像一覧です。専用の御朱印帳も紹介。東京十社についての歴史など詳しい説明も掲載しています。東京十社とは、昭和五十年に定められた東京23区内の10の神社。東京十社めぐりの参考になりましたら幸いです。
案内はされていないが兼務社「讃岐小白稲荷神社」の御朱印も頂ける。
讃岐小白稲荷神社 / 東京都港区
讃岐稲荷と小白稲荷が合祀されたお稲荷様。ライオンのような造形の狛犬・出世お獅子台。高松藩松平家の下屋敷に祀られた讃岐稲荷。芝湊町の邸内社であった小白稲荷。三大貧民窟の芝新網町。昭和に合祀。別々の鳥居や扁額。御朱印は本務社「芝大神宮」にて。

所感

「飯倉神明」「芝神明」などと呼ばれ、関東における伊勢信仰の中心として「関東のお伊勢様」と尊称され崇敬を集めた当宮。
歴代の有力武家からも信仰を集めていて、古い古文書なども残る。
江戸時代に現在の鎮座地に遷座してからは、徳川将軍家からの庇護もあり立派な境内であった。
門前や参道、さらには境内にも、多くの茶屋や遊戯店、見世物小屋、芝居小屋などが立ち並び、江戸有数の盛り場として栄えており、『め組の喧嘩』の舞台としても知られる。
現在は規模がかなり小さくなり、当時の面影を見る事はできないが、社殿は幾度も焼失の憂き目に遭い、その度に再建されているように、氏子崇敬者からの崇敬は篤い。
神前結婚式などがよく行われており、良い立地にあるため参拝者が途切れる事もなく、江戸時代の頃とは様相はガラリと変わる中でも人気で信仰を集める良い神社である。

Google Maps

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