猿江神社 / 東京都江東区

御由緒

源頼義・義家(八幡太郎義家)父子による奥州遠征(前九年の役)において、数々の奉勝を立てた家臣に『猿藤太』(さるのとうた)という武将がいた。 武勇の士と讃えられた人物であったが、此の地の入江で力尽きてしまった。
これを知った地元の漁師達が手厚く葬り、当社の境内に塚を建て葬った。 此に因んで猿藤太の「猿」と入江の「江」の字を取り結び「猿江」の社名になったと伝えられる。
神社としての正確な創立年代は不詳であるが、康平年中(1058)頃には近在の信仰を集め、稲荷社として境内地三百余坪を有した。築八十余年を迎える、都内でも最古級の鉄筋コンクリート造りの御社殿は、旧社殿が関東大震災にて焼失後、昭和六年に再建された。東京大空襲にて、近隣一帯が灰燼に帰した時も奇跡的に難を免れ、錦糸町の駅からは一面の焼け野原に建つ御社殿のみが望めたという。
昭和二十一年に伊勢大御神を合祀し、社名を猿江稲荷神社より改称。
一千年以上の歴史をもつとされる由緒深き神社である。

(※頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/01/28

御朱印

初穂料:500円
社務所にて。

※御朱印は500円との掲示あり。
※正月期間に限定御朱印あり。

猿江神社1
(通常版)
猿江神社2
(平成二十八年正月限定)


歴史考察

猿江の稲荷社

江東区猿江に鎮座する神社。
元は稲荷信仰の神社で「猿江稲荷」と称していた。
猿藤太という武士の伝説が残る神社であり、猿江の地名由来にもなっている。

猿藤太の伝説・地名由来

社伝によると、猿藤太という人物の伝説が創建の由来となっている。
康平年間(1058年-1065年)に鎧を着た遺体がこの附近の入江に流れ着く。

鎧には「源義家臣猿藤太」と記されており、さらに懐中より経文一巻が出てくる。
不思議な事に遺体から毎夜光明を発したため、この地の村民が手厚く葬った。
塚を建てて祀ったところ、豊漁が続き村民は喜んだという。
そこで、猿藤太の「猿」 と入江の「江」の字を結び「猿江」社名となり「猿江稲荷」と称された。

この猿藤太という人物なのだが、当社など猿江近辺の資料でしか見かける事ができないため、戦功などの詳細は不明。
しかし、創建の康平年間(1058年-1065年)は、「前九年の役」(1051年-1062年)で源頼義・源義家(八幡太郎義家として有名)父子による奥州遠征が行われた頃であり、遺体の鎧に「源義家臣猿藤太」と記されていた御由緒からも、前九年の役で源義家の家臣として使えていた人物なのだろう。

猿藤太が亡くなったという言い伝えの遺跡が、かつて「重願寺」南方の地にあったという。
その地には池があったが現在は埋め立てられたと伝えられている。

別当寺の妙寿寺と法華経

しばらくの間は「住善寺」という寺が別当を勤めていたが、廃寺となる。
その後、寛文年中(1661年-1673年)に移転してきた「妙寿寺」(現在はさらに移転して世田谷区北烏山に)が別当寺に。

「妙寿寺」と隣接するように西側に当社があったといい、現在よりは少し違う位置に鎮座していたようだ。

その「妙寿寺」なのだが、寛永八年(1631)谷中にて「妙感寺」として開山。
寛文年中(1661年-1673年)にこの猿江へ移転し、当社の別当を勤めると共に、寺号を「妙寿寺」と改称。

以後、当社は別当寺の「妙寿寺」と共に崇敬を集める。

なお、猿藤太が懐中に持っていたという経文は法華経であったといい、「妙寿寺」は日蓮宗の寺院。
法華経第一としている日蓮宗と猿藤太の伝説に、縁や繋がりを感じさせてくれる。

神仏分離と関東大震災

明治になり神仏分離で、別当寺だった「妙寿寺」とは分離。
「妙寿寺」に隣接し西側にあった当社だが、明治十七年(1884)に、現在地に遷座している。

大正十二年(1923)に関東大震災が発生。
猿江の地も壊滅的な打撃を受け、当社も焼失。
さらには旧別当寺であった「妙寿寺」も焼失しており、「妙寿寺」はこれを機に、現在の世田谷区北烏山に移転している。

鉄筋コンクリート作りで再建・戦火を免れる

昭和六年(1931)、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りとして再建。
こちらが現存しており、当社では都内でも最古級の鉄筋コンクリート造りの社殿としている。

戦前の鉄筋コンクリート造りの社殿として有名なのは、「神田神社(神田明神)」の社殿。
神田神社(神田明神)」は昭和九年(1934)に造営された社殿なので、それよりも古い事になる。
当時としては珍しく、当社は鉄筋コンクリート造りとしてはかなり古い社殿なのは間違いない。

第二次世界大戦が始まると、東京大空襲で猿江の地は灰燼と化す。
戦中の当地は工場地帯であったため、米軍の標的の中心となった場所としても知られている。
しかしながら、鉄筋コンクリート造りの社殿は焼けずに残ったといい、当時のものが現存している。
錦糸町の駅からは、一面の焼け野原に建つ当社の社殿のみが望めた状態だったという。

ちなみに上述した「神田神社(神田明神)」の社殿も、境内に焼夷弾が落ちたにも関わらず戦火を免れ現存しており、当社と共に鉄筋コンクリート造りの頑丈さが分かるエピソードだろう。

戦後になり猿江神社へ改称

戦後の昭和二十一年(1946)に、伊勢大御神を合祀。
これまで「猿江稲荷神社」と呼ばれていた当社だが、社名を現在の「猿江神社」へ改称している。

平成十三年(2001)には「藤森稲荷社」が当社境内に遷され境内社となった。
同時に遷された石燈篭一対(弘化五年)、石水盤(貞享三年)は区の有形文化財となっている。

白い社殿・馬頭観音社も

当社の鳥居横に置かれた社号碑は「稲荷神社」の文字。

昭和二十一年(1946)に改称される前は「猿江稲荷」と呼ばれていた事が分かる。

社殿は上述した通り、昭和六年(1931)、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りとして再建されたもの。
都内最古級の鉄筋コンクリート造り社殿で、戦火を免れている。

全体的に白い色合いが特徴的。

境内社には平成十三年(2001)に遷座してきた「藤森稲荷社」。

江戸時代初期には幕府の、明治時代には宮内庁の御用材蔵にお祀りされたという。
木材作業・建築工事関係の信仰が篤い。

さらに「馬頭観音社」も。

古くから当社の境内にあったといい、馬頭観世音の刻印の上より「馬」の絵を彫り、「馬方」の絵の石と併わせた、大小1対の珍しい碑がお祀りされており、神仏習合の名残だろう。
この地の信仰を伺う事ができる。
最近ではペットの無病息災祈願や勝守なども授与も行っている。

手水舎は平成二十七年(2015)の年末に改築工事されたもの。

新しくなっていて綺麗。
現在も崇敬を集め境内の整備ができている事が喜ばしい。

御朱印は社務所にて。
枠が大きく立派な印になっており、そこに深川の文字が美しい。
平成二十八年(2016)は申年という事で「丙申の御朱印」を一月末までの正月限定で拝受できる。
社名の猿の文字と申年は相性がよい。

所感

猿藤太の伝説と共に猿江の地名の由来となった当社。
関東大震災後の再建で造られた、都内でも最古級の鉄筋コンクリート造り社殿は白が特徴的で珍しい。
戦時中は集中的に米軍から狙われた地でありながら、戦火を免れたのも、この社殿だからこそ。
現在も境内整備が行われており、氏子など崇敬者からの崇敬が篤いのが伝わる。
この日は節分に向けて舞台の設置をしているところだった。
また近くの幼稚園などの通り道にもなっているようで、地域の子連れの母親などが境内を通行していくのも、この地に溶け込んでいる証拠だろう。
今回の限定御朱印や、春になると夜桜のライトアップもしていたりと、色々努力されているのが伝わる神社だと思う。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]




[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 藤森稲荷神社 ]


[ 馬頭観音社 ]


[ 石碑 ]

[ 社務所 ]

[ 神輿庫 ]

[ 稲荷神社(本殿裏) ]

[ 燈籠 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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