宇迦八幡宮 / 東京都江東区

江東区

神社情報

宇迦八幡宮(うかはちまんぐう)

御祭神:宇迦之御魂命・應神天皇
社格等:─
例大祭:8月16日
所在地:東京都江東区千田12-8
最寄駅:住吉駅
公式サイト:─

御由緒

 亨保年間(1720年)近江の国の人千田庄兵工氏此の地に来り、時の幕府徳川第八代将軍吉宗公に願い出て、此の土地を開拓せんと3年の長きを費やして村造りを固めなし、其の氏をとって武蔵野国南葛飾郡千田新田と名付けらる。後に寛政九年村全体が一橋家の領家となったので一橋領十万坪とも称したり。
 当神社はその当時小さな祠であったが、千田庄兵工敬神の念篤く、神殿を造り千田神社と称し土地の産土神として崇められる。
 たまたま土地に穀物の実らざるを嘆き当神社に祈願を籠め、神霊のお告げを受けて、これに代うるに片栗を栽培して農民の飢餓を救ったという古き伝説の故を以て、片栗八幡宮とも称す。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2018/05/25

御朱印

初穂料:志納
社務所にて。

歴史考察

千田鎮守の稲荷・八幡さま

東京都江東区千田に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧千田新田(現・千田)の鎮守。
稲荷神である宇迦之御魂命と、八幡神である応神天皇を祀る。
田畑に穀物が実らないため当社で祈願したところ、お告げによって片栗を栽培して村民の飢えを救った事から「片栗八幡宮」とも称された。
境内には神社として珍しく、六角宝塔とみがわり地蔵尊が祀られ、水子供養のために訪れる参拝者が多い。

江戸時代のゴミの埋立地を開拓・千田新田が成立

創建年代は不詳。
江戸時代以前に祀られていたものと見られる。

現在の千田は、古くは人が住めない干潟であった。
江戸時代になると、江戸で出たゴミの埋立地として利用される事となる。

享保八年(1723)、近江屋庄兵衛(千田庄兵衛)が幕府に願い出て当地開拓の許可を得る。
およそ3年間を費やして当地を開拓、村作りを行った。

徳川第八代将軍・徳川吉宗の時代で、社伝には吉宗に願い出たと伝わる。
更に吉宗が周辺に鷹狩りに来たとき、残した矢の根を御神体としていると云う。

近江屋庄兵衛の名字が千田氏であったことから「千田新田」と名付けられる。
当社は、小さな祠として祀られていたと云う。

当地が開拓されるより前に、古くから干潟に祀られていた小さな祠であったと見られる。

千田新田を開拓した近江屋庄兵衛は、当社への崇敬が篤く社殿を建立。
「千田神社」と称して、千田新田の鎮守とした。

村民の飢餓を救った事で片栗八幡宮とも称される

当社には、村民の飢餓を救ったという伝説が伝わる。

ゴミの埋立地を開拓し開かれた千田新田は、田畑に穀物が実らない土地であったと云う。
村民たちは嘆き、鎮守である当社に祈願をし、お籠りを行った。
すると神霊より「代わりとして片栗を栽培するよう」お告げを受けた。
片栗を栽培したところ作物が実り、村民の飢餓を救う事となった。

こうして伝説から「片栗八幡宮」とも称された。

片栗はユリ科の多年草。鱗茎から抽出したデンプン粉を片栗粉として用いたり、若葉を茹でて山菜として食された。(現在の片栗粉はジャガイモやサツマイモから抽出したデンプン粉が用いられている。)

一橋領十万坪とも称され歌川広重が浮世絵にも描いた千田新田

寛政九年(1797)、千田新田全体が一橋徳川家の領地となる。
そのため千田新田は「一橋領十万坪」とも称される事となる。

一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつで単に一橋家とも呼ばれる。徳川第八代将軍・吉宗の四男宗尹を家祖とし、後の徳川第十一代将軍・家斉と徳川第十五代将軍・慶喜が一橋家の出身。

十万坪とも呼ばれた当地は、歌川広重が浮世絵として描いている。

(江戸百景)

歌川広重が描いた『江戸百景』より「深川洲崎十万坪」。
上部に大きな鷹を描き、奥には筑波山の遠景を見る事ができる。
十万坪(千田新田)と呼ばれた当地は、遠景として眺めるには景勝であったが、住む上では人気のない寂しい土地であったと伝わる。

こうした十万坪とも呼ばれた一帯の鎮守とされた。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(千田新田)
稲荷八幡合社
村の鎮守なり。村持。

千田新田の「稲荷八幡合社」として記されているのが当社。
社号から江戸時代より稲荷神と八幡神を合わせ祀っていた事が窺える。
村の鎮守であった事と、村によって管理されていた事も記されている。

現在も御祭神は二柱で変わらない。
稲荷神である宇迦之御魂命と、八幡神である応神天皇を祀っている。

江戸切絵図から見る千田新田(十万坪)

江戸時代の千田新田は江戸切絵図を見ると位置関係が分かりやすい。

(深川絵図)

こちらは江戸後期の本所・深川周辺の切絵図。
千田新田(十万坪)は図の右下に描かれている。

(深川絵図)

千田新田周辺を拡大したのが上図。
赤円で囲ったのが千田新田で「十万坪と云」「永代海邉千田」「入會 新田」の文字が見える。

「十万坪」と呼ばれている事と、長い年月海辺(干潟)であった事、千田という地名。
共同利用する入会新田であった説明が載っている。

一橋家の領地であったためか、当社は記されていないが、一帯の鎮守であった。

隣接しているのが青円で囲った「一橋殿」。
一橋家の屋敷があった事が分かり、「一橋領十万坪」と呼ばれた理由が伝わる。

明治以降の歩み・戦後の再建と社号変更

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

深川千田は何度かの再編によって、深川千田町や千田町と改称。
当社は一帯の鎮守とされ「千田稲荷神社」と称された。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地。
当時の地図には神社記号を見る事ができないが、おそらく当社があったと見られる。
深川区や千田町の文字を見る事もできる。

大正八年(1919)測図の古地図には当社が記されている。

今昔マップ on the webより)

こちらには赤円で囲った現在の鎮座地に、神社の地図記号を見る事ができる。
現在の社殿と同様に入母屋権現造り総桧銅板葺きの社殿であったと云う。
千田町の鎮守として崇敬を集めた。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって当地を含めた深川一帯は焼け野原となる。
当社も戦災によって社殿が焼失している。

昭和二十七年(1952)、現在の社殿が再建。
戦災で焼失した旧社殿と同形式の社殿で再建が行われた。

昭和二十九年(1954)、明治より「千田稲荷神社」と称されていた当社であるが、氏子崇敬者からの改名要求が高まり、奉賛会が協議した上で「宇迦八幡宮」に改称。
稲荷神である宇迦之御魂命と、八幡神である応神天皇から取られた社号である。

平成五年(1993)、境内にみがわり地蔵尊が再建。
その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

千田の路地に鎮座・石垣に囲まれた境内

最寄駅の住吉駅からは徒歩10分少々の距離で、小名木川を渡る手前には「猿江神社」も鎮座。

猿江神社 / 東京都江東区
深川猿江の鎮守。稲荷社として創建。猿藤太の伝説と猿江の地名由来。深川の文字が特徴的な御朱印・限定御朱印。猿が波に乗るポップな御朱印帳。関東大震災後の再建・都内最古級の鉄筋コンクリート造社殿。可愛らしい神猿像。藤森稲荷神社・馬頭観音社。

小名木川を渡り、清洲橋通りを渡った先の千田エリアの細い路地に面して鎮座。
氏子の奉納によって整備された石垣に囲まれた境内。
石段の上に鳥居。
社号碑には「宇迦八幡宮」の文字。

鳥居を潜ると、参道の右手に手水舎。
綺麗に水が張られており、手水舎の後ろには金魚が泳ぐ水槽が置かれているのが面白い。

旧社殿と同形式で再建された社殿

社殿は昭和二十七年(1952)に再建されたもの。
昭和二十年(1945)の東京大空襲によって旧社殿は焼失。
再建にあたり旧社殿と同形式の入母屋権現造り総桧銅板葺きにて再建。
細かい彫刻も施されており、こうした部分も極力再現して再建を果たした。
氏子崇敬者からの再建へ対する思いが伝わる。
再建された後の昭和二十九年(1954)に「宇迦八幡宮」に社号も改められた。

二柱の御祭神を表した社号で、稲荷神である宇迦之御魂命と、八幡神である応神天皇から取られた社号。

有形文化財の六角宝塔・水子供養のみがわり地蔵尊

社殿の左手奥には、神社の境内には珍しい一画が整備。
古い六角宝塔と、再建されたみがわり地蔵尊の姿が並ぶ。

六角宝塔は、大日・阿弥陀・釈迦・薬師・観音・勢至の六体の仏が彫られている。
台座には「妙法華経千部供養塔」とあり、貞享二年(1685)寄進の大変古いもので、江東区の有形文化財に指定されている。

この六角宝塔は、千田新田を開拓し当社の社殿を造営した近江屋庄兵衛(千田庄兵衛)が、貞享二年(1685)に「永代寺」という寺院に寄進したもの。
「永代寺」は明治に廃寺となったため、社有地に置かれていたが、当社の社殿が再建された昭和二十七年(1952)に当社境内に移された。

六角宝塔に右手には、みがわり地蔵尊が再建されている。
平成五年(1993)に氏子崇敬者の奉賛によって再建されたもので、水子供養に訪れる参拝者が多いと云う。

社務所前の御神木・御朱印は社務所にて

手水舎の後方、社務所の向かいあたりに立派な銀杏の木。
御神木という形になるのだろう。
幹から根の一種である気根(コブ)が垂れていて、ちょっとした乳銀杏になる。

こうした銀杏は各地で見る事が出来、もっと多数の気根(コブ)が垂れてが垂れているものは、乳銀杏と呼ばれ、乳房に似ている事から、子授け・安産・母乳が出るようになど信仰を集めるが多い。

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

所感

千田の鎮守として崇敬を集めた当社。
当地は古くは干潟で、江戸時代にはゴミの埋立地として利用されていた。
そうした埋立地を3年近い歳月をかけて開拓したのが当地であったが、伝説によると穀物が実らず当社への祈願によって片栗が栽培され飢餓を救ったと伝わる事からも、当社が村民たちから崇敬を集めていた事が窺い知れる。
戦後に当社の社殿を再建する際には、焼失した旧社殿と同形式にて風格のある社殿で再建されたりといった事も、そうした氏子崇敬者による崇敬の賜物であろう。
境内の一画に六角宝塔とみがわり地蔵尊という、現代の神社の境内にはあまり見られないものが整備されているのも、そうした氏子崇敬者の信仰を集めているからこそ。
地域の歴史を伝える良い神社だと思う。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]


[ 玉垣 ]

[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]









[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 六角宝塔・みがわり地蔵尊 ]




[ 石碑 ]

[ 古札納所 ]

[ 石碑 ]

[ 御神木 ]



[ 社務所 ]

[ 神輿庫 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

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