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概要
風光明媚な景勝地として賑わった洲﨑弁天
東京都江東区木場に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧洲崎など埋立地を含む一帯の鎮守。
五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院の守本尊を祀り創建。
古くは「洲崎弁天」「洲崎弁財天」などと称された。
漢字での正式な表記は「洲崎神社」ではなく「洲﨑神社」。
当時は海岸に面した土手の先端に鎮座していて、実に風光明媚な場所で江戸の景勝地・観光地として人気が高く、周辺は潮干狩り・初日の出・月見の名所として賑わった。
桂昌院は「玉の輿」の語源とも代名詞とも云われる存在に因み、令和元年に神社のマスコットとして「玉の輿たまちゃん」が発案され、境内には可愛らしい像が置かれている。
神社情報
洲﨑神社/洲崎神社(すさきじんじゃ)
御祭神:市杵島比売命
社格等:村社
例大祭:8月3日
所在地:東京都江東区木場6-13-13
最寄駅:木場駅
公式サイト:─
御由緒
当州崎神社神社は元弁天社と称し厳島神社の御分霊祭神市杵島比売命を斉祀しております。創立は徳川五代将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄十三年、江戸城中、紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、珠に弥生の潮時には城下の貴賎袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮べて、妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。
明治五年御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。大正の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大師作の御神体は幸にして難を免れ、当時は仮社殿に奉斉して居りましたが昭和四十三年現在の社殿を造営し斉祀して現在に至っております。(境内の掲示より)
歴史考察
桂昌院の守本尊を祀る洲崎弁天社として創建
社伝によると、元禄十三年(1700)に創建されたと伝わる。
「護持院」隆光の尽力によって、江戸城の紅葉山より弁財天を遷し祀り「洲崎弁天社」として創建。
江戸時代中期の新義真言宗の僧。
五代将軍・徳川綱吉の帰依を得て、綱吉やその生母・桂昌院の寵愛を受けた。
「護持院」を開山し、新義真言宗の僧では初めて大僧正となる。
綱吉や桂昌院に寺社の再建を勧めた他、生類憐れみの令の進言を行った説もある。
当社に祀られた弁財天は、五代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院の守本尊で弘法大師作あったと云う。
三代将軍・徳川家光の側室で、五代将軍・綱吉の生母。
通称は玉で、「玉の輿」の代名詞、しばしば俗説で「玉の輿」の語源とされる。
実子である綱吉が将軍となった後、女性最高位の従一位の官位を賜る。
桂昌院の守本尊を祀った事から、代々徳川将軍家の守護神として信仰を集めた。
当時は海岸に面した土手の先端(小島とも)に鎮座していて、風光明媚なお社であったと云う。
洲崎一帯を襲った高潮の悲劇・波除碑
徳川将軍家から信仰を集めた当社は、庶民からは海難除けの社として地元漁民の信仰を集めた。
寛政三年(1791)、洲崎一帯を台風が原因の高潮が襲う。
高潮は洲崎一帯の家屋を呑み込み多くの死者を出す事となる。
この災害を重く見た幕府は以後、当社から西側一帯を高潮に備えて冠水地帯とする事にして、該当地域の居住・家屋の建築を禁止した。
更に災害の惨状を記録した2本の波除碑を設置。
そのうちの1本が当社境内に移設され現存している。
江戸切絵図から見る洲崎弁天・浮弁天とも称される
江戸時代の当社は江戸切絵図を見ると位置関係が分かりやすい。
こちらは江戸後期の本所・深川周辺の切絵図。
当社は図の下側に描かれている。
赤円で囲ったのが当社で「弁天」(当社)「吉祥寺」(別当寺)の文字が見える。
海岸に面していたのがよく分かり、景勝地としても人気であった。
当社の南が江戸湾(東京湾)の海岸線。
その北側も木場の水路が多く設けられていて、小島に浮かぶ神社のように見えた事から、当社は「浮弁天」とも称された。
青円で囲った箇所に「洲崎と云」と記してある。
いわゆる通称「洲崎」と呼ばれた一帯で、上述の通り高潮の災害があって以降は、幕府により居住を禁止されたエリアで、地図上でも家屋が置かれていなかった空き地だった事が分かる。
江戸名所図会や東都歳時記に描かれた洲崎弁財天社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「洲崎辨財天社」として描かれている当社。
南にあるのが江戸湾(東京湾)の海で、海岸線に鎮座する弁天様であった。
北側には木場の水路があり小島に浮かぶように見えたと云う。
赤円が本社であり、当時の社殿は中々に見事で徳川将軍家から庇護されたのが窺える。
左側には「波除碑」があり、これは現在も当社の境内に現存。
大きな仏像も置かれていて別当寺「吉祥寺」と共に神仏習合の中で信仰を集めた事が分かる。
また境内には「茶屋」も並んでいて、当社が観光地として人気だった事も伝えている。
こちらには下側に当社。
当社の西側を鳥瞰して描いた図で、高潮対策として空地となっていた洲崎の様子がよく分かる。
浮世絵に描かれた洲崎弁天・初日の出や潮干狩りの名所
風光明媚な景勝地として名を馳せた当社周辺は庶民にとっては人気の観光名所でもあった。
そのため、浮世絵・錦絵の題材としてよく取り上げられている。
題材にも当社の境内の様子を描いたと記してある作品。
左手にあるのが当社の鳥居や社殿、その右手にあるのが境内に設けられた茶店。
数多くの人々で賑わい景勝地として名を馳せた。
奥に船が見えその先に見える陸地は房総半島。
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。
3枚で描かれた作品。
左手には当社の境内の全図、その右手に広がるのは洲崎と呼ばれた一帯。
高潮災害後に居住や家屋を禁止したエリアで、当社の前にあるのが波除碑。
海浜となっていて題名に「同海浜汐干之図」とあるように、潮干狩りの名所であった。
潮干狩りの名所であった洲崎の海浜を描いている。
奥には当社の社殿や波除碑。
当社の境内に設置された茶店で景色を楽しむ人々の姿。
庶民にとって人気スポットだったのがよく分かる1枚。
歌川広重(初代)の門人。
はじめは重宣(しげのぶ)と称していたが、安政五年(1858)に初代が没すると、広重の養女お辰の婿になり、二代目広重を襲名した。
広重の晩年の作品『名所江戸百景』にも参加し、一部は二代目の作とされている。
潮干狩りの名所として人気だっただけでなく、初日の出の名所としても名を馳せた。
左手に描かれているのが当社の鳥居や社殿。
水平線より昇る太陽は初日の出。
東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地として人気であった。
当社の雪景色を描いている。
初日の出の時期的に雪が積もる事もあったようで、江戸屈指の銀世界の景勝地であった。
他にも当社や洲崎を題材にした作品は多く残されている。
こうした人気から「江戸六弁天」の1社にも数えられた程で、多くの江戸庶民や文人墨客らに愛され信仰を集めた事がよく分かる。
明治に入ると当社東側は洲崎遊廓と呼ばれた大歓楽街へ
明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列した。
明治十九年(1886)、当社の東側に広がった湿地帯が整備され洲崎弁天町(現・東陽1)が成立。
明治二十一年(1888)、根津遊郭が洲崎弁天町へ移転し洲崎遊廓が開業した。
まだ江戸湾が近かった当時の洲崎周辺の様子。
遠くに見えるのが当社の東側に設置された洲崎遊廓。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
当社の西側に広がっていた洲崎の海浜もやや埋め立てられているが、まだ家屋などは設置されておらず、この時期は海岸線も近くて江戸時代のような名所だった事が窺える。
青円で囲った「洲崎」と記されてエリアが明治二十一年(1888)に開業した洲崎遊廓。
碁盤の目のように整備されていて当社の東側を新たに整備した地なのがよく分かる。
根津遊郭は明治から大正にかけて発展、吉原と双璧を成す程の一大歓楽街となった。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
洲崎一帯は壊滅的な打撃を受け当社も焼失し、仮殿で復興する事となる。
昭和二十年(1945)、東京大空襲で深川地区は激しい空襲によって洲崎一帯も灰燼と化す。
当社も再び焼失。
戦後の復興・洲崎パラダイスと呼ばれた歓楽街とその後
昭和二十一年(1946)、洲崎遊廓は「洲崎パラダイス」として復興。
吉原以上の人気を誇る歓楽街、いわゆる赤線地帯として隆盛を誇った。
昭和三十三年(1958)、売春防止法が施行され洲崎パラダイス(洲崎遊廓)の歴史は幕を閉じる。
その後は現在のような商店街や静かな住宅街へと変遷していった。
昭和四十三年(1968)、仮殿で再建されていた当社の社殿を再建。
これが現在の社殿として現存。
令和元年(2019)、神社のマスコットとして「玉の輿たまちゃん」が完成。
同年の例大祭に合わせてお披露目となった。
境内案内
レトロな雰囲気を残す町並み・朱色の鳥居
最寄駅の木場駅からは徒歩数分の距離に鎮座。
駅から当社へ向かう路地には大横川に架かる橋。
屋形船屋(船宿)があったりとどことなくレトロな雰囲気も残す。
通りに面して朱色の鳥居。
平成十年(1998)に建立された鳥居。
かつては海岸に面した土手の先端に鎮座し景勝地として知られた当社。
現在は海岸線もかなり先まで埋め立てられ宅地化していて当時の面影はない。
洲崎の歴史を伝える波除碑
鳥居を潜るとすぐ左手に波除碑。
「津波警告の碑」として記念碑。
その奥にあるのが波除碑で、上述した広重などの浮世絵にも描かれている。
寛政三年(1791)に洲崎一帯を台風が原因の高潮が襲い、家屋を呑み込み多くの死者を出す事となった。
この災害を重く見た幕府は以後、当社から西側一帯を高潮に備えて冠水地帯とする事にして、該当地域の居住・家屋の建築を禁止し、災害の惨状を記録した2本の波除碑を設置。
そのうちの1本は当社の社前に建てられ、現在は境内に移されている。
鳥居の先に真っ直ぐ参道が続く。
参道途中の左手に手水舎。
綺麗に整備され身を清める事ができる。
玉の輿のたまちゃん・桂昌院と玉の輿
手水舎の近くに可愛らしいマスコットキャラが置かれた一画。
「玉の輿たまちゃん」と名付けられた当社のマスコットキャラクター。
可愛らしいキャラで令和元年(2019)に設置されたばかり。
絵馬や授与品などにも「玉の輿たまちゃん」が描かれたものも。
これは当社が玉の輿の代名詞と呼ばれた桂昌院の守本尊を祀り創建された事に由来する。
八百屋の娘として産まれたお玉(後の桂昌院)は、三代将軍・徳川家光の側室となり、五代将軍となる徳川綱吉を産み、綱吉が将軍となった後に官位は従一位となった。
八百屋の娘のお玉が登りつめたことで「玉の輿」の語源になったと云う説が広まっている。
神社を盛り上げるマスコットキャラとして可愛らしい姿がお披露目となった。
ピンク色の台座で構える狛犬
参道途中に一対の狛犬。
ピンク色の台座が特徴的。
阿吽共に動きがあり構えるような仕草。
形としては比較的古めの狛犬であるが奉納年は不詳。
元々置かれていた古い狛犬に、後からピンク色の台座を造り乗せたものと思われる。
戦後に再建された朱色の社殿
参道の正面に社殿。
江戸時代の頃より徳川将軍家、さらに江戸庶民や文人墨客らから人気を集めた当社。
かつての社殿は浮世絵などにも描かれているが、規模の大きい見事なものだった。
その後、関東大震災・東京大空襲の度に焼失し、戦後は暫く仮殿での運営が続く。
現在の社殿は昭和四十三年(1968)に鉄筋コンクリート造で再建。
朱色の社殿で今も綺麗に維持されている。
賽銭箱には弁天様らしい波に三ツ鱗の社紋。
境内社の弁天社や稲荷神社・力石など
境内社は社殿の左手に並ぶ。
一番右手は於六稲荷神社。
真ん中は豊川稲荷神社。
左に弁天社。
この弁天社は境内に弁天池が設けられて鎮座していたものだが、現在は埋め立てられて駐車場となっている。
社殿の裏左手に石碑。
石碑を囲うように力比べで使われた力石が置かれている。
御朱印には玉の輿たまちゃんの印も
御朱印は「洲崎神社」の印、左下に「洲崎神社社務所之印」、更に社紋の波に三ツ鱗。
令和元年(2019)に神社のマスコットキャラ「玉の輿たまちゃん」が設置されて以降は、御朱印にもたまちゃんの印が押印されている。
2024年参拝時は帳面に頂けた。
所感
桂昌院の守本尊である祀り創建された弁天様。
江戸時代の洲崎は初日の出や潮干狩りの名所として知られ、江戸湾をぐるりと見渡せる風光明媚な景勝地として、多くの庶民や文人墨客から愛された地であった。
その姿から「浮弁天」とも称され、江戸六弁天にも数えられた程。
その人気っぷりは数多くの浮世絵の題材として取り上げられた事でも窺える。
明治になり当社の東側に洲崎遊廓が出来てからは一大歓楽街としても発展。
戦後は洲崎パラダイスと名を変え吉原以上の人気の地であった。
現在はそうした面影はほぼ見ることはできず静かな住宅街に佇む神社となっているが、境内に残された波除碑はそうした江戸時代の歴史を伝えている。
令和になって玉の輿の代名詞とされる桂昌院から「玉の輿たまちゃん」と云うマスコットキャラクターと作り神社を盛り上げようと努力されているのが伺え、かつての面影はないものの現代に合わせた楽しみや当地の歴史を伝える良い神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※令和元年に「玉の輿たまちゃん」像が奉納された事で印が押印されるようになった。
参拝情報
参拝日:2024/06/26(御朱印拝受)
参拝日:2020/08/20(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
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