神社情報
烏森稲荷神社(からすもりいなりじんじゃ)
御祭神:蒼稲魂命
社格等:─
例大祭:9月第3土曜・日曜
所在地:東京都目黒区上目黒3-39-14
最寄駅:中目黒駅
公式サイト:─
御由緒
この神社は、旧上目黒村宿山組の鎮守で祭神は蒼稲魂命です。創立年月は不明ですがかなり古く、下馬引沢村の新堀新左衛門が寿福寺の境内に祀ってあった稲荷神をこの地に移したと伝えられています、農耕神として農作守護と村人の授福開運を祈願して崇敬されてきたのでしょう。
その昔、宿山稲荷講の人達が江戸新橋の烏森稲荷へ参拝に行った時に、狐が白い馬になってついてきたのでそれを祀ったのが始まりという伝説もあります。また昭和29年草葺屋根を瓦葺にふきかえた時に、雨乞い祈願をしたものと思われる黒馬が一頭奉納されてあったことがわかりました。
例祭は、毎年9月の第3土曜、日曜日です。境内には老樹が繁り清水が湧出して閑寂なふんいきをつくっています。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2017/04/25
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※御朱印は書き置きでの対応となる。
歴史考察
上目黒のお稲荷さま
東京都目黒区上目黒に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧上目黒村の宿山組鎮守。
中目黒駅からほど近い上目黒の閑静な住宅街に鎮座するお稲荷さま。
住宅街にありながら老樹が生い茂る閑寂な境内となっている。
元禄年間に当地に遷座
創建年代は不詳と伝わる。
社伝によると、下馬引沢村(現・世田谷区下馬)の新堀新左衛門が、当社からもほど近い「寿福寺」(現・目黒区上目黒5)の境内に祀ってあった稲荷神を当地に遷座させたと伝わる。
当社が「寿福寺」創建前から祀られていたものであるのか、「寿福寺」の創建と共に祀られたものであるのかは不明であるものの、元禄年間(1688年-1704年)に「寿福寺」境内にあった稲荷社が当地に移され、地域の鎮守として祀られたと思われる。
稲荷信仰の総本社「伏見稲荷大社」の主祭神と知られる神で、稲荷神とも称され、名前の「うか」は穀物・食物の意味で、穀物の神として古くから信仰を集めた。
江戸時代はまだのどかな農村であった上目黒村の農耕神として農作守護と村人の授福開運を祈願して崇敬されたのであろう。
上目黒村の中の宿山組という地域の鎮守として崇敬を集めた。
新橋「烏森神社」との繋がりと狐伝説
当社には、別の創建伝説が残っている。
その昔、宿山稲荷講の人達が江戸新橋の「烏森稲荷(現・烏森神社)」へ参詣したところ、帰りに狐が白い馬になってついてきたので、その狐を祀ったという伝説。
稲荷信仰の神社であり、古くは「烏森稲荷」と呼ばれていた。
社地は当時から広いものでなかったが、徳川将軍家からの崇敬を集め、江戸時代の稲荷番附の中で東の関脇に位置づけられたように、江戸庶民からも大いに崇敬を集めた。

上目黒村の宿山組には稲荷講があった事が窺える。
宿山組の稲荷講が、江戸庶民から人気の高かったお稲荷さまの「烏森稲荷(現・烏森神社)」へ参詣した際にまつわる伝説である。
創建については上述したように、元禄年間(1688年-1704年)に「寿福寺」境内にあった稲荷社が当地に移されたものが有力と見られるが、「烏森」の社号を掲げるようになったのは、宿山稲荷請が「烏森神社」との伝説が由来となっていると思われる。現在も扁額には「正一位烏森稲荷大明神」の文字が掲げられている。
江戸時代の史料から見る当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(上目黒村)
稲荷社
除地六畝十五歩。小名宿山組にあり。一間四方。鎮座の年暦を詳にせず。社地に古木多し。入口に木の鳥居を立。
上目黒村の項目に「稲荷社」として記載されている。
小名宿山組という地域にあり、創建年代は不詳とされている。
この頃から社地に「古木多し」と記されており、鬱蒼と生い茂った境内だった事が窺える。
明治以降の歩み・かつて烏森と呼ばれた当地
明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。
明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、上目黒村・中目黒村・下目黒村・三田村が合併して目黒村が発足。
当地は目黒村上目黒の中でも「烏森」という地名で呼ばれた。
明治四十二年(1909)の古地図がある。
当時の当地周辺の地理関係を確認する事ができる。
(今昔マップ on the webより)
当時も現在も当社の鎮座地は変わらない。
まだ中目黒駅が開業する前の中目黒周辺で、当地は「烏森」と呼ばれていた事が分かる。
当社が鎮守していた宿山組を基にした「宿山」という地名もあるが、当社を中心に「烏森」という地名が独立しており、上目黒の烏森地区から崇敬を集めた。
昭和七年(1932)、目黒区が成立。
烏森と呼ばれた地域は上目黒3丁目となるが、その後も地域の住民からはしばらく烏森と呼ばれ続けた。
昭和二十年(1945)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
終戦直後の地図となっていて、昭和二年(1927)に開業した中目黒駅も記されている。
既に目黒区が成立しているにも関わらず、まだ「烏森」の文字を見る事ができるように、住所表記上は上目黒3丁目であったが、地域の間では「烏森」の地名が浸透し続けていた事が分かる。
昭和二十九年(1953)、草葺屋根を瓦葺に葺き替え。
この時、雨乞い祈願をしたものと思われる黒馬が一頭奉納されていた事が判明している。
戦後に境内整備も行われ現在に至っている。
境内案内
中目黒界隈の住宅街に鎮座
最寄駅は中目黒駅になり徒歩数分、入り組んだ住宅街へ入っていく。細い路地の先に、当社の社頭が見えてくる。
低い石段の先に鳥居と社号碑。
社号碑には「烏森神社」と記してあり、明治以降の烏森地区の鎮守であった事が窺える。
また社殿の左手裏には裏参道があり、高台へと繋がっている。こちらは稲荷信仰らしい朱色の鳥居と幟旗が並んでいて、緑に囲まれた空間。
狐の吐水口・草木が生い茂る境内
鳥居を潜るとこぢんまりとした境内ながら鬱蒼と生い茂った緑に囲まれた境内。『新編武蔵風土記稿』には「古木多し」と記されていたが、現在も緑に囲まれた境内。
とても中目黒界隈には思えない一画となっている。
表参道正面の石段を上ると社殿があるが、石段の下の左手に手水舎。手水舎は大変珍しい吐水口を持つ。
狐の頭の形をした吐水口になっていて他ではあまり見ない珍しいもの。
石段を上った先に社殿。昭和二十九年(1953)に草葺屋根を瓦葺に葺き替えたとあるので、戦火を免れたものであろう。
こぢんまりとした社殿であるが、状態もよく整備されている。
彫りの深い彫刻が施されていて崇敬の篤さが伝わる。
社殿の前に一対の神狐像。昭和七年(1932)に奉納されたもので、右の阿が小狐を抱える。
左の吽は宝珠を抱えている。
境内社は手水舎の左奥に一社。御祭神不明であるがおそらくこちらも稲荷社と思われる。
御朱印は社務所にて。書き置きのみの対応となる。
ご不在の時が多いので少し注意が必要。
所感
中目黒駅からもほど近く、中目黒界隈に鎮座する当社。
江戸時代は上目黒村の宿山組の鎮守として崇敬を集め、新橋鎮守「烏森神社」との伝説が伝えられる事から「烏森」の社号を号したお稲荷さんである。
明治以降になると当地周辺は「烏森」と云う地名となり、これは当社に由来するもの。
戦後はその旧地名も薄れてしまうが、今も小学校などに名が残っており、当地の歴史を伝える。
現在は都内でも人気の街として発展した中目黒において、閑静な住宅街の路地奥に佇む当社であるが、草木が生い茂った境内はとても中目黒界隈とは思えない一面を見せてくれる。
以前よりたまに参詣しているが、春に参拝すると八重桜が綺麗で、夏は緑が生い茂り、秋になると紅葉と落ち葉で美しく黄色に染まる。
そうした四季を感じ取れる境内が、こうして中目黒界隈に残っているのも、地域からの崇敬が篤いからこそと云えるであろう。
神社画像
[ 参道 ]
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 社号碑 ]
[ 参道・社殿 ]
[ 手水舎 ]
[ 社殿 ]
[ 神狐像 ]
[ 裏参道・鳥居 ]
[ 境内社 ]
[ 神楽殿 ]
[ 授与所 ]
[ 社務所 ]
[ 八重桜 ]
[ 案内板 ]
コメント