八雲氷川神社 / 東京都目黒区

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目黒区

神社情報

八雲氷川神社(やくもひかわじんじゃ)

御祭神:素盞鳴尊・大己貴命・稲田姫命
社格等:村社
例大祭:9月19日
所在地:東京都目黒区八雲2-4-16
最寄駅:都立大学駅
公式サイト:─

御由緒

 旧衾村の鎮守で、祭神は素盞嗚尊、稲田姫命、大己貴命の3柱です。
 創建の年代は詳らかではありませんが、内陣に文化14年(1817)奉納の記載があり、また社殿の改築が安政2年(1855)に行われているところからみて、かなり古いことがわかります。
 祭礼は、毎年1月、5月、9月に行われますが、特に9月には神楽殿で素盞嗚尊の”八岐の大蛇退治の物語”を表現している「剣の舞」が奉納されます。
 約200年の昔から伝わる古式豊かな舞で、太鼓、笛、大拍子に合わせて、一人の人が舞う美しいものです。
 この神社は昔から「癪封じの神」として広く信仰され、遠く下総や相模からも参詣人がつめかけ、栄えた神社です。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2019/10/01(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/07/28(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

※現在は基本的に書き置き(社号部分は印刷)での授与となる。

[2019/10/01拝受]
(現御朱印)

[2015/07/28拝受]
(旧御朱印)

歴史考察

目黒区八雲の地名由来となった氷川さま

東京都目黒区八雲に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧衾村の鎮守。
旧衾村は現在の柿の木坂・東が丘・八雲・平町・中根・緑が丘・自由が丘・大岡山にあたり、そうした地域一帯の鎮守として崇敬を集めた。
正式名称は「氷川神社」だが、他との区別から「八雲氷川神社」とさせて頂く。
当社が鎮座する目黒区八雲の地名は当社が由来となっている。

衾村(ふすまむら)鎮守の古社・衾村の地名由来

社伝によると、創建年代は不詳。
『東京都神社名鑑』では、慶雲四年(707)に創建したと記されている。

衾村の名主であった栗山家に伝わる書物によると、宝暦七年(1757)に鳥居建立の記事が残る事から、少なくともこれ以前に当地に鎮座していた事が分かる。

古くから衾村と呼ばれていた当地の村人によって創建されたと伝わる。
衾村の鎮守とされ信仰を集めたと云う。

衾村(ふすまむら)
衾(ふすま)の由来は諸説ある。
・当地の古くからの民間信仰の神の名「塞坐大神(ふせぎますおおみかみ)」の「ふせぎます」が転訛した説。
・当地が往古から馬の飼料「麩(ふすま)」の産地として知られていた説。
・湿地に馬が足を踏み入れたところから「伏馬(ふしま)」と呼ばれた説。
・地形上、呑川の本支流の谷間が多いところから「間(はざま)」が転じた説。
・幾つかの丘陵が並ぶこの土地の起伏の様子が「衾」(掛け布団)に似ていた説。
何れも定説とするものはないが、古い地名であったと云う。
現在の環七通りの目黒区南側全域が衾村であり、現在の地名にすると「柿の木坂・東が丘・八雲・平町・中根・緑が丘・自由が丘・大岡山」と、かなり広範囲が旧衾村でった。
目黒の地名 衾(ふすま) 目黒区

かなり広範囲に渡った衾村の中でも、当社の周辺(現・目黒区八雲)が衾村の中心地であった。
そうした衾村の鎮守として崇敬を集めた。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(衾村)
氷川社
境内除地、小名東根にあり。当村の鎮守とす。本社は九尺四面にて拝殿は四間に三間共に東向なり。草創の年暦詳ならず。されど境内のさきまで見るに年ふる松樹その余諸木繁茂して、いかにも古き社地と見えたり。拝殿より凡八十間を隔てて鳥居をたつ。

衾村の「氷川社」と記されているのが当社。
「当村の鎮守とす」とあるように衾村の鎮守であった。

「草創の年暦詳ならず」とあるように創建年代については不詳。
但し、境内を見るに松樹など茂った鎮守の杜の様子から「いかにも古き社地」と評しており、江戸時代から見ても古さを感じる古社であった事が分かる。

慶雲四年(707)の創建説もあるように、当時から古社とされていた。

拝殿より80間(150m前後)先に鳥居があるとの記述から、現在同様に比較的長い参道があった様子も窺え、幾度も改築があったとされるが、この頃には現在の規模となっていたものと思われる。

現在も隣接する「金蔵院」が別当寺であった。

金蔵院(こんぞういん)
氷川山虚空蔵寺と号する寺院。
当社に隣接する寺院で神仏習合の時代は当社の別当寺を担った。
慶長五年(1600)頃に頼栄と云う僧が創建、明治に無住によって一時廃寺となるもののすぐに再興された。

安政四年(1857)、社殿を改修した記録が残っている。
その後幾度かの改修が行われているが、本殿内陣の宝殿は現存していると云う。

癪封じの神として信仰・御神木のアカガシ

当社は古くより「癪(しゃく)封じの神」としても知られる。

癪(しゃく)
癪とは胸や腹が急に痙攣を起こして痛む事。
いわゆる「さしこみ」と云われるもので、当時は胸や腹のあたりに起こる激痛の総称。
今で云う胆石症・胃痛・虫垂炎・生理痛など全てが癪と呼ばれた。

癪に効く・封じる神として御利益があると信仰を集めた。

村人以外にも御利益を求めて参拝に訪れる人が多かったと云う。

社殿裏手、奥ノ宮に続く参道の途中に、枯れたアカガシの巨大な株が置いてある。
これが古い御神木で、癪封じの御利益があるとして信仰を集めた事で知られる。

御神木のアカガシを煎じて飲む
このアカガシには、古くから癪封じのご利益があると信じられていた。
煎じて薬にしようとアカガシの皮を剥ぐ参詣者が跡をたたなかったと云う。
そのため枯死してしまったと伝えられていて、現在も根本のみ残存したまま置かれている。

怪談氷川の森として新聞に掲載

現在は枯死してしまっている当時の御神木であるアカガシ。
大正時代になると怪談めいた現象によって当社が知られる事となる。

大正三年(1914)に都新聞(現・東京新聞)にて『怪談氷川の森』と云う記事が掲載。

市外荏原郡碑衾村字衾なる氷川神社境内は昼さへ暗い森で、この森の中に三抱へもある赤樫の老木がある。近頃、この老木、毎晩十二時頃になると、幹の空洞の中で物の呻るやうな叫び声を起して遠く四方に谺し、夜明けの三時頃までも続く事、物凄くも亦恐ろしい有様だ。
全体、此木は数年前にも声を出した。当時、宮司たりし新倉行春は「一村の鎮守たる神社の境内に斯る不祥の怪事あるは誠に遺憾なり」とある夜、徹宵して怪音中止の祈祷をしたところ、不思議や、其翌晩から一時ハタと声は止んだが、其晩から新倉宮司は俄に大熱が出てあらぬ事まで口走る大病となつた事がある。
今は同人の子息で、行吉と云ふ人が神官を勤めて居るが、怪音は又起つて此頃では益遠くへ響くので、近所では氷川様の呻り樫と評判してゐる。そして毎晩、此の声を聴きに来るもの、引も切らず、今ではこの群集をあてにおでん、稲荷鮨等の露店さへ出るやうになつたが、中には「空洞の中に白蛇が住んでゐるのだらう」と噂するものもある。
同村では黙つて置かれぬので、村会を開いて赤樫を伐り倒さうかと評議したが、昔から此赤樫を伐らうなどゝ云ふものは必ず大難に遭つたとやらで、誰一人、賛成する者もないさうだ。(都新聞/大正三年五月二十一日より)

怪談氷川の森の要約
毎晩0時頃になると、当社の御神木から呻るような叫び声が発せられるようになる。
毎晩夜明け近くの3時頃まで続き、近隣住民からは「氷川様の呻り樫」と呼ばれた。
過去にも同様の事例があり当時の宮司が怪音中止の祈祷をしたところ、音は止んだもののその晩から宮司が大病を患ったと云う。
村会を開いて伐採の話も出たものの祟りを畏れて賛成者はいない。

新聞にこの怪談話が掲載されてからは、これをお目当てに多くの人が参拝に訪れたと云う。
この参拝者をあてにして、おでんやいなり寿司などの露店が多く出るようになり賑わったと記されている。

明治以降の当社と衾村の歩み・目黒区八雲の地名由来

明治になり神仏分離。
明治七年(1874)、村社に列する。

同年、旧別当寺の「金蔵院」は無住によって廃寺となるが、明治十六年(1883)に再興されている。

明治二十二年(1889)、衾村と碑文谷村が合併し、「碑衾村(ひぶすまむら)」が成立。
当地は碑衾村衾となり、当社は衾地域一帯の鎮守を担った。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
「氷川神社」と記してあるように地図にも名前付きで表記される程であった。
碑衾村や衾といった今はなき地名も見る事ができる。

当地一帯が広い衾地域の中心地であった。

昭和二年(1927)には、碑衾村が碑衾町となる。
昭和七年(1932)、目黒町と碑衾町が合併して目黒区が成立。
これによって旧地名である「衾」の文字は、「目黒区衾町」にその名を残すのみとなってしまう。

当地周辺にだけ残された衾の地名
当時の衾町は、現在の八雲1-5丁目にまたがる地域で、当社が鎮座している地域。
区制施行当時、碑衾地域の新町名の殆どが、その地の小字名や新しい地名を採用した中で、この一画だけが「衾」の名を留めてきたのは、当社を中心とする一帯が旧衾村の中心地だったからであろう。

東京大震災や東京大空襲などの被害を免れる。

昭和三十九年(1964)、住居表示が実施によって衾町の大部分は八雲に名称変更。
公式の地名からは衾の字が消滅する事となった。

衾(ふすま)の字が当用漢字ではなかったため変更となったとされる。

しかしながら、戦後の昭和三十九年(1964)、新住居表示が実施される際に、「目黒区衾町」の大部分は「目黒区八雲」として名称変更となってしまい、地名からは「衾」の文字は消えてしまう。
「衾町」が採用されなかったのは、「衾」の字が当用漢字ではなかったためとされている。

目黒区八雲は当社の御祭神が由来
新しい地名の「八雲」が採用されたのは、当社の御祭神に由来する。
当社の御祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、出雲国において奇稲田姫(くしなだひめ)との新しい住居を構える際、「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」と詠んだ日本初の和歌を由来としている。
かつての衾村の鎮守であった当社の御祭神を由来として、当地の地名も「八雲」に決定した。
なお、現在は八雲5丁目にある「衾町公園」のみが「衾」の名を残している。
衾町公園(ふすまちょうこうえん)・衾町公園児童交通施設 目黒区
所在地 目黒区八雲五丁目7番2号。衾町公園児童交通施設は、目黒区八雲五丁目2番10号最寄り駅 東急東横線 都立大学駅衾町公園児童交通施設では、中学生以下の方は無料で備え付けの自転車を利用できます。幼児向けに三輪車も用意されています。

昭和五十七年(1982)、奥ノ宮が放火によって焼失。
同年、すぐに再建されている。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

区立八雲小学校の隣に鎮座・崩れたお地蔵様

最寄駅の都立大学駅からは目黒通りを渡り徒歩数分の距離。
区立八雲小学校に隣接する形で鎮座。
昭和六年(1931)に奉納された一之鳥居。

一之鳥居を潜るとすぐ左手にお地蔵様。
体が痛む時はこのお地蔵様の同じ部分を撫でると痛みが治ると信じられていた。
長年の時間をかけて大変多くの参拝者が触ったのであろう、現在は形が崩れて小さな姿になってしまっている。

崩れた地蔵様の姿は、当時の人々がいかに当社に救いを求めていたかを物語っている。現在も多くの花が綺麗にお供えされていて、大切にされているのが伝わる。

緑が生い茂る長い参道・古社の佇まい

一之鳥居を潜った先の参道は長く続く。
緑が生い茂った参道。

参道を進むと二之鳥居。
二之鳥居の先にも更に参道が続き、目黒区内にも古社らしい佇まいが残る境内となっている。
途中には橋の跡も残る。
かつては境内に小川が流れていた事が窺える。

更に進むと三之鳥居。
大正十年(1921)に奉納された鳥居で『怪談氷川の森』として新聞掲載された大正時代のもの。

4体の石像が支える幕末の水盤

三之鳥居を潜り玉垣の先、右手に手水舎。
手水舎の水盤をよく見てみると水盤を支える4体の石像の姿を見る事ができる。
あまり注目される事がないが貴重な水盤。
都内や神奈川県内の神社で幾つか見る事ができるが、水盤を支える姿から「がまんさん」「がまんさま」などと呼ばれ親しまれる事がある。
例えば「菊名神社」(横浜市港北区菊名)では、水盤を支える4体を「がまんさま」と呼び神社のシンボルとして人気を集めていて、当社の水盤もそれに近いものであろう。
安政六年(1859)奉納と古いものが、今も普通に使用できているのが有り難い。

菊名神社 / 神奈川県横浜市
菊名総鎮守。手水鉢を支える当社のシンボル「がまんさま」。カラフルな月替り御朱印や限定御朱印。江戸時代の菊名村。菊名に鎮座していた五社が合祀。菊名の地名由来。平成の大改修で整備された社殿・美しい天井画。撫でがまんさま像。がまんさま御朱印帳。

その先、参道途中に一対の狛犬。
大正五年(1916)奉納の狛犬。
ややスリムな造形が特徴的。
どことなく毛が優雅で品のある造り。

改修されつつ現存する江戸時代の社殿

参道の正面に立派な社殿。
文化十四年(1817)に改修された社殿は、幾度も改修を経て現存。
拝殿は昭和五十一年(1976)に全面改修され、現在の拝殿はその時代のものが大部分を占める。
彫りの細かい彫刻が施されている。
木鼻の獏や獅子もとてもよい出来。

本殿は安政四年(1857)に改修されたものが、やはり幾度も改修を経て現存。
本殿内陣には文化十四年(1817)の銘が残る宝殿が現存していると云う。

社殿裏手の奥ノ宮・幕末の狛犬・アカガシの伝承

社殿の右手からは奥ノ宮(境内摂社)へ向かう事ができる。
渡り廊下の下を潜って行く形。
この先に石段と鳥居。
その先に鎮座するのが奥ノ宮。
創建年代不明だが、昭和五十七年(1982)に放火により焼失、同年再建されている。
足名槌命・手名槌命・倉稲魂命を祀る摂社という扱いになるのだろう。

社殿の手前に古い狛犬。
安政六年(1859)奉納の狛犬。
柔和で美しい表情の狛犬で愛らしく美しい造形。

その先に神狐像。
こちらも同様に美しい姿。
こちらは奉納年が不詳ながら、造りから手前にある狛犬と同様に幕末のものであろうか。

奥ノ宮の右手には古い庚申塔や小祠。
image衾村の信仰の歴史を伝える一画。

奥ノ宮へ向かう途中、左手に上述したかつての御神木であるアカガシ。
枯れたアカガシの巨大な株。
癪封じの御利益があるとして信仰を集め、煎じて薬にしようとアカガシの皮を剥ぐ参詣者が跡をたたなかったため枯死してしまったと伝えられている。

上述したように大正時代の新聞には『怪談氷川の森』として掲載され、毎晩0時頃から3時頃まで呻るような叫び声が発せられ「氷川様の呻り樫」と呼ばれたアカガシである。

現在も根本のみ残存したまま置かれている。

剣の舞が奉納される神楽殿・絵馬殿

社殿の左手に神楽殿。
毎年9月の例大祭には神楽殿で「剣の舞」が奉納される。
200年余りの歴史を持つ舞で、御祭神の素戔嗚尊が八岐之大蛇を退治して天叢雲剣を手にしたところを表現した舞とされている。

この神楽殿に繋がる形で左手には絵馬殿も。
奉納物などを外から見ることができる。
こうして自由に見る事ができるように展示されているのは有り難い。
このように境内には至るところに当地の歴史を感じさせるものが置かれている。

御朱印は現在は書き置きでの対応

御朱印は授与所にて。
インターホンを押すとお隣の宮司さん宅に繋がるようになっている。

ご不在の時も多いが、丁寧に対応して下さる。

御朱印は「氷川大神御璽」の朱印と、「氷川神社」の朱印。
2015年に頂いた時は帳面に書いて下さったが、2019年に頂いた際は基本的に書き置き(社号部分は印刷)での授与になるとの事。

所感

旧衾村の鎮守として衾村の中心地に鎮座し、幅広い地域の鎮守とされた当社。
現在は地名として残っていない「衾」の字であるが、当社が古くから守ってきた衾村の歴史と歩みを感じさせてくれる境内となっている。
癪封じの神としての逸話、そして現在も残る旧御神木やお地蔵様から、当社がいかに信仰され、この地の人々より崇敬を集めたのかが伝わる。
鬱蒼と生茂った鎮守の杜を有する境内を維持できているのも、その崇敬の篤さによるものだろう。
清々しい境内と、どこか凛とした厳かな空気感を感じる事ができる区内屈指の良社だと思う。

神社画像

[ 一之鳥居 ]




[ お地蔵様 ]


[ 二之鳥居 ]


[ 参道 ]




[ 三之鳥居 ]


[ 手水舎 ]







[ 拝殿 ]








[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 天水桶 ]


[ 神楽殿 ]


[ 絵馬殿 ]




[ 授与所 ]

[ 奥ノ宮入口 ]

[ 奥ノ宮 ]










[ 旧御神木(アカガシ) ]


[ 石碑 ]


[ 絵馬掛・御籤掛 ]


[ 手押しポンプ(使用可) ]

[ 神輿庫 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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