神田神社(神田明神) / 東京都千代田区

神社情報

神田神社(かんだじんしゃ)
神田明神(かんだみょうじん)

御祭神:大己貴命・少彦名命・平将門命
社格等:准勅祭社・府社・別表神社
例大祭:5月15日に近い土曜(神田祭/隔年神幸祭)
所在地:東京都千代田区外神田2-16-2
最寄駅:秋葉原駅・御茶ノ水駅・末広町駅
公式サイト:http://www.kandamyoujin.or.jp/

御由緒

江戸東京で最も歴史のある神社
 社伝によると、天平二年(730)に御創建とあり、約1300年の歴史を持つ江戸東京の神社の中で最も古い神社の一つです。はじめは現在の千代田大手町の将門塚周辺に鎮座していました。その後、延慶二年(1309)に平将門公をご祭神としてお祀りいたしました。
 慶長八年(1603)、徳川家康公が江戸城に幕府を開き拡張する際、当社は社地を江戸城から裏鬼門の位置にあたる現在の地へ遷し幕府より御社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として幕府はもちろんのこと江戸庶民にいたるまで多くの人々の崇敬を受けました。
 明治時代に入ると準勅祭社、東京府社として皇居・東京の守護神と仰がれました。明治七年(1874)、茨城県・大洗磯前神社より少彦名命をお迎えいたしました。さらに同年、明治天皇が親しくご参拝されました。
 平将門命は明治七年に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、その後、神職及び氏子総代をはじめとする氏子崇敬者の懇願により、昭和五十九年、再び神田明神の三の宮ご祭神に復座されました。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/02/14(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/01/25(御朱印拝受)
参拝日:2015/05/28(御朱印拝受/御朱印帳拝領)
参拝日:2015/05/10(神田祭御輿宮入)

御朱印

初穂料:300円
鳳凰殿神札授与所にて。

※以前は社名は墨書きだったが、2016年頃より印判での対応となった。

[2017/02/14拝受]
(東京十社めぐり御朱印帳)

[2016/01/25拝受]
(東京十社めぐり御朱印帳)

[2015/08/02拝受]

御朱印帳

初穂料:1,000円・1,200円
鳳凰殿休憩所にて。

オリジナルの御朱印帳を複数用意。
今回頂いたデザインのものは淡い水色と淡いピンクの2種類(各1,000円)。
さらにマスコットキャラのみこしーがデザインされたもの(1,200円)が用意されている。
東京十社専用の御朱印帳(1,500円)も用意。
当社オリジナル御朱印帳の詳細は公式サイトに掲載してあるので確認できる。

『ラブライブ!』コラボの御朱印帳(2,000円)も祭務所で頒布している。

<新商品の販売について> 神田明神コラボレーションの新商品についてご案内いたします。 神田明神先行販売に

[表面]

[裏面]

[表面]

[裏面]

授与品・頒布品

交通安全守護
初穂料:1,000円
鳳凰殿神札授与所にて。

※交通安全用の御守やステッカーが一式セットになったもの。


歴史考察

江戸総鎮守・神田明神

東京都千代田区外神田に鎮座する神社。
旧社格は准勅祭社、その後に府社。
現在は神社庁の別表神社で、東京十社のうちの一社に数えられる。
江戸時代には江戸総鎮守として崇敬を集めた。
正式名称は「神田神社」であるが、現在も古くからの「神田明神」と呼称する方が多く、当社も「神田明神」を称する事が多い。
当社の例大祭は江戸三大祭の一つ「神田祭」として大いに賑わう。
また近年ではTVアニメ『ラブライブ!』の聖地としても知られる。

現在の将門塚(大手町)周辺に創建

社伝によると、天平二年(730)に創建と伝わる。

出雲系の氏族である真神田臣(まかんだおみ)が、武蔵国豊島郡芝崎村(現・千代田区大手町)に大己貴命(おほなむち)を祖神として祀ったのに始まる。

大己貴命は、大国主(おおくにぬし)の名でも知られ、天孫降臨で天津神に国土を献上した事から「国譲りの神」とも呼ばれる神で、特に「出雲大社」の御祭神として知られ、江戸時代には民間信仰によって、「大国」が「だいこく」と読める事から「大黒天(大黒様)」と習合していった。

当地周辺を開拓した出雲系氏族によって、氏神を祀り創建したと見られる。
創建当時は、現在の大手町にある「将門塚(平将門の首塚)」の近くに鎮座していた。
現在も「将門塚」には「神田明神旧蹟地」の幟旗が置かれている。

当時の当社近くに築かれた平将門の首塚(将門塚)

天慶三年(940)、承平天慶の乱(平将門の乱)にて平将門が討死。
朝敵として討たれた将門の首は平安京へ運ばれ、晒し首とされた。

晒し首の刑罰である「獄門」が、歴史上で最も古く確実に確認されているのが将門である。

その後、将門の首が平安京より持ち去られ、当社近くに葬られたと伝わる。
これが現在も大手町に置かれている「将門塚(しょうもんづか)」である。

古くから、将門の首は胴体を求めて白光を放って関東を目指して空高く飛び去った、という伝説が残っており、途中で力尽きて地上に落下したとされ、各地に残る将門の首塚伝説はこうしたものによる。

この「将門塚」は、現在も東京都の旧跡として残されている。(詳しくは後述)
かつては盛土があり内部に石室があったため、将門の古墳であったとされている。

(佐藤隆三・江戸傅説)

こちらは大正十五年(1926)に刊行された佐藤隆三著『江戸傅説』より「将門塚」の写真で、盛土があり、古墳として崇敬されていた様子が伝わり、古くはこうした首塚であったのだろう。
右手に写っている灯籠は現在の将門塚にも残されている。
この首塚は東国武将から崇敬を集めた。

将門塚の近くには当社の他に将門公を祀った「築土神社」が創建されている。
平将門を祀る築土明神。日本武道館の氏神。正月期間限定の勝守。将門公に因んだ九曜紋や繋ぎ馬の神紋。平将門の首を祀り将門塚近くに創建。幾度も遷座を繰り返し、江戸時代は「筑土八幡神社」と並び立つ形に。江戸名所図会に描かれた当社。御朱印。

将門塚の祟りを鎮めるために当社に将門公を祀る

将門塚が築かれた後、芝崎村では天変地異が頻発し、疫病が広がったとされる。
そのため、芝崎村の人々は将門公の祟りによるものと畏怖するようになる。

嘉元年間(1303年-1305年)、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く将門公の御霊を慰める供養を行うと、厄災が治まったと云う。
延慶二年(1309)、真教上人は近くにあった当社に将門公を祀り相殿神とした。

将門公に勝利祈願をすると勝負に勝つと信仰され、東国武将からの崇敬を集めた。

平将門は、東国(関東)で「新皇」を自称し、東国の独立を標榜した朝敵として討伐されたのだが、かつての東国は京から見れば辺境の地であり、重い負担を強いられていた地域であったため、こうした経緯から東国では英雄として見られる向きもあり、特に武将から篤く崇敬されている。

戦国時代には、江戸城を築城した太田道灌や、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる後北条氏の当主・北条氏綱などから崇敬を集めた。

徳川幕府によって江戸総鎮守とされる

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。

慶長五年(1600)、家康は関ヶ原の戦いへ出陣する前に、当社に戦勝祈願を行っている。
以後、徳川将軍家より篤く庇護される事となる。

慶長八年(1603)、江戸城増築に伴い神田台(駿河台)へ遷座。
元和二年(1616)、現在の鎮座地へ遷座した。

当地は江戸城の表鬼門にあたり、表鬼門守護の神社として幕府によって社殿が造営。
以後、「江戸総鎮守」として徳川将軍家や江戸庶民から篤い崇敬を集めた。

鬼門とは艮(うしとら)の方角であり、すなわち北東の方角。
江戸城から見て当社は北東の方位にあったため、鬼門鎮護、即ち江戸総鎮守の役割を担った。

江戸設計を指導した天海・将門公に江戸を守護させる

当社が江戸城の鬼門守護として当地に遷座されたのには、天海という僧が深く関与している。

天海は、天台宗の僧であり、南光坊天海や智楽院とも呼ばれる。
江戸幕府初期の宗教政策に深く関与し、初代将軍・徳川家康から三代将軍・徳川家光の代まで側近として活躍した人物。

江戸設計の多くは彼が指導したものと云われている。
特に天海は鬼門との守護を重要視しており、江戸城の鬼門をいかに鎮護するかと考え、寺社を配置し、江戸を設計していった。

有名な話として、天海は上野に「寛永寺」(徳川将軍家の菩提寺)を建立し住職となったのだが、「寛永寺」は正に江戸の鬼門を守る存在であった。
京都の鬼門を守護する比叡山「延暦寺」に倣ったとされるため、東叡山「寛永寺」と名付けられた事からも、その役割が伺える。

当社の遷座もこの鬼門を鎮護するという考えから行われたものであり、裏鬼門の鎮護には当社同様に徳川将軍家が篤く庇護した「山王日枝神社」を配置したりと、天海が鬼門・裏鬼門の鎮護を非常に重視していたことが伺える。

東京十社・皇城を守る山王さま。徳川将軍家からの篤い崇敬・徳川歴朝の産土神。浮世絵に描かれた当社。天下祭と呼ばれた山王祭。山王信仰を伝える山王鳥居・神使の猿像。境内社・猿田彦神社と庚申の日。国宝刀剣の展示もある宝物殿は無料。御朱印。御朱印帳。

何故、当社を鬼門の位置に遷座させたのか。
他の数多くある神社ではなく「神田明神」が選ばれたのか。

それは当社が平将門が祀られている事と密接な繋がりがあるとされている。
すなわち将門公の御霊に江戸を守護させていたと見る事ができる。

古来、朝廷に歯向かった朝敵とされていた将門公であるが、三代将軍・徳川家光の時代(天海はまだ側近として健在であった)に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が、幕府から将門公について色々と聞かされた結果、「将門は朝敵に非ず」との奏上を行っており、この事からも徳川幕府において将門公の御霊が大変重要な役割を担っていた事が伺える。
ここからは天海の宗教政策への推測になるが、朝廷に歯向かった将門公を江戸総鎮守に据える事で、江戸の幕政に朝廷を関与させない決意の現れだったのではなかろうか。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(本郷湯島絵図)

こちらは江戸後期の本郷や湯島の切絵図。
右上が北の切絵図となっており、当社は図の左下に描かれている。

(本郷湯島絵図)

当社周辺を拡大したものが上図になる。
「神田明神社」と記され、現在とあまり変わらない境内配置だった事が伺える。
周辺にも「湯島聖堂」や「妻恋稲荷」などが鎮座しており、現在も大切に維持されている。
明神下より下側の一角が現在の秋葉原電気街。

当社の上に「藤堂秉之丞」という文字を見る事ができるが、これは後に新選組八番隊隊長となる藤堂平助の父とされる人物で、藤堂平助は当社のすぐ近くが出生地だったと思われる。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「神田明神社」として、見開きで描かれている。
境内の規模は現在とそう変わらない見事なもの。
描かれている楼門、社殿などは現存しておらず、現在あるのは戦後に再建したものにはなっているが、その配置などは当時も現在もそう変わらないのが特徴的。

境内には茶屋が立ち並び、楊弓(ようきゅう)と記された一角が多くあり、これは楊弓という小さな弓を使った的当ての遊戯場であり、境内が観光地としても大いに栄えていた様子が伝わってくる。

楊弓場には、矢を拾ったり客の応対をしたりする美人の「矢取り女」と呼ばれる女がおり、客の人気を集め、裏では娼婦の役目を果たす女が多かった。

浮世絵の題材となった当社

また、当社は浮世絵にも多く描かれている。

(歌川広重・名所江戸百景)

歌川広重による『名所江戸百景』の「神田明神」。
やや高台に位置している当社の東側からの景色で、日の出を描いている。
見晴らしが境内に茶屋や席などがあった事がよく分かる。

(歌川広重・東都名所)

同じく広重による『東都名所』に描かれた「神田明神」。
やはり裏門である東側の見晴らしがよく、多くの茶店が出ている。

(二代歌川広重・江戸名勝図会)

こちらは二代歌川広重による『江戸名勝図会』。
やや引きで境内の様子がよく分かる一枚。

(二代歌川広重・東都三十六景)

同じく二代広重による『東都三十六景』。
こちらは雪景色の境内を描いており、とても風流。

このように江戸総鎮守として江戸庶民からも崇敬を集めた当社は、江戸の名所であった。

天下祭と呼ばれた江戸随一の神田祭

当社の例祭は「神田祭」と呼ばれ、「江戸三大祭り」の1つに数えられた大祭であった。

江戸三大祭りは、他に「山王日枝神社」の「山王祭」と、「富岡八幡宮」の「深川祭」。
東京十社・皇城を守る山王さま。徳川将軍家からの篤い崇敬・徳川歴朝の産土神。浮世絵に描かれた当社。天下祭と呼ばれた山王祭。山王信仰を伝える山王鳥居・神使の猿像。境内社・猿田彦神社と庚申の日。国宝刀剣の展示もある宝物殿は無料。御朱印。御朱印帳。
東京十社・深川の八幡様。江戸三大祭りに数えられる深川八幡祭り。江戸勧進相撲の発祥の地・横綱力士碑。徳川将軍家からの庇護と深川の発展。戦後に再建された立派な社殿と進む境内整備。浮世絵に描かれた深川八幡。江戸屈指の盛り場深川。御朱印。御朱印帳。

その中でも、特に当社の「神田祭」と、「山王日枝神社」の「山王祭」は、江戸を代表する大祭で、隔年で交互に行われ両祭りは「天下祭」と称された。
この両社は江戸を守護する神社として、徳川将軍家から特に崇敬を集めたため、祭りの際には山車が江戸城に入って将軍に拝謁する事が許されていた。

天下の徳川将軍に拝謁できるため「天下祭」。

そうした山王祭の様子も『江戸名所図会』には大きく描かれている。


(江戸名所図会)

見開きにて見事な山車の姿が描かれ「其名高く最も美観なり」と記されている。
8ページに渡り祭りの様子を描いている。
多くの山車が出て牛車の姿も見る事ができる。
大変な規模の祭りであった事が分かり、隆盛を極めた江戸を代表する祭りであった。

現在も「山王日枝神社」の「山王祭」と交互に神幸祭が行われている。
現在も秋葉原の街などに神輿が威勢よく出る姿は壮観。
こちらは平成二十七年(2015)の神田祭の様子。
遷座400年奉祝を記念する神田祭とあって実に盛り上がっていた。

西暦の奇数年が神田祭の神幸祭と覚えておくとよい。
当社の神田祭は、京都「八坂神社」の祇園祭、大阪「大阪天満宮」の天神祭と共に「日本三大祭り」にも数えられる。

明治以降の歩み・政府が将門公を問題視

明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、准勅祭社に列する。

准勅祭社に指定された十二社のうち、東京23区内の神社十社が現在の「東京十社」となる。

明治三年(1870)、准勅祭社は廃止となる。
明治五年(1972)、府社に列する。
同年、神仏分離の影響で「神田神社」へ改称。

明神というのは神仏習合の色合いが強いため改称されたが、今も「神田明神」と呼ぶ崇敬者のほうが多い。

明治七年(1874)、明治天皇の行幸が決定。
すると、明治政府が天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られている事を問題視。
この事により将門公が御祭神から外されてしまう。

代わりに少彦名命が茨城県の「大洗磯前神社」から勧請される。
以後、長年、将門公の御神霊は境内摂社に遷されたままとなっていた。

(東京府史蹟)

こちらは大正八年(1919)に東京府によって刊行された『東京府史蹟』に掲載されている当社。
江戸時代の浮世絵に描かれた社殿がこちらであり、関東大震災で焼失前の様子が分かる貴重な一枚。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

こちらは大正十一年(1922)に東京市公園課が出版した『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』。
この翌年に関東大震災で焼失してしまう社殿で、旧社殿と鬱蒼と生い茂った境内を見る事ができる。

大正十二年(1923)、関東大震災により当時の社殿が焼失。
昭和九年(1934)、鉄筋コンクリート造で再建。
戦時中は鉄筋コンクリートだった事で焼失を免れており、現存する社殿はこの時に再建されたものである。

戦後の歩み・昭和後期に将門公が御祭神に復帰

昭和二十年(1945)、東京大空襲により境内の多くが焼失。
しかしながら上述の通り鉄筋コンクリート造で再建された社殿のみ、僅かな損傷で焼失を免れた。

戦後になり境内整備が進み多くの建造物が再建。
昭和五十年(1975)、檜木造の随神門が再建されている。

昭和五十九年(1984)、将門公が本社の御祭神に復帰。
三之宮という形ではあるが、現在は本社の御祭神として祀られている。

将門公が復帰となったのは、昭和五十一年(1976)に将門公を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映された事もあって、復帰への機運が高まった事による。

将門公を崇敬する人にとっては、当社の御祭神に復帰する事は念願であった。

なお、将門公を崇敬する一部氏子には、「成田山新勝寺へ参詣してはいけない」という禁忌が代々伝わっており、これは成田山「新勝寺」は、平将門の乱鎮圧のために建立されたという起源をもつ事からで、これは当社に関わらず、将門伝説の残る地には伝わっている事が多い。

平成十七年(2005)、神札授与所・参拝者控え所・休憩所を兼ね備えた鳳凰殿が建立。
「平成の御造替事業」などを経て、更に境内整備が進み現在に至っている。

境内案内

再建された楼門・空襲を耐え抜いた鉄筋コンクリート造の社殿

最寄駅は秋葉原駅で、電気街や萌えの街を抜けた先の徒歩数分の距離となる。
立派な銅鳥居は昭和五年(1930)に再建されたもので、こちらが表参道となる。

銅鳥居を潜った先には見事な檜木造の随神門。
昭和五十年(1975)、昭和天皇御即位50年の記念として建立されたもの。
江戸時代の頃には楼門があり、こうして随神門として再建された事で、往年の姿を偲ばせる。

随神門を潜ると左手に手水舎。
正面に社殿となる。

社殿は昭和九年(1934)に再建されたものが現存。
鉄筋コンクリート造の社殿としては戦前の古いもので、戦時中は境内に焼夷弾が落ちたにも関わらず戦火を免れた事が喜ばしい。
往年の社殿も朱塗であったため、現在も総朱漆塗の社殿となっている。
権現造の社殿で、「平成の御造替事業」で塗り替えや修復が行われた。
現在はこうして東京スカイツリーと共に見る事もでき、また夜の姿も素敵である。

だいこく様尊像・えびす様尊像・多くの境内社

境内の左手には、だいこく様尊像。
石造りとしては日本一のだいこく像として建立されたもの。

当社の一之宮に祀られる大己貴命は、大国主(おおくにぬし)の名でも知られ、「大国」が「だいこく」と読める事から「大黒天(大黒様)」と習合していった。

その右手奥には、えびす様尊像。
東京藝術大学学長・宮田亮平氏によって鍛金工芸技術で造られたものとなっている。

当社の二之宮に祀られる少彦名命は、恵比寿神と習合したところもあり、当社に建立された。

社殿の左手から裏手にかけては大変多くの境内社が並ぶ。
いずれも石鳥居と社殿が用意されており立派な造りとなっている。
それぞれに案内板が置かれ、御由緒なども記されているので、確認の上参拝するのがよいだろう。

三天王と呼ばれる建速須佐之男命を祀る三社。
江戸神社は、大宝二年(702年)に江戸に創建された「江戸最古の地主神」で、江戸を開拓した江戸氏の氏神として崇敬を集めた。
大伝馬町八雲神社は、大伝馬町の御仮屋へ神輿を渡御していた。
小舟町八雲神社は、元は江戸城内にあり、小舟町の御仮屋へ神輿を渡御していた。

他にも三稲荷と呼ばれる稲荷社三社、水神社、金刀比羅神社、籠祖神社、祖霊社が鎮座している。

獅子山や銭形平次の碑・御神馬あかりちゃん・鳳凰殿など

社殿の右手前には再建された立派な獅子山。

獅子山に乗る石獅子は、名工・石切藤兵衛が生涯で3つしか造らなかったものの中の1つと伝えられたため関東三大獅子として奉献されたものとされている。
今上天皇陛下の御即位を奉祝してこうして獅子山として再建された。

社殿右手には、銭形平次の碑というものも置かれている。
野村胡堂による『銭形平次捕物控』の主人公である、銭形平次が当社界隈を舞台にしていた事によるもので、昭和四十五年(1970)に日本作家クラブが建立した。

銭形平次は架空の人物である。

他にも境内には多くの石碑や奉納物が置かれる。

境内左手には御神馬の姿も見る事ができる。(この日は散歩中につき不在)
神幸号「あかりちゃん」と名付けられた御神馬。
当社のマスコット的存在として愛されている。

社殿左手には資料館。
平成十年(1998)に造られ、神田祭の資料や、当社の神宝なども展示している。

開館日:土日祝の10時-16時
拝観料:大人300円、学生子供200円

御朱印は鳳凰殿にて。
平成十七年(2005)に建立された鳳凰殿は、神札授与所・参拝者控え所・休憩所を兼ね備えた施設となっている。

アニメ『ラブライブ!』の聖地としてコラボなども

当社は秋葉原を氏子区域としている事もあり、アニメ作品などに登場する事が多い。
また神社側もそうした文化に対して大変柔軟な姿勢を持っている事もあって、若者からの人気も高い神社となっている。

特に有名なのが、TVアニメ『ラブライブ!』の舞台として登場した事であろう。
そのため、当社へ聖地巡礼するファンも多い。

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当社もアニメ作品とコラボをしたりと積極的に取り組んでおり、平成二十七年(2015)の神田祭ではコラボ企画も開催。
現在も境内にはこうしたポスターなどを見る事ができる。
コラボ商品の販売もしており、『ラブライブ!』コラボの御朱印帳も用意。
こうした柔軟な姿勢が当社らしさと云えるだろう。
境内右手の祭務所は、そうしたコラボグッズの販売所になっている。

当社の絵馬掛には、いわゆる「痛絵馬」と呼ばれる絵馬が多く掛けられている。
イラスト付きの絵馬が多く奉納されていて、こうしたアニメファンの聖地にもなっているのが特徴的。

こうした姿勢は賛否両論あるかもしれないが、個人的には神社らしさの一線を残したままであるのならば、新たな層を開拓するのは大賛成であり、当社はその一線を守ったまま、こうしたコラボや新しい層の開拓を積極的にやられていると感じる。

将門公の祟り・大手町にある将門塚

当社の境外になり、当社からもやや距離があるものの、大変関係の深い「将門塚」についても当記事内で紹介させて頂きたい。

御由緒にあるように、当社の創建の地の近くに、平将門の首塚(将門塚)が築かれた。
現在の千代田区大手町1-2-1あたりとなる。
かつては盛土があり内部に石室があったため、将門の古墳であったとされている。

「神田祭」の際には、将門塚に御神輿渡御や首塚奉幣の儀が行われる。
当社にも将門公神輿が安置されているように、当社や旧別当寺「日輪寺」、将門塚保存会が維持しており、当社と大変繋がりの深い史跡となっている。

古くから尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきており、「不敬な行為に及べば祟りがある」という伝承は、今も信じられている非常に有名な伝承。
現代においてもそういったエピソードはいくつも伝わっている。

関東大震災後、将門塚の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、早速整爾大臣の相次ぐ不審死が起こった事で、将門の祟りが噂されることとなり、仮庁舎を取り壊した。
第二次世界大戦後、GHQが周辺の区画整理のため将門塚を破壊しようとした際、不審な事故が相次いだため計画を取り止めた。

このように将門塚を取り壊すような事態になると、関連する人々の中に死傷者が多く出る事件が起き、その度に将門公の祟りだと畏れられてきた経緯がある。
そのため実際に慰霊祭が行われたり、将門塚が残されるように陳情が繰り返された。

現に、現在も三井物産と三井不動産が、大手町の三井物産本社ビルなど3棟の再開発計画「大手町1丁目2地区計画」の概要を発表し再開発を行っているが、敷地の一角にある「将門塚」は計画に含めず、周囲は緑地にするという発表をしている。

この事からも今でも周囲の人々に尊崇と畏怖が入り混じった崇敬を受け続けている事が分かる。
将門公を崇敬する人はもちろん、そうでなくても何かしらの気持ちを持って、訪れる人が後を絶たない。

こうした将門塚の敷地内には蛙の置物が多く奉納されている。
将門の首が京から飛んで帰ったという逸話から「蛙=帰る」という言葉遊びから来たもの。
無事に帰ってこれるように、そんな願いを込めてお供えをされた蛙像である。

将門塚を参拝する際に、どういった作法で参拝するべきなのか悩まれる方も多いと思うが、当社によると、基本的には二礼二拍一礼の神社の作法で問題ないとの事。
もちろん仏式の合掌でも構わないようなので、各自崇敬の念をもって好きに参拝されるとよい。

将門公を崇敬する人にとっては欠かせぬ重要な地。
当社に参拝の折は、こちらまで足を伸ばしてみる事をオススメしたい。

所感

現在の将門塚の近くに鎮座していた当社は、平将門公を祀る神社の代表的な存在として崇敬を集めた。
江戸時代に入ると、江戸総鎮守として幕府や江戸庶民から篤い崇敬を集めており、そうして多くの人々からの崇敬は現在になってからも変わらない。
いつ参拝に訪れても多くの参拝者で賑わう境内からは、今も昔も変わらぬ人気の高さを知る事ができる。
新しい層の開拓としてアニメとのコラボなども、うまくバランスを取ってやっているように思うし、秋葉原という地の利を活かした事で、素晴らしい事だと感じる。
氏子崇敬者はもちろんの事、アニメファンなども含め、それぞれの参拝者が楽しむ事ができるように柔軟な姿勢で展開しており、幅広く崇敬を集める東京を代表する神社の一社である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]


[ 参道 ]

[ 随神門 ]


[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 鉄製天水桶 ]


[ 記念碑 ]

[ 獅子山 ]


[ 百度石 ]

[ だいこく様尊像 ]

[ えびす様尊像 ]

[ 御神馬 ]

[ 絵馬掛 ]


[ 御籤掛 ]

[ 将門公神輿 ]

[ 鳳凰殿 ]


[ 神楽殿 ]

[ 祭務所]

[ ラブライブ!ポスター ]

[ みこしーパネル ]

[ 境内末社案内板 ]

[ 小舟町八雲神社]


[ 魚河岸水神社 ]


[ 小唄塚]

[ 大伝馬町八雲神社]



[ 資料館 ]

[ 江戸神社 ]


[ 力石 ]

[ 鳳輦神輿奉安殿]

[ 浦安稲荷神社 ]


[ 三宿稲荷神社・金刀比羅神社 ]




[ 末広稲荷神社 ]


[ 三之宮鳳輦奉安殿]

[ 合祀殿 ]


[ 水野年方顕彰碑]


[ 祖霊社 ]

[ 国学発祥の碑 ]

[ 銭形平次碑 ]


[ 明神会館 ]

[ 明神男坂 ]

[ さざれ石 ]

[ 大公孫樹 ]


[ 屋上庭園 ]


[ 案内板 ]

[ 将門塚(千代田区大手町) ]











Google Maps