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概要
江戸時代に人気を博した関東総司・妻恋稲荷
東京都文京区湯島に鎮座する神社。
旧社格は村社で、湯島や外神田などの鎮守。
日本武尊とその妃・弟橘媛命を祀るお稲荷様。
弟橘媛命が自ら身を投げて日本武尊を救った伝説から、妻を恋い慕う「妻恋」と号した。
江戸時代には「関東総司 妻恋稲荷」と称し、江戸稲荷番付では行司の筆頭に挙げられる程で、江戸に数多くあった稲荷社の中でも特別な地位に位置付けられた。
江戸時代には正月二日の晩に枕の下に敷いて寝ると良い夢を見ると云う木版刷りの「夢枕」が売り出され人気を博し、現在は「吉夢(よいゆめ)」と名を変えて頒布されている。
神社情報
妻恋神社/妻戀神社(つまこいじんじゃ)
御祭神:倉稲魂命・日本武尊・弟橘姫命
社格等:村社
例大祭:3月上旬
所在地:東京都文京区湯島3-2-6
最寄駅:末広町駅・御茶ノ水駅・湯島駅
公式サイト:http://www.tsumakoi.jp/
御由緒
祭神は、倉稲魂命・日本武尊・弟橘媛命の三柱である。
江戸時代に当社に伝わった縁起によると、その昔、日本武尊が東征の折、この地へきて倉稲魂命(稲荷神)を祀ったことが起源であるとする。また、日本武尊が三浦半島から房総へ渡る際、大暴風雨に遭い、妃の弟橘媛命が身を海に投げて海神を鎮め、一行を救ったことから、妃を船魂神(海神)として当社に祀ったという。
江戸時代、当社は正一位妻恋稲荷大明神と呼ばれ、多くの参詣人を集めた。また、関東近郊のひとびとの求めに応じて各地に稲荷社を分霊したり、「野狐退散」の祈祷などをおこなったりした。当社は、関東総司とも称したほか、江戸時代後期に作られた「稲荷番付」では行司の筆頭にあり、江戸にあった多くの稲荷社の中でも特別な地位に位置付けられ、高い社格を有した。(境内の掲示より)
歴史考察
日本武尊と弟橘媛命を祀るお稲荷様
創建年代は不詳。
日本武尊とその妃・弟橘媛命を祀る神社として創建。
その後に倉稲魂命(稲荷神)が合祀されたと伝わる。
景行天皇四十年(110)、日本武尊が東国征討の途中、走水(現・神奈川県横須賀市)に辿り着く。
第12代景行天皇の皇子。
東国征討や熊襲征討を行った伝説的な英雄として『日本書紀』『古事記』などに載る。
古くより、走水から海(浦賀水道)を渡り上総国(現・千葉県房総半島)を経て、東北地方に渡る海道が知られていて、日本武尊は走水から海を渡ったとされている。
三浦半島と房総半島に挟まれた海峡。
海上交通路と使用されており、日本武尊の東征にも使われた伝承が残る。
正史に残る日本武尊と弟橘媛の身投げ伝説
日本武尊の一行が海を渡る際、弟橘媛が身を投げて日本武尊を救ったと云う。
日本武尊の妃。
海神の怒りによって海上が荒れ、舟が沈みそうになった時、海神の怒りを解いて日本武尊を救うため、海上に身を投げて海を鎮め、日本武尊を救ったとされる。
これは『古事記』『日本書紀』にも記された日本神話。
『日本書紀』に記された文章を現代語訳したものを以下に引用。
さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」と言われた。ところが海の中ほどまで来たとき、突然暴風が起こって御船は漂流して渡ることができなかった。そのとき皇子につき従っておられた妾があり名は弟橘媛という。穂積氏の忍山宿禰の女である。皇子に申されるのに、「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」と。そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海におはいりになった。暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。時の人は、その海を名づけて、馳水といった。こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り玉浦を横切って蝦夷の支配地に入られた。(日本書紀 上 全現代語訳)
このように日本神話に登場する弟橘媛の伝説。
当社の創建にはこの日本武尊と弟橘媛の伝説が深く関わってくる。
日本武尊が湯島の地に逗留・妻を恋い慕う妻恋神社
東征の帰途、日本武尊は湯島の地(当社の旧社地)に逗留。
そこで郷民は日本武尊が妃・弟橘媛を慕われる心を憐れみ、日本武尊と弟橘媛を祀ったのが当社の始まりと伝えられている。
『古事記』『日本書紀』によると、東国を平定した日本武尊は武蔵(東京都・埼玉県)や上野(群馬県)を経て、東国を望んで弟橘媛を思い出し「吾妻はや」(わが妻よ…)と嘆いた。
この故事から東国を「あづま(東・吾妻)」と呼ぶようになったと云う。
こうした故事が伝わる程であったため、当社を「妻を恋い慕う」と云う意味で「妻恋」と名付けた。
その後、稲荷神が合祀されたと伝わる。
嵯峨天皇の勅命により関東惣社に列する
嵯峨天皇の御代(809年-823年)、嵯峨天皇の勅命によって関東惣社に列する。
関東総司(かんとうそうじ)とも云う。
関東(関東だけでなく東北も含む広い範囲)における稲荷社の中核神社と云う扱い。
更に正一位を賜り「関東総司妻戀大明神」と称した。
当時の社地は現在よりやや北側に鎮座。
「湯島天満宮(湯島天神)」南東の台地上が旧社地で社地も広大であったと云う。
関東総司として江戸の稲荷信仰の中心となり栄える
天正十八年(1590)、徳川家康が関東移封によって江戸入り。
家康によって2町四方の社地が寄進される。
万治年間(1658年-1661年)、火災による類焼で社殿などを焼失。
現社地に遷座する形で再建を果たした。
当社は「関東総司 妻恋稲荷」と称し、江戸の稲荷信仰の中心として崇敬を集めた。
現在も社号碑には「関東総司」の文字。
関東における稲荷社の中核神社として「関東稲荷総司」「関東稲荷惣社」とも呼ばれた神社は、他に「王子稲荷神社」が知られる。
当社と「王子稲荷神社」の2社は稲荷社の中でも特に参拝者が多く栄えた。
当社の人気を表す事そして、関東各地に当社から稲荷社が勧請された。
更に野狐退散の出張祈祷も行われ人気を博した。
江戸時代の『江戸稲荷番付』では行司の筆頭に挙げられる程で、江戸に数多くあった稲荷社の中でも特別な地位に位置付けられた。
相撲の番付を元にした見立番付。
江戸後期にはこのような見立番付が流行していて『御祭礼番付』『御料理番付』など様々なジャンルを格付けした見立番付が盛んに作られた。
江戸の稲荷神社を格付けした番付では、大関・関脇のような番付に各稲荷社が充てられていったが、中でも行司、年寄、世話人、勧進元、差添といった役員として登場する稲荷は別格の存在であった。その中でも筆頭に挙げられたのが当社である。
また正月二日の晩に枕の下に敷いて寝ると良い夢を見ると云う木版刷りの「夢枕」が売り出されて人気となったと云う。
江戸切絵図から見る妻恋稲荷
当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。
こちらは江戸後期の本郷や湯島の切絵図。
右上が北の切絵図となっており、当社は図の左下に描かれている。
赤円で囲った「妻恋稲荷」と記されているのが当社。
今も昔もほぼ変わらない場所に鎮座している。
橙円で囲ったのが当社の旧社地。
「湯島天満宮(湯島天神)」「神田神社(神田明神)」も今と同じ位置に鎮座している。
江戸名所図会に描かれた妻恋明神社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「妻戀明神社」として描かれているのが当社。
境内の規模や配置は現在とそこまで変わらない。
現在は石段の上に鎮座する形であるが、当時は妻恋坂と呼ばれた坂の途中に鳥居が設けられていたのが分かる。
境内には鶏の姿と思わしきものが描かれていて、なかなかに緑に囲まれた境内だった事が窺える。
浮世絵にも描かれた妻恋稲荷
江戸を代表するお稲荷様として人気を博した当社は浮世絵にも描かれている。
中心には美人画が描かれ、小さな枠(コマ絵)に名所を描いたシリーズ。
三代豊国が美人画を、初代豊国の弟子の国久がコマ絵を描いている。
名所と風俗を関連を持たせた面白い美人画。
歌川国久が描いた当社の風景。
幟旗には「正一位 妻恋稲荷大明神」の文字を見る事ができる。
こうして江戸の名所の1つとして紹介される程、江戸庶民にとってはお馴染みの神社であった。
明治以降の歩み・戦前の古写真・戦後の再建
明治になり神仏分離。
明治五年(1972)、村社に列する。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で今も昔も変わらない。
細々としているのでかなり分かりにくいが、当時は新妻恋坂がなかった事が分かる。
当社の前が妻恋坂で、その後新しく整備されたのが新妻恋坂である。
戦前の当社の様子は古写真にも残されている。
関東大震災前の様子が分かる貴重な一枚。
妻恋坂の途中に鎮座していて江戸時代の『江戸名所図会』に様子は似ている。
現在のように石段が設けられておらず、坂途中に鎮座する神社であった。
社殿も現在より立派な様子が窺える。
昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿を焼失。
昭和二十九年(1954)、社殿を再建。
戦後になり境内整備が進む。
昭和四十六年(1971)、戦後の土地法改正によって大蔵省より境内の社地を払い下げ。
氏子崇敬者によって土地を購入する事ができ今に至る。
昭和五十二年(1977)、江戸時代の木版刷りの「夢枕」の版木が摺師・梅原勇氏邸の家で発見。
平成二十三年(2011)、東日本大震災によって社殿の屋根が崩壊、その後復旧。
平成二十五年(2013)、日本画が奉納され現在は江戸時代の「夢枕」を「吉夢(よいゆめ)」と名を変えて復興発展祈願を兼ねて頒布開始。
境内案内
妻恋坂の上に鎮座する妻恋神社
最寄駅からは徒歩数分の距離で清水坂から路地(妻恋坂)に入った先に鎮座。
妻恋坂と名の付いた交差点があるが、その奥の路地が妻恋坂となる。
妻恋坂の路地に面して鳥居。
扁額には「妻戀神社」の文字。
社号碑には「関東総司 妻戀神社」の文字。
嵯峨天皇によって関東惣社とされ、江戸時代には「関東総司 妻恋稲荷」と称して、江戸の稲荷信仰の中核を担った歴史を伝える。
鳥居の先の石段を上がると境内。
江戸時代の絵図や大正時代の古写真を見ると石段は設けられていなかったが、妻恋坂の整備や戦後に再建に合わせて境内が整備された。
石段を上ってすぐ左手に手水舎。
小さいながらも水盤が用意され水が出ている。
戦後に再建された社殿・東日本大震災後の復旧
鳥居を潜り左手に社殿。
江戸時代の頃より鳥居を潜って左手に社殿が設けられていたので、位置関係は古くから変わらない。
旧社殿は東京大空襲によって焼失。
昭和二十九年(1954)に氏子崇敬者によって鉄筋コンクリート造で再建を果たした。
平成二十三年(2011)の東日本大震災では屋根が崩壊したもののすぐに復旧された。
社紋は「檜扇に御の字」。
現在は妻恋坂上のやや高い位置に境内が設けられている。
境内社の妻恋稲荷神社・馬頭観音・水子地蔵
鳥居を潜って正面に境内社。
妻恋稲荷の扁額が掲げられた境内社。
そもそも当社自体が「妻恋稲荷」と呼ばれたお稲荷様。
江戸時代には当社から多くのお稲荷様が勧請されたため、そうしたお稲荷様が境内社として祀られているのであろう。
その右手には馬頭観音(ばとうかんのん)の石碑。
愛馬への供養として祀られたものと思われる。
社殿の左手奥には水子地蔵。
亡くなった胎児を回向するために建てた地蔵菩薩像。
江戸時代の夢枕を元にした吉夢(よいゆめ)
当社の授与品として吉夢(よいゆめ)と呼ばれるものがある。
妻恋坂に掲げられた提灯にも「吉夢」の文字。
枕の下に敷いて縁起の良い夢を見ようという縁起物。
江戸時代に当社の授与品として人気を博した「夢枕」を復元したもの。
正月二日の晩に枕の下に敷いて寝ると良い夢を見ると云う木版刷りの「夢枕」。
これが当社で売り出されて人気を博した。
版木は戦災で焼失したと思われたが昭和五十二年(1977)摺師・梅原勇氏邸の家で発見。
現在は「吉夢(よいゆめ)」と名を変えて頒布されている。
平成二十五年(2013)、日本画が奉納され現在は江戸時代の「夢枕」を「吉夢(よいゆめ)」と名を変えて復興発展祈願を兼ねて頒布開始。
現在は「宝船」と「七福神」の2種類を用意。
吉夢御朱印・御朱印は土曜に授与・郵送頒布も
御朱印は「妻戀神社之印」の朱印。
右上に社紋の「檜扇に御の字」。
金文字の御朱印も用意。
更に「吉夢」をデザインした御朱印も用意している。
こちらは「宝船」をデザインしたもの。
他に「七福神」をデザインした御朱印も用意している。
2月と9月の「ねこまつり」では限定御朱印も
毎年2月と9月には湯島界隈で「ねこまつりat湯島」が開催。
湯島を中心として多くの店舗が集まって開催している「ねこ」縛りのイベント。
飲食は期間限定特別メニュー、普段は開放していない店舗も体験などの特別企画で参加。
スタンプラリーやPOP-UPショップなども。
日程:9月18日-10月14日まで
※当社での限定御朱印は開催期間の毎週土曜日限定授与。
9月21日・28日・10月5日・12日は「ねこまつり限定の猫御朱印」(片面・見開きの2種類)
※ねこまつりのスタンプ(9月13日から参加店舗で購入するともらえるスタンプ)1つ以上押してある方限定。書き置きのみ。授与時間は10時-15時。詳細はねこまつり公式サイトにて。
ねこを題材とした地域振興イベント。
各店舗で授与されているリーフレットがスタンプ帳になっていて各店舗で購入ごとに特典を受ける事ができる。(画像は2021年2月の第12回ねこまつり)
こちらは2022年9月の第15回ねこまつり。
当社では指定日に限り「ねこまつり限定御朱印」が授与される。
第12回ねこまつりat湯島で頂いた見開きの御朱印。
こちらは片面の御朱印。
2022年9月の第15回ねこまつりの御朱印。
見開き御朱印は左に過去のねこまつり使用されたスタンプが押印された仕様となる。
片面は金文字の御朱印だった。
所感
関東総司として崇敬を集めた当社。
日本武尊とその妃・弟橘媛命を祀るお稲荷様で、弟橘媛が自ら身を投げて日本武尊を救った伝説から、妻を恋い慕う「妻恋」と称した由来が何とも素敵だと思う。
かつては広大な社地を有する大社だったと思われ中世の戦乱で衰微。
現在地に遷座した後は社地は縮小しながらも、「関東総司 妻恋稲荷」として崇敬を集めた。
江戸時代には稲荷信仰が一気に広まり信仰を集めた中で、当社は「王子稲荷」と共に関東総司として稲荷信仰の中核神社として人気を博した。
これは「湯島天神」「神田明神」といった大社に挟まれた場所柄もあったのだろう。
妻恋坂の路地にひっそりと佇む神社ではあるが、現在も氏子崇敬者によって支えられているのが窺え「ねこまつり」の期間などは氏子地域と共に地域を盛り上げている。
江戸の稲荷信仰を伝え、今も地域にとって大切な神社なのが伝わる良い神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:300円(通常)・500円(一部書き置き)
社務所にて。
※通常・金文字・吉夢宝船・七福神の4種類の御朱印を用意。
※2月と9月の「ねこまつりat湯島」の際には限定御朱印を用意。
※不在時は郵送での御朱印授与も可。(詳細は公式サイトにて)
参拝情報
参拝日:2022/09/17(御朱印拝受)
参拝日:2021/02/27(御朱印拝受)
参拝日:2020/12/26(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
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