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概要
清めの稲荷・旅行安全のお稲荷様
東京都千代田区神田三崎町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、三崎町などの鎮守。
創建当時は神田山(現・駿河台)の山麓部に鎮座していたと云うが幾度も遷座。
江戸時代には徳川家光が崇敬をしたため、参勤交代などで大名が登城する際は必ず当社に参拝して心身を清めた事から「清めの稲荷」とも称された。
現在もこうした故事から旅行安全の御利益があると信仰を集め、「お砂守り」は旅行安全の授与品として人気となっている。
神社情報
三崎稲荷神社(みさきいなりじんじゃ)
御祭神:宇迦之御魂神・須佐之男神・大市姫神・大物主神
社格等:村社
例大祭:5月9日
所在地:東京都千代田区神田三崎町2-9-12
最寄駅:水道橋駅
公式サイト(Instagram):https://www.instagram.com/misakijinja/
御由緒
創建は詳かでないが建久以前、仁安の頃とも伝えられる。当時の神田山(現、駿河台)の山麓(現、本郷一丁目)武蔵国豊島郡三崎村に鎮守の社として祀られたとされ、その後幾多の変遷の後、明治三十八年現在地に遷座される。(東京都神社庁より)
歴史考察
平安時代に神田山の山麓に創建
社伝によると、仁安年間(1166年-1169年)の創建と伝わる。
神田山(現・神田駿河台)の山麓(現・本郷1丁目付近)に創建。
本郷台地(現・文京区本郷)の南端にあたる高台。
「神田山」と呼ばれた丘で、現在の千代田区神田駿河台にあたる。
江戸時代に幕府によって切り崩され埋め立てに使われた。
かつては日比谷入江と呼ばれた入江(現在の東京駅と皇居の間まで海が食い込んでいた)が江戸にあったがこの神田山切崩しなどの土で埋め立てられた。
武蔵国豊島郡三崎村の鎮守とされたと云う。
後北条氏による崇敬・社地の寄進と社殿造営
大永四年(1524)、北条氏綱が数千歩に及ぶ社地を寄進。
広大な社地を有し、氏綱は当社を篤く信仰したと云う。
後北条氏第2代当主。
伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継ぎ、領国を武蔵国の半分・下総国の一部そして駿河国の半分にまで拡大させ、後北条氏の隆盛時代を作った武将。
「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。
氏綱は三崎村の郷士・和田太左衛門を祠官(宮司)に命じた。
天文七年(1538)、後北条氏によって社殿を造営。
江戸の都市計画により神田山切り崩し・幾度も遷座
天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
江戸の都市計画により神田山の切り崩しが始まる。
徳川入府以降は神田山切崩しなどの土で日比谷の入り江が埋め立てられて行く。
当時はまだ海だった日比谷や銀座周辺は神田山の土によって埋め立てられ陸地となった。
慶長八年(1603)、神田山の切り崩しを受けて現在の小石川付近に遷座。
万治二年(1659)、神田川の流路付け替えのため社地が掘割となる。
そのため社殿を現在の三崎町2丁目北部あたりに遷座。
万延元年(1860)、幕府講武所開設のため旧水道橋西堤上(現在のJR水道橋鉄橋)に遷座。
こうした度重なる遷座のため社地はどんどん縮小していく。
徳川家光からの崇敬・諸大名が登城する際に参拝・清めの稲荷
三代将軍・徳川家光は当社を崇敬したと伝わる。
家光が参勤交代制度を定めた際に自ら当社に参拝し、諸大名にも参拝を推奨。
江戸幕府の第3代将軍。
寛永十二年(1635)には武家諸法度を改定。
その際に大名に参勤交代を義務づける規定を加えた。
そのため、諸大名は参勤交代などで登城する際に必ず当社へ参拝し身を清めた。
こうした事から「清めの稲荷」と称された。
このように参勤交代などで江戸に来る大名が参拝した事、帰国に際して道中安全の守護を受けた事から現在も旅行安全の御利益があるとされている。
万治二年(1659)、神田川改修に携わった伊達家家臣・原田甲斐が工事の成功を願って名刀を奉納。
仙台藩の重臣。
仙台藩で起こったお家騒動「伊達騒動」の当事者の1人。
お家騒動の中、幕府より呼び出された審問中に控え室にて対立していた伊達宗重を惨殺、宗重派の柴田朝意と斬りあって死亡した。
多くの諸大名やその家臣から崇敬を集めた。
江戸名所図会に描かれた三崎稲荷社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「三崎稲荷社」とされているのが当社。
現在の三崎町2丁目北部あたりに鎮座していた時代の様子。
人の往来が大井通りに面して井戸や手水舎があり井戸を汲む人の姿も。
この通りに面して置かれた手水舎にある水盤が千代田区指定文化財として現存。
鳥居の先に社殿があり、その隣には「こんぴら(金刀比羅神社)」「天神・尾落明神」といった境内社も祀られていて、現在より中々に広い境内だった事が窺える。
江戸切絵図から見る三崎稲荷
当時の当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。
こちらは江戸後期の駿河台や小川町周辺の切絵図。
当社は中央下に描かれている。
赤で囲った箇所に「三崎稲荷」の文字が見える。
こちらは上述した『江戸名所図会』に描かれたよりも後、万延元年(1860)に幕府講武所開設のため旧水道橋西堤上に遷座後の様子。
現在の鎮座地より僅かに北東に位置していて、この頃にはほぼこの一帯に鎮座していた。
青円で囲ったように当社の社前には「稲荷小路」の文字。
これが現在の「三崎神社通り」で当社の社前の通りにあたる。
明治になり現在地へ遷座・戦後の再建
明治になり神仏分離。
明治五年(1972)、村社に列した。
同年、三崎町(現・神田三崎町)が成立。
明治三十三年(1900)、社号を「稲荷神社」から「三崎稲荷神社」へ改称。
以後は「三崎稲荷神社」として現在に至る。
明治三十八年(1905)、甲武鉄道(現・中央線)延長に伴い現在地に遷座。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地。
既に現在の鎮座地に遷されているのが分かる。
江戸時代以降幾度も遷座を続けた当社だが、以後は現在に至るまでこの地に鎮座している。
青円で囲ったように三崎町の文字も見える。
大正十二年(1923)、関東大震災で被災。
昭和二十年(1945)、東京大空襲によって本殿を残して焼失。
昭和三十八年(1963)、社殿を再建。
この社殿が改修されつつ現存。
その後も境内整備が行われ現在に至る。
境内案内
水道橋駅のほぼ駅前に鎮座
最寄駅は水道橋駅で南側のほぼ駅前に鎮座。
当社の社前の通りは三崎神社通り。
三崎神社通りに面して朱色の鳥居。
この鳥居は2024年に塗り替え改修が行われたばかり。
社号碑と扁額には「三崎稲荷神社」の文字。
石龍の立派な手水舎・文化財の水盤
鳥居を潜って右手に手水舎。
大きな石が置かれた立派な手水舎。
吐水口は龍になっていて石全体が龍のような姿に。
その龍に乗るように小さな狛犬や神狐像。
中々にインパクトのある手水舎となっている。
この立派な手水舎とは別にその奥に古い水盤が置かれている。
現在使用はできないが千代田区指定有形文化財。
上述した『江戸名所図会』で通りに面して置かれていた水盤がこちら。
参道に一対の狛犬。
昭和三十一年(1959)奉納。
球持ちと子持ち。
戦後に再建された鉄筋コンクリート造社殿
参道の正面に社殿。
朱色を基調とした鉄筋コンクリート造社殿。
旧社殿は関東大震災や戦災で焼失。
昭和三十八年(1963)に再建となった。
百度石・道中安全祈願の草鞋像
参道の右手に百度石。
以前は小さな鳥居が設けられていたが鳥居塗装の際に取り外されている。
近くに草鞋の像。
道中安全祈願のために奉納されたモニュメント。
当社は江戸時代に徳川家光が崇敬をしたため、参勤交代などで大名が登城する際は必ず当社に参拝して心身を清めた事から「清めの稲荷」とも称された。
更に帰国に際して道中安全の守護を受けた事から現在も旅行安全の御利益があるとされている。
中でも「お砂守り」は旅行安全の授与品として人気となっている。
三崎稲荷神社の御朱印・例大祭限定御朱印
御朱印は社務所にて。
インターホンを押したらすぐ対応して下さる。
御朱印は中央に「三崎稲荷神社」の朱印、右上に社紋。
スラスラと流れるような字で墨書きして下さった。
2024年5月の例大祭に合わせて限定御朱印も授与。
右にエンボス加工されたやや立体的な神輿の姿。
キラキラと美しい。
5月4日に町会連合宮入、5日に宮神輿渡御、9日に大祭式となっている。
所感
水道橋駅前に鎮座するお稲荷様。
かつては神田山の山麓に鎮座していたと云い、江戸時代に江戸都市計画によって幾度と遷座を繰り返した。
遷座を繰り返しはしたものの現在の神田三崎町周辺には神社があったようで、近い距離を色々と遷る事になったようである。
諸大名が参勤交代で登城する際に当社で身を清めた事から「清めの稲荷」。
諸大名の道中の安全を祈願した事から今でも旅行安全の御神徳があるとして崇敬を集めている。
水道橋駅前と立地も良いので旅行前にぜひ参拝したい。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円(通常)・1,000円(限定)
社務所にて。
御朱印帳
オリジナル御朱印帳
初穂料:1,300円
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
ピンク色に結をイメージした御朱印帳。
大サイズ。
※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。
参拝情報
参拝日:2024/05/02(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2024/03/19(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
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