神社情報
國王神社/国王神社(こくおうじんじゃ)
御祭神:平将門命
社格等:村社
例大祭:2月14日
所在地:茨城県坂東市岩井951
最寄駅:岩井局前バス停(愛宕駅や守谷駅よりバスで30分前後)
公式サイト:http://www.kokuou.or.jp/
御由緒
祭神は平将門である。将門は平安時代の中期、この地方を本拠として関東一円を平定し、剛勇の武将として知られた平家の一族である。天慶三年(940)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若さで戦死したと伝えられる。
その後長い間叛臣の汚名をきせられたが、民衆の心にのこる英雄として、地方民の崇敬の気持は変わらなかった。本社が長く地方民に信仰されてきたのも、その現われの一つであろう。
本社に秘蔵される将門の木像は将門の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが、神像として珍しく、本殿とともに茨城県文化財に指定されている。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2019/01/02
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※基本的に無人社のため平時の御朱印対応はなし。
※正月三が日、将門まつりの際に対応可能な時のみ頂く事ができる。
授与品・頒布品
交通安全ステッカー
初穂料:500円
社務所にて。
御守
初穂料:500円
社務所にて。
歴史考察
平将門終焉の地・國王神社
茨城県坂東市岩井に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧岩井村の鎮守。
平将門終焉の地とされる場所に鎮座し、平将門命を御祭神とする。
古くは「国王大明神」や「将門大明神」と称され崇敬を集めた。
現在は正式には旧字体の「國王神社」と記す。
鬱蒼とした境内には、茅葺屋根の社殿が現存しており、茨城県指定有形文化財となっている。
新皇を自称し朝敵となった平将門
社伝によると、天禄三年(972)に創建と伝わる。
平将門の三女・如蔵尼が、将門終焉の地に将門を祀ったのが始まりとされる。
平安時代中期の関東の豪族・桓武天皇の五世子孫。
下総国・常陸国で伯父の平国香・平良兼ら一族と将門との争いが発生し、一族の争いが、やがては関東諸国を巻き込む争いへ発展する事になり「平将門の乱」が勃発。
争いの延長でやむを得ず将門は国府を襲撃して印綬を没収、関東一円を手中に収め京の朝廷・朱雀天皇に対抗して「新皇(しんのう)」を自称し、独自に岩井(現・茨城県坂東市)に政庁を置いて東国(坂東)の独立を標榜した。
朝廷は将門を朝敵とみなし討伐軍を結成、天慶三年(940)2月14日、藤原秀郷・平貞盛らとの戦いで、飛んできた矢が将門の額に命中し討死。
将門の首については、死後も様々な伝承が残されている。
将門の首は京都の七条河原に晒されたが、何ヶ月経ても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったとも云われ、更に将門の晒し首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、これが各地に残る将門の首塚。
将門の三女が33回忌で将門終焉の地に創建
天慶三年(940)、平将門が討死。
将門の三女・如蔵尼は、難を逃れて陸奥国「恵日寺」付近に住み出家したと云う。
平将門の三女と伝えられる尼僧。
将門の死後、陸奥国「恵日寺」(現・福島県磐梯町)付近に隠棲。
地蔵菩薩に救われた事で、出家して如蔵と名乗り地蔵菩薩を信仰し続けたため、人々からは地蔵尼君と呼ばれた。
天禄三年(972)、霊夢を見た如蔵尼は、将門の33回忌にあたるこの年に陸奥国から下総国に帰郷。
将門終焉の地に戻った如蔵尼は、付近の山林で霊木を見つけて将門の像を刻んだと云う。
父・将門の命日である2月14日、祠を建立し将門の像を安置し、これが当社の始まりとされる。
「国王大明神」「将門大明神」などと称されて以後、地域からの信仰を集め続けた。
朝敵として討たれた将門であったが、将門が拠点とした岩井(現・茨城県坂東市)では、地域の英雄として崇敬を集め続けたと云う。
関東(東国)では将門を英雄視する地域も多く、これは朝廷から重い負担を強いられ続けた東国の人々の代弁者として、将門を英雄視したのものとみられる。
徳川家光より朱印地を賜る・幕府からの崇敬
慶安元年(1648年)、第三代将軍・徳川家光より朱印地10石を賜る。
幕府より寺社の領地として安堵(領有権の承認・確認)された土地のこと。
朱色の印(朱印)が押された朱印状により、所領の安堵がなされた事に由来する。
幕府から庇護された原因として、平将門を祀る「神田明神」が江戸総鎮守とされた事が挙げられる。
朝廷に歯向かった将門を江戸総鎮守に据える事で、江戸の幕政に朝廷を関与させない決意の現れだったのではなかろうか。
そのため、将門終焉の地である当社も幕府より庇護されたのであろう。
元文四年(1739)、将門の死後800年にあたるとして正一位の神位を賜る。
江戸時代初期に現存する拝殿や本殿を造営
万治二年(1659)、火災によって社殿や文献などを焼失。
天和三年(1675)、本殿を造営。
この本殿が現存しており、茨城県指定文化財となっている。
延宝三年(1675)、拝殿を造営。
こちらも茨城県指定文化財となっている。
以後も岩井村鎮守の一社として崇敬を集めた。
明治以降の歩みと平将門評価の変遷
明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。
明治七年(1874)、「神田明神」へ明治天皇の行幸が決定。
明治政府が天皇が参拝する神社に朝敵である平将門が祀られている事を問題視したため、将門公は「神田明神」の御祭神から外されてしまう。
こうした影響を受けてか、戦後まで当社の御祭神も公式には大己貴命を祀る形となった。
明治二十二年(1889)、市制町村制によって岩井村・辺田村・鵠戸村が合併し岩井村が成立。
明治三十三年(1900)、町制を施行し、岩井町となった。
当社は岩井町鎮守の一社として崇敬を集めた。
明治四十年(1907)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
岩井町や岩井といった地名も見る事ができ、当地周辺は上岩井と呼ばれていた。
明治四十年(1907)出版の織田完之著『平将門故績考』には当社について詳しく記されている。
「國王大神」として記されていて「将門戦没の故蹟なり」とある。
現存する拝殿や本殿、木像の神像についても詳しく記載。
更に将門が所持していた笏、鬼神丸と称する太刀などが神宝として納められていた。
日本の農政家・歴史学者。
明治期の印旛沼干拓に尽力した人物。
平将門の研究者としても名高く、『国宝将門記伝』『平将門故蹟考』などの著作がある。
明治に再び朝敵とされた将門であったが、その復権に織田完之の著作が果たした功績は大きい。
明治四十一年(1908)、近隣の守神社・疱瘡神社・浅間神社を合祀。
戦後になり平将門命が御祭神に復活。
現在は大己貴命は祭神から外れている。
昭和四十七年(1972)、市制施行で岩井市が成立。
同年、岩井市成立を記念して「岩井将門まつり」が開催され、現在も続く。
昭和五十一年(1976)、平将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映。
「神田明神」の御祭神に将門が復活し、当社にも放映記念として狛犬が奉納。
平成十七年(2005)、岩井市と猿島町が合併して坂東市が成立し、岩井市は廃止。
現在は坂東市岩井を鎮守する一社、平将門を祀る神社として将門公崇敬者から崇敬を集めている。
境内案内
平将門の史跡が多い坂東市岩井・陸の孤島
当社が鎮座する坂東市は「陸の孤島」とも揶揄される地。
全国的にも珍しく市内に鉄道が通っていない事が挙げられる。
そうした坂東市であるが、当社を含む岩井地域(旧岩井市)は、平将門ゆかりの地として知られる。
当社だけでなく、将門に由来する史跡が数多く残るため、当社を含め色々と巡るのをお薦めしたい。
緑溢れる鬱蒼とした境内
当社は県道20号線沿いに鎮座。
表参道は県道からやや西へ入った先に南向きで整備。
緑に囲まれた鬱蒼とした一画。
社頭には「國王神社」の社号碑。
正面に鳥居が建つ。
鳥居は木造の両部鳥居。
鳥居を潜ると緑溢れる境内。
撮影は正月三が日のものなので、葉が落ちている木々も多いが、以前春先に参拝した時はもっと緑が深く鬱蒼とした境内であった。
普段は無人の神社であるが、氏子崇敬者が定期的に維持管理をしており、以前も地域のお婆さんが清掃している姿を見る事ができ、色々とお話を聞かせて下さった事を覚えている。
境内には手水舎はない。
古い水盤は残っているものの使用不可なため、そのまま参拝へ向かう。
県指定文化財の茅葺社殿・九曜紋
参道の正面に圧巻の社殿。
とにかく特徴的なのが屋根。
今もなお茅葺屋根の社殿として現存。
葺き替えや維持が大変な茅葺を今も維持しているのが素晴らしい。
拝殿は延宝三年(1675)造営と伝わるものの、棟札に記された文化十四年(1817)造営が妥当と推測されている。
入母屋造で重厚感のある拝殿。
拝殿内には多くの奉納額や将門公の神像の写真、絵画などが奉納されている。
本殿は天和三年(1683)に造営とされる。
茅葺屋根の流造で、幣殿によって拝殿と接続。
細かいものではないものの一部に彫刻が施されている。
社殿には至るところに九曜紋。
当社の社紋でもあり、平将門が信仰した妙見信仰との繋がりも深い紋。
妙見信仰を篤く信仰した将門は九曜紋を使用したと云われている。
さらに県指定文化財となっているのが、当社の神像である平将門木像。(非公開)
制作年代は不詳なものの、室町時代の作と推測されている。
狛犬・境内社の妙見社・庚申塔・供養塔
拝殿の前に一対の狛犬。
かなり年季が入っているように見えるが戦後奉納の狛犬。
昭和五十一年(1976)奉納の狛犬で、同年に平将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映された事を記念して奉納されたもの。
台座にNHK『風と雲と虹と』放映記念と記されている。
社殿の左手に境内社。
妙見社は将門が篤く信仰した妙見信仰によるもの。
北極星(北辰)を神格化した妙見菩薩に対する信仰。
神仏分離後は妙見菩薩と同一と見なされている天御中主神を御祭神とする。
将門の一族である平良文の子孫・千葉氏の氏神とされた「千葉神社」などが知られる。
妙見社の隣に庚申塔。
下部に三猿、その上に庚申信仰の本尊・青面金剛の姿が彫られている。
さらに浅間大神(浅間神社)。
浅間神社は明治四十一年(1908)に合祀されたもの。
その隣に守神社。
こちらも明治四十一年(1908)に合祀。
中の碑には守大明神とあり、将門の子孫と伝えられる室町期の猿島郡司・平守明を祀る。
境内の一画に供養塔。
平将門を始めとした祖先の供養塔。
平将門、平家先祖代々、桓武平氏の霊を供養するために建立。
御朱印は特別な日のみ授与・授与品など
御朱印は社務所にて。
普段は無人のため、特別な日のみ社務所が開く。
基本的に無人社のため平時の御朱印対応はなし。
正月三が日、将門まつり(11月第2日曜)の際に対応可能な時のみ頂く事ができる。
上に社紋である九曜紋、中央に「國王神社」の朱印。
下に「下総岩井 平将門之郷」のスタンプが押されている。
社務所が開いている上記日のみ授与品を頂ける。
神札はもちろんの事、御守やステッカーなども用意しているので頂くのもよいだろう。
坂東市の秋の風物詩・岩井将門まつり
当社の例大祭は平将門の命日である2月14日。
例大祭とは別に坂東市全体が盛り上がる行事がある。
それが11月第2日曜に開催される「岩井将門まつり」。
昭和四十七年(1972)、岩井市(現・坂東市)の市政施行を記念して開催された祭りで、郷土の英雄である平将門の勇姿を現代に蘇らそうという祭り。
毎年11月第2日曜に開催。
当社で戦勝祈願を行い、境内を総勢100人の武者が行進して参拝。
その後、武者行列が市内を練り歩き、同じく将門公を祀る「神田明神」や将門塚保存会の協力の元、「神田明神将門太鼓」や「神田ばやし」等が披露される。
将門終焉の地である当社も深い関わりを持ち、地域を盛り上げるイベントとして一役買っている。
所感
平将門終焉の地に、将門の三女によって創建された当社。
普段は無人社ではあるが、平将門公を崇敬する人にとっては大変重要な神社であり、崇敬者も多い。
立地的に公共交通機関での移動はかなり不便で、自家用車がないと移動が大変な場所に鎮座しているのだが、坂東市(特に旧岩井市内)には、将門に関する史跡が数多く残されているので、当社と共に一緒に巡るのがよいと思う。
朝敵とされ討伐された将門であるが、関東圏では一部で英雄視する事も多く、特に江戸時代に幕府が崇敬をしてからはそうした傾向が顕著になったとみられる。
しかし明治維新後は再び逆臣とされ祭神を隠されたりと、時代と共に評価が変わり揺れ動いた。
そうした中でも地域から大切にされ、今も茅葺社殿が残るのは素晴らしいと思う。
魅力の多い神社なので、もう少し色々施策をしたら参拝者もぐっと増えるポテンシャルがあるだけに、平時は閑散としていて参拝する度にどこか惜しい気持ちになってしまうが、素晴らしい境内や歴史を持つ神社であるのは間違いない。
神社画像
[ 社頭 ]
[ 鳥居 ]
[ 社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 水盤 ]
[ 妙見社 ]
[ 庚申塔 ]
[ 浅間神社 ]
[ 守神社 ]
[ 宝物庫 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 供養塔 ]
[ 御神木 ]
[ 石碑 ]
[ 社務所 ]
[ 参集殿 ]
[ 焚き火 ]
[ 案内板 ]
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