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柳森神社 / 東京都千代田区

5.0
千代田区

神社情報

柳森神社(やなぎもりじんじゃ)

御祭神:倉稲魂大神
社格等:村社
例大祭:5月15日前後の土曜・日曜
所在地:東京都千代田区神田須田町2-25-1
最寄駅:秋葉原駅・岩本町駅
公式サイト:─

御由緒

 室町時代、太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する神社である。
 また、おたぬき様と呼ばれる親子狸のお守は、勝負事や立身出世、金運向上にご利益があると信奉されている。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2020/07/09

御朱印

初穂料:─
拝殿前にて。

※拝殿前に印が置かれたセルフ形式で初穂料はお気持ちを賽銭箱へ。

歴史考察

おたぬき様のおやしろ・秋葉原のお稲荷様

東京都千代田区神田須田町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧柳町周辺の鎮守。
古くは江戸城を築城した太田道灌によって江戸城の鬼門除けとして創建されたと伝わる。
江戸時代には「烏森神社」「椙森神社」と共に「江戸三森」と称された。
境内社の「福寿神社」には五代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院が信仰していた福寿神を祀り「おたぬき様」として信仰を集めているため、境内にはたぬき像が奉納されている。

太田道灌による創建・江戸城鬼門除けの柳森稲荷

社伝によると、長禄二年(1458)に創建と伝わる。
太田道灌が江戸城を築城した際、鬼門除けとして京都「伏見稲荷大社」より勧請したと云う。

太田道灌(おおたどうかん)
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。
鬼門(きもん)
艮(うしとら)の方角であり、すなわち北東の方角。
鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角とされる。

道灌は現在の神田佐久間町辺りに柳の木を多数植え当社を創建。
この事から「柳森稲荷」と称され信仰を集めた。

創建の地は現在の鎮座地と神田川を挟んだ対岸にあたる位置。

神田川の堀割工事で柳と共に現在地に遷座

万治二年(1659)、仙台藩によって神田川の堀割工事が行われる。

舟運役立つように神田川を拡幅するよう幕府から命じられた仙台藩第4代藩主・伊達綱村によって行われた。

神田川の堀割工事に際して、外郭の堤を築いて当社周辺に多数植えられた柳を現在地へ移植。
当社も柳と共に対岸へ遷座。
柳が多数移植された当社周辺の堤は「柳原堤」と称された。

江戸時代から大正時代にかけて、当社周辺には柳町・小柳町・元柳町・向柳町・柳原河岸などと柳に因んだ町名があったが、これらは全て当社に因む。現在も当社の社前には「柳原通り」の名が残っている。

徳川将軍家より寄進・商売繁昌の神・江戸三森

元禄年間(1688年-1704年)、徳川将軍家より寄進を受け、幕府作事方によって社殿が造営。

江戸城鬼門除けのために創建された当社は、徳川将軍家からも崇敬が篤かったと云う。

江戸庶民からの崇敬も篤く、特に「商売繁昌の神」として信仰を集めたと云う。
江戸に鎮座していた新橋「烏森神社」、日本橋「椙森神社」と共に「江戸三森」と称された。

いずれもお稲荷様で「柳森稲荷」「烏森稲荷」「椙森稲荷」とも呼ばれた。
烏森神社 / 東京都港区
新橋烏森鎮守。カラフル御朱印の先駆け。心願色みくじや朱印護符など豊富な授与品。烏森の由来・烏森稲荷と称される。平将門を討った藤原秀郷による創建。足利成氏の祈願状。徳川将軍家や江戸庶民からの崇敬。近代建築の鳥居と社殿。御朱印帳・黒朱印帳。

江戸切絵図から見る当社と柳原

当時の神田駿河台や当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(日本橋北神田浜町絵図)

こちらは江戸後期の神田や日本橋周辺の切絵図。
当社は図の左上に描かれている。

(日本橋北神田浜町絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。

赤で囲ったのが当社で「イナリ」の文字が見える。
神田川沿いの一帯が緑になっていて「柳原」の文字を見る事ができる。
「柳原堤」とも「柳原土手」とも云われ、当社と共に柳が移植された事に因む。

和泉橋は現在の昭和通りが神田川を跨ぐ際に架かっている橋。

江戸名所図会に描かれた柳森稲荷と柳原堤

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「柳原堤」として描かれている当社一帯。
神田川の南岸は土手が築かれ数多くの柳が植えられていた事が分かる。
左下に描かれているのが当社。

(江戸名所図会)

当社周辺を拡大したのが上図。

「柳森稲荷」として描かれているのが当社。
神田川に沿って鎮座していて、当時は東向きに鳥居が設けられていた事が分かる。
当社の南側に土手があり数多くの柳の木。
さらに現在の柳原通り沿いは商店が立ち並び人の往来も多かった。

当社の近くには米穀商が集まっていて神田川を利用した舟運の便がよく発展した事が窺える。

明治以降の歩み・関東大震災からの再建

明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。

福寿神(おたぬき様)が当社に祀られる
現在「おたぬき様」と称され信仰を集めている福寿神。
五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が信仰していたものだが、明治維新に際して当社に遷され祀られるようになった。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。

青円で囲った箇所には「柳町」「元柳原町」の町名を見る事ができ、これらは当社の「柳森」や「柳原堤(土手)」に因む町名。
秋葉原貨物取扱所(あきはばらかもつとりあつかいじょ)
当社の北側、緑円で囲った現在の秋葉原駅周辺は「秋葉原貨物取扱所」と呼ばれていた。
明治二十三年(1890)に貨物駅として開設されたもので、当時は貨物専用の駅であった。
旅客営業が開始したのは大正十四年(1925)の事になる。

大正十二年(1923)、関東大震災で被災し社殿などを尽く焼失。
昭和五年(1930)、社殿を再建。
この時の社殿が改修されつつ現存。

昭和三十年(1955)、創建500年記念事業として神楽殿を建立。
昭和五十九年(1984)、放火により神楽殿が焼失。
昭和六十一年(1886)、神楽殿を再建。

その後も境内整備が行われ現在に至る。

境内案内

秋葉原駅近く神田川沿いに鎮座・下り宮

最寄駅の秋葉原駅からは南へ徒歩数分の距離。
神田川沿いに鎮座、社前の通りは「柳原通り」と云う。

柳原通りは当社を含む神田川南岸に柳が多く移植され、柳原堤と呼ばれた土手であった事に由来する。

柳原通り沿いに鳥居。
昭和五年(1930)に建立された石鳥居。
鳥居より低い位置に境内がある、いわゆる「下り宮」。

古くは当社の南側に「柳原堤」と呼ばれた土手の一部があり多くの柳が植えられていたため、現在もその名残で南側より低い位置に境内がある。

鳥居を潜り石段を下りてすぐ右手に手水舎。
水盤は元禄六年(1693)奉納と大変古いもの。

戦前の木造社殿が改修されつつ現存

手水舎沿いに参道を進むと左手に社殿。
南向きの鳥居に対して東向きに鎮座する社殿。
江戸時代の頃には東向きに参道が伸び鳥居も設けられていた事による名残。
関東大震災によって元禄年間(1688年-1704年)に建立された旧社殿は焼失。
昭和五年(1930)に再建を果たし、その後幾度かの改修を経て現存している。

拝殿前には一対の神狐像。
昭和六年(1931)の奉納。
阿形は子持ちで微笑む表情。

桂昌院と玉の輿・福寿神(おたぬき様)・ユニークなたぬき像

小さい境内ながら境内社は多数。
中でも知られるのが「おたぬき様」と称される福寿神。
「柳森神社」とは別に朱色の鳥居が設けられていて、これが福寿神の鳥居。

この鳥居の近くには迫力満点のたぬき像。
何ともユニークなたぬき像で、「おたぬき様」として信仰を集めている事に由来。
その奥にも立派なたぬき像。

社殿の右手に置かれているのが福寿神。
通称「おたぬき様」として信仰を集める。

桂昌院(けいしょういん)が信仰した福寿神
当社に祀られた福寿神は、五代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院が信仰したと伝わる。
古くは江戸城内に祀られていたが、明治維新に際して当社に遷された。
玉の輿の起源の桂昌院
八百屋の娘として産まれたお玉(後の桂昌院)は、三代将軍・徳川家光の側室となり、五代将軍となる徳川綱吉を産み、綱吉が将軍となった後に官位は従一位となった。
八百屋の娘のお玉が登りつめたことで「玉の輿」の語源になったと云う説が広まっている。
実際は俗説で、玉は美しいものの総称、輿は貴人を乗せて人を運ぶ乗り物と云う意味。身分の低い女性が身分の高い人と結婚し立身出世する事を「玉の輿に乗る」と云う言葉が先にあり、名前と出世の経緯から桂昌院が玉の輿の代名詞とされたため、玉の輿の起源とも呼ばれるようになった経緯がある。昔から「玉の輿=桂昌院」と云う代名詞的に使われていたのは間違いない。
おたぬき様の由来・立身出世の御利益
庶民出身ながら「他に抜きん出て」出世を果たし「玉の輿」の代名詞となった桂昌院。
言葉遊びで「他に抜きん出る」→「他抜き」→「たぬき」として「おたぬき様」と呼ばれ、江戸城に祀られていた際は、大奥の女中たちから信仰を集めたと云う。
当社に遷されてからも、立身出世や勝負事・金運向上の御利益があるとして信仰を集めている。

こうした経緯から上述の通り、多くのたぬき像が奉納。
社殿前にも多くのたぬき像。
古くから「おたぬき様」として信仰を集めている事が窺える。

おたぬき様以外にも数多くの境内社・花手水

「おたぬき様」と称される福寿神の他にも多くの境内社。
おたぬき様の左手には幸神社。

右手には金比羅宮。
石鳥居も設けられている。
その隣に水神厳島大明神・江島大明神、いわゆる弁天様。
明徳稲荷神社。
秋葉大神。

水盤は花手水にも
境内社の周辺には多くの古い水盤。
一部は花手水として整備。(2020年7月上旬に参拝時)
小さな神社であるが綺麗に手入れされている事が窺える。

有形民俗文化財の富士塚や力石

鳥居の近くには整備された富士塚。
石段に沿って整備された小さな富士塚。
数多くの富士講の石碑が置かれていて、これらは千代田区の指定有形民俗文化財。
富士講・富士信仰を伝えるもので、浅間神社として整備されている。

富士塚(ふじづか)
富士信仰(浅間信仰)に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚。
本物の富士山に登拝するのは困難でも富士塚に登って富士を拝めば霊験あらたかとされ、江戸を中心に関東圏には数多くの富士塚が築山される事となった。
富士講(ふじこう)
江戸時代に成立した民衆信仰で、オガミ(拝み)と富士登山(富士詣)を行う講社。
地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、特に江戸を中心とした関東で流行したため、各地に数多くの講社があり、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と云われる程であった。

境内の一画には数多くの力石。
力石群として千代田区の指定有形文化財に登録。
町民たちが力比べに使った力石。
大正時代に力比べて有名であった神田徳三こと飯田徳三とその一派が使っていた力石と案内板には記されている。

放火から再建された神楽殿・地域の憩いの場

境内の左手には立派な神楽殿。
昭和三十年(1955)に創建500年記念事業として建立された神楽殿であったが、昭和五十九年(1984)に放火の被害を受けて焼失。
現在の神楽殿は昭和六十一年(1886)に鉄筋コンクリート造で再建されたもの。

当時はバブルの時代で当社一帯の地価が高騰し続けていた時代。悪質な不動産業者や地上げ屋が強引に土地を手に入れるために放火する事件が多発。当社を含めこの一帯もそうした被害に遭った。

神楽殿のあたりや境内には幾つかのベンチ。
そのため地域の人や、近くの職場に勤める事がお昼休みなどは寛いでいる事が多く、地域の憩いの場にもなっている。

セルフ形式にて押す御朱印・猫のいる神社

御朱印は神楽殿の下に置かれている御朱印をセルフで押す形。
「御朱印」と書かれた箱が置いてあるのでセルフで押す事ができる。
御朱印の守り手である猫ちゃん。

当社に参拝すると猫に遭遇する事が多い。この日はたまたま御朱印を納めている箱を守るように猫が寛いでいた。

猫ちゃんに挨拶するとスッと少しだけ身を離してくれる。
自分で御朱印帳に押印する形で、朱印には「柳森稲荷神社」の文字。
そのため朱印のみのシンプルなものとなるが、日付など自分で書き足してもよいだろう。

賽銭箱に初穂料としてお気持ちを入れること。奥に社務所は設けられているが基本的に無人。

「ありがとう」とお礼を言って箱を元に戻すと再び元の位置に戻る猫ちゃん。
実に可愛らしい。

所感

商売繁昌の神様として信仰を集めた当社。
古くは江戸城鬼門除けとして創建され、柳が多く植えられた事から「柳森」と称された。
現在地に遷座した際も柳も一緒に移植され、神田川沿いの土手は「柳原堤」と呼ばれた程。
神田川沿いで舟運の便の良さから発展した当地の神であったため、商売繁昌の神として信仰を集める事となる。
明治になり「おたぬき様」が当社に遷されてからは、立身出世や勝負事・金運向上の御利益があるとして信仰を集め、境内には数多くのたぬき像が置かれているのは信仰を集めた証拠だろう。
小さい神社ながら数多くの歴史を伝え、また境内社も多い。
通りがてら参拝に立ち寄る方も大変多く、地域に愛されているのが伝わる良い神社である。

神社画像

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