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概要
大森駅西口駅前に鎮座する八景天祖神社
東京都大田区山王に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧新井宿村の一部鎮守。
「八景天祖神社」「神明山天祖神社」と称される事が多い。
大森駅西口駅前に鎮座する神社で、神明山と呼ばれる急な石段の先に鎮座。
かつて一帯は八景坂と呼ばれ名所の1つで歌川広重が浮世絵に描いた程であった。
急な石段の表参道(男坂)の他、緩やかな女坂は「馬込文士村散策のみち」として整備され、地域住民の通り道となっている。
神社情報
八景天祖神社(はっけいてんそじんじゃ)
神明山天祖神社(しんめいやまてんそじんじゃ)
御祭神:天照大神
社格等:─
例大祭:9月下旬
所在地:東京都大田区山王2-8-2
最寄駅:大森駅
公式サイト:https://tenso.sanno2.com/
御由緒
お社は江戸時代神明社といわれ主神は天照大神を祭神とし凡そ、享保年間(約三百年前)に、土地の庄屋、年寄、百姓が相謀り伊勢神宮の参詣を目的に「伊勢講」を作り伊勢皇大神宮に詣で分霊をお受けして祭祀したのを初めとする。八大将軍徳川吉宗が将軍就任と共に、伊勢の橋爪源太郎が享保二年(1717)幕命を受け「綱差役…将軍の鷹狩りの時に捕らえた鳥に餌付けする役職で彼は鶴の生け捕り、飼育に長けていた」として不入斗に居を構え菩提寺は円能寺にある。新井宿村の伊勢講の成立ち、並びに遂行管理に伊勢出身者の彼が便宜を図ったことが予測されるので、此の頃には創建された根拠になっている。伊勢神宮は天照大神を主祭神とし、天手力男神、万幡豊秋津姫命を相殿に祀る。従い、本神社も三種の神器の一つの八咫鏡を神体としている。お社は八景坂の西上に当たり境内は四十八段の石段を上りたる幽達の地にして、延宝五年(1677)、江戸幕府の命により円能寺の別当するところになり、明治初年まで同寺の管理下にあった。明治五年(1872)十一月神仏混淆の禁令に伴い、円能寺の手を離れ神明社は伊勢を意味していたので神社ではあるが区内唯一冠称を付け「神明山 天祖神社」と名を改め地元の鎮守として、階段下の神社の大きな標柱にも「鎮守 天祖神社」と刻字され物語っている。(境内の掲示より)
歴史考察
江戸時代中期に村民たちの伊勢講によって創建
社伝によると、享保年間(1716年-1736年)に創建したと云う。
地域の庄屋・年寄・百姓が「伊勢講」を組織、「伊勢神宮」へ参詣して御分霊をお受けして祀ったと伝わる。
「伊勢神宮」へ参詣するために各地域で結成された信仰集団。
太太神楽(だいだいかぐら)を奉納するので太太講とも云う。
講員が旅費を積み立て、選ばれた代表者(籤引きや持ち回りなど交代制)が「伊勢神宮」へ参詣し霊験を受けてくる。
江戸時代は庶民(特に農民)の移動に厳しい制限があったものの、「伊勢神宮」への参詣はほぼ許される風潮があったため、通行手形を発行してもらい伊勢へ詣でた後は京や大阪へ見物を楽しむ者も多く、庶民にとっては生涯において唯一の観光旅行だったとも云える。
当地は新井宿村と呼ばれた村の一画。
新井宿村には熊野信仰の「荒藺ヶ崎熊野神社」、山王信仰の「大森山王日枝神社」など各信仰の神社が残り、伊勢信仰の神社として当社が創建された事が窺える。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(新井宿村)
神明社
八景坂のうへにあり。本社二間に九尺。山上にあり。昔はいまの社の所より背後の方、小祠のあるところにありしと云へり。社前、山の半腹に鳥居をたつ。勧請の年歴を伝へず。村内円能寺持。
新井宿村の「神明社」として記されているのが当社。
「八景坂のうへにあり」とあるように、八景坂と呼ばれた坂上に鎮座。
社前と山の半腹に2つの鳥居が立っていたと云う。
別当寺は「圓能寺」(大田区山王1)。
江戸郊外の名所だった八景坂と鎧掛松
『新編武蔵風土記稿』に「八景坂のうへにあり」と記されているように八景坂に鎮座していた当社。
八景坂は江戸郊外の名所の1つとして知られていた。
現在の大森駅西口付近、池上通りの坂道のこと。
坂上からの眺めが素晴らしく景勝地として知られた。
近くは大森の海岸(江戸湾)、遠くは房総まで一望できたと云う。
「笠島夜雨・鮫州晴嵐・大森暮雪・羽田帰帆・六郷夕照・大井落雁・袖浦秋月・池上晩鐘」を八勝景として見渡せた事から八景坂と称された。
かつては相当な急坂で、雨水が流れるたびに坂が掘られて薬研ようになったため、薬研坂と呼も呼ばれたと云う。
また八景坂の坂上には鎧掛松と呼ばれる松の大木が存在。
その鎧掛松も名所の1つであった。
現在はその三代目とされる松の切り株のみが残る。
文治五年(1189)、源義家(八幡太郎)が奥州征伐(後三年の役)に向かう途中、松に馬を繋ぎ鎧をかけて休憩したという伝承が残る松。
源頼義(みなもとのよりよし)の長男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称した。
関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事が多く、新興武士勢力の象徴とみなされ、義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。
江戸名所図会に当社から描かれた八景坂と鎧掛松
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「八景坂 鎧掛松」と描かれた一枚。
当社は『新編武蔵風土記稿』に記されているように八景坂の上に鎮座。
そのためこの1枚は当社の境内から描いているものと思われる。
当社の境内から八景坂と腰掛松を見渡す形で描かれた1枚なのが分かる。
この絵からも見晴らしの良い景勝地だった事が窺える。
そうした八景坂に鎮座していた当社への信仰も篤いものだったのだろう。
歌川広重も描いた八景坂と腰掛松
江戸郊外の名所であった当社や八景坂の眺めは、歌川広重が浮世絵の題材として描いている。
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。
広重が江戸近郊の名所の百景を描いた作品でそのうちの1つに選定。
構図から『江戸名所図会』と同じで、当社の境内から描いた事が窺える。
現在とはかなり地形の違いがあるが、かなり切り立った崖だったのが分かる。
鎧掛松の手前には茶店が出て、実に風光明媚な景勝地であった。
こちらは江戸近郊の坂を描いたもので江戸見坂、神楽坂、九段坂、目黒行人坂などに並んで紹介。
構図的には『江戸名所図会』で長谷川雪旦が描いたものを模写したかのような内容。
色付けしてありより分かりやすい。
八景坂から景色を見ながら往来する人々を見る事ができる。
明治には裏手に遊園地の八景園・戦後の歩み
明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、別当寺「圓能寺」がら分離し「神明山天祖神社」へ改称。
当社は無格社であった。
社号碑には「鎮守天祖神社」の文字。
明治十七年(1884)、当社の裏手一帯に「八景園」が開業。
江戸時代から名所であった八景坂に郊外随一とも呼ばれた遊園地が誕生した。
明治十七年(1884)に実業家の久我邦太郎が約3万3,000m2の土地を購入し「八景園」と名付けて開園。
明治二十年(1887)には園内に藁葺家屋を建て桜や梅の木を植樹、翌年には蟹料理を名物とする「三宜樓」を開業し、郊外随一の遊園地として人気を博した。
明治三十五年(1902)には皇后(後の昭憲皇太后)も行啓された。
大正二年(1913)に廃業し、その後は区画分譲されて住宅地となった。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行に際し、新井宿村と不入斗村が合併し入新井村が成立。
当社は入新井村の中でも大森駅西口近くの鎮守とされた。
当社の裏手にあった八景園の様子。
同年に皇后(後の昭憲皇太后)も行啓している。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
八景坂や八景園と云う地名も見る事ができる。
当社や八景園の更に裏手には「大森射的場」の文字。
明治二十二年(1889)から昭和十二年(1937)頃まで使用されていた射的場。
近くには「日本帝国小銃射的協会跡」の碑が残る。
大正六年(1917)、台風によって三代目鎧掛松が倒木。
現在は切り株のみが残されている。
戦後になり境内整備が進み現在に至る。
現在は「天祖諏訪神社」の兼務社となっている。
境内案内
大森駅西口駅前に鎮座・急坂の境内
最寄駅は大森駅で、西口のほぼ駅前の好立地に鎮座。
西口前の池上通り沿いにある階段が当社への参道。
「馬込文士村散策のみち」として整備された一画。
地域の人々の通り道となっている。
階段を上った先に急な石段。
かなり古い石段で急坂。
石を積み立てたような坂と不規則な石段なので、足元に注意して上りたい。
石段の先に鳥居が設けられている。
境内から見下ろした様子。
表参道(男坂)は急坂なので、左手から回り込む形で裏参道から参拝することもできる。
こちらが地域住民が通り道として使用している道。
こちら側にも鳥居が設けられている。
子持ちで戯れる可愛らしい狛犬
石段の先に一対の狛犬。
阿吽共に子持ちの狛犬。
少しぼてっとした体躯でおおらかな表情。
吽形には寝転がって戯れる子と背に乗って戯れる子。
何とも愛くるしい姿で、子も共に阿吽になっている狛犬は珍しい。
木造社殿・鎧かけ松の切り株
石段を上った先に社殿。
入母屋造の拝殿。
大きな社殿ではないものの綺麗に管理されているのが窺える。
裏手に回り込めないので本殿をじっくりと見れないが切妻造の本殿とのこと。
地域から愛される鎮守。
拝殿には切り株が置かれている。
歌川広重が描いた鎧掛松の三代目(孫)と伝わる松の木で、大正六年(1917)に台風で倒木し現在は切り株のみ保存されている。
文治五年(1189)、源義家(八幡太郎)が奥州征伐(後三年の役)に向かう途中、松に馬を繋ぎ鎧をかけて休憩したという伝承が残る松。
夫婦円満や恋愛成就の夫婦シイ・力石・大森駅前を望む
境内の参道右手には御神木。
樹齢約300年で夫婦シイと呼ばれる御神木。
夫婦円満・恋愛成就のパワースポットとして人気を集めている。
境内には児童遊園や休憩所も広がる。
これぞ昔の鎮守といった光景。
大森駅前にある地域の人々の憩いの場。
境内からは大森駅方面を望む事ができる。
歌川広重や長谷川雪旦などはこうして当社の境内から八景坂の絵を描いたのであろう。
石段途中にある境内社の稲荷神社・庚申塔
急坂の石段途中左手には境内社。
朱色の鳥居。
その先に正一位伏見稲荷神社。
稲荷神社の隣に置かれているのが句碑。
慶応二年(1866)建立の大野榮山書の句碑。
裏参道の女坂側には庚申塔。
寛政十二年(1800)の庚申塔。
神社の崖下を刳り抜き駒型青面金剛立像が安置されている。
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。
氏子総代が考案したユニークな御朱印・金箔付三筆御朱印
御朱印は社務所にて。
神職が常駐していない兼務社だが、現在は氏子総代などが常駐している事が多い。
社務所の中に上げて下さり、郷土史に詳しい90歳の氏子総代自ら色々と説明しながら授与して下さる。
通常御朱印・金箔付御朱印・空海4種セット・嵯峨天皇4種セット・金箔3種セット・大判用御朱印など複数御朱印を用意(全て書き置きのみ)
※長らく御朱印を中止していた神社だったが2020年12月より氏子総代が考案したユニークな御朱印を複数用意。郷土史に詳しい氏子総代が色々説明した上で授与して下さる。
筆者が頂いたのは金箔付の御朱印3種類セット。
御朱印が入っている封筒には「天祖神社」の朱印と、三筆である空海・嵯峨天皇・橘逸勢の印。
「天祖神社」の印に、両脇には当社の御由緒のスタンプ、さらに三筆の印が押印されている。
日本の書道史上で最も優れた3人の並称。
平安時代初期の空海・嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)の3人。
所感
大森駅の西口駅前に鎮座する神社。
駅前と云う立地もあり人の往来が大変多い場所。
また当社の女坂は生活道路としても使用されているため、地域の人が行き来する。
そうした立地に昔ながらの鎮守として境内が保存されているのは喜ばしい。
かつて八景坂と呼ばれ景勝地と名を馳せた当地。
歌川広重などが見て描いた光景とは随分と様変わりしてはいるが、当時の歴史を伝える。
地域に愛され歴史を伝えるよい神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:300円(通常)・500円(金箔付)・1,000円(4種セット)・1,200円(金箔3種セット)
社務所にて。
通常御朱印・金箔付御朱印・空海4種セット・嵯峨天皇4種セット・金箔3種セット・大判用御朱印など複数御朱印を用意(全て書き置きのみ)
※長らく御朱印を中止していた神社だったが2020年12月より氏子総代が考案したユニークな御朱印を複数用意。郷土史に詳しい氏子総代が色々説明した上で授与して下さる。
参拝情報
参拝日:2021/02/13
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