神社情報
荒藺ヶ崎熊野神社(あらいがさきくまのじんじゃ)
御祭神:伊弉諾尊・伊弉冉尊・速玉雄尊・事解雄命
社格等:村社
例大祭:9月第1土・日曜
所在地:東京都大田区山王3-43-11
最寄駅:大森駅
公式サイト:─
御由緒
数多くの神社の例に漏れず、当熊野神社においても、御創建について、いつ、誰が、という明確な記録は残っていません。しかしながら、いくつかの関係資料を総合しますと次のようになります。
まず、最も古いものとして、姓氏家系大全中に、以下の記事があります。
「元亨年中(1321年〜1323年、執権北条高時の時代)、紀州より江戸方面開墾のため、富田、長田、鈴木、橋爪氏等の此の新井宿に移住せし時、自らの氏神、熊野本宮、新宮、那智の三社を勧請し、熊野神社を創立す」
此の記事の中で、長田という名前は、春日橋交差点の近くの長田(オサダ)稲荷というお社に残っており、また、橋爪氏の家系は今でも続いていらっしゃいます。
次に、江戸時代の記録として、新編武蔵風記、荏原郡、巻の五に、「熊野神社、稲荷社より猶山上にあり。本社二間に一間(奥行が二間で、間口が一間)、覆屋あり。元和年中、日光御遷宮のとき(1615年)、地頭木原大工(タクミ)は其の頃大工の棟梁なりしかば、かれは御造営のことを命ぜられ、落成の日、御祝式の飾に用いられし冑を神体とし、御造営の余木(アマリギ)を以て此の社を造り、熊野權現を祀(マツ)れり」とあります。
此の記事の中での稲荷社は、別の記録から見ても、現在、女坂の石段の途中にあって、義民六人衆の徳をたたえてその名が呼ばれている、衆善稲荷を指していると言えます。
また、昭和44年の御改築の際出来上がった、鉄筋コンクリート造の御本殿内に御納めされた元々の御本殿は、奥行二間、間口一間であり、以前は屋根だけの上屋(ウワヤ)に覆われていた状況は此の記事の通りです。此の木造の御本殿は大田区内の神社の中では最も古く、また、境内東口の鳥居(昭和15年に男坂石段の麓から移設)は「寛政8年(1796年)建立」と刻まれており、区内で二番目に古いものです。
前掲の木原家文書の中で、木原家第四代義久は、寛永20年(1643年)に、「社を再興し奉り、是を本宮とあがめ、中段の地をひらき、新に社を建て、新宮と称してたてまつる。」と記しています。さらにまた、前掲の新編武蔵風土記の中でも、熊野本社の記事に続いて、熊野新宮として、「本社と同じ山つづきにして、南の方にあたれり。社は二間半に二間、内陣九尺の一間、勧請の年代はつたえされど、本社建立の後のことなれば、ちかき社なるべし。社前に鳥居をたて、其の前に石段あり。」という事が書かれています。しかしながら、此の新宮の事は全く判りません。今から約70年前まで、当神社の隣にあった広大な間島邸の中に大きな築山があり、御当主の間島松太郎氏のお話では、此の山は新宮山と呼ばれていたとの事です。此の山は、間島邸の分譲工事の際切崩され、今では全く跡を留めておりません。なお、新編武蔵風土記には、「末社疱瘡(天然痘の俗称)社、本社に向いて左にあり、小祠。天神社、これもわづかなる祠なり、同じ所にあり。」と記されてあります。この二つの小祠は、何れも石積みの基壇の上に、石を刻み込んで作った、高さ70〜80センチメートルの小さな宮形としてあった事は小生の記憶に残っています。しかしながら、お粗末になるといけないから、との先代宮司(大野政顕)の考えで、これらの神様は現在の衆善稲荷の中に合祀されております。
ここで再び木原家と熊野神社との結びつきを木原家文書からご紹介しますと、次の通りです。
「新井宿の領主木原七郎兵衛吉次は、其れ元、神饒速日尊より出でて、紀州勝浦の城主、鈴木因幡守重秀孫葉、鈴木三郎重家の苗裔なり。もとより熊野大神を以て祖神と崇む。先祖中興足利将軍家奉仕、其の後今川に属し、父吉頼より吉次に至り、東照大神宮に奉仕、今川より己来、遠州木原の郷司としてよって住居す。大神君常に木原と呼ばせたまひ、即ち木原の在名に改む可き旨、天野三郎兵衛景康を以て仰せ付けられ、それより鈴木を改め、木原を以て称号とす。天正十八康寅の年(1590年)、大神君関東八州御領国となりて御国替えの時、御家人各々大小となく領地替代の節、七郎兵衛吉次も遠州木原の旧地替代、当郷新居宿村を給いて食邑とす。此の邑のうちに古来より熊野神社あり。麓に之れ有る善慶寺これを守る。元より熊野權現は吉次祖神にして累代是を敬う。殊に旧領木原郷にもむかしより此の御社ありて、木原權現と称し、今又領せしむる邑の内に此の御社の有ること、神徳に叶う幸いと悦び、吉次、即ち社殿を造営せしむ。其の後大神君の御代、天下一統となりて、諸人万歳をとなう。大神君の御嫡孫、家光君の御時、吉次四代の孫、木工允(タクミノカミ)義久、代々続いて新井宿を領する事、凡そ八十余年、義久、別而權現をうやまう。・・・・・」(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2019/08/01(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/10/25(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
大森山王の高台に鎮座する熊野さま
東京都大田区山王に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧新井宿村鎮守のうちの一社。
「荒藺ヶ崎」と書いて「あらいがさき」と読む。
当地周辺の高台がその昔「荒藺ヶ崎」と呼ばれていた事に因む。
大森駅から池上通りの商店街や「MEGAドン・キホーテ 大森山王店(旧ダイシン百貨店)」の近くに鎮座しながらも、鬱蒼とした緑に囲まれた高台に鎮座。
境内や隣接する旧別当寺「善慶寺」には、当地に伝わる悲劇・新井宿義民六人衆の歴史が伝わる。
万葉集で詠まれた荒藺ヶ崎・古くから人が住んだ新井宿
創建年代は不詳。
社伝によると元享年間(1321年-1323年)に創建と伝わる。
当社が鎮座する高台は、古くは「荒藺ヶ崎(あらいがさき)」と呼んでいたと伝わる。
現存する最古の和歌集『万葉集』にその文字を見る事ができる。
草陰之 荒藺之埼之 笠島乎 見乍可君之 山道超良無
草陰の 荒藺の崎の 笠島を 見つつか君が 山路越ゆらむ
奈良時代末期に成立した日本に現存する最古の和歌集。
天皇・貴族・防人・農民・東国民謡(東歌)など、様々な身分の人々が詠んだ歌が収められていて、作者不詳の和歌も2100首以上ある。
この歌が誰がどの場所を歌ったものなのか不詳ではあるが、大森周辺を歌ったとの説がある。
「荒藺の崎」は、当社が鎮座する高台「荒藺ヶ崎」の事であると伝わっている。
「荒藺の崎」「笠島」の名から、この和歌の舞台は大森周辺だったと云うのも信憑性のある説で、当社の「荒藺ヶ崎(あらいがさき)」はこの古い地名に因む。
当社の北側の道が古くは「相模街道」と呼ばれた相模へ続く古道で、当地周辺は「新井宿」と称され古くから人の定住があったと云う。
紀州から移住した一族が熊野三山を勧請して創建
元享年間(1321年-1323年)、当地を領地としていた梶原氏が、当地を開墾するため紀州(和歌山県)より富田氏・長田氏・鈴木氏・橋爪氏などの一族を招き、一族が移住。
一族たちの氏神である「熊野三山(本宮・那智・速玉)」を勧請して創建したと伝わる。
熊野三山(現・和歌山県)に祀られる神々である熊野権現を祀る信仰。
熊野三山とは、和歌山県の「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3つの神社の総称で、全国に3,000社近くある「熊野神社」の総本社にあたる。
古くは神仏習合の色濃い信仰で、熊野三山に祀られる神々を、本地垂迹思想のもとで熊野権現と呼ぶようになった。
神聖なる熊野の姿を偲び、古い土地である当地の高台に祀ったのであろう。
日光東照宮の余り木を使い社殿を造営
天正十八年(1590)、徳川家康が関東移封によって江戸入り。
この際に、遠州(静岡県)山名郡木原村の木原吉次を、当地(新井宿)の地頭職とした。
以後、徳川政権下では木原家が新井宿村の領主となり治める事となる。
代々、松平氏(徳川家の母体)に仕え、遠江国山名郡木原村に500貫を領していた一族。
吉次は徳川家康に仕え、浜松城築城を命じられた際は普請方総奉行を務めた。
徳川家康が関東移封によって江戸入りした際にも付き従い、武蔵国荏原郡の当地周辺に440石を賜り領地とした。
木原家は代々大工の棟梁を務め、過去に木原吉次が浜松城築城の普請方総奉行を務めたように、江戸時代になってからも普請方(土木関係を司る役割)を務めていた。
元和年間(1615年-1624年)、三代将軍・徳川家光が「日光東照宮」を造営改築した際にも棟梁を務めたとされ、その際に余った木を使い当社の社殿を造ったとされている。
この頃には、当社の高台を木原家を由来として「木原山」と呼ぶようになり、この付近は徳川将軍家の鷹狩など狩場ともなっていたとされている。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(新井宿村)
善慶寺(中略)
稲荷社
本堂の背後山の中腹にあり。二間に一間。神体は三十番稲荷の内の稲荷なり。寺の傳へに昔は社のみありて神体もなかりしに、いつの頃のわざとも知らず、今の神体を納めてありしとぞ。想ふに諸国巡礼のものなどが持来りしものならんと云り。前に石階ありて、其下に鳥居をたつ。
熊野本社
稲荷社より猶山上にあり。本社二間に一間覆屋あり。元和年中日光御遷宮のとき、地頭木原木工はそのころ御大工の棟梁なりしかば、かれへ御造営のことを命ぜられ、落成の日御礼式の飾に用ひられし冑を神体とし御造営の余木を以この社をつくり熊野権現に祀れり。神体はいま別当に蔵す。練鉢のごとく紙を以はりたれたる冑にて四十八間の筋あり。すべて黒塗にして星には金泥をぬり鎧は日根野形にして白糸威なり。吹返に御紋あり。
寶物
貝、老石、木の葉石、二股竹、経文古写。此余にも駒の玉、日取玉、水晶念珠、関蟹芝草等もありしと社記に載たれども、いつの頃にか失して今はなし。
熊野新宮
本社とおなじ山つづきにて、南の方にあたれり。この所は善慶寺境内にはあらざれども、因みにここに出せり。社は二間半に二間、内陣九尺に一間、勧請の年代はつたへざれど本社建立より後のことなればちかき社なるべし。社前に鳥居とたてて其前に石階あり。
末社
疱瘡神社。本社に向ひて左にあり。小祠。
天神社。これもわずかなる祠なり。同じ所にあり。
新井宿村の項目に記されていて、当社の別当寺を担って現在も隣接する「善慶寺」の項目に付随するように記載されている。
「熊野本社」と記されているのが当社。
上述した木原家の話が記されていて、「日光東照宮」の余り木を使って社殿を造営したというのは、江戸時代から伝わる話であり、信憑性の高いものと云えるだろう。
御神体は「善慶寺」に移されていて、神仏習合の元、当地周辺から崇敬を集めた。
「熊野新宮」と記されているのが、当社の山続きにあったとされる神社。
現存はしていないが、寛永二十年(1643)木原家第四代・木原義久が、築山した上で造った神社とされており、木原家が管理する神社だったと思われる。
「稲荷社」は、当社へ続く女坂に鎮座する境内社「衆善稲荷」の事。
こちらには三十番神を祀っていたと記されている。
末社の「疱瘡神社」「天神社」は、しばらく小さな祠として残っていたようだが、先々代の宮司の頃に「衆善稲荷」に合祀され、現在はその姿は残っていない。
明治の神仏分離・その後の歩み
明治になり神仏分離。
同じ境内にあった「善慶寺」と分離。
明治十年(1877)、村社に列した。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行によって、新井宿村と不入斗村が合併し入新井村が成立。
当社は入新井村の鎮守を担った一社であった。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当社の鎮座地は赤円で囲った場所で、今も昔も変わらない。
入新井村や新井宿と云う当時の地名を見る事ができる。
当時から現在の池上通り沿いは栄えていたことが分かる。
大森駅の西側に「八景坂」「八景園」とあるが、古くから大森駅西側の坂からの眺めが大変美しかったことから「八景坂」と呼ばれたもので浮世絵などにも描かれている。
明治二十二年(1887)に八景坂の頂上に「大森八景園」が開業し、京浜随一の遊園地、さらに梅の名所として東京近郊の行楽地として栄えることになった。
明治三十五年(1902)には昭憲皇太后が行啓されている。
その後、大正時代になって宅地化され現在はその影は見えない。
大正十四年(1925)、当社の石段が陥没したため修復を開始。
その際、横穴式古墳が見つかり、そこから3体の人骨が発掘されている。
この石段付近と思われ、ここに鎮魂碑「三体霊神碑」が建立。
昭和七年(1932)、大森区が成立し、大森区新井宿という住居表示となる。
この段階ではまだ旧地名の新井宿の名が残っていた。
昭和四十年(1965)、順次行われていた住居表示によって新井宿が廃止。
旧新井宿村の地名は、山王・大森北・大森西・南馬込・中央といった住所に分けられ、公式には消滅。
昭和四十四年(1969)、鉄筋コンクリート造で社殿を改築。
これが現在の社殿となっている。
その後も移り変わりの激しい当地にて、緑溢れる高台の上に鎮座し続けている。
境内案内
善慶寺の山門の先にある参道
最寄駅の大森駅から徒歩10分程の距離、池上通り沿いに当社へ向かう参道がある。
MEGAドンキホーテ大森山王店(旧ダイシン百貨店)の近く。
参道入口には「村社熊野神社鎮座」の社号碑。
更に「新井宿義民六人衆霊地参道」が目印になっているので分かりやすい。
この路地が旧別当寺「善慶寺」の参道。
先に「善慶寺」の山門があり、当社へはこの「善慶寺」の山門を入っていく。
先に見える鳥居が当社の一之鳥居。
右手にあるのが新井宿義民六人衆墓がある事でも有名な「善慶寺」。
こちらも合わせてお参りしたい。
急勾配で鬱蒼とした緑が生い茂る男坂
「善慶寺」の横を通るようにして一之鳥居へたどり着く。
社号碑には「村社熊野神社」の文字。
鳥居正面が男坂、鳥居右手が女坂。
どちらも中々の急勾配で正面が男坂。
これらの石段は緑が生茂っており、霊地といった雰囲気たっぷりの社叢。
ぐるっと迂回できるようにもなっているが、それもまた中々の登山道。
開けた池上通りからちょっと入ると、こうした場所がある事に驚く。
手水舎・二之鳥居・子沢山の狛犬
手水舎の先に二之鳥居。
二之鳥居を潜り、さらに石段を上ると社殿が見えてくる。
参道を上ると目の前に朱色の社殿と一対の狛犬。
狛犬は阿吽共に子持ちの狛犬。
抱きかかえるだけでなく背中にもよじ登っていたりと子沢山の狛犬で可愛らしい。
状態もよく造形も中々のもの。
戦後再建の社殿と大田区最古の本殿
社殿は昭和四十四年(1969)に改築されたもの。
朱色の鉄筋コンクリート造による社殿。
朱色が渋みを出している。
社号碑には「荒藺崎熊野神社」の文字。
本殿も同様に鉄筋コンクリート造になっている。
庚申塔・狐碑・力石・江戸時代の鳥居など
社殿の左手には古い信仰を伝える史跡が置かれている。
右手にあるのが庚申塔で、文化十四年(1817)のもので、この庚申塔には不思議な逸話が残されている。
ある時、見知らぬ老婦人が社務所を訪れ「夢枕に立った神様より、土に埋まったままの庚申様を掘り出して欲しいと告げられた」と申し出た。
そこで探してみたところ、長らく男坂石段の脇に埋もれたままになっていた庚申塔が発見されたため、掘り出し清めて安置したものである。
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。
その庚申塔の左手にあるのが狐碑。
文久元年(1861)の銘がある江戸時代の碑。
人に害をなした狐を埋葬したものだと云う。
社殿前に力石。
無造作にさし石と彫られた力石が置かれており、重さ90kgほど。
社殿の右手には東参道があり、その鳥居が古い。
寛政八年(1796)建立の鳥居で、扁額には「熊埜宮」の文字。
かつては男坂にあったものが昭和十五年(1940)に移設。
社殿の向かって左手に神楽殿。
緑生茂る境内には、他にも石碑や神輿庫などが整備されている。
衆善稲荷と悲しい英雄・新井宿義民六人衆
一之鳥居の右手には女坂。
この女坂の中腹に境内社の「衆善稲荷神社」が鎮座。
『新編武蔵風土記稿』に稲荷社と記されていており、末社として記されていた疱瘡神社と天神社は、このお稲荷様に合祀された。
社号の「衆善」は、当地に伝わる「新井宿義民六人衆」に由来する。
新井宿に代々伝えられる悲しくも英雄の伝承。
延宝元年(1673)、旱魃と翌年の多摩川の氾濫による洪水で疲弊した新井宿の農民たちは、領主である木原家に年貢の減免を願い出たが認められなかった。
こうした暴政と過酷な年貢の取り立てに耐えかねた新井宿村の農民は、死を賭して江戸の老中へ駕籠訴えをするか、奉行所の白州へ駆け込み願をとる他なしと覚悟を決める。
延宝四年(1676)、村人の代表者6人が江戸へ赴く事となる。
しかし密告によって目的を果たす前に領主の知るところとなり、この訴えが幕府役人に届くと領主が咎められてしまうため、全員が捕らえられた上で斬首という最期を遂げる。
直訴を試みた罪は重く、6人は天下の大法を犯した大罪人とされた。
葬式はもちろん墓を建てる事も許されず、遺族もお家断絶となったと云う。
この事から6人の亡骸は、菩提寺すら引き取る事をためらう事となり行き場を失ってしまう。
更に6人は領主によって極悪非道の反逆人とされ続けたため、明治の頃までは「6人もの」と呼ばれ、名前を口にするのも憚られたとされている。
そこで当時の当社別当寺「善慶寺」が亡骸を引き取り、禁を破って葬って供養したと云う。
現在も「善慶寺」には村人が父母の墓という名目で建てた墓石が残る。
墓参すると義民六人衆を同時に供養できる工夫がされていて、現在は都指定文化財になっている。
明治の頃までは「6人もの」と名前を呼ぶのすら憚られた状況であったが、村のためを思い行動をした6人を村人は忘れず、この稲荷社もそこから「衆善稲荷」と名付けられ崇敬をされ続けた。
現在も崇敬の篤いお稲荷様。
当地に伝わる悲しい英雄と村人の思いが詰まったお稲荷様である。
御朱印には5羽の八咫烏の姿
御朱印は中央に「熊野神社」の朱印、左下に「熊野神社社務所之印」。
更に5羽の八咫烏がくっつき円をなしている印となっていて、個性的で有り難い。
八咫烏(やたがらす)は、3本足のカラスとして知られている。
日本神話において神武天皇を熊野国から大和国へ道案内したとされるため、導きの神として信仰を集める他、熊野信仰の神使とされている。
なお、日本サッカー協会のシンボルマークや日本代表エンブレムにも八咫烏がデザインされている事でも有名。
所感
当地は『万葉集』に登場する「荒藺ヶ崎」とされており、古い歴史のある当地に創建した当社。
その後、新井宿村の領主となった木原家からの庇護など崇敬を集めた。
当地に伝わる「新井宿義民六人衆」との関わりも深い。
現在もそうした当地周辺の歴史や信仰の詰まった境内となっていて、境内全体がとても素晴らしい鎮守の杜となっている。
石段は熊野を思わせるような雰囲気のある霊地の坂になっているのも特徴。
大森駅からも近く発展する池上通り沿いから少し入った先に、こうした場所がある事に驚く人も多いのではないだろうか。
これからもこの社叢を維持して欲しい、そう思える良社である。
神社画像
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[ 参道・供養塔 ]
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[ 新井宿義民六人衆墓 ]
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