自由が丘熊野神社 / 東京都目黒区

目黒区

神社情報

自由が丘熊野神社(じゆうがおかくまのじんじゃ)

御祭神:速玉之男尊・伊弉冉尊・泉津事解之男尊
社格等:─
例大祭:9月第1土・日曜
所在地:東京都目黒区自由が丘1-24-12
最寄駅:自由が丘駅
公式サイト:─

御由緒

 熊野信仰は、平安時代(794-1192年)の中期より盛んになったが、公家勢力が衰え武士階級の時代即ち鎌倉時代(今より約七百九十年前)より、東国の武士、庶民の間に、西方熊野を極楽浄土になぞらえて、参詣が逐次盛んになり、現在の目黒地域からも、那智熊野参詣の記録があり、当神社創設の年月は詳らかではないが、その時代、本宮の神霊を拝受して祀られたものと思われる。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2019/06/19(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/08/16(御朱印拝受)
参拝日:2015/03/25(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:500円(書き置きの場合は300円)
社務所にて。

※毎月月替りの御朱印を用意。
※以前は初穂料300円だったが2019年参拝時は初穂料500円に変更。(書き置きは300円)

[2019/06/19拝受]
(2019年6月)

[2016/08/16拝受]
御朱印2(2016年8月)

[2015/03/25拝受]
御朱印(旧御朱印)

御朱印帳

初穂料:1,200円
社務所にて。

現在は御朱印帳の頒布は行っていない。再開予定もなしとの事。

2015年参拝時に頂いたオリジナルの御朱印帳。
くちなし染めの御朱印帳で表面にはうっすら時期によって色合いが変わる事があり。
真ん中上部に薄く熊野神社の社印あり。

くちなし染め
美しい青色は、アカネ科の常緑樹【梔子】(くちなし)より抽出した色素をバイオ技術によって青色に変化させた天然色素です。梔子の実は、古くから生薬や染料として用いられていました。やさしい自然の色に熊野神社のご神木、欅(ケヤキ)の葉を捺染めしました。年月とともに移ろいゆく自然の色合いを楽しみ、心通う神々の御神霊を大切になさって下さい。(同封の半紙より)

[ 表面 ]

[ 裏面 ]

授与品・頒布品

交通安全ステッカー
初穂料:300円
社務所にて。

歴史考察

自由が丘鎮守の熊野神社

東京都目黒区自由が丘に鎮座する神社。
旧社格は無格社、かつて谷畑と呼ばれた自由が丘・緑が丘一帯の鎮守。
正式名称は「熊野神社」だが、他との区別から「自由が丘熊野神社」とさせて頂く。
村人より崇敬された熊野信仰の神社で、自由が丘の発展を見守ってきた。
商業地区として発展した自由が丘の街中で緑豊かな境内を維持し、地域の憩いの場となっている。

衾村谷畑と云う農村だった自由が丘

創建年代は不詳。

一説では鎌倉時代以前の創建とされる。

かつての自由が丘は、武蔵国荏原郡衾村(ふすまむら)の谷畑(やばた)と云う地域であった。
そうした谷畑の鎮守として村民によって熊野権現が祀られたと云う。

衾村(ふすまむら)の由来
衾村の地名由来には諸説ある。
・民間信仰の神の名「塞坐大神(ふせぎますおおみかみ)」の「ふせぎます」が転訛
・古くから馬の飼料「麩(ふすま)」の産地として知られていた
・湿地に馬が足を踏み入れたところから「伏馬(ふしま)」と呼ばれた
・地形上、呑川の本支流の谷間(はざま)が多いところから「間(はざま)」が転じた
他にも諸説あるものの定説となるものはない。
衾村は現在の目黒区八雲を中心にした広い地域で、自由が丘周辺も衾村の範囲内。
目黒の地名 衾(ふすま) 目黒区

現在の自由が丘周辺は衾村の中でも「谷畑(やばた)」と呼ばれ、その名の通り谷と畑ばかりの大変のどかな農村で、小さな集落であったと云う。

熊野信仰の広まりと村民による創建

創建年代は不詳ながら、鎌倉時代以前の創建と伝えられている。
衾村谷畑の村民が熊野詣をした際に、「熊野本宮大社」の御分霊を勧請したと云う。

熊野信仰(くまのしんこう)
熊野三山(現・和歌山県)に祀られる神々である熊野権現を祀る信仰。
熊野三山とは、和歌山県の「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3つの神社の総称で、全国に3,000社近くある「熊野神社」の総本社にあたる。
古くは神仏習合の色濃い信仰で、熊野三山に祀られる神々を、本地垂迹思想のもとで熊野権現と呼ぶようになった。
熊野本宮大社
熊野本宮大社の公式ホームページです。全国3000社ある熊野神社の総本宮全国熊野神社です。上四社、中四社、下四社の三社からなり熊野三所権現と言われます。
熊野速玉大社公式サイト|和歌山県新宮市鎮座 根本熊野大権現 世界遺産
熊野速玉大社公式サイト
熊野那智大社
熊野三山の一社、熊野那智大社(那智の滝)の公式ウェブサイトです。日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬の厚い社です。

熊野信仰の広まりを見ていくと、平安時代になると公家・貴族により熊野信仰が盛んになる。
特に院政期には歴代の上皇の参詣が頻繁に行なわれ、後白河院の参詣は34回に及んだ。
その後、鎌倉時代になると武家からの信仰が篤くなり、東国武士にも広まる事になる。
その頃には庶民にも熊野信仰が広まり、熊野三山までの熊野詣も行われるようになっている。

浄土信仰が盛んになっていく中で、熊野の地は極楽浄土と見なされ、日本各地からの参拝が行われるようになり、庶民も講を結成し熊野詣が盛んに行われるようになっていく。当社の創建もその時期によると推測されている。

江戸時代より前には幾度も熊野信仰の流行があり、「熊野神社」は日本全国に勧請。
当社もそうした流れの中、衾村谷畑地域の村民(当地の名主と思われる)が熊野三山へ熊野詣をし、「熊野本宮大社」の御分霊を勧請した事が創建由来という事になるだろう。
村民による熊野信仰が根底にあり創建したのは間違いない。

新編武蔵風土記稿に記された当社

当社の正確な史料は江戸時代に遡る。

宝暦十二年(1762)の『衾村絵図』に当社は「熊野大権現」と記載。

「熊野大権現」と記載された当社だが、当時は地名から「谷畑の権現さま」と呼ばれた。

寛政八年(1796)、本殿・拝殿を改築。
文化十一年(1814)、本殿・拝殿の改築。

いずれも記録が残る。

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(衾村)
熊野社
境内除地。五畝歩。小名谷畑にあり。是も草創の年暦をしらず。本社一間四方の小祠。拝殿は二間に三間南向なり。村の持。

「熊野社」と書かれているのが当社。
衾村の「谷畑」にあり、創建年代は不詳といった事が記されている。
村の所有だった事が分かり、地域の人々により管理され崇敬を集めた。

明治以降の歩み・自由が丘の祖とされた栗山久次郎

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

明治二十二年(1889)、市制町村制によって碑文谷村・衾村が合併して碑衾村が成立。
当地は碑衾村谷畑となり、当社は谷畑一帯の鎮守を担った。

碑衾村の村長・栗山久次郎(くりやまきゅうじろう)
同年、発足した碑衾村の村長を20年に渡り務める事になったのが栗山久次郎。
自由が丘の祖とも云える人物で、現在も当社境内に栗山久次郎の銅像や顕彰碑が建つ。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、現在も変わらない。
当時の地図に「熊野神社」と記してあるように当地の目印にもなる神社であった。
今は残っていない古い地名「谷畑」に関連する地名も数多く見る事ができる。
当社はこうした谷畑の鎮守として崇敬を集めた。

谷畑が自由が丘・緑が丘といった地名に変わっていく。

同年、当社の本殿が造営。

当時の自由が丘周辺は古地図を見ての通り、まともな道路もなく、あっても曲がりくねった農道が僅かにあるだけのかなりの田舎であった。そのため住宅地へ発展するにあたり、耕地整理が必要となってくる。

大正十五年(1926)、衾西部耕地整理組合が設立。
この組合長になったのが、長年村長を務め既に引退していた栗山久次郎。

後年(昭和九年)になって上述の銅像が建てられたように、大変人望の厚い人物であった。

彼が組合長となり尽力した衾西部耕地整理組合が推し進め区画整理を行った地が、後に「自由が丘」という地名となる事になる。
そして「自由が丘」の地名由来となった「自由ヶ丘学園」へ土地を提供したのも彼によるものであった。

こうした事で「自由が丘の祖」と云える人物であり、自由が丘の鎮守となっている当社境内に銅像が建てられたのは、彼と当社が地域の人々により崇敬された証拠とも云えるだろう。

自由が丘の地名由来・現在の自由が丘へ

昭和二年(1927)、現在の東急東横線が開通。

現在の「自由が丘駅」の当時の駅名は「九品仏前駅」であった。

同年、現在の自由が丘の地に「自由ヶ丘学園」が開校。
手塚岸衛と云う教育者が、自由主義教育を掲げて創立した学校で現存。
彼の自由教育という理念に賛同し、土地を貸し与えたのが上述した「自由が丘の祖」こと栗山久次郎である。

自由ヶ丘学園高等学校

昭和四年(1929)、現在の東急大井町線が開通。
「九品仏」の門前に新たに駅が開設される事となり、この新駅名が「九品仏駅」を名乗る事となったため、旧九品仏前駅は改称を余儀なくされ、旧衾村の地名より「衾駅」に改称する事となったのだが、多くの文化人を巻き込んだ駅名反対運動が発生してしまう。

この反対運動の原因は、一言でいうと、「衾駅」という駅名は田舎臭いという事による。大変な農村であった衾村の地名は、東横線開通後に居住をした新興住民たちにとって、田舎臭い名前であり、受け入れる事ができなかったのであろう。

反対運動の結果、「自由ヶ丘学園」の学校名を由来として、「自由ヶ丘駅」と云う駅名に決定。

その後「碑衾町衾」「谷畑」といった住所も、新興住民たちが使わなくなってしまい、いつしか勝手に自由ヶ丘を名乗るようになり置き換えられてしまうようになる。
結果、地名改正要求が発生。

駅周辺に移住してきた人たちは郵便物に「自由ヶ丘駅前○番地」と書くようになるなど、「自由ヶ丘」は次第に地名化していく。

昭和七年(1932)、「荏原郡碑衾町自由ヶ丘」として正式な地名として認可。
同年、目黒区が成立した際に「目黒区自由ヶ丘」となった。

昭和四十年(1965)、現在の「自由が丘」という「ヶ」が「が」の字に改められ現在に至る。

自由が丘の由来
すなわち「自由が丘」の地名由来は、現存する「自由ヶ丘学園」の学校名が由来。
新興住民たちによって、学校名が駅名に昇格。
さらには地名まで昇格したという事になる。
古い地名をないがしろにし、新しい地名を喜ぶのは、新興住民の多い地によく見られる例であり、自由が丘も正にそうした流れの中で生まれたと云えるだろう。
目黒の地名 自由が丘(じゆうがおか) 目黒区

昭和四十二年(1967)、当社の拝殿・幣殿を再建。

その後も境内整備が進み、自由が丘・緑が丘の鎮守として現在に至る。

境内案内

自由が丘駅近くの鎮守の杜

自由が丘駅からほど近い距離に鎮座する当社。
商業施設が多い区画に鎮座していながらも、今もなお緑が多く鎮守の杜を維持している。

余談になるが当社の向かいにはMr.都市伝説・関暁夫が運営する「セキルバーグカフェ」がある。

石垣で囲まれた境内の先に、一之鳥居と社号碑。
昭和二十三年(1948)に奉納された一之鳥居には「熊野神社」の扁額。

その先に二之鳥居。
昭和八年(1933)建立で戦前のもの。

二之鳥居を潜ると右手には児童遊園。
現在はシーソと乗り物が置かれているのみだが、商業地区として発展する自由が丘の中の憩いの場となっている。

緑も溢れ児童遊園も残り、自由が丘の中で地域の鎮守としての古い姿を今も残す。

朱色の三之鳥居・現代的な狛犬

参道の途中に三之鳥居。
朱色の両部鳥居で木造のもの。
文政六年(1823)の建立と伝えられていて、そちらが改修されながら現存。

その先に石段。
石段の手前に一対の狛犬。

この狛犬は平成十三年(2001)奉納と新しいもの。
岡崎現代型の量産された狛犬とは違い、現代的な意匠の狛犬。
古くは明治に奉納された狛犬があったものの破損したため、こうして氏子たちによって再建を果たした。

石段を上った先、右手に手水舎。
昭和四十三年(1966)に造営された立派な手水舎で、水も流れ身を清める事ができる。

戦後に再建された朱色の拝殿・明治の石造り本殿

参道の正面に鮮やかな朱色の拝殿。
昭和四十二年(1967)に再建された拝殿。
鉄筋コンクリート造にて再建された。
朱色と周囲の緑の対比が美しい。
発展する自由が丘の地にこうした緑を残しているのも、地域からの崇敬の賜物であろう。

本殿は明治四十二年(1909)に造営されたものが現存。
画像だと木に邪魔され分かりにくいが、本殿は石造りの蔵のような形で比較的珍しい。

拝殿前に一対の狛犬。
昭和四十八年(1973)奉納。
こちらも現代的な造形。

立派な社殿の稲荷神社・戦前の神楽殿

社殿の右手には境内社の稲荷神社。
境内社ながら社殿が立派な造り。
社殿には美しい彫刻も。
木鼻の獅子、さらに龍の彫刻。
江戸時代の頃より境内社として祀られているお稲荷様。
掲げられた絵馬は明治時代のもので、当社への篤い崇敬を窺える。

その隣には忠魂碑。
稲荷神社と共に地域からの崇敬の篤い一画。

境内左手には神楽殿。
神楽殿は昭和九年(1934)に改築されたもので、例祭では神楽殿で「目黒ばやし」が奉納。
神楽殿は渡り廊下で拝殿へと繋がる。

自由が丘の祖・栗山久次郎翁の像

参道の右手に栗山久次郎翁像。
自由が丘の祖とされる栗山久次郎の像と顕彰碑で、昭和九年(1934)に建立。

栗山久次郎(くりやまきゅうじろう)
明治二十二年(1889)に発足した碑衾村の村長を20年に渡り務めると、引退後も大正十五年(1926)に衾西部耕地整理組合が設立されると組合長となり区画整理を行う。
こうして区画整理が行われた地が、後に「自由が丘」という地名となる。
「自由が丘学園」の創立者・手塚岸衛に賛同して自分の土地を貸し、この「自由が丘学園」が「自由が丘」の由来。
衾村の谷畑と呼ばれた農村を自由が丘へ発展させた基礎を作った、正に「自由が丘の祖」である。

境内には数多くの樹木。
いずれも神域の御神木であるが、参道脇の木。
社務所にかかる形の木などは特に存在感が強い。

昭和七年(1932)の『碑衾町誌』では、紀州熊野権現に村人が参詣し、持ち帰った松の木が大変大きくなったものの、明治に枯死したため売却すると当時の金で大金になり毎年祭礼できたといった話を紹介しているように、古くから緑溢れる境内であった事が窺える。

月替りのカラフル御朱印・御朱印帳は頒布終了

御朱印は社務所にて。
いつも丁寧に対応して下さる。

カラフルな御朱印が特徴で、2016年からは季節の御朱印を用意するようになり、現在は月替りの御朱印を用意している。

御朱印は中央に「熊野神社」の朱印、2016年参拝時までは左下に「宮司之印」。
現在頂けるのは月替りの御朱印で、2019年6月に頂いたのは紫陽花と蛙のスタンプが押されていた。

現在の初穂料は500円だが、書き置きの場合は300円。

以前はオリジナルの御朱印帳も用意していた。
2015年に頂いたものを改めて撮影したので年季による色落ちなども見られるが、くちなし染めの御朱印帳でとてもよいものであった。

現在は御朱印帳の頒布は行っていない。再開予定もなしとの事。個人的には頂いた御朱印帳の中でもかなり好みだったので残念である。

所感

自由が丘の鎮守として崇敬を集める当社。
かつて村民達による熊野信仰の拠点として創建し、農村であった谷畑の鎮守として崇敬を集めた。
明治以後は自由が丘の祖とも云える栗山久次郎によって、この周辺は住宅地となり、そして東横線や大井町線の開通によって、新興住民が増える中、古い地名は排除され学校名から「自由が丘」という駅名・地名が成立し、現在に至る事となっている。
耕地整理や宅地開発、商業地としての発展などがありながらも、当社が今もこうして立派な境内が維持されているのは、古くからこの地を鎮守していた氏神であるからに違いない。
今では流行の街である自由が丘であるが、その変遷を見守り続けてきたのが当社であり、今もなお地域の人々より崇敬を集めているのが伝わる良社である。

神社画像

[ 社号碑・一之鳥居 ]




[ 二之鳥居 ]

[ 参道 ]


[ 三之鳥居 ]


[ 石段・参道 ]



[ 狛犬 ]


[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]






[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 絵馬掛 ]

[ 稲荷神社 ]





[ 忠魂碑 ]

[ 神楽殿 ]

[ 渡り廊下 ]

[ 神輿庫 ]

[ 社務所 ]


[ 岩座 ]

[ 栗山久次郎翁像 ]



[ 児童遊園 ]


[ 境内風景 ]


[ 案内板 ]


[ 石像(境外) ]

Google Maps

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