神社情報
蒲田井府北野神社(ほたいふきたのじんじゃ)
御祭神:菅原道真公・建御名方命
社格等:─
例大祭:5月第3土・日曜
所在地:東京都大田区南蒲田1-6-5
最寄駅:京急蒲田駅
公式サイト:https://www.kamatahachiman.org/トップページ/兼務社の御案内/北野神社/
御由緒
寛文元年(1661年)に杉原重右衛門の邸宅に諏訪神社を奉斎しました。呑川の洪水によって、池上の麓の天神山の森から、矢口村に祀られる天神様の御神体が度々流されて、北蒲田村宿南の杉原重右衛門前に留まることが再三ににわたり、その都度天神森にお返ししましたが、七度目にいたり、嘉永2年(1849年)矢口村と交渉して、当地杉原家地内諏訪神社の傍らに社を建てて安置しました。
明治年中、諏訪神社と合祀して、北野神社と総称することになりました。境内は杉原家より奉納されました。昔は呑川の北側にありましたが、改修工事によって、現在のように南側となりました。(公式サイトより)
参拝情報
参拝日:2019/05/23(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/05/04(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
「蒲田八幡神社」授与所にて。
※2020年6月より書き置きのみの授与に変更。(初穂料300円に改定)
※2019年5月より御朱印のデザインが変更。(初穂料300円から500円に改定)
※2017年5月よりカラフルなスタンプ付きの御朱印に変更。
※本務社の「蒲田八幡神社」で御朱印を頂ける。
歴史考察
蒲田井府天満宮と称された南蒲田の天神様
東京都大田区南蒲田に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、明治以降は「薭田神社」の境外末社の位置付けとなる。
かつて「蒲田井府天満宮」と称されていた「北野神社」に、隣接していた「諏訪神社」が合祀。
現在の正式名称は「北野神社」だが、他との区別から旧地名を冠した「蒲田井府北野神社」とさせて頂く。
現在は「蒲田八幡神社」の兼務社となっている。
北蒲田村の名主が邸内社として諏訪社を祀る
社伝によると、寛文元年(1661)に創建と伝わる。
北蒲田村の名主・杉原重右衛門が邸内に「諏訪社」を祀った事が始まりである。
信濃国一之宮「諏訪大社」(現・長野県)を中心に全国に広がる信仰。
建御名方神(たけみなかたのかみ)と、その妃・八坂刀売神(やさかとめのかみ)を祀る。
武神とされ日本第一大軍神とも称された他、狩猟・漁業を守護する神社としても信仰を集めた。
創建の地は現在とほぼ変わらぬものの、当時は近くを流れる呑川(のみかわ)の流路が現在と違い、呑川の北側に面して鎮座していた。
呑川の洪水で度々流れ着いた天神様の御神体
その後、池上の麓の「天神の森」から、矢口村持ちの天神様の御神体が、呑川の洪水により杉原重右衛門の屋敷に流されてきた。
こうした事が再三あり、その都度、御神体を「天神山の森」に返していたと云う。
現在の大田区西蒲田1-22付近。
『東京都遺跡地図』には時代不明の墳墓として「鵜ノ木奥島天神の森遺跡」の名を見る事ができる。
現在は宅地化されていて見る影もないが、古墳の上に天神様が鎮座していたため「天神の森」と呼ばれており、戦前までは菅原道真公を祀る神社が鎮座していたと伝わる。
呑川の流域にあり洪水の度に被害にあったものと思われる。
その後も天神様の御神体が流れ着く事が続き、それが7度目に至った。
あまりに流れ着くため屋敷内に祀る事とした。
嘉永二年(1849)、矢口村と交渉して「諏訪社」の隣に社を造営し、天神様の御神体を安置。
当地が蒲田井(ほたい)と呼ばれていた事から「蒲田井府天満宮(ほたいふてんまんぐう)」と称した。
現在も社号碑には「蒲田井府鎮座」の文字が残る。
天神(雷神)に対する信仰のことで、特に菅原道真を「天神様」として信仰する。
「太宰府天満宮」「北野天満宮」の2社が天神信仰の総本社とされる。
古くは怨霊として畏怖されたが、江戸時代以降は学問の神として篤く信仰されている。
こうして杉原家の邸内には「諏訪社」「蒲田井府天満宮」に二社が並び立つ形で鎮座する事となった。
新編武蔵風土記稿から見る当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(北蒲田村)
天満宮
除地一畝六歩。海道の東の方二丁ばかりにあり。本社一間四方、拝殿二間に三間、前に鳥居をたつ。鎮座の年代詳ならず。村持。
諏訪社
除地四畝六歩。海道より東の方二丁半ばかりにあり。社は二間に三間半、前に鳥居をたつ。村民持。
北蒲田村の「天満宮」「諏訪社」として記されている。
いずれも「海道の東方二丁ばかり」と記してある事からも隣接していた事が分かる。
「天満宮」は村持とあり、矢口村と交渉した上で北蒲田村の管理となっていたようだ。
「諏訪社」は村民持とあり、これが杉原家であろう。
明治になり諏訪神社と北野神社が合祀
明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。
明治六年(1873)、「北野神社」へ改称。
明治十八年(1885)、「薭田神社」の境外末社となる。
明治三十九年(1906)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、現在も変わらない。
明治の古地図には鳥居の地図記号が2つ隣接しているのが分かる。
この当時はまだ「諏訪神社」「北野神社」の両社が独立して隣接していた。
呑川の流路の違いに注目で、かつては呑川の北側に鎮座していた事が窺える。
呑川の流路が変更となり、現在のように南側に鎮座する事となった。
当社の鎮座地はほぼ変わっていないため、当社が遷座したというより、呑川の流路が改修工事によって変わった事が分かる。
明治後期、「北野神社」と「諏訪神社」が合祀され、「北野神社」と総称。
境内は杉原家より奉納された。
大正十一年(1922)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地でやはり変わっていない。
明治の古地図には鳥居の地図記号が2つ隣接していたが、大正の古地図では1つになっており、この時点で「北野神社」として2社が合祀されていた事が分かる。
昭和二十年(1945)、東京大空襲により社殿が焼失。
昭和四十五年(1970)、社殿を再建。
その後、改修や境内整備が行われた。
現在は「蒲田八幡神社」の兼務社となっている。
境内案内
呑川沿いに鎮座・下り宮の珍しい境内
京急蒲田駅からは徒歩数分の距離の呑川沿いに鎮座。
当社横の呑川に架かる橋は天神橋。
天神信仰である当社に因む名前。
呑川沿いの南側に社頭。
社頭には大正四年(1915)に奉納された社号碑。
社号碑にはかつて当地の呼び名であった「蒲田井府(ほたいふ)鎮座」の文字。
境内は下り宮になっているのが特徴的で珍しい形。
鳥居は大正十四年(1925)に奉納されたもの。
上から見下ろす形が少し新鮮。
通常の社殿は石段を上った先の高い位置に置かれている事が殆どだが、石段を下った先に社殿が鎮座する珍しい境内配置の神社のことを下り宮と呼ぶ。
当社が下り宮となった経緯は不明であるが、呑川の流路変更が影響しているのかもしれない。
社地は比較的広く有しているが手水舎はない。
石段を下り鳥居を潜った先に社殿となる。
戦後に再建された鉄筋コンクリート造の社殿
社殿は昭和四十五年(1970)に再建されたもの。
鉄筋コンクリート造で簡素な造り。
天神信仰らしい梅の社紋。
平成になってから塗り替えが行われ、現在は朱色の社殿となっている。
子沢山な狛犬・境内社の稲荷社
社殿の前に一対の狛犬。
網で保護されていて分かりにくいが、背中に子を乗せているのが可愛らしい。
奉納年も不詳であるが造りからして江戸後期から明治の頃だろうか。
社殿の左手に境内社の稲荷社。
こちらも本社と同様に鉄筋コンクリート造。
朱色に整備されていて統一感のある造り。
その前には一対の神狐像。
こちらも狛犬同様に金網で保護。
奉納年は不詳であるが狛犬と同時期であろうか。
御朱印は蒲田八幡神社にて・牛車と合格絵馬のカラフル御朱印
境内には社務所もなく兼務社のため神職の常駐はない。
御朱印は本務社である「蒲田八幡神社」にて。
蒲田八幡神社では兼務社含め6社のカラフルな御朱印を頂ける。
上画像は令和元年以降に頂ける御朱印で、それぞれの神社に由来したスタンプを押しており、各社を深く知る事に繋がる良い施策。
天神信仰の神使である牛をモチーフにした牛車。
さらに学問の神である天神様らしい合格絵馬。
所感
南蒲田の天神様には、当地に住む村民の歴史や信仰が伝わっている。
かつて名主の邸内社であった「諏訪社」に、呑川の洪水によって幾度も矢口村の天神様の御神体が流れ着き、結果として隣接するように「天満宮」が創建し、それが明治になって合祀され、現在の「北野神社」が成立。
社名だけ見ると天神信仰の神社であるが、歴史を紐解くと天神信仰と諏訪信仰の神社であり、御祭神も菅原道真公と建御名方命となっていて、こうした神社にも地域の人々の信仰が詰まっているのだと実感できる。
また旧地名だったと云う「蒲田井」も「かまたい」ではなく「ほたい」と読むと云い、そうした地名の面でも興味深い部分がある。
呑川の流路変更の影響を受けたのか、珍しい下り宮となっている境内は、地域の方の憩いの場となっているのが分かる、そんな神社である。
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