神社情報
多摩川諏訪神社(たまがわすわじんじゃ)
御祭神:建御名方命・八坂刀売命
社格等:─
例大祭:8月下旬の週末
所在地:東京都大田区多摩川2-10-22
最寄駅:矢口渡駅
公式サイト:http://tokumochi-jinja.tokyo-jinjacho.or.jp/keidai00.html
公式サイト(Facebook):https://www.facebook.com/多摩川諏訪神社-178637142203602/
御由緒
多摩川2丁目地区(旧原地区)の鎮守さまです。ご創建は承和(じょうわ)年間(834~848)と伝えられ、信濃(長野県)諏訪大社のご分霊をお祀りしています。もとは村内に諏訪神社二座があり、上社、下社として村人の尊崇を集めていましたが、明治13年(1880)2月、上社に下社を合祀しました。現在のご社殿は平成14年(2002)8月に竣功されたものです。(公式サイトより)
参拝情報
参拝日:2017/05/29
御朱印
初穂料:300円
「徳持神社」社務所にて。
※社名部分は墨書きではなく印版によるもの。
※普段は神職が常駐していないため、本務社「徳持神社」にて拝受できる。
歴史考察
旧原村(現・多摩川2丁目)鎮守のお諏訪さま
東京都大田区多摩川に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧原村(現・多摩川2丁目)の鎮守。
正式名称は「諏訪神社」であるが、他との区別のため「多摩川諏訪神社」とさせて頂く。
江戸時代までは村内に諏訪神社が2社あり、上社(上諏訪)と下社(下諏訪)と呼ばれていたが、明治十三年(1880)に上社に下社を合祀して、現在の当社となる。
上社(上諏訪)・下社(下諏訪)と呼ばれた2社
社伝によると、承和年間(834年-848年)の創建と伝えられる。
信濃国一之宮で諏訪信仰の総本社「諏訪大社」(長野県)から勧請された。
当地周辺は「原村」と呼ばれる村で、かつての原村には「諏訪社」が2社鎮座していた。
そのため当社を「上社(かみしゃ)」「上諏訪」と呼び、もう一社を「下社(しもしゃ)」「下諏訪」と呼び、共に村民たちより崇敬を集めたと伝わる。
原村の鎮守の一社として崇敬を集めた。
新編武蔵風土記稿から見る当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(原村)
諏訪社
除地二畝二歩。村の北の方にあり。前に石の鳥居をたつ。これも東福寺持。
東福寺
境内一段二畝十三歩。村の北の方にあり。新義真言宗同郡高畑村宝幢院末、諏訪山無量院と号す。開山開基詳ならず。中興開基栄感天和元年四月二十五日示寂す。客殿三間に五間、本尊阿弥陀如来を安ず。立像にて長二尺三寸ばかり。
諏訪祠
境内にあり。小祠。
御由緒にあるとおり、原村の項目に記載されている「諏訪社」は2社。
1社は「東福寺」の境内にある「諏訪祠」と記された小祠。
これが「上社(上諏訪)」と「下社(下諏訪)」であろう。
いずれも「東福寺」の管理下(別当寺と境内)であった。
現在の地理を見ると、当社は東福寺に隣接する形で鎮座している。
この事から、上社と呼ばれた当社が「東福寺」境内に置かれた「諏訪祠」だったと推測できる。
そこから約300mほどの距離に下社が鎮座していたようだ。
明治になり上社へ下社が合祀
明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。
明治十三年(1880)、上社(上諏訪)と呼ばれた当社に、下社(下諏訪)が合祀。
現在の「諏訪神社」となった。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行によって、矢口村・古市場村・下丸子村・道塚村・蓮沼村・今泉村・原村・小林村・安方村が合併して矢口村が成立。
当地は矢口村原と呼ばれ、後に原町(現・多摩川2丁目地区)となっていく。
明治三十九年(1906)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
既に合祀されているため下社の位置は定かではないが、当社は今も昔も同じ場所に鎮座しており、「東福寺」が隣接しているのも変わらない。
矢口村の中の原と呼ばれた地名も見る事ができ、当社は一帯の鎮守であった。
昭和十八年(1943)、社号碑や鳥居が建立。
戦後になり境内整備が行われる。
平成十四年(2002)、現在の社殿が造営。
多摩川2丁目地区の鎮守として崇敬を集めている。
現在は神職の常駐はなく「徳持神社」の兼務社となっている。
境内案内
東福寺に隣接して鎮座・二対の狛犬
最寄り駅の矢口渡駅から南へ数分あるいた住宅街に鎮座。
社号碑や鳥居は昭和十八年(1943)に建立されたもの。
参道の左手は「東福寺」になっており、かつて「東福寺」境内に置かれていた関係を窺える。
参道を進むと左手の一画が月極駐車場となっており、途中に一対の狛犬。
昭和十五年(1940)に皇紀2600年記念で建立された狛犬で「靖国神社」のような護国型とでも云えるだろうか。
大型かつ阿吽どちらにも足元に子がいる形。
その先、右手に手水舎。
綺麗に整備されているが水は張られていない。
その先に一対の小さな狛犬。
明治四年(1871)に奉納されたもの。
まだ上社と下社が合祀される前の狛犬で、一部破損しているものの筋肉質でよい出来。
平成に竣工した朱色の社殿・境内社
社殿は平成十四年(2002)に新たに造営されたもの。
朱色が映える社殿で、鉄筋コンクリート造。
まだ新しさが若干残る鮮やかな朱色の社殿となっている。
境内社は境内の右手にまとめられている。
境内社の鳥居を潜って左手は、御嶽神社・氷川神社・天祖神社の合殿。
『新編武蔵風土記稿』には、原村に「氷川社」「神明社」を見る事ができるので、明治以降に当社の境内に遷り祀られたものだと思われる。
右手は稲荷社で、こちらも村内にあったものが遷されたのであろう。
立派な社務所・御朱印は徳持神社にて
参道の右手には移植された御神木。
移植記念の碑があったため、当地に移されたものだろう。
社殿の右手には立派な社務所(参集殿)が置かれている。
普段は無人で神職の常駐がないが、地域の方々が集う場所になっている事が分かり、多摩川2丁目地区の鎮守として、地域と密接につながっているのが伝わる。
御朱印は本務社の「徳持神社」にてお受けできる。
所感
原村の鎮守として崇敬を集めた当社。
古くは「上社(上諏訪)」「下社(下諏訪)」の2社が村内にあったと云い、呼び名は諏訪信仰の総本社「諏訪大社」を模したものであろう。
当社は上社に該当し、現在も隣接する「東福寺」の境内に置かれた祠であったようだ。
「東福寺」は「諏訪山無量院」と号していたように、神仏習合の中で地域に根付いた諏訪信仰と密接な関係を持ち、下社の別当寺も担っていた。
明治になり上社と下社が合祀され、現在の当社となる訳だが、神仏分離で小祠から神社として整備され、今もなお地域からの崇敬を集めているのだろう。
住宅街の一画に鎮座する小さな神社であるが、地域との繋がりを感じる良い鎮守である。
神社画像
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 社殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 境内社鳥居 ]
[ 御嶽神社・氷川神社・天祖神社 ]
[ 稲荷社 ]
[ 御神木 ]
[ 社務所 ]
[ 石碑 ]
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