神社情報
橘樹神社(たちばなじんじゃ)
御祭神:弟橘比売命
相殿神:日本武尊・忍山宿禰
社格等:上総国二之宮・延喜式内社(小社)・県社
例大祭:10月体育の日前日
所在地:千葉県茂原市本納738
最寄駅:本納駅
公式サイト:─
御由緒
当社は延喜式神名帳に上總國五座 長柄郡一座小 橘神社と記され、国幣小社に列し、畏くも景行天皇勅願の官社なり。
人皇第十二代景行天皇四十年冬十月、日本武尊勅を奉じて東夷御征討の際、妃弟橘比賣命海上より夫尊に代わって忠死せるを哀しみ、海辺に漂着したる媛の御遺物たる御櫛を以て御墓を作らせ納め置き、御手づから墓標の代わりに橘の樹二株を植ゑ、祠宇を創立し給ひしが、其の後 天皇東幸の節、日本武尊と忍山宿禰とを相殿神として合祭せしめ給う。
故に当社の御祭神は已に由緒に記載せし如く、皇室の御系に拘らせ給ふを以て、殊に崇祀して尊厳と威徳とを欠かさらむ事を務め、社殿の修繕・境内の風致一つとして注意を怠る如き事なし。然れども維新後時勢の変遷と共に自然古来の典式行はれざる所あり。今縁起其の他の古文書等を按ずるに、往昔大社にして豊禮の盛んなる事明瞭なり。
明治六年五月三十日縣社に列せられ、後に縣令自ら官幣を奉り、祭典を執行せられたりき。後三年を経て、則ち明治九年六月二十八日、弟橘比賣命の御墓は古来の遺蹟に付、煙減せざる様保存すべき事、内務省達の御主意、千葉縣令柴原和より伝達せらる。(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2017/04/20(ブログ内画像撮影/御朱印拝受)
参拝日:2016/02/02(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
※御朱印は500円との掲示有り。
※宮司さんがお留守の場合は書き置きでの授与となる。
御朱印帳
初穂料:2,000円
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
御由緒にもある弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救った伝説に基づいたもの。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
授与品・頒布品
安全安全ステッカー
初穂料:500円
授与所にて。
歴史考察
橘様と崇敬される上総国二之宮
千葉県茂原市本納に鎮座する神社。
上総国の二之宮で、延喜式内社(小社)。
旧社格では県社に列していた。
日本武尊の妃・弟橘媛の伝説や墳墓(古墳)が残る格式高い古社。
地域の方々には「橘様」と呼ばれ崇敬されている。
正史に残る日本武尊と弟橘媛の伝説
社伝によると、景行天皇四十一年(111)に創建と伝わる。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の手によって亡き妃である弟橘媛(オトタチバナヒメ)の墳墓を築き、橘の樹を墓標の代わりに2株植えられた事を創建の祖としている。
日本で唯一、日本武尊の手で創建された神社とされる。
この創建は日本武尊と弟橘媛にまつわる伝説によるもの。
当社の縁起だけでなく、『古事記』や『日本書紀』にも記された日本神話。
さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」と言われた。ところが海の中ほどまで来たとき、突然暴風が起こって御船は漂流して渡ることができなかった。そのとき皇子につき従っておられた妾があり名は弟橘媛という。穂積氏の忍山宿禰の女である。皇子に申されるのに、「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」と。そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海におはいりになった。暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。時の人は、その海を名づけて、馳水といった。こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り玉浦を横切って蝦夷の支配地に入られた。(日本書紀 上 全現代語訳)
このように日本神話に登場する弟橘媛の伝説。
この伝説に基いて、身代わりとなった弟橘媛のために日本武尊が自らお墓を築き、海から流れ着いた櫛を収めて橘の木を2株植えたのが、当社の始まりとされている。
『古事記』にはこう記されている。
七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。
この御陵が当社だとされ、当社の社殿の裏手には、日本武尊が築いたと伝わる弟橘媛の墳墓「弟橘比賣命御陵」が残る。
古文書には「寛政十二年(1800)、社殿改造のため墳丘を削ったら、こしき(土器)・壷・鉄器」が出土したとの記述があり、その中にあった「大きな壷は遺品を納めたものと考え全て地中に埋め戻した」と記されているように、実際に墳墓であった可能性が高い。
更に当社の境内東側及び裏側の崖や水田から縄文土器片や石器が出土。
「宮ノ下遺跡」として登録されており、単に縄文土器出土地のみでなく、この伝説と照らしあわせてみても資料的価値は大きいように思う。
少なくとも縄文時代には、この地に人が住んでおり、何らかの祭祀圏であった可能性が高い。
式内社に列する古社
平安時代に編纂された歴史書『日本三代実録』には当社の記録が残る。
元慶元年(877)、従五位勲五等の「橘樹神」に正五位下の神階を授けると云う記載が残る。
元慶八年(884)、正五位上の神階が授けられ、当社に日本武尊と忍山宿禰(弟橘媛の父)が合祀されている。
延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』には上総国長柄郡「橘神社」として記載。
上総国には計5社の式内社があり、当社はそのうちの一社であった。
このように古くから朝廷にまで名が知られた神社であった事が分かる。
古くより崇敬を集めた古社であり、日本武尊と弟橘媛の伝説が残る神社として知られていたのだろう。
上総国二之宮と上総国十二社
いつしか上総国二之宮として崇敬を集めるようになる。
上総国一之宮「玉前神社」の例祭は、大同二年(807)創始と伝わる古いお祭りであり、「上総十二社祭」(通称:上総はだか祭)と呼ばれる。
この例祭に参加する十二の神社は「上総十二社」とされ、当社はそのうちの一社である。
このように上総国において一之宮「玉前神社」と共に、二之宮の神社として崇敬を集めた。
中世以降の広大な橘木荘(二宮荘)
鎌倉時代以降は、「橘木荘」と称された当社の神領を基礎とした社領を有した。
三千石以上の広大な荘園があったとされ、相当な規模を有した格式高い神社であった事が分かる。
橘木荘は後に「二宮荘」と呼ばれるようになる。
これは当社が上総国二之宮であった事によるもの。
正慶二年(1333)、社殿を改築。
当時の社殿は拝殿のみで本殿はなかったとされる。
拝殿から直接、弟橘媛の墳墓を拝む形となっていたとされ、古代の祭祀形式を残していたのであろう。
15世紀中頃に、当社近くに「本納城」という中世城郭が築城。
黒熊氏や土気酒井氏の領有となり、度々戦があったため、当社も戦火によって一時荒廃。
戦火を被ったものの、崇敬者たちの力で復興したと伝えられている。
江戸時代には最高位の正一位を授かる
江戸時代に入ると、延宝八年(1681年)には神階・正一位が授けられる。
寛政十二年(1800)には社殿を改築し、弟橘媛の墳墓の前に本殿を造営。
これが現存する本殿となっている。
明治以降の当社と「鷹入らず」の伝説
明治になり神仏分離。
明治六年(1873)、県社に列した。
明治二十三年(1890)、拝殿が再建。
明治四十年(1907)、大改築がされたと記されている。
これらが現存する社殿となっている。
大正六年(1917)に出版された『日本伝説叢書 上総の巻』には「橘神社と鷹」という伝説が残されているので、要約して記す。
そうした伝説により鷹匠などは決してこの地を過ぎる事はない。
昔、この地に鷹を離したところ、その鷹はこの地より逸れて見えなくなって帰ってくる事がなかった。
こうした鷹にまつわる伝承は、他の古い資料にも残されており、当時の氏子四十ヶ村は「鷹入らず」と呼ばれていた。
現在ではあまり伝えられる事はないが、地域の人々の間では知られた伝説であり信じられていたようだ。
戦後になり境内整備も進み現在に至る。
境内案内
江戸時代の本殿と明治時代の拝殿が現存
最寄駅の本納駅から北へ数分の距離に鎮座。
一之鳥居は大鳥居になっており、社号碑には「式内縣社」の文字。
一之鳥居を潜ると鳥居が三基。
こうして多く奉納された鳥居からも当社への崇敬の篤さが伝わる。
最奥の鳥居の前には現在は川は流れていないものの、石橋が架かっていて以前は小川が流れる境内であったようだ。
参道を進むと左手に手水舎。
当社には寛延元年(1748)の古い手水石が残っているが、こちらは新しく整備されたもの。
表参道から約45度ほど曲がる形で南東向きの社殿が立つ。
拝殿は明治二十三年(1890)に再建されたものが現存。
格式の高さを感じる重厚な社殿で、バランスがよく美しい。
拝殿の前に植えられた2本の木は「橘の木」となる。
扁額には「橘木神社」の文字。
拝殿の奥には寛政十二年(1800)に造営された本殿が現存。
本殿が造営されるまでは、拝殿から直接、弟橘媛の墳墓を拝む形となっていたとされる。
本殿造営にあたって墳墓の一部を削ったところ、「こしき(土器)、壷、鉄器」などが出土したという記録が残っている。
日本武尊が築いた弟橘媛の墳墓と吾妻池
本殿の裏手にあるのが「弟橘比売命御陵」。
日本武尊が自ら築いた弟橘媛の墳墓とされており、寛政十二年(1800)に本殿が造営されるまで、拝殿から直接墳墓を拝む形となっていたと云う。
この墳墓は左手から登れるようになっている。
神職の方に尋ねると登ってもよいとの事だが、かなり足元が悪いので登る際は気を付ける事。
墳墓を登るとその頂きに比較的新しい鳥居と玉垣がある。
かなり狭い一画なので正面に回り込んで全体を撮影する事はできない。
鳥居には橘の木の神紋。
玉垣の中央には1本の「橘の木」が植えられている。
まだ小さく若い木であるが、日本武尊が橘の樹を墓標の代わりに植えたという伝承に基づき整備されているのであろう。
この墳墓を築いた際に、出来たのが境内にある「吾妻池」とされている。
墳墓を築くために、土を掘った跡の穴であると伝えられている。
伝承では日本武尊自ら墳墓を築いたとされているため、日本武尊によって掘られたとも云える。
神話にまつわる境内であり、こうして残っている事が素晴らしい。
吾妻池の中央には「秋葉神社」が置かれており、天正年間(1573年-1593年)に勧請されたと云う。
弟橘媛を忘れられない日本武尊が「吾妻(わがつま/あづま)はや」と嘆いたため、日本の東部を「あずま」と呼ぶようになったと伝えられている。
江戸時代の手水石・境内社など
境内には三対の狛犬が置かれているが、拝殿前の二対が古い。
いずれも年代不詳であるが、奥の狛犬は江戸尾立で18世紀頃のものであろうか。
片方は残念ながら頭が失われている。
社殿の左手には古い手水石(手水鉢)が残る。
寛延元年(1748)の文字が彫られて本納内宿による奉納。
その左手に境内社「窟戸神社」「子安神社」「稲荷神社」が並ぶ。
中でも天手力雄命を祀る「窟戸神社」は、本納城が落城した際に遷座されたものだと云う。
参道途中右手に「粟嶋神社」。
文禄年間(1593年-1596年)に勧請されたと伝わる。
参道左手には無造作に力石が置かれる。
その奥には古びた石碑。
かなり侵食されていて状態が悪いため文字は読み取る事ができない。
御朱印は社務所にて。
宮司さんはお忙しいため留守にされる事も多いが、書き置きの御朱印を用意している。
とても丁寧に対応して下さった。
所感
上総国の二之宮、そして式内社としての格式をもつ当社。
日本神話に出てくる弟橘媛の伝説が創建の由来とされており、『古事記』『日本書紀』といった正史に残る日本神話であり、神話に基づいた格式高い古社である。
境内から縄文時代の出土品が出てきており、社殿裏手の弟橘比売命御陵(墳墓)からも江戸時代に本殿を造営する際に、色々と出土している事からも、大変古くから崇敬されていた古社なのが分かる。
現在も綺麗に境内が維持されていて、多くの方から崇敬を集めている事が伝わる。
日本神話に触れる事ができる素晴らしい良社である。
神社画像
[ 社号碑・一之鳥居 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 三之鳥居 ]
[ 石橋・四之鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 常夜灯 ]
[ 拝殿・参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿・拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 切り株 ]
[ 力石 ]
[ 石碑 ]
[ 神輿庫 ]
[ 石像 ]
[ 吾妻池・秋葉神社 ]
[ 吾妻池 ]
[ 稲荷神社・子安神社・窟戸神社 ]
[ 旧手水舎 ]
[弟橘比売命御陵 ]
[ 神輿庫 ]
[ 社務所 ]
[ 石碑 ]
[ 西鳥居 ]
[ 粟嶋神社 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 案内板 ]
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