牛天神北野神社 / 東京都文京区

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文京区

神社情報

牛天神北野神社(うしてんじんきたのじんじゃ)

御祭神:菅原道真公
社格等:村社
例大祭:5月24日・25日
所在地:東京都文京区春日1-5-2
最寄駅:後楽園駅・春日駅・飯田橋駅
公式サイト:http://www.ushitenjin.jp/

御由緒

当社は寿永三年の昔、右大将・源頼朝御東国追討の時、此処の入江の松に船を繋ぎ和波を待つ。その間夢に菅神牛に乗りて現はれ、頼朝卿に二つの幸のあらんことを告げ、武運満足の後は、必らずや社を営み報ゆべしと託し給ふ。頼朝卿夢覚めて傍を見れば、一つの岩石ありて夢の中に菅神の乗り給ひし牛に似たり。依りて是を奇異とせしが、果して同年の秋頼家卿誕生あり。更に翌年には動かずして、平家を悉く退け国を鎮定せり。その報寶として此処に、御神を勧請ありて御神領等を寄進す。因て御創立はこの年元暦元年なりと云ふ。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2019/09/30(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/08/10(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:500円
社務所にて。

※祭事などに合わせて限定御朱印あり。
※境内社「太田神社」「高木神社」、兼務社「諏訪神社」「出世稲荷神社」の御朱印も授与。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。

最新の御朱印情報
11月1日-20日までの土日に「菊わらべ記念御朱印」
※本社を含む全5社で用意。詳細は公式Twitterにて。
御朱印の受付時間は9:00-16:00まで。

[2019/09/30拝受]
(慶祝)

[2015/08/10拝受]
(旧御朱印)

御朱印帳

初穂料:2,500円
社務所にて。

オリジナル御朱印帳を用意。(数量限定)
木製の御朱印帳で、葛飾北斎 冨嶽三十六景「礫川雪ノ旦」が描かれたもの。
1ページ目には御守付き。

※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。

歴史考察

牛天神の通称で知られる北野神社

東京都文京区春日に鎮座する神社。
旧社格は村社で、春日・後楽の鎮守。
古くは「金杉天神」と称した天神さまで、一般的には「牛天神」の通称で知られる。
牛の形をした「ねがい牛」から牛天神と称された。
現在の正式名称は「北野神社」であるが、通称を含めた「牛天神北野神社」とさせて頂く。
現在は東京ドームシティや小石川後楽園などの氏神様としても知られる他、「東都七天神」の1社にも数えられる。

源頼朝による創建・牛石の伝説

社伝によると、元暦元年(1184)に創建と云う。
源頼朝によって創建され、当社には頼朝と牛石の伝説が残る。

源頼朝と牛石の伝説
寿永元年(1182)、源頼朝が当地付近の入り江の松に船を繋ぎ留め、波風が収まるのを待って休息を取っていた。
その間、頼朝の夢に牛に乗った菅公(菅原道真)が現れ、これから二つの吉事がある事と、成就した際は必ず社を造営して報いるようにと告げた。
眠りから覚めた頼朝の傍らには岩があり、夢に出てきた菅公が乗っていた牛に似ていたため、牛石と呼んだ。
同年、嫡男・頼家が誕生、翌年には平家が都落ちとなり頼朝は従五位下に復位した。
大層喜んだ頼朝は、元暦元年(1184)に「太宰府天満宮」より御分霊を勧請し、牛石を御神体としたと云う。
創建時は現在よりやや東側(後楽園付近)に鎮座してしたと云う。

現在も境内には牛の形をした岩(牛石)が残る。
撫でると願いが叶うとして「ねがい牛」と称され信仰を集めている。

古くは当地が金杉と呼ばれた事から「金杉天神」とも称された。
一方で、頼朝と牛石の伝説から「牛天神」と通称される事が多く、現在も「牛天神」の名で親しまれている。

寛永年間に現在地へ遷座・小石川後楽園

寛永年間(1624年-1644年)、創建地に水戸藩邸が造営されたため現社地に遷座。
約3,000坪もの社地を有し、別当寺は「龍門寺」(現・廃寺)が担った。

当社がかつて鎮座していた水戸藩邸は、現在の小石川後楽園や東京ドームシティにあたる。

小石川後楽園(こいしかわこうらくえん)
江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内(水戸藩邸)に造られた日本庭園(大名庭園)。
寛永六年(1629)に水戸藩初代藩主・徳川頼房が築いた庭園を、水戸黄門としても知られる水戸藩二代藩主・徳川光圀が改修、明の儒学者・朱舜水の選名によって「後楽園」と命名して完成。
小石川後楽園|公園へ行こう!

この事から現在も当社は、小石川後楽園や東京ドームシティなど一帯の鎮守として崇敬を集めている。

江戸切絵図から見る牛天神

江戸時代の当社は江戸切絵図を見ると位置関係が分かりやすい。

(小日向絵図)

こちらは江戸後期の小日向(文京区)周辺の切絵図。
右下が北を向いている地図であるが、左下付近に当社が記されている。

(小日向絵図)

北が上にくるように回転させ当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲ったのが当社で、「牛天神」と記されていて、別当寺「龍門寺」も見る事ができる。
すぐ隣が「水戸殿」とあるように、水戸徳川家の江戸上屋敷内(水戸藩邸)。
かつての当社はこの一画に鎮座していたようだが、水戸藩邸の造営にあたり現在地に鎮座した。

当社の周囲には門前町の名を見る事ができる。
牛天神の門前町が開かれ、小石川有数の繁華街として栄えたと伝わっている。

江戸城からも近く、徳川御三家の水戸藩邸があった事からも、江戸の繁華街の1つとして人気を博した。

江戸名所図会に描かれた当社・牛天神や金杉天神と称される

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「牛天神社 牛石 諏訪明神社」として描かれている。
現在と変わらぬ高台に鎮座しているが、かつては通り面して2つの参道があった事が窺える。
いずれも鳥居や神門も設けられ拾に立派な境内であった。

当時は裏門・裏参道とされていた参道が現在の表参道にあたる。

(江戸名所図会)

当社境内を中心に拡大したのが上図。

参道の急勾配な石段を上った先に立派な本社。
現在は牛石は拝殿前に置かれているが、江戸時代の頃は青円で囲った箇所に牛石があり、当時は裏参道の坂の下に置かれていた事が分かる。

境内には楊弓(ようきゅう)の文字もあり、楊弓場も設けられ庶民の娯楽施設があった事も分かる。

楊弓場には、矢を拾ったり客の応対をしたりする美人の「矢取り女」と呼ばれる女がおり、客の人気を集め、裏では娼婦の役目を果たす女が多かった。

小石川上水堀の端にあり。一に金杉天神とも称す。この地を金杉と唱ふるによりてしか号く。別当は天台宗にして泉松山龍門寺と号す。(江戸名所図会)

同じく『江戸名所図会』に記されている一文だが、当地が金杉と呼ばれていた事から「金杉天神」と称されていた事が記されている。

葛飾北斎が富嶽三十六景を描いた神社

当社については浮世絵にも残る。
葛飾北斎は当社境内にあった茶屋より『富嶽三十六景』を描いた事で知られる。

葛飾北斎(かつしかほくさい)
江戸時代後期の浮世絵師で、世界的にも著名な画家。
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、生涯に3万点を超える作品を発表。
化政文化を代表する一人。

(富嶽三十六景・礫川雪ノ旦)

『富嶽三十六景』より「礫川雪ノ旦(こいしかわゆきのあした)」。

当社境内西側にあった茶屋より、遠く富士を眺望する浮世絵とされる。
北斎の『富嶽三十六景』で唯一の雪景を描いたことでも知られる。

小石川のあたりでも特に眺めの良いとされた当社。
雪が止み一面の銀世界と変わり、富士も家並みも雪化粧となる。
二階座敷の人々も一面の雪景色に感嘆の声をあげ、女の指さす空には、三羽の鳥が天空を舞う。

この茶屋は『江戸名所図会』に楊弓として描かれていたあたりであろう。

また三代目歌川豊国の『江戸名所百人美女』にも当社が登場する。

三代目歌川豊国(さんだいめうたがわとよくに)
江戸後期の浮世絵師で、歌川国貞(うたがわくにさだ)の名でも知られる。
特に美人画を得意とした。

(江戸名所百人美女)

『江戸名所百人美女』より「小石川牛天神」。

『江戸名所百人美女』は、美人画と名所絵を組み合わせたシリーズ。
美人画を主に、名所絵を背景や小さなコマ絵にして1枚の絵とした。
美人画は三代目歌川豊国が担当し、コマ絵は歌川国久が担当。

(江戸名所百人美女)

コマ絵部分のみを拡大したのが上図で、コマ絵は歌川国久が担当した。

「小石川牛天神」として描かれた当社。
表参道の石段とその奥の境内を描いている。
美人画とセットになり、江戸の名所として描かれている事からも、当社が江戸の名所の1つとして人気を博した事が窺える。

明治以降と戦後の歩み

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列した。
社号も「北野神社」に改称している。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
江戸時代の頃は広い社地を有していたが、既にこの頃には幾分か縮小し、現在の社地に近かったようにも見える。

東京砲兵工廠(とうきょうほうへいこうしょう)
当社の東隣には「東京砲兵工廠」が置かれていた。
旧水戸藩邸が東京砲兵工廠として整備され、小銃を主体とする兵器の製造を行った他、官公庁や民間の要望に応えて、兵器以外のさまざまな金属製品も製造した。
関東大震災で被災後は福岡県小倉市の小倉陸軍造兵廠へ集約移転され、その後は小石川後楽園として整備された他、跡地は株式会社後楽園スタヂアムに売却され、現在の東京ドームシティへと繋がっていく。

その後、関東大震災や東京大空襲などを経て境内整備や区画整理などが行われた。

戦後になり境内整備が進み現在に至る。

境内案内

かつて北斎も上った石段の上の高台に鎮座

最寄駅は後楽園駅で、牛天神下の交差点を北上するのが分かりやすい。
現在はやや入り組んだ先が表参道となっている。
かつては南側に表参道がありこちらが裏参道であったが、社地縮小や区画整理によって、現在はこちらが表参道となっている。
社号碑には「北野神社」とあるが、大正四年(1915)建立の鳥居には通称の「牛天神」の文字。

鳥居を潜るとやや急勾配な石段。
石段の先に境内となる。
かつての裏参道であり境内の西側だったこの先が、かつて葛飾北斎が『富嶽三十六景』の「礫川雪ノ旦」を描いた茶屋があった場所とされている。

石段を上ると二之鳥居。
社殿へはぐるりと右から回り込む形。

元々は裏参道であったため、このような配置となっている。

手水舎・江戸後期の授乳狛犬

二之鳥居を潜り、右から回り込むように参道を進むと、途中に手水舎。
平成十四年(2002)に奉納された手水舎。
御影石を使用し梅の花びらから水が溢れだす素敵な仕様。

玉垣の手前に一対の狛犬。
文化六年(1809)に奉納された狛犬。
授乳している阿形の狛犬は、背面にも子獅子がいてとても可愛らしい。
吽形も片足をやや持ち上げた形で、表情がどこか優しい。

近くにある桜の木。
水戸藩邸が隣にあった縁から、水戸藩二代藩主・徳川光圀(水戸光圀)が当社へ5本の桜の木を奉納したと云い、現在でも1本の木が枯れずに残り春になると花を咲かせると云う。

社殿・拝殿内には徳川光圀奉納の狛犬

玉垣の先に社殿。
戦後に再建された社殿で、幾度かの改修を経て綺麗に維持。
社殿は南向きになっていて、かつての表参道は真っ直ぐ続いていた。
社殿の一部には社紋である梅の花。
周囲には梅の木も植えられ、天神さまらしい境内。
本殿の一部は鉄筋コンクリート造。

拝殿内には運慶作で水戸光圀奉納の狛犬
社殿内なので撮影はしてないが、拝殿内には金色の美しい狛犬が置かれている。
水戸黄門の名で知られる水戸藩二代藩主・徳川光圀(水戸光圀)奉納の狛犬。
鎌倉時代に運慶が製作した狛犬が京都御所に置かれていて、光圀へ献上する事となったものの、光圀の好みではなかったため、水戸藩邸の隣にあった当社に奉納されたと伝わっている。
社務所にて拝見したい旨を伝えると見る事ができるので、お願いしてみるのもよいと思う。

撫で牛の発祥とされるねがい牛・神牛像

拝殿の手前左手に通称「ねがい牛」。
御由緒にも伝わる、源頼朝が菅公より霊夢を授かったとされる牛の形をした岩。
撫でると願いが叶うと云われていて多くの信仰を集めている。

かつては牛石と呼ばれ、裏参道(現在の表参道)の坂の下に置かれていた。古くからの伝承により、天神信仰の神社に伝わる「撫で牛」の発祥・元祖ともされる事がある。

拝殿前には一対の神牛像。
天神信仰の神社に奉納される事が多い神牛像。
対になって奉納されていて、狛犬ならぬ狛牛とも云える。

天神信仰と牛
天神信仰の御祭神である菅原道真公と牛との関係は深く様々な伝承が残る。
・道真の出生年は丑年
・道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した
・太宰府へ下る際に白牛が刺客から道真を守った
・道真の葬送の列が進む中、御遺体を乗せた車を引く牛が臥して動かなくなったため、そこを墓所と定めた
など他にも道真と牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在するため、牛は天神信仰の神使とされる。

御籤掛けにも牛の姿。
神使であり通称にもなる牛を大切にしているのが伝わる。

貧乏神を祀った太田神社・芸能の神として信仰

社殿の左手に境内社。
鳥居が設けられていて、その先に社殿。
扁額にあるように太田神社と高木神社の合殿。
中でも高木神社にはとても興味深い御由緒が伝わっている。

貧乏神を祀った高木神社
その昔、小石川三百坂に旗本が住んでいて、正直者だが常に貧乏に苦しんでいた。
ある夜、夢に老人が現れ「我は長年この家に住み着いている貧乏神である。長年居心地よく世話になっているので礼をしたい。毎月1日・15日・25日に赤飯と油揚げを供え祀れば福徳を授けよう」と告げた。
旗本がその通りにすると、それ以降は運が向き、たちまち裕福になった。
以来、「福の神になった貧乏神」の話は江戸中に広まり、多くの人々が参拝者が訪れたと云う。

かつては貧乏神とされる黒闇天女を祀っていたが、現在は芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と道の神・猿田彦命(さるたひこのみこと)の夫婦神を祀っている。
そのため、芸能の神、さらに縁結びの神として信仰を集めている。
縁結びにぴったりなハート型の御籤掛け。

古い屋根付き庚申塔・中島歌子の歌碑

境内社鳥居の近くには庚申塔。
屋根付きの庚申塔で、下には三猿の姿。

庚申塔(こうしんとう)
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。

社殿の向かいには中島歌子の歌碑。
明治四十二年(1909)に門下生によって建てられたもので、歌子はすぐ近くの安藤坂の歌塾「萩の舎(はぎのや)」の塾主であった。

中島歌子(なかじまうたこ)
江戸後期から明治にかけての歌人。
和歌と書を教える私塾「萩の舎」を主宰し、門下には、梨本宮妃、鍋島候夫人や前田候夫人など、上流中流層の婦人1000余人がいた。
樋口一葉、三宅花圃らが門弟であり、特に樋口一葉の師匠として名が知られる。

境内社や兼務社を含めた5社の御朱印・限定御朱印も

御朱印は社務所にて。
いつも丁寧に対応して頂く。

「牛天神北野神社」の御朱印の他、境内社「太田神社」「高木神社」、兼務社「諏訪神社」「出世稲荷神社」の御朱印も授与。祭事などに合わせて限定御朱印あり。

御朱印は「北野神社之印」、梅鉢の社紋。2015年に頂いた時は「牛天神」の印もあったが、2019年時は「宮司之印」となり「東京ドーム氏神様」のスタンプも押されていた。

最新の御朱印情報
11月1日-20日までの土日に「菊わらべ記念御朱印」
※本社を含む全5社で用意。詳細は公式Twitterにて。

オリジナル御朱印帳も用意。(数量限定)
木製の御朱印帳で、葛飾北斎 冨嶽三十六景「礫川雪ノ旦」が描かれたもの。

また当社は「東都七天神」の一社に数えられている。

所感

「牛天神」の通称で親しまれる天神さま。
源頼朝によって創建され、牛石の伝説が「牛天神」の通称に繋がったのであろう。
天神信仰の各社に伝わる「撫で牛」の発祥・元祖とされる事もある程。
江戸時代の地誌を見ると大変立派な境内で、高台の上に鎮座していて崇敬を集めていた事が窺える。
実に見晴らしがよかったようで、葛飾北斎が『富嶽三十六景』を描く際に使用した事からも伝わる。
江戸を代表する天神さまは幾つかあるが、当社もそうした天神さまの一社であった。
明治以降に社地は削られたものの、今も残るねがい牛や貧乏神を祀る境内社など興味深い要素が多く、当地の歴史と信仰を伝える良い神社である。

神社画像

[ 一之鳥居・社号碑 ]



[ 石段 ]




[ 二之鳥居 ]

[ 手水舎 ]


[ 参道 ]



[ 狛犬 ]




[ 拝殿 ]






[ 本殿 ]

[ 梅の木 ]

[ 神牛像 ]


[ ねがい牛 ]



[ 太田神社・高木神社 ]





[ 庚申塔 ]

[ 石碑 ]

[ 御籤掛 ]


[ 社務所 ]

[ 御神木 ]



[ 歌碑 ]


[ 石碑 ]

[ 神輿庫 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

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