根津神社(根津権現) / 東京都文京区

文京区

神社情報

根津神社(ねづじんじゃ)
根津権現(ねづごんげん)

御祭神:須佐之男命・大山咋命・誉田別命
相殿神:大国主命・菅原道真公
社格等:准勅祭社・府社
例大祭:9月21日
所在地:東京都文京区根津1-28-9
最寄駅:根津駅・千駄木駅・東大前駅
公式サイト:http://www.nedujinja.or.jp/

御由緒

当神社は今から千九百余年の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。
江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。
明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社である。
「根津権現」は当社の古称。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2019/04/23(御朱印拝受/御朱印帳拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/04/28(御朱印拝受)
参拝日:2016/01/25(御朱印拝受)
参拝日:2015/04/27(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

※境内社の「乙女稲荷神社」「駒込稲荷神社」の御朱印も頂ける。
※以前は墨書きだったが、2017年より社名部分が印判(有栖川宮幟仁親王揮毫の神号額)となった。

[2019/04/23拝受]
(通常)

[2017/04/28拝受]
(東京十社めぐり御朱印帳)

[2016/01/25拝受]
(東京十社めぐり御朱印帳)

[2015/04/27拝受]
(通常)

御朱印帳

初穂料:1,200円
授与所にて。

オリジナルの御朱印帳を2種類用意。
境内をデザインした美しいもの。
黒を基調として神紋をデザインしたもの。
どちらもビニールカバーも付いてくる。
東京十社めぐり御朱印帳も用意。

[ 表面 ]

[ 裏面 ]

[ 授与所掲示 ]

授与品・頒布品

無事御守護
初穂料:300円
授与所にて。

歴史考察

文化人に愛された根津権現

東京都文京区根津に鎮座する神社。
旧社格は准勅祭社、郷社の後に府社。
現在は東京十社のうちの一社。
古くは「根津権現」と称され、現在もその呼称を使用される方も多い。
森鴎外や夏目漱石などの文豪や、落語家など数々の著名人にも愛され、その作品や噺などにも「根津権現」として登場するなど、文化人に愛された神社。
国の重要文化財である社殿・楼門・唐門など都内屈指の美しい境内や、春の「つつじまつり」で知られる。

日本武尊が千駄木に創建の伝承

社伝によると、1900年余前に日本武尊によって千駄木に創建したと云う。

日本武尊(やまとたけるのみこと)
第12代景行天皇の皇子。
東国征討や熊襲征討を行った伝説的な英雄として『日本書紀』『古事記』などに載る。
東征によって関東には日本武尊の伝承が残る地が多い。
景行天皇四十三年(113)に逝去と伝わるので、社伝の通りならそれ以前の古社。

創建当時は現在よりも北西の千駄木から駒込に近い位置に鎮座していたと見られる。

太田道灌による社殿造営

文明年間(1469年-1486年)、太田道灌により社殿が造営。

太田道灌(おおたどうかん)
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。
道灌は、江戸周辺の多くの寺社を創建・遷座・社殿造営など行っていて、神仏に崇敬が篤かった人物としても知られる。

万治年間(1658年-1661年)、千駄木の地が太田氏の屋敷地となったため少し東へ遷座。
その後、さらに東の団子坂上(現・文京区千駄木2丁目)に遷座している。

現・文京区千駄木の団子坂あたりを古くは「元根津」と呼んだ。団子坂上に当社が鎮座していた事が旧地名の由来。

六代将軍・徳川家宣の生誕地に遷座

宝永元年(1704)、五代将軍・徳川綱吉が徳川綱豊(後の家宣)を跡継ぎに定める。
将軍世嗣となった綱豊は、綱吉の養子となり家宣と改名し、江戸城西の丸に入城。

徳川家宣(とくがわいえのぶ)
江戸幕府第六代将軍。
初名は綱豊(つなとよ)。
甲府藩主・徳川綱重(綱吉の兄)の長男で、三代将軍・徳川家光の孫。

宝永二年(1705)、当社が家宣の産土神であった事から、家宣の江戸屋敷(旧甲府藩邸)を当社に寄進して、徳川綱吉の命によって社殿など境内造営の普請を開始。

現在の鎮座地は家宣の生誕地
家宣の父・徳川綱重は甲府城を与えられ甲府藩主となったが、甲府藩へ赴いた事はなく、日頃から江戸屋敷(現在の当社鎮座地)で生活。
寛文二年(1662)、江戸屋敷にて長男・綱豊(つなとよ)が誕生。
これが後の六代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)で、当地は家宣の生誕地という事になり、根津や千駄木を鎮守していた当社は産土神という事になる。
綱豊(家宣)が将軍世嗣に定まった事で、甲府徳川家は絶家。家臣団も幕臣として編制。旧甲府藩邸が不要になったため、産土神であった当社に寄進された。

現在も当社の境内には家宣生誕地として「徳川家宣胞衣塚(えなづか)」が残る。
これは家宣の胞衣を埋めたと伝えられる塚。

胞衣(えな)は、胎児を包んだ膜と胎盤の事。

天下普請による社殿造営・徳川将軍家からの庇護

宝永三年(1706)、天下普請によって社殿を造営。
本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・楼門・透塀が整備されこれらがすべて現存している。

本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・楼門・透塀は大変貴重な文化財で、昭和六年(1931)には国宝(現在の重要文化財)に指定。現在も国指定の重要文化財となっている。
天下普請(てんかぶしん)
江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事。
江戸城など城郭普請が知られるが、当社も天下普請の対象であった。

同年、当社は現在地への遷座と共に、500石もの朱印地を賜った。

朱印地(しゅいんち)
幕府より寺社の領地として安堵(領有権の承認・確認)された土地のこと。
朱色の印(朱印)が押された朱印状により、所領の安堵がなされた事に由来する。

正徳四年(1714)、家宣の命により、山王祭・神田祭と同格の天下祭が執り行われている。
この時奉納された三基の神輿が現存し、現在も例祭になると神輿渡御が行われる。

以後、幕府により庇護され大いに崇敬を集めた。
見事な境内は江戸町民にも愛され「根津権現」と呼ばれた。

江戸切絵図から見る当社・門前町には遊郭も

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(本郷絵図)

こちらは江戸後期の本郷周辺の切絵図。
当社は図の右下に描かれている。

(本郷絵図)

北を上にして当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲ったのが当社で「根津権現」として記されている。
別当寺「昌仙院」も同じ境内に記されている。
別当寺と共に神仏習合の中で崇敬を集めた。

「根津門前町」とあるように、当社を中心に門前町が開かれていて大いに賑わった。

門前には根津遊郭も
根津門前町と呼ばれた当社の門前町には、多くの岡場所(幕府非公認の遊郭)があった。
これらは天下普請で当社の境内整備をするために、多くの職人が集まったため、それを相手するための酒屋、そして私娼が集まった事が原因と見られている。
その後、天保の改革によって禁止され、新吉原に移されたものの、実際の営業は続いていたため、幕末に正式な遊郭として許可される事となった。
近くの水戸殿のあたりが現在の東京大学弥生キャンパス。明治に東大の移転に伴い根津遊郭は廃止。
農学部キャンパス(弥生キャンパス) | 東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部
農学部キャンパス(弥生キャンパス)

江戸名所図会に描かれた当社・曙の里と称される

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「根津権現社」として3ページに渡り描かれている。
大変広大な社地を有していた事が分かり、実に見事な境内であった。

美しい境内、更に境内には料理茶屋が並んだ。
江戸庶民から「曙の里」と呼ばれ、遊観の地として愛された。

3ページ目には「当社の境内を世は曙の里といへり」と記されている。

(江戸名所図会)

社殿を中心に境内を拡大したものが上図。

左手の楼門から唐門・透塀・社殿といずれも現存しているもの。
配置も変わらず当時の姿を現在に残している貴重な神社なのが分かる。
境内社などは現在よりも多かった事が窺える。

浮世絵に描かれた根津権現

江戸の遊観の地として庶民からも親しまれた当社は、浮世絵の題材としても数多く取り上げられている。

(江戸名勝図会)

二代目歌川広重による『江戸名勝図会』で、題名は「根津」。

雪景色と当社の透塀が描かれている。
現在の境内も見事であるが、当時は鬱蒼と木々が生い茂った境内だった事が窺える。

二代目歌川広重(にだいめうたがわひろしげ)
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などで代表される歌川広重(初代)の門人。
はじめは重宣(しげのぶ)と称していたが、安政五年(1858)に初代が没すると、広重の養女お辰の婿になり、二代目広重を襲名した。
広重の晩年の作品『名所江戸百景』にも参加し、一部は二代目の作とされている。

(根津神社秋色)

小林清親による『根津神社秋色』。明治になってから描かれた一枚。

現存する楼門を描いている。
秋の姿を描いているので、奥の赤は紅葉によるものであろう。
現在のつつじ苑の位置になり、現在は春につつじが咲き誇り見事な景色を見せるが、明治の頃は秋にも美しい一画だった事が窺える。

小林清親(こばやしきよちか)
月岡芳年、豊原国周と共に明治浮世絵界の三傑の一人に数えられる浮世絵師。
「最後の浮世絵師」「明治の広重」と評された。

(月の出 根津権現)

笠松紫浪による『月の出 根津権現』。昭和七年(1932)に描かれた一枚。

こちらは4月の様子を描いている。
西門と桜、そして月を描いた一枚。
いずれの建造物も現存していて、現在もこうした景色を望む事ができる。

笠松紫浪(かさまつしろう)
大正時代から昭和時代にかけての浮世絵師。

こうした浮世絵からも当社が江戸庶民、さらには明治以降の東京の人々に愛され「根津権現」と呼ばれ続けていた事が窺える。

明治以降の歩み・准勅祭社に指定された一社

明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、准勅祭社に列する。
同年、「根津神社」に改称。

准勅祭社(じゅんちょくさいしゃ)
明治元年(1868)、東京近郊の主だった神社を准勅祭社と定た。
明治天皇が、東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社と制定した事による。
これが後に「東京十社」へと繋がっていく。
東京十社 御朱印一覧
東京十社の「東京十社めぐり御朱印帳」と御朱印画像一覧です。専用の御朱印帳も紹介。東京十社についての歴史など詳しい説明も掲載しています。東京十社とは、昭和五十年に定められた東京23区内の10の神社。東京十社めぐりの参考になりましたら幸いです。
「根津権現」と呼ばれていた当社だが、神仏分離の影響で「権現」を使う事ができなくなり「根津神社」に改称。しかしながら、森鴎外や夏目漱石といった明治期に活躍する文豪の作品には「根津権現」として登場する事が多く、庶民には「根津権現」で親しまれ続た。

明治三年(1870)、准勅祭社が廃止。
明治五年(1872)、郷社に列した。(後に府社に昇格)

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
根津・千駄木・谷中といったいわゆる谷根千の地名を見る事もできる。

当社の南にあるのが第一高等学校(通称・旧制一高)で、現在の東京大学教養学部、千葉大学医学部、同薬学部の前身となった。
更にその南には帝国大学(現・東京大学)。

こうした立地から当社門前町にあった根津遊郭は廃止されたものの、森鴎外や夏目漱石などの文豪や、落語家など数々の著名人にも愛され、その作品や噺などにも「根津権現」として登場し、文化人に愛された。

大正三年(1914)、府社に昇格。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

大正十一年(1922)に東京市公園課が出版した『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』。

当時の社殿の様子を見る事ができる。
現存する社殿としてほぼ変わる事がない見事な社殿。

昭和六年(1931)、本殿・幣殿・拝殿・唐門が国宝(現在の重要文化財)に指定。
現在も当時の記念看板が残る。

戦後に境内整備も進み現在に至る。
当社の建築物の多くは、江戸時代から現存しており、大変貴重な境内となっている。

森鴎外や夏目漱石といった明治期に活躍する文豪の作品に登場する他、最近ではアニメ聖地としても登場している。神社を舞台にした『ぎんぎつね』と云う漫画・アニメで登場する「神尾神社」という架空の神社は、当社をモデルとしている。

境内案内

谷根千と称される根津に鎮座・美しい境内

最寄駅の根津駅からは徒歩数分で、根津神社入口の交差点を左折すると店が並ぶ参道。
現在は谷中・根津・千駄木で「谷根千」と称される人気エリア。

谷根千ねっと | 谷中・根津・千駄木の魅力を皆様へお届けします
谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイトです

当社への入口は表参道口・北口・西口の3つで、南向きが表参道。
社号碑には「元准勅祭」の文字が記され、准勅祭社だった歴史を伝える。
鳥居は朱色の大鳥居。
平成八年(1996)に建て替えが行われた。

大鳥居を潜ると広い参道。
正面につつじまつりで有名なつつじ苑が見えてくる。(詳しくは後述)

入り口は他に北側、根津裏門坂に面して2つ。
朱色の鳥居が北口鳥居。
石鳥居が西口鳥居。
つつじまつりや例祭時などはこちら側に多くの露店が出る。

基本的には表参道から入るのがオススメ。

美しい神橋・重要文化財の楼門

表参道を進むと、正面に立派な楼門が見えてくる。
参道途中に神橋。
神池からつつじ苑側に流れる小川に架かる橋。
神橋と楼門の組み合わせが美しい。

神橋を渡った先に見事な楼門。
社殿と共に徳川将軍家による天下普請で宝永(1706)に造営。
当時の楼門が現存していて、関東大震災や東京大空襲があった都内では大変貴重な姿。
重厚で存在感のある楼門は浮世絵の題材にもなったもの。
状態もよく維持されていて、江戸時代当時の姿を残す。
国の重要文化財に指定。
江戸時代から変わらぬ景色を見る事ができる。

楼門を潜った先、左手に手水舎。
水盤には卍の文字。
江戸時代の建築物を数多く残す当社には、神仏習合時代の名残である卍マークを数多く見る事ができる。

重要文化財の唐門・西門・透塀

社殿の手前にあるのが唐門。
唐門も宝永(1706)に造営されたものが現存。
朱色を貴重に美しい唐門。
いたるところに卍マーク。
社殿を囲む透塀も当時のものが現存。
同じく西門も当時のものとなっている。

唐門・透塀・西門も全て国の重要文化財に指定。

徳川綱吉によって造営された美しい社殿(重要文化財)

楼門を潜ると正面に実に見事な社殿が立つ。
宝永(1706)に五代将軍・徳川綱吉によって造営された社殿。
天下普請と呼ばれ徳川将軍家が諸大名に命じて造営。
総漆塗りの権現造で江戸の神社建築としては最大の規模。
拝殿には実に美しい彫刻や極彩色が施され、徳川将軍家の威信が伝わる。
拝殿・幣殿・本殿共に国の重要文化財に指定。
神仏習合の歴史をそのまま伝える社殿であり、やはり社殿にも至る所に「卍」が残っている。

卍(まんじ)
仏教で用いられる吉祥の印。
現在の日本では仏教を象徴する記号としてよく知られる。
明治の神仏分離で神社に卍を使う事が殆どなくなったが、戦前は国宝(現在の重要文化財にあたる)に指定された社殿は、当時の姿をそのまま残す必要があるため、今もこうして神仏習合の「根津権現」の姿を留めている。

境内社「乙女稲荷神社」の方角からは社殿の全景を望む事も可能。
本殿・幣殿・拝殿による権現造となっている。

社殿前には一対の青銅灯籠。
伊勢国津藩の第五代藩主・藤堂高敏による奉納。
こちらも国の重要文化財に指定。

拝殿前には一対の狛犬。
大正元年(1912)奉納の狛犬。
立派な体躯で石工は井亀泉。

千本鳥居が美しい乙女稲荷は人気の撮影スポット

社殿の左手には境内社の乙女稲荷神社。
いくつか参道があるが、特に人気なのがつつじ苑側の参道。
稲荷信仰らしい奉納鳥居が連なる参道で、千本鳥居と称され撮影スポットとしても人気。
鳥居の奉納は常に受け付けており、1基10万円の奉納で設置可能。
今も数多くの奉納が続いている。
当社を代表する美しい風景の一画。

この千本鳥居の途中に、徳川家宣胞衣塚(えなづか)。
六代将軍・徳川家宣の生誕地であるため、家宣の胞衣(えな)が納められた塚。

胞衣(えな)は、胎児を包んだ膜と胎盤の事。

乙女稲荷神社へは社殿左手の鳥居からも向かう事ができる。
さらに千本鳥居が続く。
その先に乙女稲荷の社殿。

乙女稲荷神社はやや高台に鎮座。
乙女稲荷側から社殿側を見ると社殿の全景を窺う事ができる。
前には小川が流れ趣のある境内として人気スポット。
古くは穴稲荷と呼ばれ祀られており、現在の社殿は昭和三十一年(1956)に奉建された。

授与所に掲示はないが、乙女稲荷神社の御朱印も頂くことができる。

庚申塔・塞の大神碑・駒込稲荷

乙女稲荷神社の先にも千本鳥居が僅かに続く。
途中には神狐像などの奉納物も。

この奉納鳥居を抜けると、左手に庚申塔。
六基の庚申塔が集められた一画。
最も古いのが寛永九年(1632)建立で、文京区内では最古。
周辺地域の民間信仰を伝える一画。

前には力石も置かれている。

庚申塔(こうしんとう)
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。

その右手には塞大神碑。
古くは通称・駒込の追分にあったもので、明治六年(1873)に建立されたものが、当社に移された。

塞の神(さえのかみ)
村や部落の境にあって、他から侵入するものを防ぐ神。
道祖神(どうそじん)も同じ神とされる。

更に幾つか鳥居がある参道。
奥に向かうと駒込稲荷神社。
もとは当地に屋敷を構えていた徳川綱豊(後の家宣)の父・綱重の頃から江戸屋敷(旧甲府藩邸)にあった邸内社。
寛文元年(1661)に屋敷の守り神として祀られた。
狐塚が設置。
古くから崇敬の篤いお稲荷様。
手水舎の屋根には三葉葵の紋が残っている。
かつて駒込稲荷神社の手前には天保十一年(1840)建立の石鳥居が残っていたのだが、東日本大震災によって倒壊してしまい現存していない。

「つつじまつり」などの期間になると、こちら側に多くの露店が開かれる。

4月-5月上旬が見頃のつつじまつり・2019年の様子

当社の境内で名勝とも云えるのが「つつじ苑」。
つつじ苑は、かつて「つつじヶ岡」と呼ばれた一画で、当地が徳川綱重の江戸屋敷であった時代、綱重が庭につつじを植えたことに始まる。

つつじの季節になると「つつじまつり」が開催。
文京区の名勝として今も親しまれ、大勢の人々で賑わう。

2019年「文京つつじまつり」日程
4月6日-5月6日 9:00-17:30まで
つづじ苑の入苑は神苑整備のため200円(ミニクリアファイル付300円)
つつじまつり

2019年4月下旬に参拝時は見事に咲き誇っていた。
例年だと4月下旬に見頃を迎える事が多い。
赤を中心に色鮮やかなつつじ。
約2,000坪のつつじ苑には、約100種3000株のつつじが咲き競う。
つつじと千本鳥居の競演も美しく、つづじ苑に入苑しないと見れない景色。
つつじまつり開催期間中はつつじ苑にも入って楽しみたい。

開催期間中はインスタグラム写真コンテストなども開催。
最近の筆者はほぼ2年おきに「つつじまつり」期間中に参拝しているが、2015年時はそこそこの咲き具合、2017年時はあまりパッとしない咲き具合、2019年は実に美しい咲き具合と、その年によって見頃になっても咲き具合がかなり違う。

つつじまつり期間中は境内に甘酒茶屋が出る。
奥の神池を眺めながら休む事ができる一画となる。
他にも西口や北口側には数多くの露店が多く出て、境内は多くの人で賑わう。

御朱印・境内をデザインした美しい御朱印帳

御朱印は社殿右手にある授与所にて。
いつも丁寧に対応して頂ける。

御朱印は以前は社名部分も墨書きだったが、2017年より社名部分が印判(有栖川宮幟仁親王揮毫の神号額)となった。
左が2015年に頂いたもので、右が2019年に頂いたもの。

オリジナルの御朱印帳も用意。
つつじ・楼門・唐門・社殿をデザインした表面と、千本鳥居をデザインした裏面。
黒を基調として神紋をデザインしたものや、東京十社めぐり御朱印帳も用意。

東京十社(とうきょうじっしゃ)
東京23区内の10の神社。
起源は明治維新で制定された「准勅祭社」にある。
昭和五十年(1975)に昭和天皇即位50年を奉祝して関係神社が協議を行い、東京23区内の准勅祭社10社を巡る「東京十社巡り」が企画され、これが現在の「東京十社」。
東京十社 御朱印一覧
東京十社の「東京十社めぐり御朱印帳」と御朱印画像一覧です。専用の御朱印帳も紹介。東京十社についての歴史など詳しい説明も掲載しています。東京十社とは、昭和五十年に定められた東京23区内の10の神社。東京十社めぐりの参考になりましたら幸いです。

所感

根津権現として多くの人々に愛されてきた当社。
江戸時代に六代将軍・徳川家宣の産土神として、家宣生誕地である当地を寄進され遷座。
以後は徳川将軍家より篤く庇護され、門前町も形成され遊観の地として江戸庶民からも親しまれた。
天下普請で造営された社殿など、多くの建造物が今も現存しているのが素晴らしい。
江戸時代に発生した数多くの火災、関東大震災、東京大空襲など多くの災難を受けた東京において、これだけ当時の建造物が状態良く残っているのは大変貴重。
徳川将軍家の威光と神仏習合の歴史を伝える見事な社殿は傑作とも云える。
「つつじまつり」で賑わう時期の境内も見事であるが、当社はどの時期でも素晴らしく、歴史と信仰を伝える素晴らしい良社であり、東京を代表する一社である。

神社画像

[ 社号碑・大鳥居 ]




[ 参道 ]

[ 楼門・神橋 ]




[ 神橋 ]

[ 楼門 ]









[ 手水舎 ]


[ 唐門 ]



[ 透塀 ]



[ 拝殿 ]











[ 本殿・幣殿・拝殿 ]

[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 銅燈籠 ]


[ 授与所 ]

[ 納蒔舎 ]

[ 百度石 ]

[ 西門 ]

[ 神楽殿 ]

[ 乙女稲荷神社鳥居 ]




[ 千本鳥居 ]









[ 徳川家宣胞衣塚 ]


[ 乙女稲荷神社 ]








[ 庚申塔・力石 ]






[ 塞の大神碑 ]


[ 鳥居 ]

[ 駒込稲荷神社 ]





[ 狐塚 ]


[ 西口鳥居 ]

[ 北口鳥居 ]

[ 露店 ]



[ 神輿庫 ]

[ 石碑 ]

[ つつじ苑 ]
















[ 甘酒茶屋 ]

[ 案内板 ]




Google Maps

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