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概要
下馬鎮守・源氏ゆかりの子の神(ねのかみ)
東京都世田谷区下馬に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧下馬引沢村(現・下馬)の鎮守。
かつては「子の神(ねのかみ)」「子明神(ねのみょうじん)」と称され大国主命を祀る神社。
その名から安産の神として信仰を集める他、福の神・縁結びの神として知られる。
源氏の伝承がいくつも残されており、源氏ゆかりの神社とされる。
神社情報
駒繋神社(こまつなぎじんじゃ)
御祭神:大国主命
社格等:─
例大祭:9月第3日曜
所在地:東京都世田谷区下馬4-27-26
最寄駅:祐天寺駅・三軒茶屋駅
公式サイト:http://www.komatunagi.jp/
御由緒
当社は、今から約九百五十年程昔、平安時代後期、御冷泉天皇の天喜四年(1056)四月に源義家公が父頼義公と共に朝廷の命をうけ奥州の安倍氏征伐(前九年の役)に向う途中、この地を通過する際に子の神(当社)に武運を祈ったと伝えられており、少なくともこれより以前に出雲大社の御分霊を勧請し守護神としてお祀りされたと考えられます。
その後文治五年七月(1189)源頼朝公が奥州の藤原泰衡征伐のため、自ら大軍を率いて鎌倉を発しこの地に至った時に、往時義家公が子の神(当社)に参拝したことを回想し、愛馬より下りて駒(馬)を境内の松に繫いで戦勝を祈願したと言われており、この故事により「子の神」が「駒繫神社」とも呼ばれるようになり、明治以降に正式に「駒繫神社」と称せられるようになりました。
また、新編武蔵風土記には「子の神の境内は五反(1500坪)下馬引澤の内小名、子の神丸にありその所の鎮守なり、此社の鎮座の年歴を詳らかにせず、本社九尺に二間、拝殿二間に三間社地の入口に柱間八尺の鳥居を建てこれより石段二十五を経て社前に至る。又本社の未の方(南南西)にも同じ鳥居一基を建てる。」と記されており、当時の神社の境内の様子を知ることが出来ます。
当社の創立の年代は定かではありませんが、源義家公が前九年の役に際し、当社にて戦勝祈願された故事を鎮座の起源として、昭和三十二年に鎮座九百年式年大祭、平成十九年に鎮座九百五十年式年大祭が、それぞれ盛大に斎行されました。
現在氏子地域は下馬一丁目から六丁目であり、下馬に住む人々憩いの場、鎮守の杜として、この町をお護りしております。(頒布のリーフレットより)
歴史考察
源義家(八幡太郎)が戦勝祈願をした伝承
創建年代は不詳。
古くから「子の神(ねのかみ)」「子明神(ねのみょうじん)」と称された。
天喜四年(1056)、「前九年の役」にて源義家(八幡太郎)が父・源頼義と共に、陸奥国の豪族であった安倍氏の反乱を平定するため奥州へ向かう。
その途次、子の神(当社)で戦勝祈願をしたと伝えられている。
奥州の陸奥守に任命された源頼義(みなもとのよりよし)が、奥州(陸奥国)で半独立的な勢力を形成していた有力豪族・安倍氏を滅亡させた戦い。
源頼義(みなもとのよりよし)の嫡男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称し、関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされた。
義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。
この事から少なくとも平安時代以前に創建されていた事が分かる。
大国主命を祀る・子の神と呼ばれる理由
当社は古くから「子の神(ねのかみ)」「子明神(ねのみょうじん)」と称された。
「子の神」と呼ばれる神社は関東圏にも幾つか見る事ができる神社。
その多くは御祭神が大国主命(おおくにぬしのみこと)である事が挙げられる。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、武力交渉の末に天津神に国土を献上した事から「国譲りの神」とも呼ばれる神。
国津神(天孫降臨以前より国土を治めていた土着の神)の最高神ともされ、古くから「出雲大社」の御祭神として知られる。
民間信仰によって「大国」が「だいこく」と読める事から、七福神でもある「大黒天(大黒様)」と習合していった。
「子(ね)」とは、十二支の「子」の事であり、すなわち「鼠(ねずみ)」を意味する。
さらに大国主命(大黒様)の神使は「鼠」とされている。
根の国の素盞嗚命(すさのおのみこと)の家で、大国主命は素盞嗚命の娘・須勢理毘売(すせりびね)と恋に落ちた。
しかし、この事を知った素盞嗚命から厳しい試練を与えられることになる。
1日目は蛇のいる部屋、2日目は蜂や百足の部屋に寝せられ、姫の機転で難を切り抜けることが出来たものの、3日目には広い野原の中に射込んだ鳴鏑(なりかぶら)の矢を拾って来ることを命ぜられた。
大国主命が矢を拾いに野原に入るとすぐに火を放たれ、逃げ惑っていると、鼠が出てきて「内はほらほら、外はすぶすぶ」(穴の内側は広い、穴の入り口はすぼまって狭い)と云うので踏むと、地下は空洞になっていてそこに落ち隠れる事ができ、火をやり過ごす事ができた上、その鼠は鳴鏑の矢を咥えて持ってきてくれた。
こうして大国主命は鼠に助けられ、大国主命と姫は無事に根の国を脱出して、出雲に新しい国を開いた。
大国主命を助けた事で神使とされる「鼠」から、大国主命を祀る神社を「子の神」と称するようになったと云える。
源頼朝の戦勝祈願・駒繋と呼ばれる由来
文治五年(1189)、源頼朝が奥州征伐のため当地を通過。
祖先である源義家(八幡太郎)が当社に戦勝祈願して奥州へ向かった事に倣い、当社で戦勝祈願をしたとされる。
この時、頼朝は愛馬から下りて馬(駒)を境内の松に繫いで参拝。
この事から「駒繋神社」とも呼ばれるようになったと云う。
源頼義・義家父子による伝承、その子孫である頼朝の伝承が残る当社は「源氏ゆかりの神社」として崇敬を集める事となる。
馬引沢村(下馬・上馬)も頼朝が地名由来
また頼朝は「駒繋」の由来だけでなく「馬引沢村」(現在の下馬・上馬)の由来とされる故事も残している。
頼朝が当地周辺を進む途中、乗馬にて沢を渡ったところ愛馬が何かに驚いて暴れだし、沢の深みに落ちてしまう。
愛馬を引き上げようとしても砂利が崩れて引き上げられず、愛馬が死んでしまったので、沢の岸辺近くに葬り塚を作り馬が芦毛であったため芦毛塚と名付けた。
その時、頼朝が「これから先、この地に来たときは必ず馬から下りて沢は引いて渡れ」と厳命しこの沢を「馬引きの沢」と名付けたと伝わり、これが「馬引澤村」の地名由来。
頼朝の愛馬を葬った芦毛塚として、現在は蛇崩交差点から五本木方面に向かう道の真ん中に「芦毛塚之碑」が置かれている。
下馬引沢の鎮守・新編武蔵風土記稿から見る当社
慶長十四年(1609)、馬引沢村が大久保氏の領地となる。
その後、馬引沢村は上馬引沢・中馬引沢・下馬引沢と分割。
当社は下馬引沢の鎮守とされた。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(馬引澤村)
子の神社
除地五段。下馬引澤の内小名子の神丸にあり。その所の鎮守なり。此社の鎮座の年歴を詳にせす。本地沸は文殊菩薩の由いえり。本社九尺に二間、拝殿二間に三間。社地の入口に柱間八尺の鳥居を建。これより石階二十五級を歴て社前に至る。又本社の未の方にも同し鳥居一基をたてり。
末社。稲荷社。本社の左右にわつかなる祠一社つつあり。
「子の神社」として記されているのが当社。
馬引沢村にある下馬引沢の子の神丸に鎮座していたとされる。
「その所の鎮守なり」とあり、下馬引沢の鎮守であった事が記されている。
当時の別当寺は「寿福寺」(現・目黒区上目黒5丁目)であった。
江戸名所図会に描かれた子明神
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「子明神(ねのみょうじん)」として描かれている。
当時の境内の様子、さらにはこの周辺の様子を知る事ができて興味深い。
境内の造りは今も昔もあまり変わらない。
鳥居があり石段を上って社殿、左手には裏参道という形。
当社の前に流れる川は蛇崩川。
現在は蛇崩川緑道として緑道になって川は暗渠となっているが、まだ暗渠となる前の蛇崩川には当社へ向かう神橋が架かっていた事が分かる。
目黒川に合流する小さな川で、流れる形が赤土の地層を崩したように蛇行している事から蛇崩川と呼ばれた。
明治以降の歩み・戦後の再建
明治になり神仏分離。
当社は「駒繋神社」へ改称。
明治元年(1868)、馬引沢村は上馬引沢村・中下引沢村・下馬引沢村に分村。
当社は無格社であったが下馬引沢村の鎮守とされた。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行に際し、上馬引沢村・下馬引沢村・野沢村・弦巻村・世田ヶ谷新町・深沢村の6村が合併し「駒沢村」が成立。
駒沢の地名は、馬引沢村の馬(駒)と野沢・深沢の沢を合わせて名付けられた合成地名。
明治二十五年(1892)、神楽殿を竣工。
明治三十一年(1898)、社殿を造営。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
赤円で囲った箇所が当社で、当時も現在も鎮座地は変わらない。
「駒繋神社」と記してあるように周辺の目印にもなる存在であった。
今はなき下馬引沢の地名も見る事ができる。
昭和七年(1932)、世田谷区が成立すると当地は世田谷区下馬町となる。
戦後になり境内整備が進む。
昭和二十六年(1951)、神橋が再建。
昭和三十八年(1963)、社殿を造営。
平成二十五年(2013)、駒繋の由来となった三代目の松の木が枯れ木となり伐採。
令和二年(2020)、社務所の建て替え工事が竣工し保育所も併設された。
境内案内
蛇崩川緑道沿い・暗渠に架かる神橋
最寄駅は祐天寺駅もしくは三軒茶屋駅になるが、どちらからも徒歩15分以上はかかる距離。
土地勘がないと分かりにくい住宅街を進む事となる。
蛇崩川緑道と呼ばれる緑道沿いに鎮座。
かつて当社前を流れていた蛇崩川に蓋をして出来た緑道。
蛇崩川緑道に架かる神橋は昭和二十六年(1951)に再建されたもの。
大木が多い緑に囲まれた鎮守の杜
神橋の先に鳥居と社号碑。
鳥居の近くには大きな大木。
鳥居を潜ると正面に石段。
石段を上るとすぐ右手に手水舎。
戦後に再建された社殿・安産や縁結びの神様
社殿は昭和三十八年(1963)に造営されたもの。
「子の神(ねのかみ)」と称された当社は、その名から「安産の神」として信仰を集めた。
御祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)は大黒天(大黒様)と集合したため福の神。
「出雲大社」の神である大国主命は、古くから縁結びの神として知られる。
そのため、安産の神・福の神・縁結びの神として信仰を集めている。
旧拝殿を利用した招魂社などの境内社
境内社は社殿の左手に招魂社。
その左手には古い水盤。
招魂社の右手奥に御嶽神社・榛名神社・三峯神社の三社殿。
明治時代の神楽殿・かつてあった駒繋の松
境内の左手に神楽殿。
この神楽殿の左手奥に稲荷社が一社。
この稲荷社の近くにかつては「駒繋」の由来となった頼朝の故事に登場する松の木があった。
源頼朝が当社に戦勝祈願する際、愛馬から下りて馬(駒)を境内の松に繫いで参拝。
この事から「駒繋神社」とも呼ばれるようになったと云う。
その頼朝が馬を繋いだ松が「駒繋の松」と呼ばれた。
最近まで「駒繋松」として三代目の松の木があったものの、枯れ木になってしまったため平成二十五年(2013)に伐採。
また緑に囲まれた境内には、世田谷区名木百選に選ばれている2本の木など見事な名木が多い。
令和二年に新社務所が竣工・月替りの限定御朱印
御朱印は社務所にて。
御朱印は「駒繋神社」の朱印と墨書き。
新しく竣工した社務所には保育所も併設。
所感
下馬の鎮守である当社。
源義家(八幡太郎)や源頼朝といった源氏の伝承が残る神社。
源氏ゆかりの神社として知られ、遠方から訪れる方もいると云う。
かつては「子の神」と呼ばれる事が多く、大国主命(大黒天)を祀る出雲系の神社である。
近くに筆者お気に入りの焼菓子屋があるため、そちらに寄る時はいつも参詣しているのだが、緑に囲まれた境内は古き鎮守らしい姿を維持しており、四季折々の景色を楽しめる。
夏は蝉時雨を感じる事ができ、秋は紅葉を楽しむ事もできる。
今もなお地域の方から崇敬され続けている良い鎮守である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
※令和元年以降は月替り御朱印を用意。(毎月の月替り御朱印については公式サイトにて。)
※祭事に応じて限定御朱印あり。
参拝情報
参拝日:2024/06/24(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2022/09/29(御朱印拝受)
参拝日:2022/04/11(御朱印拝受)
参拝日:2021/04/13(御朱印拝受)
参拝日:2020/07/13(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2019/05/28(御朱印拝受)
参拝日:2019/01/29(御朱印拝受)
参拝日:2015/08/30(御朱印拝受)
コメント
頼朝は馬を大事にされていたんですね。神社もそんなに古くからあるのに綺麗に残っていますね。そんなに遠くないので参拝してみようと思います。
武士にとって馬というのはとても大切な存在でしたので源氏の棟梁であった頼朝も馬をとても大事にして、頼朝と馬の伝承などは各地に残されています。
ぜひ参拝してみて下さい。