宮益御嶽神社 / 東京都渋谷区

渋谷区

概要

渋谷宮益坂に鎮座する旧宮益町の鎮守

東京都渋谷区渋谷に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧宮益町の鎮守。
渋谷宮益町(宮益坂)の地名由来となった神社。
正式名称は「御嶽神社」であるが、他との区別から「宮益御嶽神社」とさせて頂く。
境内には珍しい日本狼による狛犬が置かれている。
現在は11月の酉の日に「酉の市」が開催される事でも知られる。

神社情報

宮益御嶽神社(みやますみたけじんじゃ)

御祭神:日本武尊・秋葉之神・大国主神・菅原之神
社格等:─
例大祭:9月中旬・11月酉の日(酉の市)
所在地:東京都渋谷区渋谷1-12-6
最寄駅:渋谷駅
公式サイト:https://shibuyamiyamasu.jp/?page_id=396

御由緒

当神社は、大和国吉野郡金峰神社の分祭社でありまして、創起年暦等は不明ですが、室町時代初期(1400)に創設されたと言われております。 祭神は次の四神をお祀りしてあります。
 日本武尊 秋葉の神 大国主神 菅原の神
元亀年間(1570-72年)甲府武田家の陪臣、石田勘解由茂昌なる武将が所持していた尊像を神社に合祀しました。その後茂昌の子孫で石田茂兵衛が当社に居住し、茂兵衛の婿、太郎兵衛が尊像を護持していたと言います。そして、太郎兵衛は、延宝九年三月六日不動尊石像・庚申石像、延宝九年三月二十三日勢至菩薩石像を建立しました。
当所、渋谷新町の町名が元禄十三年六月に宮益町と改称されたのも鎮守御嶽神社より起きたと言われています。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2021/11/09(御朱印拝受)
参拝日:2020/08/06(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/05/02(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

※授与所が閉まっている事も多く平日に開所している場合が多い。
※通常は書き置き(社名部分は印判)のみ授与。

歴史考察

室町時代の創建・金峯神社の分祀社

社伝によると、室町時代初期(1400年頃)に創建と伝わる。
大和国吉野郡「金峯神社」の分祀社(御由緒には分祭社)として創建したと云う。

金峯神社(きんぷじんじゃ)
大和国(奈良県)吉野山の地主神である金山毘古命(かなやまひこのみこと)を祀る神社として知られ、式内社(名神大社)の古社。
吉野山は古代から山岳信仰の聖地であり山岳霊場として古くから崇敬を集めた。
追っ手に囲まれた源義経が屋根を蹴破って逃げたと伝わる義経隠れ塔を有する。
現在は高野山・熊野三山ともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素の一部とされ、蔵王権現を本尊とする「金峯山寺(きんぷせんじ)」を中心として多くの寺社が今も鎮座している。
この事から古くは「金峯山寺」の「蔵王権現堂」を総本社とする蔵王権現に対する信仰が根底にあったのだと推測できる。

古くは蔵王権現を祀っていた御嶽神社

関東圏で「御嶽神社(みたけじんじゃ)」の社号を持つ神社は幾つか存在。
その殆どが神仏習合時代は蔵王権現を祀る神社であった。

「御嶽神社(おんたけじんじゃ)」と読む場合は木曽御嶽山を信仰する神社で、「御嶽神社(みたけじんじゃ)」と読む場合はかつて蔵王権現を祀った神社の場合が多い。
蔵王権現(ざおうごんげん)
正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)と云う。
修験道の本尊であり、釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三尊が合体したものとされ、インドなどに起源をもたない日本独自の本尊。
特に奈良県吉野町の「金峯山寺」の本堂「蔵王堂」の本尊として知られている。
明治の神仏分離後は習合した様々な神と同一視され、それぞれの神社ではそれらの神々を御祭神に変更、当社も現在の御祭神は日本武尊になっている。
金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺
奈良県 金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺ウェブサイト。国宝・世界遺産の仁王門、蔵王堂の他、日本最大秘仏である金剛蔵王大権現。全国の修験者・山伏が集う修験道の中心寺院となっています。

この事から当社は蔵王権現を祀る信仰が根底にあったのであろう。
古くから「御嶽神社」と呼ばれ、地域からの信仰を集めた。

関東における蔵王権現の中心として信仰を集めたのが「武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)」(東京都青梅市)。中世以降、山岳信仰の霊場として発展し、特に武蔵国・相模国での信仰圏を持ったため、当社の氏子も「武蔵御嶽神社」への信仰があったように思う。
武蔵御嶽神社【公式サイト】
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武田家の家臣子孫が護持・炙り不動の建立

元亀年間(1570年-1573年)、甲府武田家の陪臣、石田勘解由茂昌と云う武士が所持していた尊像を当社に合祀。
茂昌の子孫が当地に居住し、当社と尊像を護持したと伝わる。

『東京都神社名鑑』には元亀元年(1570)に創建とも記してあり、この年代を創建年代とする説もある。

延宝九年(1681)、茂昌の子孫である太郎兵衛が、不動尊石像・庚申石像・勢至菩薩石像を建立。
この三像は現在も「宮益不動尊」として境内に置かれる。
古くから「炙り不動」と呼ばれ信仰され、神仏習合の中で当地周辺の鎮守として崇敬を集めた。

宮益町の地名由来・富士見坂と呼ばれた宮益坂

江戸時代になると当地周辺は大山道などの街道が交わる地として発展。
街道沿いには茶屋が出るなど賑わいを見せるようになった。

大山道(おおやまみち)
現在の国道246号やその脇道は、古くは「大山道」と呼ばれた街道の1つであった。
関東の雨乞い信仰の中心として相模国大山「大山阿夫利神社」(現・神奈川県伊勢原市)への参詣者が通った古道を「大山道」と呼んだ。
大山阿夫利神社
関東総鎮護大山阿夫利神社公式HPです。神奈川県伊勢原市。ご祈願・各種行事・アクセスガイド・大山のハイキングコースなどについてご紹介しております。

当時は上渋谷村の一画で、古くから渋谷の中心であった渋谷・青山の総鎮守「金王八幡宮」一帯に対し、新たに栄えた町という意味で「渋谷新町」と呼ばれるようになる。

金王八幡宮 / 東京都渋谷区
渋谷・青山の総鎮守。社名由来となった渋谷金王丸の伝説。春日局からの崇敬。江戸時代に造営された社殿・神門。江戸三名桜の1つ金王桜・満開の金王桜。『天地明察』の舞台。算額など無料展示の宝物館。渋谷地名由来。御鎮座930年切り絵御朱印。御朱印帳。

元禄十三年(1700)、「渋谷新町」から「宮益町」に改称。
正徳三年(1713)、町奉行の支配下となり上渋谷村からは分離して「宮益町」となった。

宮益町(みやますちょう)
町名は当社が由来とされている。
当社の霊験があらたかだったので「お宮の御利益による町」という意味になる。

また現在の宮益坂は古くは「富士見坂」と呼ばれていた。
その名の通り、古くは坂上や坂途中から富士山を眺望する事ができた事によるもの。

昭和九年(1934)に東横百貨店ができるまでは宮益坂から富士山を望む事ができた。

富士見坂も町名が宮益町になったため、いつしか「宮益坂」と呼ばれるようになっていく。

当社はそうした宮益町の鎮守として崇敬を集めた。

江戸切絵図から見る当社と渋谷周辺

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(青山渋谷絵図)

こちらは江戸後期の青山渋谷周辺の切絵図。
右上が北の地図で、当社は図の左に描かれている。

(青山渋谷絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲ったのが当社で「御嶽神社」として記されている。
江戸時代よりそう呼ばれていた事が窺える。
当社の前に「宮益町」とあり当社は一帯の鎮守であった。

当時の渋谷は大変な農村であり、百姓地や畑ばかりの地であったが、この宮益町までは町屋として栄えており、宮益坂上には諸大名の下屋敷なども多く置かれていて、宮益町が町としての境目だったと云えるだろう。

江戸名所図会に描かれた当社と渋谷

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「富士見坂一本松」として描かれた見開きの一枚。
左奥が富士見坂(宮益坂)で、手前が道玄坂を上った先となる。
現在の渋谷駅周辺から円山町あたりまでとも云え、当時の渋谷が大変な田舎であった事が伝わる。

(江戸名所図会)

富士見坂(現在の宮益坂)周辺を拡大したのが上図。

富士見坂がある宮益町までは町屋として栄えている様子が伝わるが、その先の渋谷川に架かる富士見橋を渡ると、道玄坂に少し町屋が並ぶくらいで、後は一気にのどかな光景となる。

富士見坂の左手に、小さくだが鳥居が描かれているのが分かる。
これが今も宮益坂途中に鎮座している当社。
当社の一帯はやや高台になっていて木々が生い茂った境内だったのだろう。

明治天皇の聖蹟に指定・戦後の再建

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

神仏分離の影響で御祭神を変更
古くは蔵王権現を祀る信仰が根底にあった当社。
明治の神仏分離後の蔵王権現は習合した様々な神と同一視され、当社は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る事となった。
現在の御祭神は日本武尊・秋葉之神・大国主神・菅原之神の4柱である。

明治三年(1870)、国内初の観兵式が駒場野練兵場(現・東京大学駒場地区キャンパス)で開催。
明治天皇が行幸され、皇城(現・皇居)から練兵場までの間の御小休所(休憩所)を当社に置いた。
同年、素木鳥居・駒寄などを賜ったと伝わる。

観兵式(かんぺいしき)
国家元首などへのお披露目や内外への示威目的で行われる軍事パレード。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが当社で、当社の鎮座地は現在と変わらない。
当時はまだまだ現在ほど発展していない渋谷の町並みが分かる。
橙円で囲ったように宮益町には当社以外にも神社が鎮座していた事が分かり、これは「千代田稲荷神社」(現在は道玄坂に遷座)であった。

宮益町の古い写真などは、渋谷宮益商店街振興組合の公式サイトに「宮益地域の歴史」として載っているので、そちらをご覧頂きたい。
SHIBUYA MIYAMASU
渋谷宮益坂と明治通り周辺にある渋谷宮益商店街振興組合公式サイト

昭和三年(1928)、地名の変更が行われ宮益町周辺は「美竹町(みたけちょう)」となる。
この町名も氏神である当社の「みたけ」を由来としたもの。

昭和十二年(1937)、明治天皇の聖跡に指定。
現在も境内に残る碑はこの時のもの。

昭和二十年(1945)、東京大空襲により社殿を焼失。
社殿以外にも神楽殿・社務所・神輿・獅子頭などを焼失している。

戦後は長い間、崇敬会によって仮殿で維持された。

昭和四十一年(1966)、住居表示法が施行され美竹町は現在の渋谷1丁目に変更。

昭和五十五年(1980)、現在の社殿が再建。
崇敬者によって念願の再建を果たした。

現在は日本武尊を御祭神とする事から、大鳥信仰である「酉の市」を開催。11月の酉の日になると、酉の市が開かれ境内が賑わう。

境内案内

渋谷の繁華街・宮益坂の途中に鎮座

渋谷宮益坂の坂途中、渋谷郵便局の手前に鎮座。
繁華街として発展した渋谷の街中に鳥居と参道が出現する不思議な空間となっている。
昭和二十九年(1954)に奉納された鳥居。
社号碑には現在の御祭神である日本武尊・秋葉之神・大国主神・菅原之神の4柱の文字。

鳥居を潜ると参道が伸びる。
やや急勾配な石段。
古くから丘上に鎮座しており当時の地形を利用するように整備されている。
上から見ると中々の勾配。

石段を上った先の境内・聖蹟の碑

石段を上ると次の鳥居が見えてくる。
石段の上にある二之鳥居。
渋谷のビルに囲まれた印象的な参道。
二之鳥居の先に境内が広がる。
境内は玉砂利が整備されているが「玉砂利の中に入るべからず」の案内板があるので、整備された参道に沿って参拝するようにすること。

二之鳥居を潜って左手に手水舎。
手水舎の正面が参道。

手水舎の右手には明治天皇の聖蹟を伝える石碑。
明治三年(1870)に明治天皇が行幸された際、皇城(現・皇居)から練兵場までの間の御小休所(休憩所)として当社を使用したことを伝えるもので、昭和十二年(1937)に聖蹟として指定された。

戦後に再建を果たした社殿

社殿の手前に三之鳥居。
三之鳥居に社殿。

社殿は昭和五十五年(1980)に再建されたもの。
旧社殿は戦時中の空襲で焼失。
戦後は長い間、仮殿で運営しており社殿の再建は念願であった。
鉄筋コンクリート造による社殿。
ビルに囲まれた境内は、渋谷という街を象徴している。

社殿前には珍しい日本狼の狛犬

社殿の前には一対の狛犬。
珍しい日本狼の狛犬で青銅製。
この狛犬は延宝年間(1673年-1681年)に奉納された狛犬の複製。
元となった日本狼狛犬は、社務所で大切に保管されている。

日本狼と御嶽神社
日本狼を祀ったり神使とする信仰は、山岳信仰の神社に見る事ができる。
特に武蔵国の山岳地方である秩父や奥多摩で多く見かける事ができる信仰。
当社と同じ「御嶽神社(みたけじんじゃ)」であり、関東圏の蔵王権現信仰の中心として広まった「武蔵御嶽神社」(東京都青梅市)にも、日本狼の狛犬が置かれるだけでなく、日本狼を神格化した大口真神(おおくちのまがみ)を祀る「大口真神社」も鎮座している。
そのため現在も通称「おいぬ様」と呼ばれ信仰を集めている。
この事からも当社の氏子は、狛犬が奉納された延宝年間(1673年-1681年)以前より「武蔵御嶽神社」への信仰が強かったように思う。
武蔵御嶽神社【公式サイト】
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炙り不動と呼ばれた宮益不動尊

三之鳥居の手前、参道の左手に宮益不動尊(不動堂)。
中には延宝九年(1681)に建立された不動尊石像・庚申石像・勢至菩薩石像。
古くから「炙り不動」と呼ばれた。
神仏分離後の現在でも不動堂が神社の境内に置かれているのは比較的珍しい。

炙り不動(あぶりふどう)
古くから苦しみや病気を炙り出すと信仰を集めた。
疫病などを香煙で炙り出したと云う。
札炙り(さつあぶり)不動とも呼ばれ商人や金融関係の崇敬者がお札を炙ると倍々に富を増やすと伝えられている。

毎年11月の酉の日には酉の市も開催

当社の例大祭は9月中旬に開催。
それとは別に11月の酉の日に「酉の市」が開催される事でも知られている。

酉の市(とりのいち)
例年11月の酉の日に行われる祭。
日本武尊を御祭神とする大鳥信仰系の神社で行われる事が多い特殊神事。
花畑大鷲神社」(足立区花畑)が発祥とされ、江戸時代から現在にかけては吉原遊廓に隣接していた「浅草鷲神社」の酉の市が日本最大の酉の市として知られる。
花畑大鷲神社 / 東京都足立区
酉の市発祥の神社。花畑(旧花又村)鎮守。酉年限定頒布の鷲掴み守。11月酉の日は酉の市・起源と歴史。源義光(新羅三郎)の伝承。義光の末裔とされる秋田藩主・佐竹氏からの寄進。見事な彫刻がある本殿は必見。立派な神苑を有する境内。御朱印。御朱印帳。
浅草鷲神社 / 東京都台東区
日本最大の酉の市で知られるお酉さま。浅草田圃に鎮座・裏手に吉原遊郭(新吉原)が移転。酉の市起源発祥の考察。24時間開催!酉の市・粋な熊手の買い方。幸福を呼ぶ「なでおかめ」・願い事を納める叶鷲。限定御朱印。鷲の御朱印帳。酉の市を描いた浮世絵。
明治の神仏分離後に日本武尊を祀る神社とされたため、酉の市を開催している。

当日は屋台や熊手商が出て賑わう。
境内に設置される熊手商。
宮益坂には露店もずらっと並ぶ。
2021年の酉の市のポスター。

令和五年(2023)の酉の市
一の酉:11月11日(土)
二の酉:11月23日(木)
※三の酉はなし

映画『凶気の桜』のロケ地にも

当社は2002年に公開された映画『凶気の桜』のロケ地としても登場。
窪塚洋介主演、渋谷で暗躍する暴力団・右翼団体の暗部などを描いた社会派作品。

渋谷のストリート、若きナショナリストの結社が誕生した。特注の白い戦闘服を身にまとい、半端な不良どもを狩っていく3人。それは、自分たちが育った渋谷の街から、汚いゴミを掃除することでもあった。そんな中、右翼系の暴力団・青修同盟の会長の靑田と出会ったことから、青修同盟内の陰謀に巻き込まれ、生きる場所を奪い合う生存競争に3人は呑み込まれていく…。

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当社への参拝シーンだけでなく、冒頭には日本狼の狛犬から入る暴力的シーンの撮影などもされていて、映画を鑑賞した人には印象的な神社かもしれない。

日本狼の狛犬付きの御朱印

御朱印は授与所にて。
授与所が閉まっている事も多く平日に開所している場合が多い。

基本的に書き置き(印判)のみの授与となる。
「渋谷宮益御嶽神社」の朱印と、日本狼の狛犬の姿が特徴的。

以前は11月酉の日の「酉の市」にのみ御朱印帳に揮毫して頂ける旨が掲示がされていた。現在は通常の御朱印に「一の酉」といった添え印が追加される。

所感

渋谷宮益坂で知られる旧宮益町の氏神として崇敬を集めた当社。
かつては蔵王権現を祀った「御嶽神社」であったと推測でき、御由緒には「金峯神社」の分祭社と記されているが、日本狼の狛犬が奉納されている事からも、当時の氏子は「武蔵御嶽神社」への信仰が根底にあったのではないかと思われる。
宮益町・宮益坂の地名由来は当社とされており、氏神として崇敬を集めた事が伝わる。
繁華街として発展した渋谷の中では、宮益坂周辺は比較的地味な印象を受けるエリアであるが、江戸時代は当地周辺の宮益町までが町屋として栄えており、それより先は大変田舎ともいえる農村であった。
この事からも渋谷の発展の基礎を作った一画とも云え、街中にこうして境内が維持されているのも、宮益商店街を始めとした氏子崇敬者の崇敬の賜物であろう。
渋谷の歴史と信仰を伝えるよい神社である。

Google Maps

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