目黒大鳥神社 / 東京都目黒区

神社情報

目黒大鳥神社(めぐろおおとりじんじゃ)

御祭神:日本武尊
相殿神:国常立尊・弟橘媛命
社格等:村社
例大祭:9月9日に近い土曜・日曜
所在地:東京都目黒区下目黒3-1-2
最寄駅:目黒駅・不動前駅
公式サイト:http://www.ootorijinja.or.jp/

御由緒

 御由緒
景行天皇の御代(71〜130)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、当国の蝦夷を平定しました。この東夷征伐の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)で、現在当社の社宝となっております。
東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て薨ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原、河内の舊市邑に留り、その後天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い。鳥明神として祀る」とあり、大同元年(806)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。
 酉の市(八つ頭と熊手の由来)
当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年十一月の「酉の日」に行われるのは、尊の熊襲討伐の出発日が酉の日だった為その日を祭日としました。酉の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が東征の時、八族の各頭目を平定された御功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討ちに遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火をもって賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから古来より、「八つ頭」は人の頭に立つように出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を搔き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁昌開運招福の神徳として、多くの人達の信仰を集めております。また、酉の市当日は、社殿において、この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2017/09/09(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/11/11(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/09/10(御朱印拝受)
参拝日:2016/09/02(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/11/17(御朱印拝受)
ほぼ毎週

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

※通常時は社務所に「ご朱印はやっておりません」の掲示あり。
※例大祭や酉の市(11月の酉の日)の開催中に書き置きのものを頂ける。

[2017/09/09拝受]
(例大祭限定)

[2016/11/11拝受]
(一の酉限定)

[2016/09/10拝受]
(例大祭限定)

[2015/11/17拝受]
(二の酉限定)

授与品・頒布品

開運熊手守(大)
初穂料:1,200円
酉の市特設授与所にて。

酉の市の時のみ授与される熊手商の熊手とは別の神社の熊手。
小・中・大のサイズ有り。

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安全安全ステッカー
初穂料:500円
授与所にて。

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歴史考察

下目黒鎮守・目黒のお酉さま

東京都目黒区下目黒に鎮座する神社。
旧社格は村社で、目黒村(下目黒村・中目黒村)の総鎮守。
江戸時代には目黒詣での一社として江戸庶民から崇敬を集めた。
11月の酉の日に行われる酉の市が毎年賑わう。
正式名称は「大鳥神社」だが、他との区別のため「目黒大鳥神社」とさせて頂く。
氏子からは「お酉さま」と呼ばれ親しまれている。

日本武尊の伝承・神宝の十握剣

社伝によると、景行天皇御代(71年-130年)に当地に国常立尊を祀った社があった伝わる。

国常立尊(くにのとこたちのかみ)は、日本神話の根源神。
『日本書紀』においては、最初に出現した神とされている。
国土形成の根源神、国土の守護神として信仰される事が多い。

その社に、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷平定の折に立ち寄り、東夷平定と目を負傷した部下たちの平瘉を祈願。
戦勝した上に、部下たちの傷も治癒したため、盲神(めくらがみ)と称えられ、持っていた十握剣(とつかのつるぎ)を奉献したとされる。

十握剣は、天武雲剣という名で当社の神宝(非公開)となっている。

鳥明神と称された目黒区最古の神社

その後、日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降りたため、「鳥明神」として祀られる。
いわゆる白鳥伝説からくる、日本武尊をお祀りする大鳥信仰という事になるのだろう。

白鳥伝説とは、日本武尊が亡くなった後、白鳥となって大和を指して飛んだという伝説。『日本書紀』『古事記』共にそうした記述が残されている。そうした伝説から大鳥信仰は日本武尊を祀る神社が多い。

大同元年(806)、社殿が造営。
当社では、この年を創建の年としており、一説では目黒区最古の神社ともされる。

江戸図に描かれた江戸九社のうちの一社

室町時代の『長禄江戸図』には「鳥明神」として当社が描かれている。

%e9%95%b7%e7%a6%84%e6%b1%9f%e6%88%b8%e5%9b%b3東京都立図書館より)

この左上にあるのが目黒で拡大したものが下図。

%e9%95%b7%e7%a6%84%e6%b1%9f%e6%88%b8%e5%9b%b32東京都立図書館より)

目黒本村と描かれており、左手に鳥居の記号が見える。
これが当社である。
この『長禄江戸図』には9つの神社しか描かれていないため、当社は江戸九社の一社と称している。

『長禄江戸図』は、太田道灌が江戸城を築いた頃の長禄年間(1457年-1460年)の江戸の様子を描いたとされる図で、江戸図における最古のものとされる事もある。
しかしながら、徳川家康の江戸入府前にはあったとされる「江戸前島」が描かれておらず、逆に慶長十一年(1606)に造られた「溜池」が描かれている事から、江戸時代以降の後世の作と思われる。

いずれにせよ、江戸時代以前より「鳥明神」「大鳥明神」といった名で崇敬を集めたのは間違いない。

下目黒村・中目黒村の鎮守

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(下目黒村)
大鳥神社
除地九百九十八坪。字新屋敷にあり。本社2間に3間東に向ふ。祭神は日本武尊。大同年中の鎮座なり。当村及び中目黒両村の鎮守なり。鳥居あり、柱間9尺、大鳥大明神の五字を扁す。鳥居の内外に石階あり。
神楽堂
本社の側にあり。二間に二間半年々九月九日祭礼の日神楽を奏す。
稲荷社
本社に向て右にあり。小祠前に鳥居をたつ。
別當大聖院

下目黒村の「大鳥神社」として記されているのが当社。
下目黒村の鎮守、さらに中目黒村の鎮守であった事が記されている。
この事から目黒の総鎮守だったとも云えるだろう。

中目黒村のみの鎮守としては「中目黒八幡神社」が挙げられる。
中目黒総鎮守。中目黒の八幡さま。竹紙を使用した珍しい御朱印帳。戦前の社殿が現存。長い参道・お水取り可能な湧水・さざれ石。境内社の三峯神社と三峯請。江戸時代から続く十二座神楽。平成の大改修事業。著名人が多い氏子区域。御朱印。御朱印帳。

大鳥大明神の扁額があり、境内の規模や境内社の稲荷社など、規模は現在とかなり近かったようだ。
例大祭では神楽を奏すとあり、これは現在も伝わる太々神楽「剣の舞」の事であろう。
日本武尊の徳をたたえ、十握剣を背に八握剣を使って踊る荘厳な舞いで、現在も例大祭になると奉納されている。

北斎の浮世絵で見る下目黒

江戸時代の目黒は、江戸の外れの農村であった。
江戸後期の目黒の様子を葛飾北斎が描いている。

(葛飾北斎・富嶽三十六景)

北斎の代表作と知られる『富嶽三十六景』の中の「下目黒」という一枚。
当社は下目黒村の鎮守であり、下目黒の起伏の激しい丘陵地から富士を眺めている。

当時の目黒は人家も少ない地域で、落語『目黒のさんま』の舞台にもなったように、徳川将軍家の鷹狩り場としても知られた。
浮世絵には、鷹を預かる鷹匠の姿、彼らに跪く農夫、鍬を片手に赤坊を背負い子を連れて仕事場へ向かう農婦が描かれている。
左には農夫が坂道を登っており、下目黒の起伏の激しい丘陵地を伝えている。

江戸庶民の娯楽であった目黒詣

江戸外れの農村であった下目黒村においても、当社や、当社からも近い「目黒不動尊」こと「瀧泉寺」は徳川将軍家からも庇護され、江戸庶民からも人気の高い名刹であったため、江戸庶民が多く参詣する門前町を形成していた。

こうした目黒の寺社を巡る事を「目黒詣(めぐろもうで)」と呼び、江戸の名所としても知られ多くの人びとが参拝に訪れた。

(目黒白金辺図)

こちらは江戸後期の目黒・白金周辺の切絵図。
右が北の地図で、当社は図の左上に描かれている。

(目黒白金辺図)

当社周辺を拡大し北を上にしたものが上図。
中央に赤く「大鳥明神」と記されたのが当社で、当社の南にあるのが「目黒不動尊」、当社の左手には「金毘羅大権現」(高撞寺/現・廃寺)があり、特に目黒で有名で「目黒三社」とも呼ばれた。

これら「目黒不動尊」「大鳥神社」「金毘羅権現社」は、当時の麦打歌にも残る。
「目黒に名所が三つござる。一に大鳥、二に不動、三に金毘羅」と歌われるほど大勢の人で賑わった。

当社を含めた目黒詣は、江戸庶民の娯楽の一つであった。
目黒には遊郭はないため、目黒詣に訪れた人々は、その足で遊郭のあった品川宿へ向かう事が多かったと云う。

こうした目黒詣は、当時の川柳にも幾つか残っている。

餅花を 提げて難所へ さしかかり

餅花とは「目黒不動餅花」として広重も描いた目黒の名物であり、目黒から品川への道は中々の難所だったと云い、目黒詣をしてから品川へ遊びに行く様子を謳っている。

言訳けの おみやを召せと 桐屋言い

桐屋は「目黒不動尊」門前にあった飴屋で、目黒飴として名物であった。

(江戸名所図会)

桐屋の目黒飴は『江戸名所図会』にも描かれ、また池波正太郎の作品などでもよく登場する。
品川遊郭へ遊びに行くのでも、こうした目黒土産を持って帰る事で「目黒詣をしてきた」という言い訳に使ったという川柳となっている。

「目黒に名所が三つござる。一に大鳥、二に不動、三に金毘羅」と云われた程、当社は江戸庶民から崇敬を集めた。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

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「大鳥明神社」として描かれている。
当社の右手の通りが現在の目黒通りで、手前の通りが山手通りという事になる。
左手にある「大聖院」は当社の別当寺であり、現在も隣接している。

(江戸名所図会)

当社の境内を中心に拡大したのが上図。
稲荷社の位置、鳥居の位置など配置は若干違いがあるものの、境内の規模は現在とそう変わりがない。

この後の、天保六年(1835)には、当社にて初の「酉の市」が開催されている。(後述)

神仏分離と戦後の歩み

明治になり神仏分離。
明治五年(1972)、村社に列した。

明治二十二年(1889)、市制町村制によって三田村・上目黒村・中目黒村・下目黒村が合併し目黒村が成立。
当社は下目黒一帯の鎮守として崇敬を集めた。

明治に入ると、当社から目黒不動尊の近くはちょっとした花街として発展。
特に目黒不動尊の門前には30軒近くの芸妓屋ができ、昭和初期にかけて目黒芸妓として有名であった。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
当社から南の「目黒不動尊」にかけて発展した町屋となっていて、茶屋や花街が多く置かれた。
左手には「競馬場」の文字があるように、明治四十年(1907)に「目黒競馬場」が開場。
東京の娯楽エリアとして栄えた事が伺える。

目黒競馬場は、明治四十年(1907)から昭和八年(1933)まで存在した競馬場で、現在の府中にある「東京競馬場」は目黒競馬場が移転したもの。昭和七年(1932)には記念すべき第一回「東京優駿大競走(日本ダービー)」が開催された事でも知られる。

大正十二年(1923)、目蒲線の開通。
農村であった当地も、住宅地に変わっていく。
関東大震災後には宅地化が更に進み、現在の目黒・下目黒を形成していく事となり、そうした一帯の鎮守として当社は崇敬を集め続ける事となる。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。

昭和三十六年(1961)、拝殿が再建。
image昭和三十七年(1962)、本殿が再建された。

平成十八年(2006)、御鎮座1200年祭が行われた。
平成二十九年(2017)、「平成の御社殿保存修復事業」が行われる。
例大祭前日の9月9日に竣功奉告祭が斎行された。

境内案内

目黒通りと山手通りの交差点に面して鎮座

当社は、目黒通りと山手通りという2つの大通りに面している。
そのため交差点には「大鳥神社」交差点となっており、交通の要所に鎮座。
交通量や人の流れも多く、今も常に参拝者が訪れ崇敬を集めている。

当社に面した目黒通り、山手通りは、『江戸名所図会』や江戸切絵図にも描かれているように、江戸時代の頃から当社へ向かうための道と整備されており、そうした古道を使い大通りへと整備された。

鳥居を潜って左手に手水舎。
やや石段を上って正面に社殿となっている。

平成の御社殿保存修復事業で綺麗になった社殿

拝殿は、昭和三十六年(1961)に再建されたもの。
imageこちらは平成二十八年(2016)に撮影時の社殿。

平成二十九年(2017)、「平成の御社殿保存修復事業」が行われた。
こちらが9月9日に行われた竣功奉告祭時の社殿。
美しく綺麗な姿が蘇った事が分かる。
屋根の銅板葺替え工事並びに御社殿の保存修復補強工事が行われた。
拝殿に掲げられる長提灯には「江戸消防第二八區」の文字。
各提灯の側面には江戸の町火消しの纏(火消し組の紋)が記されているのが特徴的。
扁額にはかつての「明治神宮」宮司・甘露寺受長による「武州大鳥宮」の文字。

本殿は昭和三十七年(1962)に再建されたもの。
拝殿同様に平成二十九年(2017)「平成の御社殿保存修復事業」が行われた。

境内社の目黒稲荷神社と神楽殿

社殿の左手には境内社の目黒稲荷神社。
『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』にも記されていたように、古くから当社の境内社であった。
境内社はこの一社のみで、江戸時代から変わらぬ神を祀っている事が分かる。

参道の右手には神楽殿。
例大祭になると古くから伝わる太々神楽「剣の舞」が奉納される。

目黒の古い歴史を伝える境内・珍しい切支丹灯篭

稲荷神社の横には古い庚申塔群や祠が並ぶ。
三猿だけの延宝塔、元禄年間(1688年-1703年)や宝永年間(1704年-1710年)の庚申塔などであり、屋根付きの庚申塔もある。
目黒の信仰の歴史を感じさせてくれる。

社殿の右手には、櫛塚。
image平成元年(1989)に奉納されたもので、日本武尊と弟橘媛命の逸話にちなむもの。

弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)は、日本武尊の妻。船を進める事が困難になった夫の日本武尊の身代わりとなり、自ら海へ身を投じた伝承が残る。海から流れ着いた櫛を収めて橘の木を2株植え墳墓を築いたのが千葉県茂原市の「橘樹神社」であり、そうした伝承から日本武尊を御祭神とする当社にも、櫛塚が奉納された。

神楽殿の左手には、珍しい切支丹燈籠を見る事ができる。
俗に切支丹燈籠といわれる「織部式燈籠」(右手の灯籠)である。
灯籠の下に抽象的な像が彫られているのが特徴的。
これがマリア像となっており、灯籠の形状は十字架を表現している。

元々は肥前島原藩松平家下屋敷(現在の慶応大学三田キャンパス付近)に置かれていたものだが、大正期にこちらへ移された。キリスト教を禁止された江戸時代に、隠れキリシタンが密かに信仰の対象としていたのがこの灯籠であり、当時の信仰を知る事ができる。
島原藩と云えば「島原の乱」で有名な藩であり、キリシタンの弾圧にも繋がった藩である。大変厳しい弾圧がある中で、あの島原藩の下屋敷に切支丹灯篭として信仰されたというのは大変興味深く、こうした灯籠が現存しているのは大変貴重である。

切支丹燈籠の後方には「都天然記念物オオアカガシ」の石碑。
かつて当社にあった御神木のオオアカガシを記念した石碑。

当社にはかつて立派な御神木があった。平成十二年(2000)頃から、木の大部分が枯死する事態に至ったため、挿し木で後継樹の育成を試みたものの、平成十四年(2002)に枯死が確認された上に挿し木も枯損した状態となってしまった。これらは大通り沿いにあったため排気ガスの悪影響を受けたものと思われる。

江戸時代から続く目黒の酉の市・熊手の粋な買い方

9月には例大祭があるのだが、当社では11月の酉の日に行われる「酉の市」が特に有名。
日本武尊を御祭神とする大鳥信仰系の神社で行われる事が多い特殊神事。

氏子は「酉の市」の事を「お酉さま」と呼ぶ事が多い。

当社の「酉の市」は、天保六年(1835)、下目黒の造り酒屋・大国屋與兵衛が、「浅草鷲神社」から熊手を取り寄せたことに始まるという。
元々は目黒村の農民が野菜や実用品を売るために開かれていたようだ。

目黒の人々にとっては、11月の酉の日に熊手が並び賑わう酉の市はお馴染みの光景。
img_2596こちらは平成二十八年(2016)の様子。
img_2597熊手商による縁起熊手の購入を求める、勢い有る掛け声が響く。
熊手商から熊手を購入する場合は、駆け引きを楽しむのが粋とされる。

威勢のよい掛け声の熊手商との値切りの駆け引き。
たっぷり値切って「まけたまけた」と言わせれば勝ち。
とは言え、値切った分だけ「ご祝儀」として熊手商に置いてくるのが、粋な買い方とされているので、あくまで駆け引きを楽しむもの。(もちろん値切った値段で購入しても構わない)
ある程度の金額以上の熊手を求めた場合は、最後に手締めとなる。
「家内安全・商売繁盛」と大勢で手を打ち、熊手を高く掲げて持ち帰る。
翌年の酉の市で、前年購入した熊手を納め、また新しいのを購入。
その際に前年より大きいのを購入するのが良いとされている。
毎年、同じ熊手商から購入し贔屓になると、入山(自分の名前を入れた札)を差してくれるようになる。

熊手商による縁起熊手の他に、拝殿前にて当社による「開運熊手守」の授与も行われる。
氏子は毎年この開運熊手守を頂き大切にし、酉の市でお返しして、また新しいのを頂く。

御朱印は例大祭と酉の市の日のみ授与

御朱印は、以前はやられていたのだが、現在はやられていない。
社務所の窓口にも「御朱印はやっておりません」の掲示あり。
image 但し、例大祭や酉の市(11月の酉の日)の開催中に、社殿左手の授与所にて、書き置きのものをお受けできるとなっている。
上の写真は例大祭時の当社の境内。

例大祭や酉の市になると、拝殿手前左手の授与所が開く。
こちらで夜まで書き置きの御朱印を頂ける。(用意していたものが切れた場合は終了)

所感

目黒では「お不動さん」と並んで、「お酉さま」の名で愛されてきた神社。
目黒の総鎮守であり、古くから目黒の人々、さらには江戸庶民より信仰を集めてきた。
私事になるが、筆者の実家の氏神さまが当社であり、幼い頃から数えきれないくらい立ち寄り、最も参拝している馴染み深い神社である。
今はなき御神木のオオアカガシの姿をはっきりと覚えているし、例大祭や酉の市の日には手伝いに駆り出される事が今も多々あり、子供の頃から現在に至るまで思い出も多い。
目黒通りと山手通りという大通りが交差する地点に鎮座しており、交通量も多いのだが、それに比例するようにいつも多くの参拝者が訪れている。
広くはない境内だが、目黒の信仰の歴史が詰まった神社で、酉の市では熊手商が多く出て賑わうし、平時も老若男女、参拝者が途切れる事がなく崇敬されているのが伝わってくる。
古くから目黒が誇る名所の1つである。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]

[ 社号碑 ]

[ 鳥居 ]

[ 参道 ]


[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]







[ 本殿 ]


[ 授与所 ]

[ 狛犬 ]


[ 目黒稲荷神社 ]


[ 庚申塔群・石碑 ]


[ 櫛塚 ]
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[ 神楽殿 ]

[ 切支丹燈籠・記念碑]





[ 御神木 ]

[ 北鳥居 ]

[ 社務所 ]
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[ 案内板 ]

[ 酉の市(2016年一の酉) ]
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