花畑大鷲神社 / 東京都足立区

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神社情報

花畑大鷲神社(はなはたおおとりじんじゃ)

御祭神:日本武尊
社格等:村社
例大祭:11月酉の日(酉の市)
所在地:東京都足立区花畑7-15-1
最寄駅:谷塚駅(距離あり)
公式サイト:─

御由緒

 創建年代は不詳であるが、日本武尊の東国平定の偉業と多年夷賊に苦しんでいた人々が、尊への報恩感謝の意を込めて、本陣のあった当時「花又」に奉斎された。開運守護の神として信仰篤く、中世、新羅三郎義光が、兄・八幡太郎義家の援軍として後三年の役に赴く折、戦勝を祈願し、凱旋の折、神恩に謝し兜を奉賽する。以後、源氏の崇敬のまととなつた。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/09/27

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

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授与品・頒布品

交通安全ステッカー(小)
初穂料:300円
社務所にて。

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歴史考察

酉の市発祥の神社

東京都足立区花畑に鎮座する神社。
旧社格は村社で、花畑(旧花又村)の鎮守。
正式名称は「大鷲神社」であるが、他との区別のため「花畑大鷲神社」とさせて頂く。
大鳥信仰の神社で、11月の酉の日に開催される「酉の市」発祥の神社としても知られる。

日本武尊と源義光(新羅三郎)の伝承

創建については不詳とされている。
社伝によると、当地(花又村)の人々が東国平定を行った日本武尊への報恩感謝の意を込めて、本陣があった当地に日本武尊をお祀りしたとある。

後三年の役(1083年-1087年)の際には、源義光(新羅三郎)が、兄である源義家(八幡太郎)を助けるために奥州へ向かう途中、当社で戦勝祈願。
凱旋の折には、神恩に感謝し兜を奉納したと伝えられている。

源義光は、源頼義の三男で、兄である長男が八幡太郎として有名な源義家。
兄の義家が、山城国「石清水八幡宮」で元服したことから「八幡太郎」と称したように、義光も近江国「新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)」で元服したことから新羅三郎と称した。
義光の子孫は、平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏などとなり広まった。

義光の子孫である佐竹氏も後に当社を篤く崇敬しているのも、こうした源義光ゆかりの神社とされていた事によるものであろう。
いずれにせよ、源氏ゆかりの神社として、源氏や武家からの崇敬を集めた。

酉の市の起源・その歴史

社伝によると、応永年間(1394年-1428年)より日本武尊の命日とされる11月の酉の日に、日本武尊への報恩感謝の祭りが行われるようになった。
次第に門前市が開かれるようになり、農耕具などが売られ「とりのまち」と称された。
これが「酉の市」の起源とされている。

元は花又村の農民による収穫祭・農業市であったように思う。
当時の当社は「鷲大明神」とも「鶏大明神」とも云われ、鶏を神のように大切にしていた。
そのため氏子は鶏肉を食べる事を忌み嫌い、さらに鶏卵も食べる事を禁忌としていたとされる。

この風習は現在も一部では残っており、一部の氏子などは鶏肉・鶏卵を食さないという。

そうした風習のある当地で、特別な日である「酉の日」に収穫祭として行われた祭りでは、生きた鶏が奉納され、祭が終わると「浅草寺」観音堂前に放たれたと伝わる。
元々はこうした収穫祭・農業市の色合いが強かったのだろう。

%e9%85%89%e3%81%ae%e5%b8%82国立国会図書館デジタルコレクションより)

こちらは天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に描かれた様子であり、上述の様子が描かれているだけでなく、説明としても記されている。
このように鶏が大切に奉納されていた事が分かる。

こうした「酉の市」が、江戸時代に入ると大いに盛り上がる事となる。
当時は祭りの日だけ賭博が開帳され江戸市中から人が集まったとされる。
当社を起源として「酉の市」が、次第に他の地域にも広まるようになり、特に「浅草鷲神社」では、新吉原が隣接していた事もあり大変な盛り上がりを見せた。

江戸時代には当社を「上酉・本酉」、千住の「勝専寺」を「中酉」、「浅草鷲神社」「長國寺」を「下酉・新酉」と称しており、当社が「本酉」とされていた。
日本一の酉の市。浅草名所七福神・寿老人。下町八福神。御朱印。御朱印帳。

現在では酉の市の定番である「熊手」も、農耕具などが売られていた事から、農具である熊手に縁起物を装飾するという工夫がされて江戸時代以降に広まったものである。
いつしか「熊手」は、福を「わしづかみ」「掃き込む、かきこむ」として縁起物として重宝されるようになっている。

江戸時代の史料から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(花又村)
鷲明神社
村の鎮守なり。年々十一月酉の日には必都鄙参詣のもの貴賤群集す。これを酉のまちと號す。社内に安ずる神體は古色のものなりと云へど、容易に人の見ることを許さず。又縁起一巻あり、うけがたき事のみを記せり。ただ記中に應徳二年成して、寶永二年に至る迄、後しばしば書改し由を載たれば、古き物なる故、全文を記して見るものの取捨にまかせり。
(中略)
神楽殿、御手洗池二ヶ所。
末社。
稲荷社二宇。辨天社。疱瘡神社。金毘羅社、いかなる故にや日限の金毘羅といふ。

花又村の鎮守として「鷲明神社」と記されている。
11月の酉の日に大変多くの参詣が賑わう事が記されており、当時の当社の祭りは「酉のまち」と称されていた事が分かり、「酉の市」というのは後に呼ばれたものであろう。
こちらには記されていないが現在も近くにある「正覚院」が別当寺であった。
境内としては、御手洗池が2箇所とあり、そうした当社の様子は下記の絵図を見たほうが分かりやすい。

江戸時代に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

%e9%b7%b2%e5%a4%a7%e6%98%8e%e7%a5%9e国立国会図書館デジタルコレクションより)

こちらでは「鷲大明神社」として描かれ、現在と同じくらいの規模である事が分かる。
現在も神苑(御手洗池)が綺麗に整備されているのだが、当時は参道の左右に2つあり、現在も見事な境内ながら、今以上に趣のある境内であったように思う。

また、社殿前の石段手前左側に「とり」と記され柵に囲まれた箇所を見る事ができる。
これが上述の酉の市(酉のまち)で鶏が奉納された場所であったのだろう。

門前町には多くの旗幟を見る事ができ、大変な崇敬を集めていた事が伝わる。

この後、安政元年(1845)から明治八年(1875)までの20年余もの歳月をかけて、現在の本殿が竣工している。
これだけ歳月がかかったのは、激動の幕末から明治にかけての影響があったのだろう。
これは秋田久保田藩主佐竹氏の寄進とされ、これは上述のように佐竹氏の先祖である源義光ゆかりの神社であった事によるものと思われる。

明治維新後のあゆみ

明治になり神仏分離。
神仏分離の影響で、御祭神を鷲大明神から日本武尊へと改めた。
明治五年(1872)、花又村の鎮守として村社に列した。

明治八年(1875)、上述したように本殿が完成している。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行に伴い花又村を含む近隣8か村が合併し花畑村が成立。
こうして花畑の鎮守として現在に至っている。

戦後には多くの境内整備も行われ、「酉の市」発祥の神社としても崇敬を集める。
現在も11月酉の日「酉の市」では、多くの熊手商などが出て賑わう。

立派な神苑を有する境内

最寄駅は谷塚駅になるだろうが距離があるため公共機関の場合はバスが望ましい。
毛長川と綾瀬川の近くに鎮座しており、かつてはこうした河川を通じて人が集まったのだろう。
img_1204鳥居の横には多くの奉納提灯が並び、今もなお氏子崇敬者からの崇敬が伝わる。

一之鳥居を潜ると左手に社号碑があり、比較的長い参道が続く。
img_1207こうした参道は『江戸名所図会』にも記されており、江戸時代と変わらぬもの。
img_1239参道脇には力石や古い手水石なども置かれている。

参道を進むと二之鳥居があり、その先に立派な神苑を見る事ができる。
img_1212大変綺麗に整備されており、奥には小さな滝の姿も。
img_1213神橋も架けられ、その先には水神社が祀られている。
img_1214大変見事に整備されており、実に美しい境内となっている。

江戸時代の頃には、御手洗池が参道左右に2箇所あったようだが、現在はこうして右手に1箇所整備される形である。
この見事な造りは江戸時代の頃を上回る素晴らしさではないだろうか。
この神苑の左手奥は社務所となっている。

見事な彫刻がある本殿は必見

さらに参道を進むと三之鳥居。
img_1216その先の右手に手水舎があり、正面に社殿となっている。

社殿は実に立派に作られ改修されたもの。
安政元年(1845)から明治八年(1875)までの20年余もの歳月をかけて造られた社殿。
img_1225しかし、平成二十三年(2011)の東日本大震災の影響で、社殿が傾いてしまったため、改修工事が必要となり、拝殿は平成二十六年(2014)まで改修が行われていた。
その際に増築も行われており、現在は新旧を見事に組み合わせた立派な拝殿。

本殿は石垣の上に鎮座しているのが特徴的で、横や後ろから回るとよく見える。
この本殿は足立区登録有形民俗文化財となっている。
img_1237こちらも東日本大震災の影響で改修工事が行われており、現在はこうして覆殿のように保護されている。

拝殿から正面を見ると、本殿向拝の柱に昇り竜と降り竜の見事な彫刻を見ることができる。
社殿内になるので撮影はしていないが、頒布のリーフレットから一部引用して紹介したい。

%e6%9c%ac%e6%ae%bf(頒布のリーフレットより)

伝説的な職人・左甚五郎の13代目・後藤与五郎の作と伝えられている。
実に見事な昇り竜と降り竜、そして各所へ施された彫刻。
後藤与五郎という人物の作を他で見かける事ができないのだが、それでも伝説的な職人・左甚五郎の13代目と伝わるのは、当社本殿の彫刻があまりに見事だからではないだろうか。

ぜひ拝殿から目を凝らして見てほしい。
もしくは御祈祷の際に近くで見てみるのもよいだろう。

東日本大震災の影響による改修工事は、拝殿・本殿とも終わったものの、境内では現在も行われており、現在は神楽殿が改修工事中であった。

境内社は参道左手に数社。
img_1234白山社・胡籙天神社・疫神社・辯天祠の合殿。
img_1233その横に市杵島姫神祠・稲荷社の社殿となっている。
他にもいくつか古い小さな石祠を見る事ができる。

御朱印は社殿手前左手の授与所にて。
img_1227とても丁寧に対応して頂いた。
こちらでは通年・熊手の御守なども授与されている。

所感

花畑の鎮守として地域からの崇敬を集める当社。
「酉の市」発祥の神社としてはあまり知られていないのだが、今もなお酉の市が開催され、大変な賑わいを見せるという。
私事になるが、筆者の実家は「目黒大鳥神社」の氏子区域であるため、幼少の頃から酉の市(地元ではお酉さまと呼ぶ)に馴染み深く、手伝いにも駆り出されたりと、今もなお生活に根付いたお祭りとなっている。
そうした酉の市発祥の当社には、ただただ感銘を受ける次第である。
境内はとても立派で見事に整備されており、社殿も実に見事。
東日本大震災の被災を受けながらも、こうして素晴らしい姿に改修されたのも、氏子崇敬者からの崇敬が篤いからこそであろう。
そうした立派な境内でありながら、農村地帯であった花畑の風情を残した鎮守であり、どこかのどかな姿を見る事ができるのも当社らしさ。
交通の便はあまりよい場所ではないのだが、オススメの良社である。

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神社画像

[ 一之鳥居 ]
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[ 社号碑 ]
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[ 参道 ]
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[ 二之鳥居 ]
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[ 三之鳥居 ]
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[ 参道 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 授与所 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 市杵島姫神祠・稲荷社 ]
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[白山社・胡籙天神社・疫神社・辯天祠]
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[ 瓶 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 石祠 ]
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[ 手水石 ]
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[ 石灯籠 ]
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[ 神苑 ]
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[ 水神社 ]
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[ 社務所 ]
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[ 案内板 ]
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Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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