浅草鷲神社 / 東京都台東区

台東区

概要

日本最大の酉の市で知られるお酉さま

東京都台東区千束に鎮座する神社。
旧社格は村社で、浅草田圃の鎮守。
江戸時代より盛大に行われていた11月酉の日の例大祭「酉の市」は、現在も日本最大の酉の市として有名で、「浅草酉の市起源発祥」として知られる。
正式名称は「鷲神社」であるが、他との区別のため「浅草鷲神社」とさせて頂く。
氏子崇敬者からは「お酉さま」と称され親しまれている。
また「浅草名所七福神」の寿老神を担い、「下町八社福参り」の一社にもなっている。

神社情報

浅草鷲神社(あさくさおおとりじんしゃ)

御祭神:天日鷲命・日本武尊
社格等:村社
例大祭:11月酉の日(酉の市)
所在地:東京都台東区千束3-18-7
最寄駅:三ノ輪駅・入谷駅・浅草駅
公式サイト:https://otorisama.or.jp/

御由緒

 鷲神社は江戸時代以前より此の地にまつられ、江戸時代は鷲大明神社と号し、開運を招き、強運にあずかる守り神として鷲大明神がまつられ、大明神と伝われるとおり神様をおまつりしてあります。
 鷲大明神は天日鷲命と申され、開運・商売繁昌にあらたかな神として古くから崇敬されております。
 その発祥は景行天皇の御代、日本武尊が東夷征討の時、鷲大明神社(鳥の社)に立ち寄られ、戦勝を祈願し、志をとげての帰途社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月の酉の日であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めたのが「酉の祭」すなわち「酉の市」の起源・発祥です。
 その後、日本武尊が併せまつられ、浅草「酉の祭」「酉の市」は次第に賑いを増し、酉の市に商われる縁起熊手も年毎に人気となり、江戸の庶民の春(正月)を迎える行事として益々盛大に華やかさを加えたのです。特に吉原遊郭の隆盛と共に賑い「吉原のおとりさま」とも云われました。
 江戸時代からまつられている「鷲大明神」天日鷲命は、鷲の背に乗るお姿から「鷲大明神・おとりさま」といわれ、江戸の数々の火事、関東大震災、第二次大戦の戦渦にもお守りされ、三百年以上にわたり鷲神社に安置されております。天日鷲命は「東都歳時記」に”開運の守護神なり”とあり、日本武尊と共に福運・強運・商売繁昌・武運を司る神様として厚く信仰されております。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2023/11/11(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2023/06/20(御朱印拝受)
参拝日:2023/03/20(御朱印拝受)
参拝日:2023/01/19(御朱印拝受)
参拝日:2022/11/28(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2022/09/08(御朱印拝受)
参拝日:2022/07/06(御朱印拝受)
参拝日:2022/04/13(御朱印拝受)
参拝日:2022/03/03(御朱印拝受)
参拝日:2022/01/02(御朱印拝受)
参拝日:2021/11/09(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2021/09/05(御朱印拝受)
参拝日:2021/04/23(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2021/01/06(御朱印拝受)
参拝日:2020/03/17(御朱印拝受)
参拝日:2017/09/27(御朱印拝受)
参拝日:2015/05/03(御朱印拝受/御朱印帳拝受)

御朱印

初穂料:500円
授与所にて。

※季節や祭事に応じて限定御朱印あり。(最新情報は公式Instagramにて)
※「浅草名所七福神・寿老人」の御朱印も頂ける。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。

最新の御朱印情報
3月1日-3日まで「桃の節句特別御朱印」
※最新情報などは公式Instagramにて。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:1,200円
授与所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意。
羽根を広げて松の木に停まる鷲がデザインされた御朱印帳。
凛々しい鷲がデザインされており人気が高い。
表装は一般的な御朱印帳とは違ったふかふかとしておりソフトな手触りの厚手の素材。
最終ページが通常のものと少し違う作りにで、その分1ページ多めに入っている。
透明の防水カバーも付属。

授与品・頒布品

一粒万萬福銭守
初穂料:2,000円
授与所にて。

交通安全ステッカー
初穂料:500円
授与所にて。

歴史考察

天日鷲命と日本武尊の二柱を祀る

社伝によると、創建年代は不詳。
古くから当地には天日鷲神を祀る祠があったと伝わる。

天日鷲神(あめのひわしのかみ)
『日本書紀』などに登場する日本神話の神。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れたと云う「岩戸隠れ」の神話に登場する神。
天照大御神を外に出すために、岩戸の前で神々の踊りが始まり、天日鷲神が弦楽器を奏でると弦の先に鷲が止まった。
神々は世の中を明るくする吉祥を表す鳥として喜び、この神に鷲の字を加えて天日鷲神(あめのひわしのかみ)と称した。

天日鷲神は、鷲大明神とも呼ばれ、人々は親しみを込めて「お酉さま」として崇敬した。

開運・開拓・商工業繁栄・殖産の守護神として信仰されたと云う。

景行天皇御代(71年-130年)、日本武尊が東夷征討の際、当社で戦勝祈願。
凱旋の帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけてお礼参りを行った。

日本武尊(やまとたけるのみこと)
第12代景行天皇の皇子。
東国征討や熊襲征討を行った伝説的な英雄として『日本書紀』『古事記』などに載る。
日本武尊がお礼参りを行った日が、11月酉の日であったため、当社ではこの日を例祭日と定め、これが後に「酉の市」となったとしている。

この故事により日本武尊も祀られるようになり、当社には天日鷲神・日本武尊の二柱が祀られている。

鷲大明神社と称された江戸時代

寛永七年(1630)、浅草寺町に「長國寺」が創建。
寛文九年(1669)、「長國寺」が当地へ移転し当社の別当寺となる。
神仏習合のもとで当社と一体となり、当社は「鷲大明神社」と称され崇敬を集めた。

長國寺(ちょうこくじ)
鷲在山長國寺と号する寺院。
寛永七年(1630)に浅草寺町に開山し、寛文九年(1669)に当地へ移転。
浅草酉の市発祥の寺院とされる。
「長國寺」は現在も当社に隣接している。
浅草 酉の寺・鷲在山長國寺
浅草 酉の寺・鷲在山長國寺;熊手、いきいき あじさい祭り

明和八年(1771)、「長國寺」は鷲妙見大菩薩を勧請。

浅草・酉の市2024(令和6年の酉の市は5日(火)、17日(日)、29日(金) | 浅草 酉の市公式ホームページ。江戸の昔より『1年の無事に感謝し、来る年の幸を願う』酉の市。ここ浅草は、東京で一番大きく、最も賑わう酉の市です。酉の市の由来歴史を学ぶ。熊手やお守りを買う。懐かしい屋台の味を堪能すし遊ぶ事を網羅した酉の市オフィシャルホームページです。
浅草 酉の市公式ホームページ。江戸の昔より『1年の無事に感謝し、来る年の幸を願う』酉の市。ここ浅草は、東京で一番大きく、最も賑わう酉の市です。酉の市の由来歴史を学ぶ。熊手やお守りを買う。懐かしい屋台の味を堪能すし遊ぶ事を網羅した酉の市オフィ...
鷲の背に乗る妙見菩薩とされ「鷲妙見大菩薩」として信仰を集めた。神仏習合の中で「長國寺」と一体となって崇敬された事が分かる。

浅草田圃に鎮座・裏手に吉原遊郭(新吉原)が移転

江戸時代初期の当地は、浅草田圃(あさくさたんぼ)と呼ばれた田畑ばかりの地に鎮座。

現在も当社の御朱印や御朱印帳に「浅草田圃」の文字が残る。

明暦三年(1657)、明暦の大火によって全焼した吉原(かつては現在の日本橋人形町から日本橋葺屋町にあった)が、浅草田圃(現在地周辺)に移転。

明暦の大火(めいれきのたいか)
江戸の大半を焼失させた大火事で、振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。
江戸三大火の1つで、その中でも江戸時代最大の延焼面積・死者が発生。
江戸城の天守閣を含む、江戸市中の大半が焼失し、この明暦の大火を機に、江戸の都市改造が行われる事となった。

これが現在広く知られる「吉原遊郭(新吉原)」で、当社のほぼ裏手に新吉原が整備された。

元吉原と新吉原
日本橋葺屋町にあった吉原を「元吉原」、浅草田圃に出来た吉原を「新吉原」と呼ぶ。
その後、新吉原が浸透し「吉原」と云うと、新吉原を指す事になった。

その後、新吉原は幕府公認の遊郭として発展。
新吉原が整備された事で当社も多くの参詣者を集める事となった。

江戸切絵図に記された当社と新吉原

当時の当社と「長國寺」の様子は、江戸の切絵図からも見て取れる。

(今戸箕輪浅草絵図)

こちらは江戸後期の浅草周辺の切絵図。
右上が北の切絵図となっており、当社は図の中央に描かれている。

(今戸箕輪浅草絵図)

図を回転(北を上に)させ、当社周辺を拡大したものが上図。

まだ多くの「田地」「畑」に囲まれており、「浅草田圃」と呼ばれていた当時の様子が伝わる。
赤円で囲ったのが当社で「鷲明神・長國寺」として同じ敷地に記されていて、別当寺の「長國寺」とは神仏習合の中で、一体の寺社として扱われていた事が窺える。

桃円で囲ったのが「吉原遊郭(新吉原)」。
出入口は北東にある大門にしか設けられておらず、外界と隔絶された空間であったが、当社のほぼ裏手にあった事が分かる。

大門(おおもん)
吉原遊郭への正面玄関。
治安目的の他、遊女の逃亡を防ぐため、出入り口はこの大門一箇所のみであった。

こうした浅草田圃と裏手の吉原遊郭という立地によって、当社は賑わいを集めていく事となる。
「浅草田圃」と呼ばれる程の僻地だった当地であったが、遊郭が設置されたことで再び地域が発展、特に遊郭へ向かう通りは賑わったと云う。

江戸時代には最も著名で賑わう酉の市へ

江戸時代中期になると、当社と別当寺「長國寺」では、例祭の「酉の市」が賑わうようになる。

元々は「酉の祭(とりのまち)」と呼ばれていたが、転じて「酉の市」と呼ばれるようになったと云う。

天保九年(1838)に刊行された『東都歳時記』には以下の記述が残されている。

下谷田甫鷲大明神社、当社の賑へることは、今天保壬辰より凡そ六十余年以前よりの事。(東都歳時記)

「天保壬辰より凡そ六十余年以前より」と記してある事から、宝暦・明和年間(1751年-1772年)には、既に賑わいを見せていた「酉の市」だった事が窺える。
江戸後期になると当社の「酉の市」が江戸で最も賑わう酉の市として知られるようになる。

(東都歳時記)

『東都歳時記』に描かれた当社の酉の市。

「浅草田圃酉の市」として描かれていて、大行列をなしており大変な賑わいだった事が分かる。
境内や道行く人々の手には「熊手」を見る事ができ、現在の酉の市の基礎となった。

当社の「酉の市」が日本一の賑わいを見せる事となったのは、裏手に吉原遊廓(新吉原)があった事が要因となっている。

酉の市起源発祥の考察・新吉原の隆盛と共に盛り上がる

江戸時代後期に、最も著名で賑わう「酉の市」と知られた当社の例祭。
こうした事から当社では「浅草酉乃市起源発祥乃神社」を称している。
これには少し複雑な経緯を含んでいる。

本来、江戸の「酉の市」の発祥の地とされているのは「花畑大鷲神社」。

酉の市の起源とされる花畑大鷲神社
応永年間(1394年-1428年)より日本武尊の命日とされる11月の酉の日に、日本武尊への報恩感謝の祭りが行われるようになると、次第に門前市が開かれるようになり、農耕具などが売られ「とりのまち」と称された。
特別な日である「酉の日」に収穫祭として行われた祭りでは、生きた鶏が奉納され、祭が終わると「浅草寺」観音堂前に放たれたと伝わり、これが「花畑大鷲神社」の「酉の市」の起源とされている。
元々は収穫祭・農業市の色合いが強い「酉の市」であった。
花畑大鷲神社 / 東京都足立区
酉の市発祥の神社。花畑(旧花又村)鎮守。酉年限定頒布の鷲掴み守。11月酉の日は酉の市・起源と歴史。源義光(新羅三郎)の伝承。義光の末裔とされる秋田藩主・佐竹氏からの寄進。見事な彫刻がある本殿は必見。立派な神苑を有する境内。御朱印。御朱印帳。

当時は祭りの日だけ賭博が開帳され江戸市中から人が集まったと伝わるが、安永年間(1772年-1781年)に出された禁止令により「花畑大鷲神社」の賑わいは衰微。
対して浅草田圃の「鷲大明神」(当社)へ、その盛況ぶりが移り、以後最も賑わう酉の市として知られるようになる。

浅草の酉の市は新酉と呼ばれた
江戸時代後期には、「花畑大鷲神社」を「上酉・本酉」、千住にある「勝専寺」を「中酉」(明治に閉鎖)、浅草の当社と「長國寺」を「下酉・新酉」と称しており、当社が「新酉」と呼ばれた事からも新たに盛況となった酉の市だった事が分かる。

当地の「酉の市」が盛況を迎えたのは裏手に吉原遊廓(新吉原)があったと云う地の利が関係しているとみられている。

酉の市開催中は吉原遊郭内が開放
当社裏手の「吉原遊郭(新吉原)」では、「酉の市」が開催期間中は遊郭内が開放。
そのため遊郭内への出入りを含め酉の市は大賑わいとなった。

当社の酉の市が盛況となった事で、元々は収穫祭・農業市の色合いが強かった酉の市に変化が生まれた。
浅草という江戸市中・吉原遊郭のすぐ近くという立地から、招福の吉兆を載せた縁起熊手を縁起物とする、現在一般的に知られる「酉の市」と変遷を遂げる事となる。

現在の酉の市文化の発祥が当社
以上の事から、そもそもの「酉の市」の起源は「花畑大鷲神社」であるが、現在の熊手など縁起物が多く出る「酉の市」の文化を作ったのは当社と「長國寺」であると云える。
そのため現在一般的に知られる「酉の市」を浅草発祥の「浅草酉の市」と称する事で、当社は「浅草酉の市起源発祥の神社」と云う事ができるであろう。

浅草酉の市を描いた浮世絵

江戸後期から最も著名で賑わう「酉の市」で知られた当社の様子は、浮世絵・錦絵にも描かれている。

(名所江戸百景)

歌川広重が描いた『名所江戸百景』から「浅草田甫酉の町詣」。

「酉の市」はかつては「とりのまち」と呼ばれており、広重は「酉の町」の字を充てている。
宿から猫が外を眺め、富士山と飛ぶ雁が描かれた一枚。

一見すると当社の酉の市らしさがなく、題名の「浅草田甫酉の町詣」が伝わりにくいが、実は左に小さな熊手が4本置かれているのが分かり、当社の酉の市に参拝した後の様子を描いている。

(絵本江戸土産)

歌川広重が描いた『絵本江戸土産』にも酉の市は描かれている。『絵本江戸土産』は広重の『江戸名所百景』の下絵にもなったと云われる作品。

色付けされており、俯瞰で見る事ができる。
手前に熊手を数多く見る事ができ、この頃から酉の市と云えば熊手であった。
題名としては「浅草酉の町」とあり、まだ酉の市は酉の町とも呼ばれていたようだ。

こうした「縁起熊手」を売る「酉の市」は当社が発祥と見られており、福を「掃き込む、かきこむ」縁起物として重宝され、こうした形の酉の市が江戸の各地で開かれるようになっていき、現在の一般的な「酉の市」となっている。
歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

(江戸自慢三十六興)

二代・歌川広重と三代・歌川豊国が描いた『江戸自慢三十六興』より「酉の丁銘物くまで」。

手前には酉の日に当社で熊手を購入した3人組が描かれている。
その後ろには当社へ続く参拝者の大行列が描かれており、当時の盛況ぶりが窺える。

二代目歌川広重(にだいめうたがわひろしげ)
歌川広重(初代)の門人。
はじめは重宣(しげのぶ)と称していたが、安政五年(1858)に初代が没すると、広重の養女お辰の婿になり、二代目広重を襲名した。
広重の晩年の作品『名所江戸百景』にも参加し、一部は二代目の作とされている。

神仏分離で鷲神社へ・戦前の古写真・戦後の再建

明治になり神仏分離。
別当寺「長國寺」と分離し、「鷲神社」と改称。
明治六年(1873)、村社に列した。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
当時の古地図に「鷲神社」と記されているように、地図上で目印になるような神社であった。
すぐ東には「新吉原」とあり、当社の酉の市が新吉原の隆盛と共に発展した事も窺える。

当時の当社の様子は古写真で見る事ができる。

(東京風景)

明治四十四年(1911)に出版された『東京風景』より、当社酉の市を撮影したもの。

現在も残る石鳥居、参道には熊手商が出ており、当時の賑わいが伝わる。
酉の市になると今も昔も似たような光景であったのが窺え感慨深い。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

大正十一年(1922)に出版された『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』。

多くの人で賑わう酉の市ではなく、人のいない普段の当社を写している。
旧社殿の他、現在は置かれていない狛犬の姿も見る事ができ、当時の様子が伝わる。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
裏手の新吉原は全焼し、当社も多大な被害を受けた。

新吉原では逃げ遅れた遊女らが、南にあった弁天池(花園池)へ飛び込み、490名が溺死した悲劇が起こった。「吉原神社」の奥宮でその悲劇を今も伝える。
吉原神社 / 東京都台東区
吉原遊郭(新吉原)の鎮守と吉原弁財天。吉原遊郭にあった5つの稲荷社が合祀。蛇を模した可愛らしい御朱印。奥宮である吉原弁財天本宮・遊女達の悲劇。江戸幕府公認の吉原遊郭。浅草田圃に移転し誕生した新吉原。新吉原を描いた浮世絵。逢初桜。お穴さま。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって一帯が全焼。
当社の社殿も焼失。

戦後になり社殿が再建。
その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

立派な叉木や大熊手がお出迎え

最寄駅の三ノ輪駅・入谷駅・浅草駅からは徒歩10分程の距離に鎮座。
国際通りに面して立派な叉木。
「浅草酉乃市御本社」の文字が掲げられ、参拝者を出迎える。
酉の市になると多くの奉納提灯が立ち並び、参道は熊手商で埋め尽くされる。

左手には大熊手。
毎年変わる大熊手は縁起物がぎゅっと詰まったもの。
招福の吉兆を載せた縁起熊手を縁起物とする、現在一般的に知られる「酉の市」の起源発祥と云えるのが当社である。

朱色の一之鳥居・江戸時代の二之鳥居

叉木を潜ると朱色の大鳥居。
昭和五年(1930)に奉納されたものが改修されつつ現存。
扁額には「鷲宮」の文字。

大鳥居を潜ると石造りの二之鳥居。
二之鳥居は天保十年(1839)に建立。
幾度も改修、補強されつつ現存。
江戸時代の絵や戦前の古写真に載っていた鳥居がこの鳥居となる。

参道の左手に手水舎。
平成十一年(1999)に再建されたもの。

参道途中に再び叉木。
こちらには「浅草酉乃市起源発祥乃神社」の文字。

現在の酉の市文化の発祥
「酉の市」の起源は「花畑大鷲神社」であるが、現在の熊手など縁起物が多く出る「酉の市」の文化を作ったのは当社。
そのため現在一般的に知られる「酉の市」を浅草発祥の「浅草酉の市」と称する事で、当社は「浅草酉の市起源発祥の神社」と云う事ができる。
花畑大鷲神社 / 東京都足立区
酉の市発祥の神社。花畑(旧花又村)鎮守。酉年限定頒布の鷲掴み守。11月酉の日は酉の市・起源と歴史。源義光(新羅三郎)の伝承。義光の末裔とされる秋田藩主・佐竹氏からの寄進。見事な彫刻がある本殿は必見。立派な神苑を有する境内。御朱印。御朱印帳。

戦後に再建された社殿・開運や商売繁昌の守護神

参道の正面に社殿。
旧社殿は東京大空襲にて焼失。
戦後になり鉄筋コンクリート造で再建。
朱色の柱で神明造りの拝殿。
開運の扁額が掲げられ信仰を集める。

当社は古くから開運・開拓・商売繁昌・殖産の守護神として信仰を集めている。

幸福を呼ぶ「なでおかめ」・願い事を納める叶鷲

賽銭箱の上に「なでおかめ」。
ご利益を授かる縁起のよいおかめとして信仰を集める。
参拝の際には多くの方が撫でていく。

幸運を呼ぶ撫でおかめ
おでこをなでれば賢くなり
目をなでれば先見の明が効き
鼻をなでれば金運がつく
向かって右の頬をなでれば恋愛成就
左の頬をなでれば健康に
口をなでれば災いを防ぎ
顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まる

福を授かるとして以前はなでおかめを携帯電話の待受画像にする方も多かったと云う。
江戸時代の浮世絵にも、当社の酉の市の熊手には「おかめの面」が付けられていたように、縁起物として古くから関係が深い。

おかめは「お多福」とも云われ、福が多く幸せを招く女性の象徴という事から縁起が良いとされる。

拝殿横には叶鷲。
願い事を書いた札を納める授与品で人気が高い。

朱色に統一された神楽殿と渡殿

社殿の左手には、神楽殿・渡殿・授与所が一体となり整備。
渡殿には「渡殿鷲瑞」という名が付けられている。
その左手が神楽殿。
社殿や鳥居と同様に朱色に統一された空間。

当社を題材にした文人・多くの句碑や文学碑

参道の右手には石碑が並ぶ。
樋口一葉・正岡子規・俳人其角といった当社を題材にした句や作品を発表した文人を記念した碑。
いずれの石碑も近年になって奉納され設置されたものであるが、当社の酉の市は特に有名で文学の題材としてもよく取り上げられた事が伝わる。

春を待つ ことのはじめや 酉の市(俳人其角)

宝井其角(たからいきかく)
江戸時代前期から中期にかけての俳諧師。
松尾芭蕉に入門し、洒落風と呼ばれる作風を生み出す。
門十哲の一人に数えられる。

雑閙や 熊手押あふ 酉の市(正岡子規)

正岡子規(まさおかしき)
明治時代に活躍した日本の俳人・歌人。
俳句・短歌・小説・随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。
34歳の若さで肺結核により死去。

「此年三の酉まで有りて中一日は津ぶれしか土前後の上天気に鷲神社の賑わひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるる笑ひ声のどよめき」(樋口一葉・たけくらべ)

樋口一葉 たけくらべ
樋口一葉(ひぐちいちよう)
明治に活躍した女性小説家。
生活に困窮しながらも僅か1年半で『たけくらべ』『大つごもり』『にごりえ』『十三夜』などの作品を発表。
24歳6ヶ月の若さで肺結核により死去。
平成十六年(2004)から日本銀行券の五千円紙幣の表面に採用されている事でも広く知られる。
近くには八重桜も
石碑の近くには八重桜も。
ソメイヨシノより遅めの4月上旬から中旬に見頃を迎える。

24時間開催!日本一の酉の市・粋な熊手の買い方

毎年11月の酉の日の当社例祭は「酉の市」として知られる。
江戸時代から現在に至るまで、日本最大の「酉の市」として賑わう。

令和五年(2023)の酉の市
一の酉:11月11日(土)
二の酉:11月23日(木)
今年の酉の市 - 浅草 鷲神社公式ホームページ
酉の市 起源発祥 浅草 鷲神社の公式ホームページへようこそ

当社の酉の市は、午前0時の一番太鼓と共に開始。(画像は2023年一の酉深夜3時頃撮影)
丸一日24時間祭りが開催。
深夜3時頃の様子だが日中や夜は身動きが大変なくらいな混雑に。
深夜も朝も賑わう。
数多くの奉納提灯。

境内には数多くの熊手商。
熊手商による縁起熊手の購入を求める、勢い有る掛け声が響く。
熊手商から熊手を購入する場合は、駆け引きを楽しむのが粋とされる。

熊手の粋な買い方
威勢のよい掛け声の熊手商との値切りの駆け引き。
たっぷり値切って「まけたまけた」と言わせれば勝ち。
とは言え、値切った分だけ「ご祝儀」として熊手商に置いてくるのが、粋な買い方とされているので、あくまで駆け引きを楽しむもの。(もちろん値切った値段で購入しても構わない)
ある程度の金額以上の熊手を求めた場合は、最後に手締めとなる。
「家内安全・商売繁盛」と大勢で手を打ち、熊手を高く掲げて持ち帰る。
翌年の酉の市で、前年購入した熊手を納め、また新しいのを購入。
その際に前年より大きいのを購入するのが良いとされている。
毎年、同じ熊手商から購入し贔屓になると、入山(自分の名前を入れた札)を差してくれるようになる。

日本最大の酉の市として大いに賑わう。
他にも様々な催しが企画。
可愛らしいサンリオの熊手。
新吉原にかけては多くの露店も。

ギャラリー - 浅草 鷲神社公式ホームページ
酉の市 起源発祥 浅草 鷲神社の公式ホームページへようこそ
関東三大酉の市
「浅草鷲神社」(当社)
花園神社」(東京都新宿区)
大國魂神社」(東京都府中市)
以上の3社は現在では「関東三大酉の市」とも呼ばれる。
花園神社 / 東京都新宿区
新宿総鎮守の花園神社。関東三大酉の市・大変な賑わいを見せる酉の市。切り絵御朱印。朱色の社殿・三社の扁額。文化財指定・銅の唐獅子像。徳川家康入府以前より創建のお稲荷様。花園の由来。内藤新宿の開設と総鎮守。威徳稲荷神社と芸能浅間神社。御朱印帳。
大國魂神社 / 東京都府中市
武蔵国総社の六所宮。武蔵国そのものを神格化・大國魂大神。武蔵国府が設置・武蔵国総社。一之宮から六之宮を祀る。鎌倉幕府や江戸幕府からの庇護。GWに開催・関東三大奇祭・くらやみ祭り。すもも祭。馬場大門のケヤキ並木。御朱印。全国総社会御朱印帳。

酉の市期間中は限定御朱印も授与。
こちらは2021年の酉の市特別御朱印。
こちらは2022年の酉の市特別御朱印。
2023年一の酉で頂いた酉の市特別御朱印。

御朱印・季節や祭事に応じた限定御朱印

御朱印は授与所にて。
神楽殿の1F部分が授与所になっている。

御朱印は「鷲神社」の朱印、さらに下に崩し書体で「鷲」の文字。
2015年と2017年に頂いた際はおかめと熊手の印、2020年に頂いた際はおかめの印が押印。

墨書きの「浅草田圃(あさくさたんぼ)」は当地の旧地名で、江戸時代前期までは田畑ばかりの江戸の僻地であった。

季節や祭事によって限定御朱印も用意。
こちらは令和三年(2021)のお正月特別御朱印で丑年の牛の他、アマビエの姿もデザイン。
令和四年(2022)も似たデザインだが干支の寅をデザインしている。

アマビエ
江戸時代の史料に残る妖怪。
豊作・疫病などに関する予言をしたとされ、「疫病が流行したら、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と告げ海の中へと帰って行ったとされる。
新型コロナウイルス流行でネット上で注目を浴び、現在は様々な場所でイラストやグッズ展開などを見る事ができる。

2023年お正月特別御朱印は干支のうさぎ。
松竹梅に日の出と富士山の演技の良い御朱印。

2021年4月下旬に頂いた御朱印。
季節の御朱印として授与されたもので、晩春らしいデザイン。

2021年9月の重陽の節句の時期に頂いた御朱印。
「菊の着綿」「無病息災」の印。
期間中は和綿に菊の薬水を含ませ、身体を拭い無病息災を祈る「菊の着綿神事」を体験。
和綿は当社で育てたものを使用していて、乾かしたあと1年間御守として保管すると良いと云う。

2022年も同様の「菊の着綿」が行われ限定御朱印も頂いた。

2022年3月3日に頂いた桃の節句御朱印。
桃の花とメジロの可愛らしい御朱印。

2022年4月13日に頂いた桜の御朱印。
境内の八重桜が開花時期限定の御朱印。
やや葉桜になっているが美しい八重桜。
こちらは2023年3月に頂いたさくら詣の御朱印。

2022年7月に頂いた御朱印。
七夕まつりと夏詣の御朱印でどちらも帳面に頂けた。

2023年6月に頂いた御朱印。
相変わらずの達筆と紫陽花の素敵な御朱印。

「浅草名所七福神」の寿老神を担うため寿老人の御朱印も頂ける。
寿老人の御朱印は通年で授与。

浅草名所七福神

さらに「下町八社福参り」の一社としても崇敬を集めている。

下町八福神 - 浅草 鷲神社公式ホームページ
酉の市 起源発祥 浅草 鷲神社の公式ホームページへようこそ

鷲がデザインされた御朱印帳

オリジナルの御朱印帳も用意。
羽根を広げて松の木に停まる鷲がデザインされた御朱印帳で人気が高い。
筆者がこの御朱印帳を頂いたのは2015年であったが、2021年現在も変わらず頒布している鷲神社の定番御朱印帳。

表装は一般的な御朱印帳とは違ったふかふかとしておりソフトな手触りの厚手の素材。最終ページが通常のものと少し違う作りにで、その分1ページ多めに入っている。透明の防水カバーも付属。

所感

日本最大の「酉の市」が行われる当社。
かつて農村部の収穫祭・農業市といった色合いが強かった「酉の市」であるが、浅草という江戸市中・吉原遊郭の近くの当社が盛況になるにつれ、熊手などの縁起物が多く出る都市部の祭りへ変遷していったと見られ、現在一般的に知られる「浅草酉の市」の発祥とも云う事ができるであろう。
江戸後期より現在に至るまで、日本最大の酉の市として、24時間大賑わいとなる。
現在は関東各地で行われている「酉の市」を知る上で外せない、歴史を伝える神社。
今も昔も多くの参拝者を集める重要な神社である。

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