鵜ノ木八幡神社 / 東京都大田区

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神社情報

鵜ノ木八幡神社(うのきはちまんじんじゃ)

御祭神:誉田別命
旧社格:延喜式内社(小社論社)
例大祭:9月第2土曜
所在地:東京都大田区南久が原2-24-1
最寄駅:久が原駅・鵜の木駅・下丸子駅
公式サイト:─

御由緒

延徳元年(1489)下野国(現栃木県)佐野の在より天明五郎右衛門光虎が当地に移った際に一族の守護神として八幡大神を祀ったのが当社の起源である。創建より既に500有余年の時代が流れ一族の主神から地域の氏神として信仰されるようになった。長い年月の間には数々の補修があったが、特に弘化四年(1849)に建立された社殿は戦火で失うまで現存していた。その後平成十二年氏子崇敬者の寄進により待望の社殿社務所を始め付属建造物が再建され、これを機に八幡総本社である大分県宇佐神宮より御分霊を勧請し一層の神慮が深まり霊験あらたかな社として今日に至る。(頒布の資料より)

参拝情報

参拝日:2016/06/17

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※社名部分は墨書きではなく印版によるもの。

鵜ノ木八幡神社

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考察

鵜の木の八幡様

東京都大田区南久が原に鎮座する神社。
旧社格は無格社。
かつては当地の名主である天明家の邸内社であったとされる。
一説では古代の社格で延喜式内社の論社とされる事もある。

当地に移り住んだ天明一族

社伝によると、延徳元年(1489)に下野国佐野に住んでいた天明五郎右衛門光虎が当地に移住。
その際に天明(てんみょう)一族の守護神として八幡大神を祀ったのが当社の起源とされている。
当時の当社は天明家の屋敷内にある、邸内社であったと考えられている。

その天明一族によって当地が開拓され村落が作られた。
当時の地名は武州荏原郡鵜ノ木村と記されており、現在の鵜の木一帯を開拓した一族と云え、当地の名主となっていた。

現在も全国的に珍しい「天明」という苗字が、この鵜の木一帯に集中しており、この事からもこの地に移り住んだ一族が豪農として栄えた事が分かる。

この天明の苗字は、当地に移り住む前に居を構えていた、下野国の日光例幣使街道にあった天明宿(現・栃木県佐野市天明町)という地名に由来しているとされる。
この天明宿は天明鍛冶といわれる鋳物師で有名であり、平安時代に河内国から移住してきたのが祖と伝えられている。
豊臣秀頼が「方広寺」の鐘を鋳造した際にも、天明鍛冶師が上洛して制作にあたったという。

こうした天明宿出身の一族が、どういう経緯で当地を開拓し移り住んだのかは分からないが、当地で豪農の名主として繁栄し守護神として屋敷内に八幡大神をお祀りしたのが、当社の起源という事になるのであろう。

江戸時代の当社

江戸時代に入った頃には、天明家の邸内社という形ではなくなっていたようだ。
天明家の守護神という側面は強いものの、村の鎮守のうちの一社になっていたように思う。

口碑には、寛文年間(1661年-1672年)には、青山因幡守からの崇敬が篤く、当社の社殿を修理したと伝えられている。

この青山因幡守は、青山宗俊という人物であり、旗本から大名に上り詰めた人物でもある。
後に信濃小諸藩主を経て、大坂城代、遠江浜松藩初代藩主となっている。
所領を摂津・河内・和泉・遠江・相模・武蔵などに移された経緯があり、この鵜ノ木村一帯を所領としていた事もあったようで、そういった縁から社殿を修理したのであろう。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(鵜ノ木村)
八幡社
除地2段余、村の北にあり。社は2間半四方。前に石の鳥居を建て、入口に石階5級を設く。鎮座の年暦を詳にせず。祭礼9月なり。村内増明院のもちなり。

別当寺は現在も近くにある「増明院」であり、既に天明家の邸内社ではない事が伺える。
当社は鵜ノ木村にいくつかある神社のうちの一社であった。
鵜ノ木村の項目には、他に天神社、熊野社、道祖神社、稲荷社などが記されている。

実は当時の鵜ノ木村には、当社よりも規模が大きく、村の鎮守としてだけでなく「鵜の木」の地名由来にもなった神社が存在していた。
その名も「鵜ノ森明神社」という。

鵜ノ森明神社の謎・鵜の木の地名由来

「鵜ノ森明神社」は、当地に古くから鎮座していた神社とされる。
上述の『新編武蔵風土記稿』では、「村名の起こりは村内鵜ノ森明神の社ある」と記載されている事からも、当地の土着の氏神がこちらであったと見る事ができるであろう。

この一帯はその昔、鵜が非常に多く住み着いており、豊かな森が広がっていた事から、「鵜ノ森」という地名が起こり、鎮守として「鵜ノ森明神社」が鎮座していた。

天平勝宝年間(749年-756年)に開創されたとされる「光明寺」の記録によれば、正応五年(1292)には既に「鵜ノ木」の呼称が使われていたとあり、この事からも「鵜ノ森・鵜ノ木」という地名は、かなり古くから存在していた事になる。

その後、上述のように天明一族がこの地に移り住み開拓をし、鵜ノ木村として村落が作られた、という事になるのであろう。

この「鵜ノ森明神社」であるが、現在は所在が不明となっている。
江戸時代の頃の史料なので、そう古いものではないのだが、現在は「鵜ノ森明神社」の姿が見られず、所在を確認できるような史料も残っていないので謎めいている。

現在も残る当社に合祀されたのか、そもそも当社の事であったのか、その点が謎である。
当社が天明家の邸内社でなくなり村の鎮守となった時に、「鵜ノ森明神社」に合祀する形で今に至ってるとも推測できる。

延喜式内社「薭田神社」の論社

延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では、小社に列格する「薭田神社」に「鵜ノ森明神社」が比定されていた。

「薭田神社」は現在もその存在が不詳とされており、比定される論社が幾つか存在している。
大田区蒲田「薭田神社」、港区三田「御田八幡神社」などが代表的な論社であり、江戸時代に存在していた「鵜ノ森明神社」もそのうちの一社となっている。

薭田神社(稗田神社) / 東京都大田区
延喜式内社(小社論社)。北蒲田村鎮守。日本三代実録・蒲田神。延喜式神名帳の考察。三柱の御神体。蒲田八幡神社の兼務社。御朱印。
三田鎮守の八幡様。延喜式内社の論社。頼光四天王・渡辺綱の伝説と綱八幡と呼ばれた時代。江戸時代に描かれた当社。遷座と社号改称の歴史。鬱蒼とした境内・オフィス街の憩いの場。御朱印。

その根拠となっているのが、『新編武蔵風土記稿』の「鵜ノ森明神社」の項目に「薭田神社は則當社なり」と記述されており、江戸時代の頃から比定社とされていたという事が挙げられる。

上述の通り「鵜ノ森明神社」は所在不明になっており、当社に合祀されたとも当社の事だったとも云われる。
よって「鵜ノ森明神社」は現在の当社と見る事もでき、この事から戦後に編纂された「式内社調査報告」では、当社を「薭田神社」の論社の一社としている。

いずれにせよ、当地に古くから鎮座しており鵜の木の地名由来にもなった「鵜ノ森明神社」の話であり、当社との関係と、その所在の謎は中々に興味深い。

神仏分離と戦災・平成の再建

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

明治後期の古地図を見ると、鵜ノ木には当社の位置にしか神社の記号が記されていないので、この時点では「鵜ノ森明神社」の姿を見ることができない。
やはり当社が「鵜ノ森明神社」でもあり同一と見るのがよいかもしれない。

昭和二十年(1945)に、東京大空襲にて社殿が焼失。
旧社殿は弘化四年(1849)に建立されたそうだが、惜しくも戦災にて焼失している。

その後、戦後に瓦葺平入の質素な社殿が建てられたが仮殿といったほうがよいかもしれない。
再建がされぬまま時が経過。
平成十二年(2000)になってようやく、社殿や社務所などが再建。
これらは氏子崇敬者の寄進によるものだったという。
そして、これを機に八幡信仰の総本社である大分県「宇佐神宮」より御分霊を勧請している。

こうして見てみると、戦後からずっと再建がなされず、平成十二年(2000)に再建された時に、新たに「宇佐神宮」より誉田別命を勧請している事から、一度リセットされたとも見る事ができる。
何とも興味深い経緯である。

新しい社殿・天明一族による古い奉納物

入り組んだ住宅街の一角に鎮座する当社。
image平成十二年(2000)に再建されたため、境内は真新しい印象を受ける。

社殿も平成十二年(2000)に再建されたもの。
image中々に立派な造りで、まだ新しい社殿が清々しい印象と、崇敬者の再建への気持ちを感じさせてくれる。

この社殿前に対になっている狛犬は、明治二十四年(1891)に奉納されたもの。
image片方は授乳の姿がある狛犬となっている。
裏を見てみると天明の文字があり、やはり天明一族により奉納されたものなのが分かる。

さらに鳥居の先にはかなり古い灯籠が置かれている。
imageこちらには、元禄十四年(1701)の文字があり、やはり同様に天明の文字もあるため、天明一族による奉納物である事が分かる。

このように天明一族の守護神として創建した当社は、江戸時代・明治になっても天明一族からの崇敬が絶えなかった事が分かる。
当地は天明一族の末裔が今も多く住む土地であり、その証拠に珍しい天明の苗字を多く見かける。
そうした一族の守護神として創建された経緯があるので、この土地で崇敬者も多いのだろう。
だからこそ長い年月がかかったもののこうして立派に再建に至ったと思われる。

鵜の木の地名由来にもなり式内社にも比定される「鵜ノ森明神社」が現存しておらず、「鵜ノ森明神社」としてではなく「八幡神社」として当社が再建された事も、こうした事情が関係しているような気がしてならない。

境内の左手隅に奨兵義会記念碑という石碑が立っている。
image明治三十五年(1902)に当社境内に建てられたもので、旧鵜ノ木村・旧鵜ノ木山谷から兵役の義務に服した子弟を顕彰する石碑であったが、第二次世界大戦の混乱で境内に埋蔵されて行方不明になっていたそうだ。
平成十一年(1999)、当社建て替えの時に、発掘され復元したものとの事。

また玉垣の左手隅に庚申塔と稲荷社が鎮座。
image『新編武蔵風土記稿』に道祖神社、稲荷社の姿が見られるので、そちらが遷されたのかもしれない。

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

所感

住宅街の一角に鎮座している当社。
平成十二年(2000)に再建されたため、新しい印象を受ける神社で清々しい。
歴史を見てみると、今もなお多く末裔が残る天明一族の守護神としての創建が分かり、こうして再建できたのも、崇敬者が多く残っているからこそなのだろう。
そして当地の地名由来ともなった「鵜ノ森明神社」の所在の謎も興味深く、当社に合祀されたのか当社と同一であったのかどうか、そういった関連性も気になるところ。
現在は天明一族の守護神というよりも、この地の鎮守として崇敬を集めている。
再建を果たした地域の鎮守として、これからも崇敬され続けるのだろう。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]
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[ 手水舎・拝殿 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 灯籠 ]
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[ 社務所 ]
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[ 石碑 ]
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[ 庚申塔・稲荷社 ]
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Google Maps

『鵜ノ木八幡神社 / 東京都大田区』へのコメント

  1. 名前:山さん 投稿日:2016/06/23(木) 00:42:25 ID:b167bc39e 返信

    初めまして!

    ランキングから来ました山と申します。

    色んな方、あらゆるジャンルの方のブログを読ませてもらって
    勉強してます。

    とても見やすいサイトですね!読んでいくにつれて
    自分も自宅近くの神社の歴史をもっと知りたくなってきました。

    それでは応援して帰ります。

    ありがとうございました!

  2. 名前:神社メモ 投稿日:2016/06/23(木) 13:39:42 ID:7f3e6de4a 返信

    ご訪問ありがとうございます。

    各地域にはそれぞれ氏神様がいますので、
    まずは氏神神社より参拝や歴史を知ると楽しいと思います。

    ぜひ色々参詣してみて下さい。
    これからもよろしくお願い致します。