緊急事態宣言発令中。感染対策をできる限りした上で参拝しましょう。各神社も御朱印対応が変更の可能性有。

御田八幡神社 / 東京都港区

5.0
港区

概要

三田総鎮守の八幡さま・釜鳴神事のお社

東京都港区三田に鎮座する八幡神社。
延喜式内社の小社「薭田神社」に比定される論社の一社。
旧社格は郷社で、三田の総鎮守。
嵯峨源氏渡辺一党の氏神として崇敬を集め、その祖・渡辺綱から「綱八幡」とも称された。
江戸時代には江戸八所八幡宮の一社に数えられ崇敬を集めた。
現在も「釜鳴神事」と云う、全国的にも珍しい特殊神事が1月15日と5月15日に行われるため「釜鳴神事のお社」とも称される。

神社情報

御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)

御祭神:誉田別尊
相殿神:天児屋根命・武内宿禰命
社格等:延喜式内社(小社論社)・郷社
例大祭:8月上旬-中旬
所在地:東京都港区三田3-7-16
最寄駅:田町駅・三田駅・泉岳寺駅
公式サイト:https://mitahachiman.net/

御由緒

和銅二年(709)牟佐志国牧岡に東国鎮護の神として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。その後寛弘八年(1011)武蔵国三田の地に遷座され、嵯峨現時渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称する。江戸開幕のみぎり、僧快尊、元和五年(1619)現在地をトして造営を開始し、寛永五年(1628)八月遷座した。別当は八幡山宝蔵寺と称し天台宗に属する。神仏分離により別当僧復飾し神主職につく(石田弾正)。明治二年九月稗田神社と称号する。同七年一月三田八幡神社と改称し、同三十年四月三田冠称御田の旧名に復し、御田八幡神社と称号するに至った。昭和二十年五月東京大空襲により社殿炎上。同二十九年に氏子各位の協力により復興された。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2021/01/31(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/08/03(御朱印拝受)
参拝日:2015/06/17(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:500円
社務所にて。

※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。

授与品・頒布品

一陽来復懐中御守
初穂料:400円
社務所にて。

※冬至から節分まで限定で授与される金銀融通の一陽来復御守。

歴史考察

飛鳥時代創建の古社・式内社「薭田神社」の論社

社伝によると、和銅二年(709)に創建と伝わる。
東国鎮護の神として牟佐志国牧岡に創建したと云う。

牟佐志国(むさしのくに)は武蔵国の古い当て字。牧岡という地名は現存しておらず古い史料からも不明であるが、現在の白金三田界隈ではないかと推測される。

延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では、小社に列格する「武蔵国荏原郡 薭田神社」と記載。
これにより当社は延喜式内社(式内社)とされる。

延喜式内社(えんぎしきないしゃ)
『延喜式神名帳』に記載された神社を、延喜式内社(式内社)と云う。
但し「薭田神社」がどの神社であったのかは不確定。式内社「薭田神社」については、古くから比定される神社が多く論議されてきたため、「薭田神社」であったとされる論社は複数存在している。
他にもある「薭田神社」の論社
当社の他に大田区蒲田「薭田神社」が代表的な論社。
他にも大田区南久が原「鵜ノ木八幡神社」なども論社とされる事がある。
薭田神社(稗田神社) / 東京都大田区
蒲田村鎮守。延喜式内社に比定される古社。菖蒲のカラフル御朱印。行基による創建・日蓮の開眼伝説。正史に残る蒲田神社と式内社論社の考察。江戸名所図会に描かれた当社。蒲田の中心だった戦前。江戸時代の石鳥居。蒲田菖蒲園。本務社は「蒲田八幡神社」。
鵜ノ木八幡神社 / 東京都大田区
平成の再建。天明一族の守護神として創建。鵜ノ森明神社の謎・鵜の木の地名由来。延喜式内社「薭田神社」の論社の考察。御朱印。

いずれにせよ、古くから崇敬を集めた歴史ある古社なのは間違いがない。

久保三田に遷座・嵯峨源氏渡辺一党の氏神

寛弘七年(1011)、武蔵国御田郷久保三田に遷座。
嵯峨源氏渡辺一党の氏神として崇敬を集めた。

久保三田とは窪三田とも記された地名で、後に三田小山町と呼ばれた。三田小山の窪地だった事が由来。現在の三田一丁目付近。

宿泊施設「東京さぬき倶楽部(旧・讃岐会館)」があった付近が旧鎮座地だと伝わっている。
「東京さぬき倶楽部」の敷地内にはそれを伝える石碑が残っていた。
残念ながら施設自体は2020年4月末に閉館していて再開発地区に指定されている。

再開発と新型コロナの影響で閉館
一帯を含む三田小山町の再開発計画によって2020年8月末での閉館が予定されていた。
しかし新型コロナウイルスの影響で緊急事態宣言が発令されたこともあり、前倒しする形で2020年4月末に閉館することとなった。
閉館と再開発計画によって立ち入り禁止となっているため、現在は当社の旧社地を伝える石碑や残されていた古い狛犬を確認することはできない。

頼光四天王の筆頭である渡辺綱の伝説・綱八幡と称される

現在の三田周辺はかつては嵯峨源氏・渡辺一党の領地であった。

第52代天皇・嵯峨天皇(さがてんのう)の皇子である左大臣・源融(みなもとのとおる)を遠祖とするため嵯峨源氏(さがげんじ)と呼ばれた。

この事から嵯峨源氏・渡辺一党の氏神として崇敬を集めた。
渡辺一党の祖に渡辺綱という人物がいる。

渡辺綱(わたなべのつな)
渡辺氏の祖とされる武将。
源頼光(みなもとのよりみつ)の家臣で頼光四天王の筆頭として名を馳せた。
正式な名乗りは源綱であり渡辺源次とも称された。
『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『御伽草子』などに名を見る事ができる。
頼光に従い大江山の鬼の棟梁・酒呑童子を退治、京都の一条戻橋上で源氏の名刀「髭切りの太刀」で鬼(茨鬼童子とも)の腕を切り落としたといった逸話で知られる。

(安達吟光・大日本史略図会)

明治時代の浮世絵師・安達吟光による『大日本史略図会』より、京都の一条戻橋で鬼と戦う渡辺綱。

このような伝説から渡辺氏の氏神であった当社は、渡辺綱から俗に「綱八幡」と称された。

他にも三田周辺には渡辺綱ゆかりとされる地が多数残る。
鬼が恐れた渡辺姓と節分の豆まき
渡辺綱の伝承から鬼は渡辺姓を恐れたと云い、この事から渡辺姓の人は節分の豆まきが不要といった俗説も伝わる。

江戸時代初期に現在地へ遷座・大火と再建

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。

家康の江戸城入城の際に奇瑞があったと伝わり、荏原郡上高輪村海岸(現在地)を開拓。

元和五年(1619)、僧・快尊によって社殿の造営が開始される。
寛永五年(1628)、社殿が竣工し現在地へ遷座。

別当は天台宗の八幡山「宝蔵寺」(現・廃寺)であった。

寛文八年(1668)、大火によって社殿が全焼。
寛文十二年(1672)、細川越中守によって社殿が再建。

細川越中守(ほそかわえっちゅうのかみ)
当時の越中守は、肥後国熊本藩主・細川綱利(ほそかわつなとし)。
大石良雄(大石内蔵助)を始めとした赤穂浪士17人のお預かりを命じられた事でも知られる大名。
肥後細川家は伊皿子台(いさらごだい)に江戸藩邸(下屋敷)があり、伊皿子台は当社の氏子地域であったことから再建したものと思われる。現在の高輪皇族邸のあたり。

その後も三田の総鎮守(高輪や芝浦の一部も含む)として崇敬を集めた。

江戸切絵図から見る三田八幡

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(芝高輪辺絵図)

こちらは江戸後期の三田・芝・高輪周辺の切絵図。
右が北の地図で当社は図の中央やや右に描かれている。

(芝高輪辺絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲ったのが当社で「三田八幡」として記されている。
青円で囲ったのが当社の社殿を再建した細川越中守の下屋敷(現・高輪皇族邸付近)。

目の前は東海道と江戸湾
注目すべきは海岸の近さであろう。
まだ芝浦が埋め立てられていない時代で、当社のすぐ目の前が江戸湾だった事が分かる。
当社の目の前の通りが東海道、その先が江戸湾の海であったため、景勝地としても知られていた。

江戸名所図会に描かれた三田八幡宮

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「三田八幡宮」として描かれているのが当社。
社前を通る街道は主街道である東海道で、現在の第一京浜。
そのすぐ手前が江戸湾の海になっている。

現在の山手線の線路の場所が海岸であった。明治になり芝浦の埋め立て事業によってこうした海岸は消えていく事となる。

街道沿いに鎮座する当社が大いに崇敬を集めた事が伝わる一枚。

(江戸名所図会)

当社の境内を中心に拡大したのが上図。

石段の上に鎮座しており規模や配置も現在とあまり変わらない。
自然溢れる鎮守の杜だったことも窺える。
石段の下の右手には別当寺「宝蔵寺」(現・廃寺)の姿も見える。

当社は「江戸八所八幡宮」に数えられ、江戸を代表する八幡社の一社であった。

明治以降の歩み・御田八幡神社へ改称・戦後の再建

明治になり神仏分離。

旧別当寺「宝蔵寺」は廃寺となっている。

明治二年(1869)、延喜式記載の「稗田神社」に改称。
明治五年(1872)、郷社に列する。
これを機に「稗田神社」から「三田八幡神社」へ改称。

明治三十年(1897)、三田を旧称であった御田に復し「御田八幡神社」に改称。
現在の拝殿の扁額には「御田八幡宮」が掲げられている。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で今も昔も変わらない。
三田台町や三田の地名も見る事ができ、当社は三田周辺の総鎮守として崇敬を集めた。
江戸時代に当社を再建した細川越中守の下屋敷は、高輪御殿(現・高輪皇族邸)になっている。
当時もまだ芝浦の埋め立ては行われておらず、海岸が近かった事が窺える。

芝浦の埋め立てが始まったのは明治四十五年(1912)の事。大正八年(1919)に芝浦海面埋立地が完成している。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

大正十一年(1922)に東京市公園課から発行された『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』より。

戦前の当社の様子が分かる貴重な1枚。
立派な灯籠、現在も残る狛犬などの姿も見る事ができる。
写真に写る社殿は旧社殿。

昭和二十年(1945)、東京大空襲で社殿が焼失。
昭和二十九年(1954)、社殿を再建。
この時の社殿が改修されつつ現存。

平成二十一年(2009)、鎮祀1300年記念祭が行われた。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

第一京浜沿いに鎮座・社号の書かれたビル

札の辻交差点近くの第一京浜沿いに鎮座。
社号の書かれた大きなビルが特徴で、第一京浜を通った事がある方ならお馴染みの光景。

ビルの隣に鳥居があり境内となっている。
玉垣で囲われた参道。
社号碑には「御田八幡神社」の文字。

石段・乳飲みの狛犬・元禄年間の古い狛犬

鳥居の先には石段。
『江戸名所図会』にも描かれていた石段。
この右手にはやや緩やかになった石段もあり、表参道が男坂、緩やかな坂が女坂。

石段の下には一対の狛犬。
奉納年代は不詳であるが良い造りの狛犬で、上述した大正時代の古写真にもその姿を残す。
おそらく江戸時代のものと思われるが、金網で保護されている。
阿吽共に子持ちで阿形の子は乳飲みの姿で愛らしい。

石段を上ると右手に手水舎。
身を清める事ができる。

拝殿前に一対の狛犬。
元禄九年(1696)奉納の大変古い狛犬。
ずんぐりとした体躯が特徴的。
1600年代の狛犬は珍しく、都内の狛犬でも有数の古さ。

戦後に再建された社殿・鬱蒼とした緑の中に佇む

参道の正面に社殿。
旧社殿は東京大空襲にて焼失。
現在の社殿は戦後の昭和二十九年(1954)に再建されたもの。
地域からの崇敬の篤さが伝わる立派な社殿。
鬱蒼と茂った緑の中に佇み、都会の喧騒を忘れさせてくれる。
本殿の裏手は竹林になっていてオフィス街にありながら緑を多く残した境内は大変貴重。

境内社の稲荷神社と御嶽神社・神楽殿前は憩いの場

社殿の左手に境内社。
五光稲荷神社と御嶽神社。
別々の鳥居が用意されている。
社殿は合殿という形。

さらにその奥にも小さな稲荷社が鎮座。
この裏が鬱蒼と茂った竹林となっている。

境内の左手には神楽殿。
神楽殿の前にベンチが置かれており、近隣住人やビジネスマンの憩いの場となっている。
日中に参拝するとこちらで休憩されている方やお弁当を食べている方などをよく見かける。

御田八幡神社の御朱印・一陽来復御守などの授与品

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して下さる。

御朱印は中央に「武蔵国 御田郷 御田八幡宮」と記された大きな朱印。
左下には「芝御田八幡神社社務所印」。

冬至から節分まで限定の授与品として一陽来復御守。
金銀融通の御守として知られる。
特に「穴八幡宮」の一陽来復御守が有名だが当社でも授与されている。
筆者が頂いた懐中御守。

一陽来復(いちようらいふく)
易経での冬至を表す言葉。
易経では、6個の陰陽でその月を表していて、旧暦10月は6個が全て陰になる月で、冬至のある旧暦11月は陽が1個現れ、残り5個が陰となる月である。
旧暦11月に陽が1つ現れる事から「一陽」。
冬至に太陽の力が最も弱わり、その後に回復していく事から「来復」。
これが「一陽来復」。
これよりは良い方向に向かう」というポジティブな意味合いを持った言葉。
穴八幡宮 / 東京都新宿区
牛込総鎮守。冬至から節分まで期間限定の一陽来復御守。金銀融通の御利益。一陽来復(いちようらいふく)の意味と御守の祀り方。横穴より神像が出現したため穴八幡宮。徳川将軍家からの庇護・徳川吉宗奉納の流鏑馬。御朱印にも一陽来復の文字。御朱印帳。

また当社では現在も「釜鳴神事」と云う、全国的にも珍しい特殊神事が行われる。
毎年1月15日と5月15日に行われるため「釜鳴神事のお社」とも称される。

所感

三田の鎮守として崇敬を集める当社。
式内社に比定される神社で、綱八幡と呼ばれたように様々な伝承が残り、古くから崇敬を集めた。
何度かの遷座と社名変更があり、現在は三田の旧称とされる御田を名乗っている。
第一京浜沿いのオフィス街にあり、ビルに挟まれる形での鎮座ではあるが、境内には鬱蒼と茂った緑を残しているため、都会の喧騒を感じさせない清々しい空気の境内となっているのが特徴。
境内にはベンチも設置されており、地元の方々やオフィス街の人々の憩いの場にもなっていて、いつ参拝してもベンチで過ごす方の姿を多く見る事ができる。
都心の大通り沿いにありながら、こうした憩いの場としての鎮守が今も残っているのが喜ばしい。
境内には古い狛犬なども残っていて地域に愛され歴史を伝える良い神社である。

神社画像

Google Maps


コメント

タイトルとURLをコピーしました