松島神社 / 東京都中央区

中央区

概要

人形町のビル1階に鎮座する松島神社

東京都中央区日本橋人形町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧松島町の鎮守。
かつては社家の先祖である柴田家の邸内社であったが、一般に公開されるようになった際、松樹が鬱蒼としていたことから「松島稲荷大明神」と称された。
江戸時代になると当地周辺は当社から松島町と呼ばれ鎮守として崇敬を集め、住み着いた人々の故郷の神を色々と祀るようになったため、現在の御祭神は14柱を数える。
毎年11月酉の日には「酉の市」が開催されるため「人形町のおとりさま」とも呼ばれ親しまれている。
現在は日本橋七福神の大黒神も担う。

神社情報

松島神社(まつしまじんじゃ)

御祭神:稲荷大神・伊邪那岐神・他十二柱(計十四柱)
社格等:村社
例大祭:5月15日
所在地:東京都中央区日本橋人形町2-15-2
最寄駅:人形町駅・水天宮前駅・浜町駅
公式サイト:─

御由緒

 鎌倉時代の元亨以前にこの辺りが入り海であった頃、松の木が鬱蒼と生えた小島に柴田家の邸内社として祭られてあったが、天正十三年(1585年)松島稲荷大明神として一般に公開参拝の自由が許され、大正五年六月十日松島神社と改称される。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2024/03/13

御朱印

初穂料:500円
社務所にて。

※「松島神社」「日本橋七福神・大黒神」の2種類の御朱印あり。

歴史考察

入江の小島に柴田家の邸内社として創建

創建年代は不詳。
鎌倉時代の元亨年間(1321年-1324年)以前の創建と伝えられている。

関東大震災と戦火によって社記類などが失われているため口伝による。

鎌倉時代のこの一帯は入江で小島があったと云う。
柴田家(社家の祖先)が下総国より小島に移り住み、邸内社として創建。
夜になると燈火を掲げたため、船人はそれを目標に航海の安全を得たと伝わる。

正中元年(1324)、柴田家の三男・権太に「百難救助すべし」と神示があり霊験があったため、遠近の人々より信仰を集めた。
これにより「正一位稲荷大明神」の位記を与えられた。

かつての江戸にあった入江

社伝にも入江があったと伝わるように、徳川入府前の江戸は多くの入江があり、現在とは随分と地形が違う。

当時の入江の様子をGoogle Mapsに重ねてみると以下のようになる。

(筆者作・日比谷入江と江戸湊)

筆者が作成したものなので正確な地図ではないが大まかにこのような入江となっていた。

中でも有名なのは日比谷入江と呼ばれた入江で現在の東京駅と皇居の間まで海が食い込んでいた。
日本橋や人形町あたりにも入江があったようで、その入江にあった小島に当社は創建したものとされている。

邸宅を一般公開し松島稲荷大明神と称される

天正十三年(1585)、人々の希望によって柴田家の邸宅を一般公開。
人々が自由に参拝できるようになり信仰を集めた。
また、島内には松樹が鬱蒼としていた事から「松島稲荷大明神」と称された。

神示を受けた権太の木像を安置したため「権太大明神」とも俗称された。

天正十八年(1590)、徳川家康が関東移封によって江戸入り。
江戸の開発が進むと、天下普請による埋め立てが進行し入江は埋め立てられていく事となる。

松島町が成立・多くの神を祀る

正徳三年(1713)、新町が開設される際に当社の社号に因んで町名を「松島町」とした。

松島町(まつしまちょう)
当社を由来とした町名。
特に当社前は「稲荷前」と俗称された。
昭和八年(1933)に帝都復興計画の一環として蛎殻町や人形町に編入したため町名は消滅。

松島町には埋め立てや武家屋敷造営のために職人が集められ、その人々がそのまま定住。
それぞれの故郷の神々を当社に祀る事を頼んだため、様々な神が祀られる事となった。

合計十四柱の神々を祀る
稲荷大神・伊邪那岐神・伊邪那美神・日前大神(天照大神)・北野大神(菅原道真公)・天日鷲神(大鳥大神)・大国主神・大宮売神・手置帆負神・彦狭知神・淡島大神・八幡大神・猿田彦神・琴平大神。
合計で十四柱もの神を祀る。

江戸切絵図から見る松島町周辺

江戸時代の当社や松島町については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。

(日本橋北神田浜町絵図)

こちらは江戸後期の日本橋や人形町周辺の切絵図。
当地周辺は右下あたりに描かれている。

(日本橋北神田浜町絵図)

当地周辺を拡大したものが上図。

当社の鎮座地に神社が記されてはいないものの当時の鎮座地は赤円あたりにあたる。
関東大震災後に僅かに遷座しているので当時は今よりやや南西に鎮座していた。
松島町の角に鎮座していた当社周辺を稲荷前と俗称された。
周辺には大名屋敷が立ち並ぶ。

明治以降の歩み・震災と戦災からの再建・松島ビルの竣工

明治になり神仏分離。
明治七年(1874)、村社に列し「松島稲荷神社」と称した。

明治十一年(1878)、郡区町村編制法施行によって日本橋区を設置。
当地は日本橋区松島町(現在の日本橋人形町)となる。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

当社の鎮座地は赤円で囲った場所で、今も昔もほぼ変わらない。
今はない松島町の文字も見る事ができる。

大正五年(1916)、松島神社へ改称。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生し当社も被災。
大正十三年(1924)、社殿を再建し現在地に遷座。

昭和八年(1933)、帝都復興計画の一環として松島町は蛎殻町や人形町に編入したため消滅。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿などを焼失。
昭和二十一年(1946)、社殿などを再建。

平成六年(1994)、松島ビルを竣工。
ビルの1階に鎮座する形となる。

その後も境内整備が進み現在に至る。

現在は日本橋七福神の大黒神も担っている。

日本橋七福神めぐり 公式サイト
日本橋七福神は他所とは異なり、すべて神社で構成され、しかも日本で一番巡拝が短時間にできるという特長を持っています。日本橋通りや人形町通りは、江戸下町の伝統を持つ繁華街です。下町情緒に触れながら、参拝いただきますよう、御案内申し上げます。

境内案内

日本橋人形町の松島ビル1階に鎮座

最寄駅の人形町駅から徒歩すぐの距離で、日本橋人形町の大門通り沿いに鎮座。
現在は松島ビルの1階に鎮座。
貸事務所などの賃貸物件になっていて現代における都心での神社運営の形。
扁額には「松嶋神社」の文字、幟旗には「松島 大國神」の文字。

鳥居を潜ると右手に手水舎。
龍の吐水口。
コロナ禍以降は使用できず消毒液で清める形。

建物内に置かれた社殿

正面に社殿。
ガラス張りの建物の前に賽銭箱があり、その奥に木造の社殿。
天井は高く取られていてビルの1階にありながらも配慮が伝わる。
社殿の手前には古い年代(造形から江戸時代と思われる)の一対の小さな狛犬も。

11月酉の日には酉の市を開催・人形町のおとりさま

例大祭は5月15日であるが当社の祭りとしては11月の酉の市が知られる。

酉の市(とりのいち)
例年11月の酉の日に行われる祭。
日本武尊を御祭神とする大鳥信仰系の神社で行われる事が多い特殊神事。
花畑大鷲神社」(足立区花畑)が発祥とされ、江戸時代から現在にかけては吉原遊廓に隣接していた「浅草鷲神社」の酉の市が日本最大の酉の市として知られる。
花畑大鷲神社 / 東京都足立区
酉の市発祥の神社。花畑(旧花又村)鎮守。酉年限定頒布の鷲掴み守。11月酉の日は酉の市・起源と歴史。源義光(新羅三郎)の伝承。義光の末裔とされる秋田藩主・佐竹氏からの寄進。見事な彫刻がある本殿は必見。立派な神苑を有する境内。御朱印。御朱印帳。
浅草鷲神社 / 東京都台東区
日本最大の酉の市で知られるお酉さま。浅草田圃に鎮座・裏手に吉原遊郭(新吉原)が移転。酉の市起源発祥の考察。24時間開催!酉の市・粋な熊手の買い方。幸福を呼ぶ「なでおかめ」・願い事を納める叶鷲。限定御朱印。鷲の御朱印帳。酉の市を描いた浮世絵。

十四柱もの神を祀る当社には天日鷲神(大鳥大神)を祀っている事に由来。
当社の酉の市の歴史は比較的古くかつては繁華雑沓を極めたと云う。
そのため今でも「人形町のおとりさま」と称され親しまれている。

日本橋で酉の市が行われる神社は当社が唯一となっている。
令和六年(2024)の酉の市
一の酉:11月5日(火)
二の酉:11月17日(日)
三の酉:11月29日(金)

松のイラスト入り御朱印・日本橋七福神の大黒神も担う

御朱印は社務所にて。
当社の御朱印は通常時は2種類用意。

「松島神社」「日本橋七福神・大黒神」の2種類の御朱印を用意。

御朱印は上に社紋の抱き稲に鷲、下に「松嶋神社」の印。
四隅に松のイラスト入り。

日本橋七福神の大黒神の御朱印は通年で頂ける。
日本橋七福神めぐり 公式サイト
日本橋七福神は他所とは異なり、すべて神社で構成され、しかも日本で一番巡拝が短時間にできるという特長を持っています。日本橋通りや人形町通りは、江戸下町の伝統を持つ繁華街です。下町情緒に触れながら、参拝いただきますよう、御案内申し上げます。

所感

旧松島町の鎮守として崇敬を集めた当社。
かつては入江の小島に鎮座していたと云うが、現在はビルの1階に鎮座する形となっている。
人形町の小さな神社の1つで基本的には「松島稲荷」と称されていたように稲荷信仰の神社となるが、合計で14柱もの神が合祀されているのが特徴的。
そのため11月の酉の市から「人形町のおとりさま」とも呼ばれ親しまれている。
近年は近隣かつ同じく日本橋七福神の「小網神社」が大行列になる人気の影響で、参拝者がとても増えた印象を受け、この日もタイミングによっては行列ができていた。
都心のビルの1階にある小さな神社ながら、土地の歴史も伝える良い神社である。

Google Maps

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