福徳神社(芽吹稲荷) / 東京都中央区

神社情報

福徳神社(ふくとくじんじゃ)
芽吹稲荷(めぶきいなり)

御祭神:倉稲魂命
相殿神:天穂日命・大己貴命・少名彦命・事代主命・三穂津媛命・太田道灌・弁財天・徳川家康
社格等:村社
例大祭:5月9日
所在地:東京都中央区日本橋室町2-4-14
最寄駅:三越前駅・新日本橋駅・日本橋駅・神田駅
公式サイト:http://mebuki.jp/

御由緒

当神社の創祀された時は明らかではないが、当社に伝わる略記によると、清和天皇の御代の貞観年間(859〜876)には既に鎮座していたようである。
当社は、武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号とした。
その鎮座する社地は広大にして、社殿も広壮であったと伝えられる。社の四隣は森林や田畑に囲まれ、周辺には農家が散在する片田舎であったとされる。土地の人々は当社の森を「稲荷の森」と呼び、その森の一端に建てられていた里程標(一里塚)を「稲荷の森塚」と呼び習わしていた。この里程標は、後に明暦三年酉年(1657)正月八日の大地震により崩壊。当時の人々が散乱した石碑の破片を拾い集め、保存を図ったと伝えられる。左記は、その碑銘の写しである。
表:宮戸川邊り宇賀の池上に 立る一里塚より此福徳村 稲荷森塚迄一理
裏:貞観元年卯年 三つき吉祥日
また、そもそも当社は、元来、武将の信仰が厚く、源義家朝臣(1039〜1106)により深く崇敬されていたことが記されていたとも伝えられている。江戸幕府以前には太田道灌公を合祀し、その兜・矢・鏃などが奉納されたと伝わっている。
徳川家康公は、江戸に入府した天正十八年(1590)八月に初めて当社に参詣し、その後も数度に渡って参詣している。更に二代将軍秀忠公は、慶長十九年(1614)正月八日に参詣した折、「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛。この時、当社の古例である椚(クヌギ)の皮付き鳥居に春の若芽の萌え出でたのを御覧になり、神社の別名を『芽吹(めぶき)稲荷』と名付けられた。元和五年(1619)二月に御城内の弁天宮を当神社に合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納し、更には「社地縄張を三百三十坪余り」と定められた。(頒布の資料より)

参拝情報

参拝日:2017/12/12

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※御朱印受付時間は10時-15時まで。

歴史考察

日本橋室町東地区の再開発によって再興された神社

東京都中央区日本橋室町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧福徳村(現・日本橋室町周辺)の鎮守。
江戸開府以前に福徳村と呼ばれた当地の鎮守であった古社で、徳川家康も参詣。
二代将軍・秀忠が参詣した際に「芽吹稲荷」の別名を賜ったと伝わる。
人口が増えるにつれ規模が縮小し、明治以後も幾度も遷座を余儀なくされ、最近まではビルの屋上に小祠が置かれると云う、大変規模の小さな祠として維持されていた。
日本橋室町東地区の再開発によって、三井不動産を中心に「福徳神社」の再興が行われ、平成二十六年(2014)に社殿が竣工、現在は地域コミュニティの核として崇敬を集めている。

福徳村の鎮守であった稲荷社

社伝によると、創建年代は不詳。
貞観年間(859年-877年)には既に鎮座していたとされ、それ以前の創建と伝わる。

当地は武蔵野国豊島郡「福徳村」という村であった。
当社の社号「福徳神社」も旧村名に因む。

江戸開府以前の福徳村は、森林や田端に囲まれた大変のどかな農村であった。
当社の鎮守の杜を「稲荷の森塚」と呼び、当社の社地や社殿も広大であったと云う。

当社の御祭神は「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」。穀物の神であり、一般的には「稲荷神」として信仰されている。

当時は当社の一端に石造りの一里塚が置かれており、そこに福徳村の名が偲ばれる。
現在、石碑として再建された碑はその写しである。

表:宮戸川邊り宇賀の池上に 立る一里塚より此福徳村 稲荷森塚迄一理
裏:貞観元年卯年 三つき吉祥日
明暦三年(1657)に崩壊した一里塚の碑を、当時の人々が書き写して保存を図ったとされている。(地震が原因とも明暦の大火が原因ともされる)

このように農村であった福徳村の鎮守として、崇敬を集めた。

源義家や太田道灌など武将による崇敬

こうした福徳村の稲荷社であった当社は、当地の村民からだけでなく、武将からの崇敬が篤かったと伝わる。

古くは源義家(八幡太郎)が篤く崇敬したと云う。

源義家(みなもとのよしいえ)は、源頼義の長男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称した事で知られる。義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。

その後も、江戸城を築城した太田道灌が当社を崇敬。
狩の帰路に度々参詣したとされ、後に当社に合祀されている。
道灌の合祀の際には、道灌の兜・矢・鏃などが奉納されたと伝わる。

太田道灌(おおたどうかん)は、武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将で、江戸城を築城した事で知られる。当時の江戸城の城主であり、当地の領主でもあった。

このように関東に縁のある武将たちによって崇敬。
農村であった福徳村の鎮守として、広大な社地と広壮な社殿を有する神社であった。

徳川家康の参詣・徳川秀忠が「芽吹稲荷」と命名

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
同年、当社に初参詣し、その後も数度に渡って当社に参詣している。

慶長十九年(1614)、二代将軍・徳川秀忠によって「芽吹稲荷」と命名される。
社伝には以下の伝承が残されている。

秀忠が正月に当社に参詣し、「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛。
この際、当社の椚(くぬぎ)の木からなる鳥居に、若芽が萌え出ているのを見て「芽吹稲荷」と命名したと云う。

元和五年(1619)、江戸城内の弁財天が合祀。
秀忠自ら神霊を治め、大和錦の幌を奉納し、「社地縄張を三百三十坪余り」と定めた。

このように徳川将軍家からも崇敬を集めた当社は、御由緒厚い神社として崇敬を集めた。

商業町として発展・町の発展によって縮小

徳川将軍家の参詣もあった当社であるが、かつて福徳村と呼ばれたのどかな農村は、江戸幕府の開府と江戸の街づくりによって一変。

慶長八年(1603)には日本橋が架けられ、翌年には五街道の起点となる。
日本橋周辺は江戸市中で最も賑わいを見せるエリアとなり、福徳村も町方として指定。

特に明暦三年(1657)に発生した「明暦の大火」の後は、江戸の都市改造が行われた。

明暦の大火とは、江戸の大半を焼失させた大火事。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。江戸三大火の1つで、中でも江戸時代最大の延焼面積・死者が出た。江戸城の天守閣を含む、江戸市中の大半が焼失し、この明暦の大火を機に、江戸の都市改造が行われる事となった。

当社周辺は、「瀬戸物町」と呼ばれ、伊勢町と室町に囲まれた商業町として発展。
中でも当社があった通りは「浮世小路(うきよしょうじ)」と呼ばれ、「百川楼」と云う高級料亭があった事でも有名であった。

当社の規模は町の発展によって縮小。
その後も火事などによって幾度かの遷座(移転)や解体に見舞われた。

幕府から富籤の興行が許可された一社・天保の改革で消滅の危機

享保年間(1716年-1736年)、これまで幕府が禁令としていた「富籤」を、寺社の修理費用に充てる事を目的とした由緒ある寺社のみに許可を始めた。

富籤(とみくじ)とは、富突きとも呼ばれたくじ引き(賭博)。
現在の宝くじの起源とされるくじ引きで、江戸時代は幕府が許可した寺社のみで興行が許されたため、寺社奉行に許可を出願し、抽籤の際には与力が立ち会った。
「谷中感応寺」「目黒滝泉寺(目黒不動尊)」「湯島天神」は「江戸の三富」と呼ばれるほど盛んであった。

当社も富籤の興行を許可された一社であり、これは徳川家康や秀忠の縁によるものであろう。
中でも当社の社号「福徳」は縁起の良いとして賑わったと云う。

文化年間(1804年-1818年)に発行された『江戸大富集』にも当社の名を見る事ができる。

(江戸大富集)

当時、富籤が定期的に興行されていた寺社を記したもの。
当社は「福徳稲荷」と記されていて、2月、5月、8月、11月と年4回の興行が7日に行われていた。

当たりくじも金百両と多く、年四回興行の中では最高額の富籤の1つ。大変賑わいを見せた富籤だった事が伺える。

しかしながら、天保年間(1831年-1845年)に行われた「天保の改革」で、多大な影響を受ける事になる。

天保十三年(1842)、老中・水野忠邦の命により富籤興行が禁止され、華美な祭礼や贅沢・奢侈は悉く禁止となる。
更に、神職などが転居を命じられ、それに伴う形で当社も一度消失の憂き目に遭っている。

天保十四年(1843)、水野忠邦が失脚。
すると氏子たちが奉行所へ当社再建の願書を出し、西堀留川(当時あった入掘)の川岸で再興している。

水野忠邦による「天保の改革」はあまりに過激で庶民の怨みを買ったと云う。寺にあった木魚を乱打しながら「水野は叩くに(忠邦)もってこいの木魚だ」と歌われた程で、忠邦が失脚した際には暴徒化した江戸市民に邸を襲撃されている。

江戸切絵図から見る当社と瀬戸物町・浮世小路と百川楼

江戸時代の当社周辺については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。

(日本橋北神田浜町絵図)

こちらは江戸後期の日本橋や人形町周辺の切絵図。
当社は図の中央下あたりに描かれている。

(日本橋北神田浜町絵図)

当社周辺を拡大し北を上にしたものが上図。
赤円で囲んだのが当社で「イナリ」と記されており、西堀留川沿いに再建されたのが分かる。
当社が置かれていたのは「瀬戸物町」と云う町であった。

瀬戸物町は、伊勢町と室町に挟まれた商業街。町名は大小の瀬戸物商が多数集まっていた事に因む。町の北側にあった入掘は「西堀留川」と云い、雲母橋(きらずばし)と道浄橋が架かっていた。

当社に面して北側の細い路地に「浮世小路(うきよしょうじ)」と書かれており、明和年間(1764年-1772年)以降は、北側に有名な「百川楼」と云う高級料亭が置かれていた。

「百川楼」は明治初めまであった江戸で五指に入ると云われた屈指の料亭。
古典落語「百川」のモデル・舞台としても登場する。
安政元年(1854)、黒船来航の際には、百川楼が饗しの料理を2000両で請負、百川楼の料理人が横浜まで出向き、日本側がペリー率いるアメリカ側に本膳料理の昼食を出したと云う。

なお、現在当社が鎮座する場所付近が、かつて「百川楼」があった付近となっている。

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の付近の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「伊勢町河岸通」として描かれた1枚。
当社の隣町である伊勢町を描いており、当時の当地周辺の町並みが分かる。
地理から見るに、赤丸が描かれたあたりの奥に当社が再興される事となる。

当時は天保の改革が行われていた時代のため、当社は一時的に消失しているものと思われる。

明治以降の再建の歩み・2014年に再興

明治になり神仏分離。
明治七年(1874)、村社に列する。
明治九年(1876)、現在の「福徳神社」へ改称。
改称後も「芽吹稲荷」「福徳稲荷」などと云われ崇敬を集めた。

その後は、日本橋周辺の発展と共に当社の社地も削られていく。

(東京市及接続郡部地籍地図)

大正元年(1912)に東京市区調査会が発行した『東京市及接続郡部地籍地図』。
瀬戸物町、伊勢町、本小田原町周辺の地図が記されている。

(東京市及接続郡部地籍地図)

「福徳神社」として当社が記されているのは赤円の部分。
これは江戸の切絵図と見比べてみると、西堀留川と云う入掘があった場所となっている。

この頃には西堀留川は埋め立てが始まっていた事が分かり、西堀留川沿いに再建された当社は、埋め立てに際して、埋立地に遷座していた事が伺える。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

こちらは大正十一年(1922)に発行された『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』。
「福徳神社」として、当時の写真が記録されている。
小さな神社であった事が伺え、幾度も遷座や再建によって社地が縮小していったのだろう。

もと、福徳村の田の中にあって、稲荷の森と云ひ境城廣かりしと云ふも、人家の建込むに連れて縮小さるるに至った。明治七年村社に列して福徳神社と號した。(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

このように説明文にも、福徳村という農村にあったが、町家が立ち並ぶにつれて縮小していったという事が記されている。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
区内の9割以上が焼け野原となる大被害となり、当社の被害を受けた。
大正十四年(1925)、再興にあたって区画整理が行われ、換地に遷座。

昭和十九年(1944)、空襲によって社殿が消失。
戦後は仮殿にて維持される。

昭和四十八年(1973)、現在地に遷座となった。
その後、敷地の一部を駐車場として貸し出すなどし、近年まではビルの屋上に小祠を置くのみの姿となり、細々と維持される事となる。

当時は「福徳会館」表記された社務所がある建物の屋上に小さな祠があり、参拝は自由にできたものの、企業の社内にある邸内社かと思うくらいの小さなものであった。

平成二十六年(2014)、日本橋室町東地区の再開発によって、三井不動産を中心に「福徳神社」の再興が行われ社殿が竣工。

一時は消えつつあった神社が、地域コミュニティの核として再建を果たした。

その後も平成二十八年(2016)に「福徳の森」の整備、「薬祖神社」の遷座と整備が行われ、現在に至っている。

現在は、都営浅草線沿線の八社によって「東京福めぐり 開運八社さんぽ」が開催され、当社も参加している。

境内案内

三井不動産のCMでもお馴染み・COREDO室町などがある日本橋室町東地区の中核

かつて当社があった瀬戸物町と呼ばれた町は、現在は日本橋室町の一画となっている。
三井不動産による日本橋室町東地区によって、商業区画は「COREDO室町」と呼ばれる。

コレド室町(三越前)。日本橋の歴史が宿る老舗店舗から、人気店の新業態など新しさを取り入れた店舗までが揃う。5~6階の「日本橋三井ホール」は日本橋地域最大級の多目的ホール。
「COREDO室町2」と「COREDO室町3」の間の仲通りは当社の参道という位置付けとなる。

そうした仲通りを抜けた先に朱色の鳥居。
街中に再興された境内であるが、地域と一帯となった地域コミュニティの核として賑わう。
平日の昼間でも仕事の合間に参拝する人が多く、既に地域に馴染んでいる事が伺える。
手水舎も綺麗に維持され、幟旗には「芽吹稲荷」の文字も。

こうした地域と融合した神社の再興は、三井不動産が得意としている。
近年では「赤城神社」(新宿区赤城元町)や「成子天神社」(新宿区西新宿)の再興も三井不動産によるもの。
牛込総鎮守。神楽坂鎮座。赤城神社再生プロジェクトとは。近代的な社殿や蛍雪天神・個性的な狛犬。ゲゲゲの鬼太郎御守など豊富な授与品・カフェも併設。上野国出身の豪族により勧請・赤城信仰とは。江戸幕府より江戸大社に列せられる。御朱印。御朱印帳。
旧柏木成子町鎮守。再整備プロジェクトで新しくなった天神様・成子天神社再整備プロジェクトとは。大正年間に築山された富士塚。境内でできる七福神巡り。菅原道真の家臣による創建・源頼朝の社殿造営。江戸切絵図から見る当社。御朱印。御朱印帳。

中でも当社はそうした集大成とも云える出来。
三井不動産のCM「福徳の森で」編では、当社の境内が登場する事でも知られる。

鉄骨造に吉野檜で化粧をした社殿

鳥居を潜ると左手に参道が続き低い石段。
その先の右手に手水舎があり、正面に社殿となる。
平成二十八年(2016)に再建された社殿はまだ新しさを感じるもの。
まだ新しい木々を感じさせる木造社殿のように見えるが、実は鉄骨造。
鉄骨造に吉野檜で化粧をしていると云い、防火地域である当地に配慮して再建された。

社殿前には一対の神狐像。
こちらも社殿同様に再建されたものであるが、当社が稲荷信仰の神社である事を伝える。
その前には当社の授与品として人気の高い「芽吹き守」「芽吹き勝守」の大きなモニュメント。

社殿の地下2階は、災害発生時に地域の帰宅困難者に提供する水や食料等の防災用備蓄倉庫が整備され、地下1階には、公共の駐輪場・ミニバイク置場を99台整備。周辺地域の防災などを兼ねた神社となっている。

様々な植栽が演出された福徳の森・ライトアップなど多くのイベントも

平成二十八年(2016)には、社殿の右手が「福徳の森」として整備され竣工。
多くの植物が植栽されている。
社殿の両脇には椚(くぬぎ)の木が植えられていて、当社の「芽吹稲荷」と命名された社伝に基づくもの。

二代将軍・徳川秀忠が正月に当社に参詣し、「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛。
この際、当社の椚(くぬぎ)の木からなる鳥居に、若芽が萌え出ているのを見て「芽吹稲荷」と命名した。

こうした福徳の森では各種イベントも開催。
この日は年末とあってライトアップイベントが開催されていた。
「星降ル森」、詳しくは下記公式サイトを参照。

星降ル森
流星×テクノロジー×ミラーボールの体験型イルミネーションアート
2017年12月8日-2018年1月8日
流星×ミラーボール×テクノロジーの体験型イルミネーション・アート。2017年12月8日(金)- 2018年1月8日(月・祝)日本橋 福徳の森、日本橋三井タワー1F アトリウム、仲通り、コレド室町 1にてイベントを開催。
当社の境内は夜になると常時ライトアップされているので、夜に参拝するのもよいだろう。

医薬の祖神を祀る薬祖神社が境内に遷座

社殿の東側には「薬祖神社」が鎮座。
平成二十八年(2016)に当社の境内に遷座したもの。
それまでは日本橋本町3丁目の昭和薬貿ビルの屋上に祀られていた。
東京薬事協会が奉賛し、医薬の祖神と言われる大穴牟遅神(おおなむちのかみ)と少名毘古那神(すくなびこなのかみ)の二神を御祭神とする。

明治四十一年(1908)、現在の東京薬事協会が「五條天神社」(台東区上野公園)から御霊を迎えたもので、昭和四年(1929)に事務所のビルの屋上に社殿を造営した。
病気平癒・健康祈願の薬祖神。上野公園内に鎮座・隣接する「花園稲荷神社」。日本武尊が薬祖神を祀り創建。「寛永寺」拡張によって遷座・相殿神として菅原道真公の合祀。江戸切絵図から見る当社。明治以降の歩み・幾度もの遷座。東都七天神の一社。御朱印。
私たちは業種・業態・規模を超えて会員とともに薬事知識の啓発に努めます。

御朱印は10時-15時まで・宝くじを保管する宝袋など

御朱印は社務所にて。
とても丁寧に対応して頂いた。

御朱印の受付時間は10時から15時まで。
一時は祭事や行事に応じた特別御朱印を用意していたようだが、現在はやられていない。

授与品には「芽吹き守」「芽吹き富籤守」「芽吹き勝守」といった、当社が「芽吹稲荷」と呼ばれた故事に因んだものが多く用意されている。
中でも宝くじを保管するための「宝袋」(初穂料3,000円)は縁起が良いとして人気。

当社は幕府から富籤の興行が許可された由緒ある一社であり、中でも「福徳」の社号は縁起がよいとして人気を博した歴史を持つ。

所感

福徳村の鎮守として其の名を社号に残す当社。
旧村名の由来は不明であるが、かつて参拝した徳川秀忠が「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛したように、「福徳」という名は実に縁起がよいもの。
江戸の商業の中心であった日本橋エリアにおいて、地域の発展と共に社地は縮小されながらも、富籤の興行許可などで大いに賑わった事が伺える。
その後、天保の改革での消滅の危機からの復興、そして明治以後、戦後の衰退。
少し前まではビルの屋上に小さな祠があるのみの神社であったが、現在は三井不動産を中心として再興が行われ、日本橋室町東地区の中核として人気を博している。
個人的には、神社と地域というのは密に結びついていて欲しい気持ちが強く、商業地域として再開発された当地において、こうして再興されたのは素晴らしい。
街の発展と共に神社が共に歩んでいく下地が復活したのは、三井不動産をはじめ、神社や氏子の方々の努力によるものであろう。

神社画像

[ 鳥居 ]



[ 社殿 ]

[ 手水舎 ]

[ 社殿 ]





[ 神狐像 ]


[ 御守 ]

[ 御籤掛 ]

[ 社務所 ]

[ 福徳の森 ]




[ 薬祖神社 ]




[ 石碑 ]


[ 案内板 ]

[ 小祠 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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