穴守稲荷神社 / 東京都大田区

大田区

神社情報

穴守稲荷神社(あなもりいなりじんじゃ)

御祭神:豊受姫命
社格等:村社
例大祭:11月3日
所在地:東京都大田区羽田5-2-7
最寄駅:穴守稲荷駅・天空橋駅
公式サイト:http://anamori.jp/

御由緒

社伝に云う。文化元年の頃(西暦1804年頃)鈴木新田(現在の空港内)開墾の際、沿岸の堤防しばしば激浪のために害を被りたり。或時堤防の腹部に大穴を生じ、これより海水侵入せんとす。ここにおいて村民等相計り堤上に一祠を勧請し、祀る処稲荷大神を以てす。これ実に当社の草創なり。爾来神霊の御加護あらたかにして風浪の害なく五穀豊穣す。その穴守を称するは「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」という心なり。そもそも稲荷大神は、畏くも伊勢の外宮に斎き祀られる豊受姫命にましまして、衣食住の三要を守り給える最も尊き大神なり。吾等一日たりともこの大神の恩顧を蒙らぬ日はなく、実に神徳広大なり。
殊に当社は明治以来、大正・昭和を通じて、最も隆昌に至った。参拝の大衆日夜多く境内踵を接する如く社頭又殷賑を極め、崇敬者は国内は勿論遠く海外にも及べり。然るに昭和二十年八月終戦にのぞみ、敗戦と云う未曾有の大混乱の中、米軍による羽田空港拡張の為、従来の鎮座地(東京国際空港内)より四十八時間以内の強制退去を命ぜられた。同年九月、地元崇敬者有志による熱意の奉仕により境内地七百坪が寄進され、仮社殿を復興再建。現在地(大田区羽田五丁目2番)に遷座せり。
爾来崇敬者各位の協力により、社殿・奥宮・神楽殿・社務所・展示場・神輿庫・納札所等復興し、目下境内整備を実施中にて、漸次昔日の面影を取り戻しつつある次第なり。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/03/09(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/09/06(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

※正月期間(1月5日まで)は近隣の稲荷社と「羽田七福いなりめぐり」あり。

[2017/03/09拝受]

[2015/09/06拝受]

御朱印帳

初穂料:1,500円
授与所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意。
オレンジを基調として狐が描かれたデザイン。
サイズは大判サイズとなっている。
西陣織の御朱印帳袋も用意。(初穂料:2,000円)

下記の御縁年午歳記念復刻版朱印帳も置かれている。
奥之宮改修及び境内整備のための奉賛金(1口5,000円)を奉納した際に授与される。
奉賛記念のため一般頒布の予定はなく、奉賛金を奉納した方のみ授与して頂ける。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

授与品・頒布品

航空・交通安全ステッカー
初穂料:500円
授与所にて。

御神砂
初穂料:志納
奥之宮にて。

奥之宮にて志納の上、セルフで頂く形となる。

歴史考察

一大観光地として賑わったお稲荷さま

東京都大田区羽田に鎮座する神社。
旧社格は村社で、かつては全国的に講社が結成されるなど多くの崇敬を集めた。
明治から戦前にかけては当社を中心に一大観光地として発展。
しかし戦後にGHQにより強制退去を命じられ、現在地に遷座し復興を果たした。
現在は羽田七福いなりめぐりの一社となっている。
招福の御利益があるとされる奥之宮・神砂(あなもりの砂)や、戦後GHQによる移転問題での大鳥居(赤鳥居)の祟り伝説なども有名。

新田開発の守護神として堤防の上に創建

社伝によると、文化元年(1804)に現在の羽田空港の敷地内に創建とある。

現在の羽田空港の敷地は、かつては羽田浦と云われていた一画。
中でも羽田浦の海側は扇型に低湿地帯が広がっていたため「扇ヶ浜」、更に扇型の要の位置に当たる出洲は「要島」と呼ばれていた。

天明年間(1781年-1788年)、羽田猟師町の名主・鈴木弥五右衛門が、幕府より開墾の許可を得て、「要島」と呼ばれた地域の開墾を行う。
しかし、海が荒れて沿岸の堤防が決壊し、近くの村々は海水による被害を受けたため、新田開発の守護神として「要島」の堤防の上に稲荷大神の祠を勧請。
すると嘘のように海が静まり堤防の決壊もしなくなったと云う。

この祠が当社の起源とされており、元は堤防の上の小さな祠であったとされる。

文化十二年(1815)頃には新田としての形態が整い、農民たちも定住するようになる。
こうしてかつての「要島」は羽田猟師町より分村し、開墾を主導した鈴木弥五右衛門の名から「鈴木新田」と呼ばれるようになった。
現在も移設された赤鳥居の横には「鈴木弥五右衛門」の碑が立つ。

穴守稲荷と呼ばれた理由

「穴守」という社名の由来は、この新田開発の守護神として祀られた由来によるもの。

堤防に大穴が開き決壊し被害をもたらしていたが、稲荷大神の祠を祀った事でぴたりと決壊しなくなったため、称されるようになった名である。

堤防の「穴」の被害から人々を「守」る「稲荷」で、「穴守稲荷」。

鈴木新田の守護神として、新田に住む農民などから崇敬を集めた。

更には、「穴守」という社名から「穴を(病気などから)守る」という意味を込めて、遊女などからの信仰も篤かったと伝わっている。

但し、江戸時代はまだ小さな祠であり、神社として隆盛を誇る事となるのは明治以降となる。

明治になり神社として再建し観光地として発展

明治になり神仏分離。

明治十七年(1884)、暴風雨によって祠が崩壊。
明治十八年(1885)、名主・鈴木嘉之助が東京府知事に「稲荷神社公称願」を提出し認可を得る。
明治十九年(1886)、広い境内となり再建され、「穴守稲荷」から現在の「穴守稲荷神社」へ改称。
神社としての体裁が整ったのはこの年と見る事ができ、創建時の祠近くに再建されたため、現在の羽田空港敷地内に鎮座していた。

明治以降の鈴木新田は、当社の隣に鴨猟場があり、海岸沿いに幾つも海水浴場もあって潮干狩りも楽しめる観光地であった。
明治二十九年(1896)には、鉱泉が発見され温泉も湧くとあり、観光客が増加。
当社の参道付近には、温泉旅館や芸者の置屋ができるなど、レジャー施設や歓楽街のある観光地として発展していく事となる。

明治三十九年(1906)の古地図がある。
当時の当地周辺の地理関係を確認する事ができる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが当時の当社で、青円で囲ったのが現在の当社の鎮座地。
現在の羽田空港の敷地内に鎮座していた事が分かる。
「鈴木新田」と呼ばれていた地名や、当社に隣接するように「鴨猟場」の文字も見る事ができ、観光地として発展していく穴守周辺となっている。

京急穴守線の開業で観光地として人気に

明治三十二年(1899)、京浜電気鉄道(現在の京急)が営業開始。
明治三十四年(1901)、蒲田(現・京急蒲田)-穴守間開業。
大正二年(1913)、(旧)穴守-穴守間開業。
大正三年(1914)、(旧)穴守駅付近に羽田駅(現・穴守稲荷駅)が開業。

穴守線と呼ばれ、当社への参拝客を見込んで京急が敷設した路線であり、これが現在は羽田空港へと繋がる京急空港線となっている。

こうして京急が京浜蒲田か当社へ向けて支線を伸ばした事で、更に当社界隈は賑わう事となる。

大正六年(1917)、日本飛行大学校が当社近くに開かれ飛行訓練施設が設置。
これが元となり、昭和六年(1931)に日本初の国営(逓信省管轄)民間航空専用空港東京飛行場「羽田飛行場」が正式に開港した。
これが現在の羽田空港(東京国際空港)に繋がる。

このように京急による交通整備や羽田空港の影響もあり、当社界隈は大いに賑わい隆盛を誇る事となる。
昭和二年(1927)には、羽田競馬場という競馬場までできており、戦前の当社とその周辺は、東京にある一大レジャースポットだったと云えるであろう。

戦前の当社の古地図を見ると分かりやすい。

今昔マップ on the webより)

終戦間際の昭和二十年(1945)の地図になる。
当社の南側には「穴守駅」が開業しており、北側にあるのが「羽田飛行場」。
「鴨猟場」もまだ健在で、当社周辺はレジャースポットとして発展していった。
これらは戦後にGHQに接収され、後に羽田空港の敷地となっていく事になる。

隆盛を極めた戦前の境内

東京の一大観光地として賑わいを見せた当社とその周辺。
明治以降には当社を取り上げる書物や特集書物も残っており、その人気の様子が窺える。
昭和四年(1929)、村社へ昇格。

全国的に当社へ参拝を行う講社が200以上も結成され、多くの人々の信仰を集めた。
群馬県の草津、山梨県の富士吉田などに当社の分社がある事からも、当時の隆盛を知る事ができる。

当社も境内整備が行われ隆盛を極めた。

公式サイトより)

こちらは『武蔵國荏原郡羽田穴守神社全圖』として描かれた、戦前の当社の境内の様子。
大鳥居があり参道には多くの鳥居、そして店屋が並んでおり、右手には「遊園地」の文字も見える。
立派な社殿が立ち、その裏手には「稲荷山」「御山」とも称された築山。
正に一大観光地と云え、大いに崇敬を集め賑わった事が伝わる立派な境内となっている。

当時の様子は写真で絵葉書にもなっており、それらは公式サイトに掲載されているので、そちらを参照。

戦前の穴守稲荷神社
東京羽田鎮座 穴守稲荷神社の公式サイト

こうして東京を代表する一社として賑わいを見せた。

GHQにより強制退去を命じられる

昭和二十年(1945)、第二次世界大戦が終戦。

同年九月、占領軍(GHQ)の羽田飛行場拡張のための強制退去命令が出される。
48時間以内の強制退去と云う急な命令であった。

急な退去命令によって、一時的に「羽田神社」へ合祀される。

羽田神社 / 東京都大田区
羽田総鎮守。羽田空港の氏神・飛行機の御朱印や授与品。明治に築かれた羽田富士(富士塚)。羽田の領主が牛頭天王を勧請・祇園信仰の天王さん。徳川家定の疱瘡治癒祈願の伝承。明治になり八雲神社・羽田神社へ改称。綺麗に整備された境内。御朱印。御朱印帳。

その後、地元の崇敬者達が、移転先となる700坪を寄進。
これが現在の鎮座地である。
仮社殿を建て遷座し、復興となった。

それ以来、崇敬者の協力により社殿や境内整備が進められる。
昭和三十九年(1964)、現在の社殿が竣工。
戦後に途絶えてしまった講社も復活したところもあり、現在も関東圏を中心に講社が存在。

戦前に隆盛を誇った当時のような姿が戻りつつあり、現在に至っている。

大鳥居(赤鳥居)の祟り伝説

GHQによる強制退去や遷座の際に「大鳥居(赤鳥居)の祟り伝説」が誕生する。

強制退去後は、当社の社殿や鳥居など多くがGHQによって取り壊されたが、門前にあった大鳥居(赤鳥居)だけは撤去する事ができず、そのまま飛行場(後の羽田空港)に残り続けた。

それは「祟り」と畏れられた逸話によるもの。

GHQが赤鳥居にロープをかけて倒そうとしたところ、ロープが切れて作業員たちに死傷者が出てしまい、撤去が中止となる。
昭和二十九年(1954)、東京国際空港ターミナルビルが建設された際にも、滑走路拡張工事中に死傷者が続出。
その後も何度か取り壊しや移転案が出るものの、その度に関係者が事故にあったり原因不明の病気になったりと、「祟り」とされ畏れられた。

昭和二十七年(1952)、GHQ(米軍)より羽田空港が返還。
しかしその後も羽田空港の更地に残され続ける事となった。

GHQと祟りの関係は、大手町にある平将門公の首塚「将門塚」に通じるものがある。

1990年代に入り、羽田空港の沖合展開にて滑走路に支障するため撤去する計画が再燃。
強制退去から半世紀以上経った平成十一年(1999)にようやく移設が行われた。

移設の際に赤鳥居をクレーンで吊り上げた時に、突然雨が降り出したといった逸話も残っている。

現在は天空橋駅の南側、環八の支線に海老取川・多摩川に面する形で現存。
扁額には「平和」と書かれているのが印象的。
なお、2017年3月現在は扁額が老朽化のため修理中となっている。

境内案内

三方向の参道と鳥居

当社へは三方向の参道と鳥居が用意されている。

穴守稲荷駅側にあるのが西参道。
社号碑が立ち長い参道となっていて、こちらがメインの参道。
その先の二之鳥居を潜ると左手に社殿が見えてくる。

社殿に向かって正面の参道は南参道。
こちらは駐車場側の参道となり、参道途中には狐塚社なども整備。
この他に東側にも鳥居が用意されている。

再建され往年の姿を取り戻しつつある境内

社殿前に朱色の鳥居。
その手前に手水舎が用意されている。
鳥居を潜ると社殿前には灯明台。
奥に再建された社殿となる。

社殿は昭和三十九年(1964)に再建されたもの。
GHQによる強制退去で遷座となってからしばらくは仮殿であったが、こうして再建された。
朱色で稲荷社らしい立派な社殿となっている。

奥之宮と御神砂(あなもりの砂)

社殿の右手には奉納鳥居が連なり境内社が多数置かれる。
いずれの境内社も稲荷社となっていて、当社が篤い稲荷信仰の中にある事が窺える。
奉納鳥居を潜った先に「奥之宮」が鎮座。

古くから「奥之宮」として信仰を集めており、現在も多くの参拝者が訪れる。
この奥之宮では「あなもりの砂」と呼ばれる御神砂が頒布されている。
これには下記のような伝承が残っている。

或る日、老人が漁から帰って魚篭を見ると、釣ったはずの魚がなく湿った砂があるだけであった。
翌日も翌々日も大漁であったが、魚篭をみると湿った砂しかない。
老人は訝しく思い、村衆にこの事を話すと、村衆は狐の仕業として当社を取り囲み、狐を捕まえてしまうが、老人はその狐を許してそれを逃してやった。
不思議な事にこの日以降、老人が漁に出ると必ず大漁となり、魚篭には多くの魚と僅かな湿った砂が残るようになった。
この砂を持ち帰って庭に撒いたところ千客万来となり、老人は富を得ることとなった。

こうした伝承により、穴守の砂には「招福」の御利益があるとされる。
志納で納めた上で、袋が置かれているので、セルフ式で御神砂を頂く事ができる。

お砂のまき方
一、家内安全・商売繁盛の招福には玄関入り口に
一、病気平癒の場合は床の下に
一、災・厄・禍徐降の場合は其の方向へ
一、新築・増改築には敷地の中心へ
一、其の他、特殊な場合は神社にお尋ね下さい

現在はこの「奥之宮」改修及び境内整備のための奉賛金を募集している。
奉賛金(1口5,000円)を奉納した際には、限定の御朱印帳を返礼として頂ける。
奉賛記念のため一般頒布の予定はなく、こうした試みは面白い。

社殿や奥之宮の裏手には築山も

「奥之宮」の左手から社殿の裏手に回る事ができる。

裏手は築山となっており境内社が多く鎮座。
講社による石碑などが置かれた築山。
登拝する事ができ、山頂には御嶽神社が鎮座。
こうした築山は、当社が現在地に遷座する前にも築かれていたものであった。

GHQによって強制退去させられる前より、「稲荷山」「御山」として整備されており、上述した戦前の境内図でもその見事さを見る事ができる。

奥之宮改修工事では、この築山の整備も検討されている。
平成三十年(2018)に事業完了予定。

御朱印は授与所にて。
オリジナルの御朱印帳(大判サイズ)も用意している。

所感

江戸時代は新田開墾の際にお祀りした小さな祠であった当社。
明治になり一大レジャースポットとして全国的にも崇敬者を増やし隆盛を極めた。
戦後になりGHQによる強制退去からの遷座、そして残された赤鳥居の祟り伝説と、非常に多くの逸話が存在。
往年の姿を取り戻しつつあるのも、崇敬を集め信仰されている証拠なのだろう。
常に多くの方が参拝に訪れており、崇敬の篤さを感じさせてくれた。
東京を代表する稲荷神社の1社で、とても見所の多い良社である。

神社画像

[ 社号碑・一之鳥居(西参道) ]

[ 西参道 ]

[ 二之鳥居(西参道) ]

[ 鳥居(南参道) ]

[ 南参道 ]


[ 東鳥居 ]

[ 手水舎 ]

[ 鳥居 ]

[ 灯明台・社殿 ]

[ 社殿 ]




[ 神狐像 ]


[ 奉納鳥居 ]



[ 奥之宮 ]



[ 境内社(全て稲荷社) ]





[ 築山・境内社 ]








[ 授与所 ]

[ 社務所 ]

[ 神輿庫 ]

[ 祓所 ]

[ 神楽殿 ]

[ 倉庫 ]

[ 狐塚社 ]



[ 案内板 ]

[ 旧大鳥居(赤鳥居) ]



[ 氏神・鈴木弥五右衛門の碑 ]

[ 案内板 ]


Google Maps

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