神社情報
御園神社(みそのじんじゃ)
御祭神:天宇受売命・猿田彦命
社格等:─
例大祭:7月第3土・日曜
所在地:東京都大田区蒲田4-18-18
最寄駅:蒲田駅・蓮沼駅
公式サイト:https://www.kamatahachiman.org/トップページ/兼務社の御案内/御園神社/
御由緒
創建年代は不詳ですが、その昔多摩川の洪水によって流れついた猿田彦命を祀って、おしゃもじ様と称え、村民の信仰厚き崇敬神社であったと言います。
明治20年までは御園村・女塚村の総鎮守として八幡社が現在の蒲田駅東口に鎮座していましたが、東海道線敷設の為、境内地を収容され、風致がはなはだしくそこなわれたので、女塚村と御園村はそれぞれ鎮守を移転することになりました。
おしゃもじ様の境内は、名のごとく、おしゃもじの形状をしていましたが、明治21年境内を広め、御園神社と改称して現況のような鎮守様となりました。昭和20年蒲田一体はほとんどが戦災によって焼け野原になりましたが、戦後いち早く復興しました。昭和35年には、現社殿と社務所が竣工し、諸々の施設が整いました。その後社務所のみ新築しました。
蒲田駅西口の大通りに面して交通の便に恵まれた所に位置しているため、社務所を利用する人が多く、いろいろな会が神社を中心にして活動しています。伝統芸能として、神社ゆかりの猿田彦の舞が伝えられており、青年部中心に、お囃子とともに例大祭神幸祭神輿渡御の先導をするなどして、祭典に奉仕しています。
氏神様としての歴史は短いですが、民間信仰として導きの神としての由緒には深いものがあります。(公式サイトより)
参拝情報
参拝日:2019/05/23(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/05/04(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
「蒲田八幡神社」授与所にて。
※2020年6月より書き置きのみの授与に変更。(初穂料300円に改定)
※2019年5月より御朱印のデザインが変更。(初穂料300円から500円に改定)
※2017年5月よりカラフルなスタンプ付きの御朱印に変更。
※本務社の「蒲田八幡神社」で御朱印を頂ける。
歴史考察
おしゃもじ様と称された旧御園村の鎮守
東京都大田区蒲田に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧御園村の鎮守。
明治になって御園村・女塚村の鎮守であった「八幡社」が女塚村に遷座した際に、当社を拡張整備し「御園神社」と改称し、新たに御園村の鎮守とされた歴史を持つ。
古くから「おしゃもじ様」と称され親しまれていた。
現在は「蒲田八幡神社」の兼務社となっている。
多摩川の洪水で流れ着いた猿田彦命の御神体
社伝によると、創建年代は不詳。
多摩川の洪水によって漂着した猿田彦命を祀ったと云う。
『古事記』『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する神。
天孫降臨の際、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊を道案内した神であるため、「導きの神」とされる。
国土の神・道案内の守神であり、中世には庚申信仰や道祖神と結びつき、民間信仰としても広く信仰を集めた。
当社の御祭神のもう一柱である天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、天岩戸神話で活躍した神で、天孫降臨の神話では猿田彦命と関わりが深く、後に猿田彦命と結婚した女神とも伝わる事から、両神を共に祀ることも多い。
村民たちは当社を「おしゃもじ様」と称して、民間信仰の中で篤く崇敬した。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(御薗村)
石居神(じゃごじ)社
年貢地。西の方、小林村の境にあり。この地の鎮守なり。祭神及鎮座の年歴詳かならす。社九尺に七尺。祭礼は毎年十一月朔日をもて行へり。村民の持。
御薗村(御園村)の「石居神社」として記されているのが当社。
村境にあり、当地周辺の鎮守で、村民が管理する神社だった事が記されている。
「石居神」には「じゃごじ」の振り仮名が記してあり、かなり特殊な読み方であったようだ。
一方で、御園村の総鎮守とされていたのは、隣村の女塚村にある「八幡社」であった。
(女塚村)
八幡社
除地四畝。村の東南にあり。当村及び御薗村の鎮守なり。鎮座の年代を傳へず。棟札に慶長十九年落成のよしと記せり。此頃始めて造立せしにや。本社六尺四方、拝殿二間に九尺。前に石の鳥居をたて八幡宮の三字を扁す。祭礼年々正月十日。神楽を奏す。村内妙成寺持。
女塚村に鎮座していた「八幡社」が、女塚村・御薗村(御園村)の両村の鎮守を担っていた事が記されていて、現在の蒲田駅東口付近に鎮座していたと云う。
このように江戸時代は御園村の鎮守を女塚村の「八幡社」が担い、当社「石居神社(じゃごじしゃ)」は御園村の一部地域の鎮守として、村民が管理し崇敬を集めていた。
明治に御園村鎮守として整備され御園神社へ改称
明治になり神仏分離。
当社は「石居神社」として江戸時代と変わらず村民たちより崇敬を集めた。
明治五年(1872)、日本最初の鉄道として「新橋駅-横浜駅」間に鉄道(現・東海道線)が敷設される事となり、女塚村・御園村の鎮守であった「八幡神社」の社地が収容。
明治二十一年(1888)、女塚村と御園村はそれぞれ鎮守を構える事にして、御園村鎮守として当地にあった「おしゃもじ様」こと「石居神社」の境内を拡張し、「御園神社」に改称。
これが現在の当社である。
明治二十二年(1889)、町村制の施行に伴い、北蒲田村・新宿村・鵜ノ木村・女塚村・御園村が合併し、蒲田村が成立。
当地は荏原郡蒲田村御園となり、その後は御園町となっていく。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
橙円で囲っているのが女塚村鎮守となった「女塚神社」。
蒲田村「御園」の文字を見る事ができ、当社は御園地域の鎮守であった。
昭和二十年(1945)、東京大空襲により社殿が焼失。
昭和三十五年(1960)、社殿を再建。
これが現在の社殿で境内整備も行われた。
昭和四十二年(1967)、順次行われていた住居表示によって御園町が廃止され、新蒲田や西蒲田などの住居表示に変更。
現在は「蒲田八幡神社」の兼務社となっている。
境内案内
蒲田駅西口の利便性の高い立地に鎮座
蒲田駅と蓮沼駅の中間、蒲田西口から西へ真っ直ぐ西蒲田七丁目交差点の角に鎮座。
通りを挟んで向かいにはスーパーのライフがあり、商業施設やオフィスが立ち並ぶ、大変利便性の高い良い立地で、綺麗に整備された玉垣には多くの氏子の名が刻まれ崇敬の篤さが伝わる。
大正十三年(1924)に建立された鳥居が現存。
鳥居を潜ると緑のある境内。
商業施設などの多い一画の静かな鎮守。
参道の右手に手水舎。
無人社ながら水も張ってあり清める事ができる。
無人社ながらこうして綺麗に維持されているのは、氏子による手入れが行き届いているのだろう。
戦後に再建された木造社殿
参道の正面に木造社殿。
緑に囲まれた社殿は、発展した地域にありながら、どこかのどかな雰囲気。
昭和三十五年(1960)に再建された社殿で、規模は大きくないが素朴で良い造り。
蒲田周辺の戦後に再建された神社は鉄筋コンクリート造の社殿が多い中、当社は木造にて再建。
氏子たちの想いが伝わる良い社殿だと思う。
拝殿前に一対の狛犬。
奉納・石工などの記銘がないため奉納年が不詳であるが、東大寺南大門型とも呼ばれる蹲踞スタイルの狛犬。
子持ち玉持ちと云うよりも踏みつけるといった造形で、比較的珍しい。
おしゃもじ様を祀るお福神社など境内社
鳥居を潜ってすぐ右手には伏見稲荷神社。
朱色の鳥居と幟旗が地域からの崇敬が伝わる。
拝殿手前の右手にお福神社。
扁額には「お福神社 おしゃもじ様」の文字。
かつて「おしゃもじ様」と呼ばれた当社の神を祀る。
その右手に榮龍神社。
当社の創建が多摩川の洪水で猿田彦命の御神像が流れ着いたと云う水に関わる御由緒から龍神を祀る。
社務所の西側付近に無造作に置かれた石。
あまりに無造作に置かれているが、形状からして力石だと思われる。
御朱印は蒲田八幡神社にて・猿田彦命のカラフル御朱印
境内には参集殿を兼ねた社務所も置かれているが兼務社のため神職の常駐はない。
大変良い立地に鎮座している事もあり、地域の方々が様々な会や催しをする際に利用していて、正に地域に密着した氏神様となっている。
御朱印は本務社である「蒲田八幡神社」にて。
蒲田八幡神社では兼務社含め6社のカラフルな御朱印を頂ける。
上画像は令和元年以降に頂ける御朱印で、それぞれの神社に由来したスタンプを押しており、各社を深く知る事に繋がる良い施策。
当社の御朱印に押されたスタンプは、御祭神・猿田彦命をデザインしたもの。
猿田彦命は「鼻長七咫、背長七尺」と云う記述から天狗の原形ともされ、赤鼻の天狗として表現される事が多い。
所感
かつては「おしゃもじ様」と呼ばれ民間信仰の中で崇敬を集めた当社。
明治になり、女塚村・御園村の両村の鎮守であった「八幡神社」が縮小され、遷座を余儀なくされた時に、御園村の鎮守として「おしゃもじ様」(「石居神社(じゃごじしゃ)」)が新たにあてられ「御園神社」と改称したと云う、少し複雑な経緯をもっている。
地域の氏神とされたのは、明治以降であったが、江戸時代の頃から村民持ちの民間信仰があり「おしゃもじ様」として崇敬を集めていたのは間違いなく、古くから当地で崇敬を集めていたのであろう。
蒲田駅西口の商業施設やオフィスなどが立ち並ぶ一画に鎮座していて、立地もよいため、当社の社務所は地域から様々な事に利用されており、今も地域に密接に関わりを持った良い神社である。
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