讃岐小白稲荷神社 / 東京都港区

港区

目次から「御朱印画像一覧・御朱印情報」を選択すると過去の御朱印画像をすぐにご覧頂けます。

概要

讃岐稲荷と小白稲荷が合祀されたお稲荷様

東京都港区浜松町に鎮座する神社。
旧社格は無格社、戦前に2つのお稲荷様が合祀されて創建。
昭和十三年(1938)に「讃岐稲荷」と「小白稲荷」が合祀されて成立。
社頭にそれぞれの鳥居が置かれ、社殿にもそれぞれの扁額が掲げられているのが特徴的。
現在は「芝大神宮」の兼務社となっている。

神社情報

讃岐小白稲荷神社(さぬきこはくいなりじんじゃ)

御祭神:倉稲魂神
社格等:─
例大祭:5月14・15日
所在地:東京都港区浜松町2-9-8
最寄駅:浜松町駅・大門駅
公式サイト:─

御由緒

当社は、讃岐小白の両稲荷を合祀しています。
御創建は、江戸時代の文政の頃、書上によれば今より約弐百年前になります。
讃岐社は、四国の高松藩の大名である松平氏の下屋敷の邸内社として御鎮座し、明治維新以降に芝新網町に開放されたといわれている。
一方、小白社は、芝湊町(現浜松町二丁目十三番地)古川際辺りに御鎮座しており、昭和十三年の区画整理の為協議の上当社に合わせ祀られた。
御祭神は、倉稲魂神(お稲荷様)で、生成発展の守護神とともに火伏せの火神として古来より崇敬をあつめています。(境内の掲示より)

歴史考察

高松藩松平家の下屋敷に祀られた讃岐稲荷

社伝によると「讃岐稲荷」は、寛永年間(1624年-1644年)の創建と伝わる。
高松藩松平家の下屋敷に祀られていたと云う。

文政年間(1818年-1830年)の書上に「今より約200年前」の創建と記されているため、逆算すると寛永年間(1624年-1644年)に創建したものと推測できる。
下屋敷(しもやしき)
江戸に設けられた大名屋敷(江戸藩邸)のこと。
本邸である上屋敷に対して、当該屋敷の用途と江戸城からの距離により中屋敷、下屋敷などが設けられた。
高松藩が成立したのが寛永十九年(1642)であるため、それ以降の創建であろう。

下屋敷に祀られる、いわゆる邸内社という形の神社。
そのため、江戸庶民の参拝は許されていなかったと思われる。
高松藩松平家の下屋敷の中のお稲荷様として信仰された。

江戸時代の讃岐国は丸亀藩と高松藩に二分される

「讃岐稲荷」の名の通り、讃岐国(現・香川県)と関わりが深い。
讃岐国の高松藩松平家の下屋敷に祀られていたのがその所以。

丸亀藩と高松藩に二分された讃岐国
江戸時代初期の讃岐国は生駒氏が一国を領して讃岐高松藩となっていたが、寛永十七年(1640)に第4第藩主のお家騒動により改易(取り潰し)されてしまい、その後の処遇によって讃岐国は藩が二分される事になる。
寛永十八年(1641)、讃岐国西部(西讃)に丸亀藩が成立。
寛永十九年(1642)、讃岐国東部(東讃)に高松藩が成立。
こうして讃岐国には半国ずつ二分して藩が置かれる事となった。

高松藩の藩主は、徳川御三家である水戸徳川家の初代藩主・徳川頼房(とくがわよりふさ)の長男である松平頼重(まつだいらよりしげ)。
そのため水戸徳川家の分家という扱いであり、松平家が代々の藩主を務め高い家格を有した。

高松藩と水戸藩の関係
高松藩初代藩主・松平頼重の弟が、水戸黄門の名でも知られる水戸藩主・水戸光圀(みとみつくに)。
頼重が長男で、光圀が三男という間柄。
水戸藩を継いだのは光圀であったが、水戸藩の世継ぎは頼重の子に譲り、高松藩の世継ぎは光圀の子が担う事となり、高松藩は水戸藩の分家でありながらも御三家・水戸徳川家と密接な関係であった。

そうした高松藩松平家の下屋敷に祀られていたのが「讃岐稲荷」である。

この事から高松藩が成立した寛永十九年(1642)以降に創建したと推測できる。

高松藩松平家の下屋敷があった場所

高松藩松平家の下屋敷に鎮座していた「讃岐稲荷」。
しかし、現在の鎮座地に高松藩松平家の下屋敷は置かれていなかった。

別の地にあった下屋敷の「讃岐稲荷」が何らかの事情で当地に遷されたと思われる。

それは江戸の切絵図からも見て取れる。

(芝愛宕下絵図)

こちらは江戸後期の芝・愛宕周辺の切絵図。
上が北の切絵図となっており、当社の現在の鎮座地はやや右下に位置する。

(芝愛宕下絵図)

当社が現在鎮座している周辺を拡大したのが上図。

左手に見えるのが「増上寺」で、上には「飯倉神明宮」と記された現在の「芝大神宮」が見える。

芝大神宮(芝神明) / 東京都港区
関東のお伊勢様。東京十社。だらだら祭りと称される例祭。良縁や女性の幸福守護・千木筥(ちぎばこ)。伊勢神宮を勧請し創建。源頼朝による寄進。徳川将軍家からの庇護。め組の喧嘩の舞台。浮世絵に描かれた当宮。江戸有数の盛り場。御朱印。御朱印帳。

赤円で囲ったのが当社が現在鎮座している一画。
新網北丁・新網南丁といった区画で、これらは後に「芝新網町」と呼ばれるようになる。
当社は新網北丁・新網南丁の間の掘の位置あたりに鎮座している事になる。
この一画は網干場として開かれた漁村であり、下屋敷の姿は見えない。

周辺に大名屋敷があるが陸奥二本松藩(丹羽家)・紀伊和歌山藩(紀州徳川家)・相模小田原藩(大久保家)の屋敷である。

高松藩松平家の下屋敷が置かれたのは2箇所。

旧飯田町(現・水道橋)の下屋敷
1つ目が、旧飯田町(現・水道橋)で、現在の後楽園の近く。
こちらには現在も讃岐国で崇敬を集めた「金刀比羅宮」の東京分社である「金比羅宮 東京分社」が鎮座している。
301 Moved Permanently
旧白金(現・白金台)の下屋敷
2つ目が、旧白金(現・白金台)で、現在の国立科学博物館附属自然教育園付近。
おそらくこちらの下屋敷に祀られていたのが「讃岐稲荷」だと思われる。

(目黒白金辺図)

こちらは江戸後期の目黒・白金の切絵図。
右が北になっており、高松藩松平家の下屋敷は地図の中央にある。

(目黒白金辺図)

北を上にして下屋敷周辺を拡大したのが上図。
赤円で囲った「松平讃岐守」というのが、高松藩松平家の下屋敷。
青円で囲ったのが現在の目黒駅周辺だというと分かりやすいだろうか。
現在の国立科学博物館附属自然教育園の位置に下屋敷があった事が分かる。

附属自然教育園 Institute for Nature Study
附属自然教育園(Institute for Nature Study)の公式サイトです。利用案内、イベント情報、研究活動等いろいろな情報をご覧いただけます。

おそらくこの下屋敷で祀られていたのが「讃岐稲荷」。
現在の鎮座地へ遷った事情は定かではないが、江戸時代は邸内社として一般参拝はできない神社であった事が窺える。

芝湊町の邸内社であった小白稲荷

社伝によると「小白稲荷」は、創建年代不詳。
芝湊町の古川沿いに鎮座していたと伝えられていて、現在地とかなり近い位置に鎮座していた。

(芝愛宕下絵図)

当地周辺を拡大した江戸切絵図。

現在の当社は、切絵図上の新網北丁・新網南丁の間の掘の位置あたりに鎮座している。
その南隣に「芝湊丁」という一画がある。
これが元々「小白稲荷」が鎮座していた、芝湊町(現・浜松町2-13付近)であり、隣町に鎮座していた事が分かる。

こちらも邸内社であったとされ、おそらく地域の町民が祀った小さな稲荷社であったのだろう。

そのため切絵図にも載っておらず、史料などもほぼ残っていない。

三大貧民窟の芝新網町・昭和に合祀され現在の形に

明治になり神仏分離。
「讃岐稲荷」「小白稲荷」共に無格社であった。

明治三年(1870)、「讃岐稲荷」が現在の鎮座地(芝新網町)に遷座。
それまでは下屋敷の邸内社であったが、町内に開放され一般参拝ができるようになったと云う。

三大貧民窟として知られた芝新網町(しばしんもうちょう)
江戸時代の頃より明治にかけて、当社が遷座した芝新網町は貧民街(スラム街)として知られていて、江戸特有の賤民の居住地であった。
現在はその面影が全く残っていないが、四谷鮫河橋(現・新宿区南元町周辺)、下谷万年町(現・上野郵便局周辺)と共に、東京の三大貧民窟とも云われるくらい知られていた。
当社が当地に遷座した理由は不明であるが、社伝には鉄道施設の敷地となるため遷座したと伝わる。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

当社が鎮座している地には新網町(しんもうちょう)の地名が載る。
その下に金杉橋があり、この一帯が上述したように東京屈指の貧民街(スラム街)であった。
当社はそうした地のお稲荷様として崇敬を集め、そうした都市スラムの中で心の拠り所として信仰をされたのだと思う。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
貧民街も崩壊し、当地は整備されていき、芝新網町は芸能関係者が多く移り住むようになった。

昭和十一年(1936)、町名改正で芝新網町や芝湊町は廃止され現在の浜松町の地名となる。
昭和十三年(1938)、区画整理のため隣町の旧芝湊町に鎮座していた「小白稲荷」が「讃岐稲荷」に合祀され、現在の「讃岐小白稲荷」が成立した。
合祀された形ではあるが現在も「讃岐稲荷」「小白稲荷」と2つの鳥居が設けられている。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。

昭和四十年(1965)、現在の社殿が再建。
その後も境内整備が進み現在に至る。

現在は「芝大神宮」の兼務社となっている。

芝大神宮(芝神明) / 東京都港区
関東のお伊勢様。東京十社。だらだら祭りと称される例祭。良縁や女性の幸福守護・千木筥(ちぎばこ)。伊勢神宮を勧請し創建。源頼朝による寄進。徳川将軍家からの庇護。め組の喧嘩の舞台。浮世絵に描かれた当宮。江戸有数の盛り場。御朱印。御朱印帳。

境内案内

浜松町のオフィス街に鎮座・別々の鳥居

浜松町駅から徒歩数分の商店やオフィスビルが並ぶ一画に鎮座。
江戸時代から明治にかけて三大貧民窟とされた芝新網町(当地周辺)だが、現在はそうした面影はなく浜松町駅から程近いオフィス街の一画となっている。

金杉橋付近の河川沿いに若干かつての面影を残す。

路地に2つの鳥居が並ぶのが特徴的。
左は「讃岐稲荷神社」の扁額が掲げられた鳥居。
右は「小白稲荷神社」の扁額が掲げられた鳥居。
昭和十三年(1938)に二社が合祀された当社であるが、現在も別々の鳥居を用意し崇敬を集めている事が窺える。

境内を囲むのは年季を感じさせる玉垣。
昭和の芸能関係者や任侠系の名が並ぶ。
当時の当地の歴史を伝える一画。

鳥居を潜るとその中央に手水舎。
綺麗に管理されている。

社殿にも讃岐稲荷と小白稲荷の扁額

社殿は昭和四十年(1965)に再建されたもの。
戦災によって焼失した社殿を鉄筋コンクリート造にて再建。
鳥居同様にこちらにも扁額が2つ掲げられている。
「讃岐稲荷神社」の扁額。
「小白稲荷神社」の扁額。
拝殿前には神狐像。
小さな神社であるがお稲荷様として崇敬を集めている事が伝わる。

拝殿前に置かれた狐穴や力石

拝殿前には溶岩で出来た小さな祠。
いわゆる狐穴になると思われ小さな神狐像が置かれている。

その隣には力石。
力比べに使われたもの。
漁師町であった当地の娯楽・歴史を伝える。
ひっそりと置かれた古い神狐像。

ライオンのような造形の狛犬・出世お獅子台

お稲荷様であるので神狐像が至るところに置かれているが、狛犬も特徴的。
狛犬というよりも狛ライオンとでも云えばよいだろうか。
獅子よりもライオンの容姿に近く面白い造形で平成二十四年(2012)に奉納された。
なんとも特徴的な造形でユニーク。

さらに通り沿いに1体の狛犬。
平成十九年(2007)に奉納されたもので狛ライオンと同じ奉納者による。
このように古い奉納物、昭和に再建時の奉納物の他に、近年になっても新しい奉納物が増え整備がされていて、地域や崇敬者からの信仰が篤い事が窺える。

御朱印は本務社「芝大神宮」にて書き置きを頂ける

境内には社務所が用意されているが普段は無人。
社務所の窓に御朱印についての掲示がされている。
御朱印などは本務社の「芝大神宮」で対応して頂ける。

芝大神宮(芝神明) / 東京都港区
関東のお伊勢様。東京十社。だらだら祭りと称される例祭。良縁や女性の幸福守護・千木筥(ちぎばこ)。伊勢神宮を勧請し創建。源頼朝による寄進。徳川将軍家からの庇護。め組の喧嘩の舞台。浮世絵に描かれた当宮。江戸有数の盛り場。御朱印。御朱印帳。

御朱印は「讃岐 小白 稲荷神社」の朱印。
墨書きも「讃岐 小白 稲荷神社」となっていて書き置きでの授与となる。

所感

かつて高松藩松平家下屋敷の邸内社であった「讃岐稲荷」と、芝湊町の邸内社であった「小白稲荷」が合祀される形で成立した当社。
いずれも江戸時代には当地に鎮座していなかったと見られ、明治になり「讃岐稲荷」が遷座し、隣町にあった「小白稲荷」も遷ってきたという形になるのであろう。
当地に遷座された理由は不明であるが、明治時代の芝新網町は東京でも有数の貧民街であり、そうした土地の中で、守護神として地域から信仰を求められていたのかもしれない。
関東大震災、戦後は貧民街の面影はなく、浜松町のオフィス街の一画となり発展していく事となる。
そうした中で、小さな敷地ながら綺麗に整備されているのも、崇敬者から大切にされている証拠であろう。
芝新網町・芝湊町という今はなき町名の歴史の一端を伝える良い神社である。

御朱印画像一覧・御朱印情報

御朱印

初穂料:500円
芝大神宮」社務所にて。

※普段は無人のため本務社「芝大神宮」で御朱印を頂ける。(書き置きのみ)
※以前は初穂料300円だったが現在は初穂料500円へ変更。

参拝情報

参拝日:2020/09/29(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/03/22(御朱印拝受)

Google Maps

コメント

タイトルとURLをコピーしました