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概要
本芝鎮守の御穂神社と鹿嶋神社
東京都港区芝に鎮座する神社。
旧社格は村社で、本芝地区(現・芝4丁目)の鎮守。
元々は「御穂神社」と「鹿嶋神社」という別の神社であったが、どちらも本芝地区の鎮守であったため、古くから「本芝両社」と称されていた。
平成十六年(2004)に両社が合祀され現在の「御穂鹿嶋神社」となり、平成十八年(2006)に現在地にて新社殿を造営して遷座となった。
古典落語の中でも屈指の人情噺である『芝浜』は、当社近くの芝浜が舞台であったと知られている。
神社情報
御穂鹿嶋神社(みほかしまじんじゃ)
御祭神:藤原藤房卿・武甕槌命
社格等:村社
例大祭:6月10日
所在地:東京都港区芝4-15-1
最寄駅:田町駅・三田駅
公式サイト:─
御由緒
御穂神社 御由緒
御穂神社の創祀は室町時代、大永五(1525)年に鎮座したと伝えられています。後村上天皇の頃、ひとりの老人が都からこの地に至り庵を結びました。当時、芝浜の地は戸数幾ばくもない小さな漁村だったため、村民に忠孝の義を教え導いたとされます。その老人が藤原藤房卿(萬里小路藤房)であり、藤房卿の亡きあと、その高徳を慕って庵跡に宮所が設けられ、祭祀が続けられてきたと伝えられています。
明治四十五年五月二日 神饌幣帛料供進神社に指定される
平成十六年八月 芝四丁目鎮座鹿嶋神社と合併する
鹿嶋神社 御由緒
その昔、沖より芝浜に流れ着いた神殿がありました。波達海の中にあって、神殿の中に納められていた幣帛は少しも濡れることがなかったといいます。日を経て、常陸の国の人が神殿を探し求めて尋ねてきました。これは鹿嶋に鎮座するお社であるとして舟につないで漕ぎ帰りました。ところがこの神殿は再び芝浜の地に流れつき、「この浦に鎮まり坐すべし」との神託があったことから、この地でお祀りされるようになりました。
明治四十五年五月二日 神饌幣帛料供進神社に指定される
平成十六年八月 芝四丁目鎮座御穂神社と合併する(頒布のリーフレットより)
歴史考察
藤原藤房の伝説が残る御穂神社
「御穂神社」の創建は、大永五年(1525)と伝えられている。
後村上天皇年間(1339年-1368年)、都からやってきた老人が芝浜の地に庵を構え、小さな漁村であった当地の村民に忠孝の義を教え導いた。
この老人は藤原藤房と名乗る人物でだったと云う。
彼が没した後に慕った村人たちが庵のあった場所に宮所を設け、祭祀が続けられてきたとされる。
そのため当社の御祭神は、全国的にも大変珍しい藤原藤房となっている。
伝承が散見する万里小路藤房
藤原藤房という人物は、万里小路藤房と云う名でも知られる。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿で、後醍醐天皇の側近。
『太平記』でも随一の公家として称えられ、江戸時代の儒学者・安東省菴は、平重盛・楠木正成とともに万里小路藤房を日本三忠臣の1人に数えている。
藤房は後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動に参画。
元弘の変で倒幕計画が露見したため、後醍醐天皇と共に逃れるも捕縛され解官。
一時は鎌倉幕府により常陸国への流罪などを経験している。
鎌倉幕府が滅亡後、元弘三年/正慶二年(1333)に上洛し復官を果たした。
建武政権では要職を担ったが、不正や不当が横行した政権を糾弾。
再三諫言を繰り返すも、聞き入れない政権に失望して岩倉で出家。
後醍醐天皇は慌てて藤房を呼び寄せようとしたが、既に行方をくらましており、その後の消息は不明とされている。
当社の御由緒もそういった伝承によるもの。
全国的にも藤房を御祭神としている神社は見かける事が非常に稀で、当地にはそれに値する故事があったと見るのが自然であろう。
駿河国三宮「御穂神社」からの勧請説
別説として『江戸名所図会』などの江戸時代の地誌には、駿河国三保(現・静岡市清水区三保)から移り住んだ漁師たちが、故郷の氏神である「御穂神社」を勧請して創建と記されている。
富士山と共に世界文化遺産となっている三保の松原エリアに鎮座する神社。
三保の松原の「羽衣の松」に関係する神社として知られる。
式内社であり駿河国三之宮として、古くから篤い崇敬を集めた。
駿河国「御穂神社」の御祭神は三穂津彦命(大己貴命)と三穂津姫命の2柱。
現在の当社の御祭神・藤原藤房とは齟齬が生じてしまうが、『江戸名所図会』には当社の御祭神は、御穂津彦と御穂津姫とされていて一致していて、江戸時代には駿河国「御穂神社」の御祭神を祀っていたと思われる。
戦前の地誌『芝區誌』には「當社の神號から見ても、位置から見ても、傳説から考へても、それが駿河の三保神社の分霊であることは疑へない。」と記されているようにこちらが正しいとしている。
寛永年間に創建した鹿嶋神社
「鹿嶋神社」の創建は、寛永年間(1624年-1644年)と伝えられる。
ある日、芝浜の当地に祠が漂着した。
中を見ると、海を渡って流れ着いたにも関わらず納められていた幣帛が少しも濡れていなかった。
後日、常陸国の人が祠を探し求めて尋ねてきて、この祠は常陸国一之宮「鹿島神宮」境内に鎮座していた一社であるとして舟に繋いで持ち帰った。
しかし、再び同じように流されて当地に漂着し、「この浦に鎮まり坐すべし」との神託があった事から、この地でお祀りする事となった。
そのため「鹿島神宮」と同じ武甕槌命を御祭神としたと云う。
常陸国一之宮「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市)の御祭神として知られる神。
対になるとされる下総国一之宮「香取神宮」(千葉県香取市)の御祭神・経津主神(ふつぬしのかみ)と共に、葦原中国平定(国譲り)で活躍した神であるため、古くから「軍神・武神」とされ信仰を集めた。
中臣氏(後の藤原氏)の氏神として「春日大社」(奈良県奈良市)にも勧請されるなど、武甕槌神に対する信仰は全国に広まった。
村人はこの奇瑞を畏み敬い、長く海の幸を護り給ったと伝わる。
本芝両社と呼ばれ崇敬を集める
江戸時代より前は柴村と呼ばれた当地。
徳川家康が入府し江戸幕府ができてからは当地周辺は急速に発展し、柴町・芝町などと称された。
寛文二年(1662)、町奉行支配となり本芝が正式な呼び名となる。
本芝地区には、古くから祀られていた「御穂神社」、江戸時代に創建した「鹿嶋神社」の2社が鎮座。
どちらも本芝の鎮守として崇敬され2社を合わせて「本芝両社」とも称された。
別当寺として「正福寺」が両社を管理、宮司も両社を兼任していた。
更に祭礼も同日の3月15日に行ったと云う。
江戸切絵図から見る両社
江戸時代の当社は江戸切絵図を見ると位置関係が分かりやすい。
こちらは芝・三田・高輪付近を描いた江戸後期の切絵図。(北が右側)
右下が本芝と呼ばれた当地周辺となっている。
赤円の箇所に「鹿島明神」とあり、これが「鹿嶋神社」で現在の当社の鎮座地。
緑の箇所に「御穂明神」とあり、これが「御穂神社」。
当社の前は江戸湾の海であった事が分かる。
当社の右手に「沙濱(砂浜)」の文字があり、これが「芝浜」と呼ばれた砂浜であり、古典落語『芝浜』の舞台である。(詳しくは後述)
江戸名所図会に描かれた御穂神社と鹿嶋神社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「御穂神社」「鹿嶋神社」と、やはり両社をまとめて描かれている。
江戸の海(東京湾)に面していたのが「鹿嶋神社」で、「御穂神社」はそれよりも奥に鎮座していたという位置関係もよく捉えている。
この「鹿嶋神社」の付近の浜辺を「芝浜」と呼び、古典落語『芝浜』の舞台として知られる。
文章にて両社について詳しい説明も記されている。
「御穂神社」については上述した通り駿河国三保から移住し駿河国三宮「御穂神社」からの勧請という旨が記されていて、藤原藤房については記されていない。
「鹿嶋神社」については流れ着いた「鹿島神宮」の伝承が記されている。
別当寺も同じで祭礼も同日に行うといった事も記しているように、既に両社が一体となっていた事が伝わる。
明治以降の歩み・平成になり両社が合祀
明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、「御穂神社」が村社に列する。
明治七年(1874)、「鹿嶋神社」が村社に列する。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
d(今昔マップ on the webより)
当社の鎮座地は赤円で囲った箇所で当時は「鹿嶋神社」が鎮座していた場所。
緑円で囲った箇所が「御穂神社」が鎮座していた場所で、現在も祠などが残されている。
青円で囲った箇所に「本芝」の文字が見えるように、両社が一帯の鎮守であった。
注目すべきは当社の目の前が海だったこと。
『江戸名所図会』や『江戸切絵図』にも描かれていたように、埋め立てられる前は目の前が海であった。
当社の近くの浜を「芝浜」と呼んだ。
昭和三十九年(1964)、住居表示の実施に伴い港区の多くの町名が廃止。
本芝も大部分が芝4丁目となり、現在は公式地名からは本芝は消滅。
平成十六年(2004)、社殿の老朽化や地域の再開発事業の影響を受け「御穂神社」「鹿嶋神社」両社を合祀。
現在の「御穂鹿嶋神社」と改称。
同年、「鹿嶋神社」の社地に新社殿を造営を開始。
竣工までは「御穂神社」に合祀されていた。
平成十八年(2006)、新社殿が竣工し遷座。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
本芝公園の向かいに鎮座
田町駅もしくは三田駅から徒歩数分、本芝公園の向かいに鎮座。
南向きに鳥居。
かつて「鹿嶋神社」の社地で、「御穂神社」「鹿嶋神社」の両社が合祀された際に新しく整備。
御穂神社と鹿嶋神社の扁額が掲げられた社殿
鳥居の先に社殿。
社殿は平成十八年(2006)に造営。
鉄筋コンクリート造の社殿。
「御穂神社」「鹿嶋神社」の両社が合祀された際に造営された社殿。
拝殿の扁額には「御穂神社」と「鹿嶋神社」の2つが掲げられている。
まだ新しさを感じて綺麗な社殿。
台座が特徴的な江戸時代の狛犬
鳥居を潜ってすぐに置かれた一対の狛犬。
嘉永年間(1848年-1854年)に奉納された狛犬。
橘流の寄席文字にも通じる台座は江戸の粋。
どちらも子持ちの狛犬で、吽形には背中にも子の姿。
境内社・江戸時代の天水桶
社殿前右手には境内社。
稲荷社・天満宮・住吉社の3社が祀られている。
拝殿前には一対の天水桶。
嘉永五年(1852)奉納の天水桶。
黒船来航の前年にあたる。
こうして新しい境内に残されているのが喜ばしい。
力石・躍動感ある二頭狛犬
境内左手には力石。
地域の人々が力比べに使った力石。
幾つも保存されているのが嬉しい。
社殿裏手には二頭が一緒になった狛犬。
社殿の竣工に合わせた平成十八年(2006)に奉納。
約当館ある二頭の狛犬が並んで睨むと云う珍しいデザイン。
かつて獅子山の狛犬が置かれていたそうで、そちらの狛犬を模して新たに奉納されたものとなる。
古典落語『芝浜』の舞台・芝浜囃子の碑
当社は古典落語の演目である『芝浜』の舞台としても知られる。
当社の右手に「沙濱(砂浜)」の文字があり、これが「芝浜」と呼ばれた砂浜。
古典落語『芝浜』の舞台である。
夫婦の愛情を暖かく描いた屈指の人情噺。
初代・三遊亭圓朝の三題噺(寄席で客から3つのお題をもらいその場で作る即興の落語)が原作と云われる。
こうした縁もあり鳥居の隣に「芝浜囃子の碑」が奉納。
橘右近による奉納。
戦前から戦後にかけて活躍した落語家。
落語家を廃業した後に、寄席文字の復興をさせた人物として知られる。
当社近くの東京芝浜松町出身であり、落語家時代は『芝浜』が十八番であったと伝わる。
御穂神社と鹿嶋神社の2種類の御朱印
御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して下さった。(ご不在な場合も多い)
御朱印は「御穂神社」「鹿嶋神社」の2つの御朱印を別々に用意。
「御穂神社」「鹿嶋神社」の朱印に、「芝濱鎮守」の印を押印。
所感
本芝地区(現・芝4丁目)の鎮守である当社。
江戸時代の頃から「御穂神社」「鹿嶋神社」で「本芝両社」と呼ばれたように、古くから2社が本芝の鎮守であった。
古くから別当寺や宮司が両社を兼任しており、祭礼も同日に行われるなど、地域からも両社は切って離せない存在であった。
様々な事情により平成になって合祀される事となるのだが、古い歴史を見るに合祀すべくしてしたようにも思え、まさに本芝の信仰を集めた一社となっている。
都心のビジネス街に新しく造営された社殿や境内は、とても綺麗に整備されており、小さな神社ながら参拝者の姿が後を絶たない。
地域の歴史と信仰が詰まった今も崇敬を集める良い神社である。
また落語好きにも『芝浜』の舞台として楽しむ事ができると思う。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:各500円
社務所にて。
※以前は「御穂鹿島神社」で1つの御朱印だったが、2021年より「御穂神社」「鹿嶋神社」で別々の御朱印で授与する形に変更。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。
参拝情報
参拝日:2021/06/20(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/10/08(御朱印拝受)
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