三ツ和氷川神社 / 埼玉県川口市

川口市

神社情報

三ツ和氷川神社(みつわひかわじんじゃ)

御祭神:素盞鳴尊
社格等:村社
例大祭:10月15日(例大祭)・7月15日(須賀神社祭)
所在地:埼玉県川口市三ツ和3-22-2
最寄駅:南鳩ヶ谷駅
公式サイト:─

御由緒

 三ツ和は、明治十年に中居・上新田・小渕の三か村が合併したことによって誕生した新しい村である。
 当社は、この三か村の鎮守として創建されたと伝えられ、古くは中居村の本社と呼ばれているところに鎮座していたという。『風土記稿』小渕村の項に「氷川社 村の鎮守なり、当社は古中居村にありし社なり、本地十一面観音を安ず、源永寺の持」とあるのも、そうした由来を伝えるものである。ちなみに当社が、中居村から小渕村に移った時期は、吉田勉家所蔵の「小渕村濫觴記」によれば、文明年中(1469-87)のことという。また、「宗源宣旨写」によれば、享保七年(1722)に神祇官領吉田家から正一位の神位を拝受している。
 いつのころにか、中居村に八幡神社が、上新田に稲荷神社が創建されたことから、当社は小渕村だけの鎮守となり、神仏分離を経て、明治六年には小渕村の村社となった。明治元年十二月付の「神職相転願」によれば、大宮氷川神社の岩井家に入門した河原采男を当社の神職として奉仕させ、併せて同家の家内一同が神葬祭に改めたい旨が記されており、連署の中には源永寺秀鎫・氏子檀中惣代武右衛門・役人惣代名主七左衛門らの名が見える。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2018/04/10(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/09/27(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
九重神社」社務所にて。

※神職が常駐していないため、本務社「九重神社」にて御朱印を頂ける。

[2018/04/10拝受]

[2016/09/27拝受]

歴史考察

川口市三ツ和(旧三ツ和村)鎮守の氷川さま

埼玉県川口市三ツ和(旧鳩ヶ谷市地区)に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧三ツ和村の鎮守。
三ツ和村は明治になって成立した村で、中居村・上新田村・小渕村の3村が合併して成立。
正式名称は「氷川神社」だが、他との区別から「三ツ和氷川神社」とさせて頂く。
現在は神職の常駐がない無人社で「九重神社」の兼務社となっている。

中居村・上新田村・小渕村の鎮守として創建

社伝によると、創建年代は不詳。
現在の三ツ和地区を形成している、中居村・上新田村・小渕村の3か村の鎮守として創建したと伝えられている。

現在の鎮座地は当時の小渕村にあたるが、創建当時は中居村に鎮座していたと云う。
「中居村字本社」と呼ばれる地名に鎮座していた。

旧鎮座地は、現在のブルドックソース鳩ヶ谷工場(三ツ和3丁目)の初代工場であった、故・城倉忠美宅敷地(八幡木周辺)のあたりだったと伝わっている。

文明年間(1469年-1487年)、中居村から、現在の鎮座地である小渕村へ遷座。
これは『小渕村濫觴記』に記されている。

この事から、室町時代の文明年間(1469年-1487年)以前には創建していた事が分かり、中々の古社であったと推測できる。氷川神は開拓神として創建される事が多かったため、中居村・上新田村・小渕村といった当地周辺を開拓する際に鎮守として創建したのであろう。

中居村・上新田村・小渕村の3か村の鎮守として創建した当社であったが、小渕村へ遷座した後に、中居村には鎮守として「八幡神社」が、上新田村には鎮守として「稲荷神社」が創建。
当社は小渕村のみの鎮守とされた。

新編武蔵風土記稿に記された当社

江戸時代に入ると小渕村の鎮守として崇敬を集める。

『宗源宣旨写』によれば、享保七年(1722)に神祇官領吉田家から正一位の神位を拝受。
現在も拝殿には正一位の扁額が掲げられている。

正一位(しょういちい)は、神社における神階の最高位。江戸時代の神社は、吉田神道の吉田家が、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いており、地方の神社に神位を授ける権限を与えられていた。

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(小渕村)
氷川社
村の鎮守なり。當社は古中居村にありし社なり。本地十一面観音を安す。源永寺の持。
神明社二宇
第六天社
以上の三社も持前に同じ。

「氷川社」として記されており、小渕村の鎮守と記されている。
かつては中居村にあったとの記述もあり、中居村の鎮守も担っていた事が窺える。
神仏習合の時代であり、本地仏として観音像が祀られていた。
別当寺は現在も近くにある「源永寺」であった。

同じく小渕村内には「神明社」2社と「第六天社」が鎮座していた事が記されている。
これら3社も「源永寺」が別当寺だったと云い、現在は当社の境内末社としてある「神明社」や「第六天社」がこれに当たり、後年になって当社に遷座したものと思われる。

日光道中絵図に描かれた当社と小渕村

江戸時代初期の『日光道中絵図』に小渕村や当社が記されている。

国立公文書館デジタルアーカイブ/日光道中絵図)

『日光道中絵図』は、天保十四年(1843)に徳川第十二代将軍家慶の日光社参の行程を示した絵図。4月13日に江戸城を出発し、13日岩槻、14日古河、15日宇都宮に宿泊しており、その様子を事細かに描いているため、当時の日光御成道を知る上で大変貴重な史料となっている。

小渕村と、その奥に「氷川社」(当社)と「源永寺」(別当寺)を見る事もできる。

安政二年(1855)、本殿を改築。
こちらが現存している。

明治以降の当社の歩み・三ツ和村の成立とその鎮守

明治になり神仏分離。
明治六年(1873)、小渕村の鎮守として村社に列した。

明治十年(1877)、中居村・上新田村・小渕村の3か村が合併し三ツ和村が成立。
当社は三ツ和村の鎮守となる。

旧中居村は現在の「八幡木・南」、旧上新田村は現在の「八幡木」、旧小渕村は現在の「三ツ和・南・坂下町」周辺になる。
当社があった旧小渕村に三ツ和の地名が残っているのも、当社が三ツ和村の鎮守であり、村の中心であったからなのだろう。

明治二十二年(1889)、町村制施行に伴い、三ツ和村・辻村・里村・前田村及び浦寺村の飛地が合併し、北平柳村が成立。
明治三十四年(1901)、北平柳村が北足立郡鳩ヶ谷町に編入された。

明治三十九年(1906)に測図された古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが当社のの鎮座地で、今も昔も変わらない。
鳩ヶ谷町の地名、三和の地名なども見る事ができ、当時の当社周辺は谷中と呼ばれていた事が分かる。
当社を中心に街道沿いには町家が見え、当社の南西は三和田畑と呼ばれる程の農地であった。

当時の谷中という地名は、現在も当社に隣接する公園「谷中公園」にその名を残す。また当社周辺はかなり入り組んだ細い道が多かった事が窺える。

昭和十年(1935)、現在も当社のすぐ近くにある「ブルドックソース鳩ヶ谷工場」が開業。
これの前後には町内に新設道路の整備などがされ、耕地整理なども行われている。

昭和七年(1932)測図の古地図を見ると三ツ和の耕地整理の一端が窺える。

今昔マップ on the webより)

現在も残る県道106号線から繋がり三ツ和の町内を全く道路が親切されているのが分かる。
耕地整備も行われ、この3年後に「ブルドックソース鳩ヶ谷工場」が開業し発展を遂げる。

(鳩ケ谷町々史)

上の写真は、昭和十六年(1939)に鳩ヶ谷町が発行した『鳩ケ谷町々史』。
「小渕氷川神社」として当社が掲載されており、旧村名の小渕の冠が付けられている事が分かる。
戦前の貴重な社殿を見る事ができる。

昭和十五年(1940)、川口市に編入されるものの、昭和二十五年(1950)に分離し、北足立郡鳩ヶ谷町三ツ和となる。

昭和二十六年(1951)、拝殿を改築している。
これが整備されながら現存。

昭和四十二年(1967)、市制施行により鳩ヶ谷市が成立し、鳩ヶ谷市三ツ和となった。
平成二十三年(2011)、鳩ヶ谷市が川口市に編入。
川口市三ツ和周辺の鎮守として現在に至っている。

境内案内

三ツ和の住宅街に鎮座・整備された境内

川口市(旧鳩ヶ谷市地区)の三ツ和に鎮座する当社。
鳩ヶ谷駅や南鳩ヶ谷駅からやや歩いた住宅街にあり、ブルドックソース鳩ヶ谷工場が近くにある。

鳩ヶ谷工場

隣には谷中公園と呼ばれる公園があり、そうした住宅街の一画に鎮座。
綺麗に玉垣が整備されていて、社号碑には「村社氷川神社」の文字。
当社が三ツ和の村社であった証である。

鳥居は両部鳥居になっている。
一部改修が行われており、両部鳥居として補強されて現存。
扁額には「氷川神社」の文字。

鳥居を潜って右手に手水舎。
手水石は寛政八年(1796)に奉納されたもの。
無人社ながら水も出て清める事ができるのが素晴らしい。

境内は簡素ながら綺麗に整備されている。
のどかな地域の鎮守といった雰囲気がとても良い。

戦後に改築された拝殿と江戸時代の本殿

参道の正面に社殿。
社殿は小ぶりながらも綺麗な状態を維持。
拝殿は戦後の昭和二十六年(1951)に改築されたもの。
扁額には上述の通り「正一位氷川社」の文字を見る事ができる。

本殿は安政二年(1855)に改築されたものが現存していると思われる。
簡易の覆殿によって保護されているが、中を見る事ができる。
本殿を覗くと彫刻が中々に見事で、江戸末期から明治初期に見られる作風。

神輿渡御もある須賀神社などの境内社

参道左手に鎮座する境内社が須賀神社。
毎年7月15日には須賀神社祭が斎行される。
神輿も出ると云い、神輿庫も兼ねているのだろう。

参道右手には石碑。
「神随言靈彦命」とあるが詳細は不明。

その隣に神明社。
『新編武蔵風土記稿』には小渕村に神明社があり、同じ別当寺だった事から、当社境内に遷座したものと思われる。

さらに隣に御嶽神社。
扁額が掠れていてかろうじて読めるものであったが、おそらく木曽御嶽信仰によるものだろう。

社殿の右手裏にも境内社が並ぶ。
左から稲荷大明神、古峯神社、第六天社となっている。
第六天社は『新編武蔵風土記稿』に記してあったものであろう。

その先にも小さな石祠が置かれている。
御祭神などは不明。

狛犬、力石、川口市指定有形民俗文化財の絵馬や算額

拝殿前には一対の石灯籠。
昭和八年(1933)に奉納されたもの。

その手前に一対の狛犬。
こちらは昭和七年(1932)に奉納。
当時の鳩ヶ谷町の町長が満期記念として奉納した旨が彫られている。

拝殿手前左手には力石。
当地の村民が力比べに使ったものであろう。

一般公開はされていないが、川口指定有形民俗文化財も保有。
天保十五年(1844)に小渕村の村民が奉納したという絵馬は「川中島合戦図絵馬」となっていて、有名な川中島の合戦を描いたもの。

川口の文化財 - 川中島合戦図絵馬

同じく川口指定有形民俗文化財に指定されている算額。
享和四年(1804)に小渕村7名が奉納したという算額となっている。

川口の文化財 - 享和四年銘算額
算額(さんがく)とは、額や絵馬に和算の問題や解法を記して寺社に奉納したもの。和算において、問題が解けたことを神仏に感謝しますます勉学に励むことを祈念して奉納されたと伝わる。
いずれも一般公開はされていないが、川口市立文化財センターの公式サイトで画像を見る事ができる。
郷土資料館ホームページ
【郷土資料館】は川口市の歴史と文化を分かりやすく紹介しています。歴史と文化に触れることで、より深く川口について知ることができます。また、文化財に対する理解を深めていただければ幸いです。ぜひ足を運んでみてください。

その他、地域の自治会館などが置かれている。
境内の多くのスペースは駐車場となっているが、境内は綺麗に整備されているし、氏子崇敬者の交流場所も用意されているように、地域の鎮守として崇敬を集めている事が伝わる。

御朱印は本務社の九重神社にて

現在の当社は、神職が常駐していない無人の神社。
そのため御朱印は本務社である「九重神社」社務所にて頂く事ができる。

九重神社 / 埼玉県川口市
旧安行村鎮守。川口の秘境・安行のひかわさま。御神木スダジイ。全8種の御神木御朱印。御神木と九曜紋の御朱印帳。黄金の御神木御朱印・記念品の御朱印帳。奉納御朱印。密蔵院の僧により創建。9社の村社が合祀され「九重神社」に。平将門。幻の安行桜。
「九重神社」も当社同様に元々は氷川信仰の神社である。

社務所窓に掲示があるので「三ツ和の氷川様の御朱印もお願いします」といった旨を伝えるとよいだろう。

九重神社」からはやや距離がある場所に鎮座しているのだが、「九重神社」にて当社の御朱印も拝受する場合は、当社にもしっかり参詣して頂きたい。

所感

三ツ和周辺の鎮守であった当社。
中居村・上新田村・小渕村の3か村鎮守として創建し、江戸時代は小渕村の鎮守のみとなっていたが、明治になり3か村が合併して三ツ和村となった事で、地域一帯の鎮守となった。
明治以降は、村の合併や市町村制、川口市からの分離と鳩ヶ谷市、川口市への編入など、住居表示を含め地域は大きく変動していったが、当社は変わらず地域の鎮守として崇敬され続けたのだろう。
普段は神職が常駐していない無人社でありながら、境内は綺麗に整備されている事からも、氏子によって丁寧に管理されている事が伝わる。
こうした地域の小さな鎮守が、今もこうして大切に維持されているのは、現代社会において大切にしたい部分であり、氏子崇敬者の崇敬と努力の賜物であると思う。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]

[ 鳥居 ]


[ 社号碑 ]

[ 参道 ]

[ 手水舎 ]


[ 拝殿 ]






[ 本殿 ]






[ 石灯籠 ]

[ 狛犬 ]


[ 力石 ]

[ 須賀神社 ]

[ 自治会館 ]

[ 石碑 ]

[ 神明社 ]

[ 御嶽神社 ]

[ 倉庫 ]

[ 稲荷大明神・古峯神社・第六天社 ]

[ 石祠 ]

[ 境内の木 ]

[ 案内板 ]


Google Maps

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