移動全面解禁。今後も対策をした上で参拝していきましょう。依然として各神社も御朱印対応が変更の可能性有。

北谷稲荷神社 / 東京都渋谷区

5.0
渋谷区

神社情報

北谷稲荷神社(きたやいなりじんじゃ)

御祭神:宇迦之霊大神・大己貴大神・大宮比売大神・神功皇后・大田大神
社格等:村社
例大祭:9月28日
所在地:東京都渋谷区神南1-4-1
最寄駅:原宿駅
公式サイト:─

御由緒

当神社の創立は詳らかではないが、『新編武蔵国風土記稿』によると田中讃岐守直高が文明(1469~87)の頃、駿河(静岡県中央部)より移り住んだ時、その邸内の吉方に神の来臨を請じ迎えて奉ったと記してある。三万坪の御朱印地を拝受したのだが、大永の兵火(1524)に記録を消失し、職員を失った。また萬治三年(1660)大破の際に再建し棟札に武州豊島郡澁谷村稲荷大明神『江戸山王社家小川職部持』とあり、文明以前の鎮守であると思われる。その後承應三年(1654)八月、田中直高六代孫佐平が再建し、寛永五年(1628)四月佐平が再建した。享保十三年(1728)九月松平左京太夫願主として造営し明和八年(1771)同人が再建し、文化元年(1804)九月は拝殿・玉垣を献修した。当社は唇小名北谷の地に在ったことから昔より北谷稲荷という名だった。文政(1818~30)の頃には境内は広く神畑や神園を有していたので「畑の稲荷」とも呼ぱれていた。明治四年(1871)村社に列せられる。また火伏せの神様としても信仰が厚く、他地域よりも火災が少なかったとも伝えられている。その後、事を証する文書や什物は多く残っていたものの、昭和二十年五月二十五日戦災により社殿・社務所・神輿庫・神楽殿その他の全ての建造物を消失してしまう。昭和二十四年九月本殿一部倉亜鉛葦を造営し、同三十三年九月総檜造銅板葦拝殿を造営すると共に社務所、神楽殿を再建した。現在の社殿・建物は老朽化に伴い平成九年十一月に建造された。設計は菊竹清訓設計事務所による。(頒布の用紙より)

参拝情報

参拝日:2019/11/21(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/05/02(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

[2019/11/21拝受]
(現御朱印)

[2017/05/02拝受]
(旧御朱印)

歴史考察

渋谷北部総鎮守のお稲荷さま

東京都渋谷区神南に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧上渋谷村・旧上豊澤村の鎮守。
現在の渋谷北部にあたり、古くから渋谷北部の総鎮守として崇敬を集めたお稲荷さま。
現在はモダンなデザインが特徴的な社殿で、境内もオフィスビルと一体となっているのが特徴。
モダンかつ個性的な外観は、菊竹清訓建築設計事務所によるデザインによるもの。

名主の先祖によって創建・火伏せの神として信仰

創建年代は不詳。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると文明年間(1469年-1486年)の創建と記されている。

文明年間(1469年-1486年)、田中讃岐太郎直高と云う人物が、駿河国(現・静岡県)より移住。
その際に邸内の吉方にお稲荷様を祀ったと云う。

田中讃岐太郎直高の子孫が代々当地の名主となったため、当地の名主の先祖による創建と云える。

その後、三万坪もの社地を有していたとされる。

上渋谷村の「北谷」と呼ばれた地に鎮座していた事から古くから「北谷稲荷」と呼ばれていた。
氏子地域に火災が少なかったため、火伏せの神として信仰を集めていたと伝わっている。

江戸時代以前の渋谷
当時は上渋谷村・中渋谷村・下渋谷村の3村が存在。
更にそれぞれに隣接するように上豊澤村・中豊澤村・下豊澤村の3村があった。

大永四年(1524)、兵火によって社殿などを焼失。
この時に古文献や記録、神職なども失っている。

新編武蔵風土記稿に記された当社・上渋谷村と上豊澤村の鎮守

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(上渋谷村)
稲荷社
小名北谷にあるを以て北谷稲荷と號す。當村及上豊澤村の鎮守なり。江戸山王社家小川織部持。名主長吉が先祖、讃岐太郎直高文明年中駿州より移りし時勧請し、其後六代左平次承応三年八月再造の棟札あり。宝永五年子孫左平太再造し享保十三年松平左京大夫願主として造営し、明和八年同人再造せり。織部の持となりしは萬治二年なりとそ。
末社。天満宮。土師家天満宮と號す。菅神の本姓をもて冠し唱ふるなるへきに、今誤てはしかの義と思ひ麻疹の病を祈るもの多し。安永五年及ひ享和三年流行の時も参詣のもの多く文政七年には殊に群集せり。疱瘡神。

上渋谷村の「稲荷社」とされているのが当社。
北谷と云う地域にあったため「北谷稲荷」と称されている事が記されている。

「當村及上豊澤村の鎮守なり」とあるように上渋谷村と上豊澤村の鎮守である事が記されている。

上渋谷村と上豊澤村は現在の渋谷北部一帯にあたる。当社は渋谷北部の総鎮守とされた。

更に江戸時代以降の流れが記されているため時系列で要約。

承応三年(1654)、直高の6代孫の田中佐平が社殿を再建。
宝永五年(1708)、その子孫の田中左平太が社殿を再建。
享保十三年(1728)、松平左京大夫を願主として社殿を造営。
明和八年(1771)、同人が再建。

松平左京大夫(まつだいらさきょうのだいぶ)
歴代の伊予国(愛媛県)の西条藩(愛媛県西条市)の藩主・松平家の官位。
西条藩松平家は徳川御三家である紀州徳川家の分家。
西条藩松平家は現在の「青山学院大学」付近に上屋敷を所有しており、当社への崇敬が篤かったものと思われる。

他に興味深い部分として「江戸山王社家小川織部持」と記してある。
これは「山王日枝神社」の事で、大禰宜に小川織部という神職がいて「山王日枝神社」の神職による管轄だった事が窺える。

山王日枝神社 / 東京都千代田区
皇城之鎮・皇居を鎮護する山王さま。東京十社。復刻御朱印。数多くの御朱印帳・令和限定御朱印帳。徳川将軍家からの篤い崇敬・徳川歴朝の産土神。天下祭と呼ばれた山王祭。山王信仰の山王鳥居・神使の猿像。国宝刀剣の展示もある宝物殿。庚申の日。稲荷参道。

江戸切絵図から見る当社と上渋谷

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(青山渋谷絵図)

こちらは江戸後期の青山渋谷周辺の切絵図。
右上が北の地図で、当社は図の左上に描かれている。

(青山渋谷絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲ったのが当社で「稲荷」として記されている。
周辺の殆どは百姓地・田畑であり、当時の渋谷は大変のどかな農村であった。

通称・畑の稲荷
当社も神畑や神園を有していたので別名「畑の稲荷」とも呼ぱれていた。
当社に隣接した「畑」などがそうであったのだろう。

明治以降の歩み・戦後の再建と平成の新築

明治になり神仏分離。
明治四年(1871)、村社に列する。

明治十二年(1879)、上渋谷村に上豊沢村が編入。
当社は上渋谷村の鎮守として崇敬を集めた。

当社は上渋谷村と上豊沢村の鎮守であったため、氏子地域も重なる事から編入もスムーズであったと思われる。

明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが当社で、当社の鎮座地は現在と変わらない。
神社の地図記号だけでなく「北谷稲荷」の文字が記してあるように目印になるような存在であった。
渋谷町や上渋谷の文字も見る事ができる。

昭和二十年(1945)、東京大空襲により社殿を焼失。
境内の殆どが焼失しており史料なども焼失。

昭和二十四年(1949)、本殿を再建。
昭和三十三年(1958)、拝殿・社務所・神楽殿を再建した。

平成九年(1997)、社殿の老朽化に伴い現在の社殿や境内を新築。
菊竹清訓設計事務所の設計で、大変モダンなデザインの社殿となり現在に至っている。

境内案内

代々木公園の南側に鎮座・表参道の日月鳥居

渋谷公園通りとファイヤー通りに挟まれた繁華街に鎮座。
渋谷の繁華街近く、代々木公園の南側に鎮座している。隣接するのは「ヒコ・みづのジュエリーカレッジ」。

https://www.hikohiko.jp/

鳥居は独特な形をしているのが特徴。
特に注目したいのは額束に刻まれた模様。
額束の正面に太陽。
裏面には月がデザインしている事から「日月鳥居」と称される。
社号碑には「北谷稲荷神社」の文字。

惜別の石灯籠・オフィスビルと一体化した境内

鳥居を潜るとやや長い石段。
石段を上った先に現代的な境内が広がる。
オフィスビルと一体となっているのが特徴的。

石段を上った先にある一対の灯籠。
明治四十一年(1908)に奉納された灯籠。
当社の氏子区域であった上渋谷の大原と云う地は、同年に代々木練兵場(現・代々木公園一帯)が造られる事となり、立ち退きを余儀なくされた氏子の住民が別れを惜しんで奉納した石碑。
台座に当時の心情が刻まれている。

同様に代々木練兵場の造営によって惜別を刻んだ灯籠は「代々木八幡宮」にも奉納されている。
代々木八幡宮 / 東京都渋谷区
代々木鎮守の八幡さま。鎌倉時代に鶴岡八幡宮から勧請。江戸時代に現在地へ遷座。戦火を免れた明治時代の社殿。緑に囲まれた社叢。パワースポット・出世稲荷。縄文時代の遺跡・竪穴式住居。秒速5センチメートルの舞台。金魚まつり。御朱印。木製の御朱印帳。

左手に手水舎が整備。
水盤は改築以前のものを使用しており、モダンな中にもかつての姿を偲ばせる。

美しい曲線が特徴的なモダンな社殿

社殿は平成九年(1997)に新築されたもの。
曲線をうまく使用したデザインで大変デザイン性の高い社殿。
実にモダンであり伝統的な神社の外観とは一線を画したデザイン。
コンクリート打ちっぱなしの外観はモダンな現代建築そのもの。
デザイン製の高い社殿。
これらは菊竹清訓設計事務所の設計により竣工した。

菊竹清訓(きくたけきよのり)
デザイン性の高い建築物を多く手掛けた建築家。
多くの作品を残しており、「出雲大社」庁の舎(現存していない)や「江戸東京博物館」「東名高速道路海老名サービスエリア」などの建築を手掛けた。
2000年にビエンナーレにて「今世紀を創った世界建築家100人」に選ばれている。

麻疹に効く天満宮・人食い松伝承の弁財天

社殿の右手に境内社が置かれている。
社殿の側面に置かれているのが土師家天満宮。
小さな狛犬も良い味を出している。

麻疹・疱瘡に霊験のある天神さま
『新編武蔵風土記稿』にも末社として詳しく記されている境内社で、「土師家天満宮(はじけてんまんぐう)」と称された。
土師家とは御祭神の菅原道真公の本姓。
庶民は「はじけ」を「はしか」の意味として理解し、麻疹・疱瘡に霊験があるとして広く信仰を集めた。
江戸時代に麻疹が流行した際には多くの人々が参詣したと伝わっている。

その正面に宇田川出世弁財天。
「人食い松」と呼ばれる伝承が伝わっている。

人食い松の伝承
昭和五年(1930)、区画整理のため渋谷道玄坂にあった松の大木を切ろうとしたところ、多数の負傷者が出たため「道玄坂の人食い松」と呼ばれた。
地域の人が見たお告げに従い、弁財天と竜神の祠を造営。
松とともに神南町に移して祀ったと云う。
後に松は枯れ、祠は行方不明となっていたが、昭和五十年(1975)に祠が発見され当社境内に遷されたもの。

アルファベットがある珍しい御朱印

御朱印は授与所にて。
御朱印をお願いすると右手のロビー内で待たせて頂ける。
暑さや寒さを凌げる綺麗な空間で有り難い。

御朱印は神紋に「KITAYA INARI」とアルファベット表記のある珍しいもの。
左下には「北谷稲荷神社」の印があり、挟み紙は狐と日月鳥居を押したものとなっていた。

過去に頂いた御朱印
2017年に頂いた御朱印は「北谷稲荷神社」の朱印。
現在のものとは違う御朱印となっている。

所感

北渋谷村・北豊澤村の鎮守として崇敬を集めた当社。
現在の渋谷北部の鎮守を担っており地域から崇敬が篤かったと伝わる。
大変のどかな農村だった当地も、現在は渋谷の繁華街の一画で、代々木公園やNHK放送センターなどがすぐ近くにあり、境内も渋谷に合わせるかのような個性的でモダンな外観となっている。
オフィスビルと一体化し、曲線が美しいデザイン性の高い社殿は、伝統的な神社とは一線を画しており、何とも不思議な感覚。
現在の都心において、神社を維持するための一つの形であるだろうし、面白い試みを感じる良い神社である。

神社画像

[ 日月鳥居・社号碑 ]




[ 石段 ]



[ 灯籠 ]


[ 参道 ]

[ 手水舎 ]


[ 社殿 ]












[ 宇田川出世弁財天 ]




[ 土師家天満宮 ]

[ 狛犬 ]


[ 授与所 ]

[ 社務所 ]

[ 裏参道 ]

Google Maps

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