目次
神社情報
新宿十二社熊野神社(しんじゅくじゅうにそうくまのじんじゃ)
御祭神:櫛御気野大神・伊耶那美大神
社格等:郷社
例大祭:9月第3土・日曜
所在地:東京都新宿区西新宿2-11-2
最寄駅:都庁駅前・西新宿五丁目駅・西新宿駅
公式サイト:http://12so-kumanojinja.jp/
御由緒
十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532~69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます)。
鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといいます。
江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
また、享保年間(1716~1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。
明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2016/11/02
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
新宿の総鎮守
東京都新宿区西新宿に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、「花園神社」と共に新宿の総鎮守。
「十二社」と書いて「じゅうにそう」と読む。
江戸時代は池や滝などがあり江戸近郊の景勝地と知られた。
現在は新宿中央公園に隣接する形で鎮座している。
中野長者と呼ばれた鈴木九郎
社伝によると、応永年間(1394年-1428年)に紀州出身の商人・鈴木九郎が、故郷である「熊野三山」より十二所権現を勧請し創建、と伝わる。
代々、紀伊国(和歌山県)で「熊野神社」の祭祀を務め、熊野地方で勢力を誇った熊野三党(榎本・宇井・鈴木)とも呼ばれた藤白鈴木氏の末裔とされている。
応永年間(1394年-1428年)に、武蔵国多摩郡中野邑(現在の東京都中野区)に来たと伝わる。
鈴木九郎は、馬の売買やまだ未開墾地で荒れ地であった中野付近の開拓を行い、こうした商売で大成功したため「中野長者」と呼ばれるようになる。
現在の西新宿から中野にかけてを開拓し、発展の基礎を作ったと云えるであろう。
また鈴木九郎は、当社だけでなく別当寺の「成願寺」も開山している。
これは一人娘が若くして死去したため、出家した事による。
このように当社や「成願寺」など、当地の信仰の基礎も作った人物であろう。
十二社(じゅうにそう)と呼ばれる所以
鈴木九郎は当初、自身の故郷・紀州の「熊野三山」の若一王子(にゃくいちおうじ)を祀ったところ、「中野長者」と呼ばれるまでに商売が大成功するようになる。
若一王子は、神仏習合の神であり熊野信仰の神である。
熊野十二所権現のうちの一柱とされている。
主祭神のみを指して熊野三所権現、熊野三所権現以外の神々も含めて熊野十二所権現と呼び、区分としては三所権現・五所王子・四所明神に分けられる。
若一王子は五所王子の第一位であった。
当初は若一王子だけを祀っていた当社であるが、九郎の商売が大成功したため、自身の開拓地に「熊野三山」から熊野十二所権現を全て祀るようになった。
そのため当社は「熊野十二所権現社」と呼ばれた。
こうして当社付近一帯は十二所・十二社(じゅうにそう)と呼ばれ、現在の社号もこれに因んでいる。
この地名は現在でも十二社通りなどに残っている。
角筈村の成立と江戸時代の当社
江戸時代に入る前より、当地は角筈(つのはず)と呼ばれるようになる。
当社は、角筈の熊野十二所権現として崇敬を集める。
戦国時代は、北条氏の家臣綾部荘四郎の領地であり、豊臣秀吉の小田原攻め・徳川家康の江戸入府以降は徳川家の領地となる。
江戸時代に入ると角筈村として成立し、以後は幕府直轄領(天領)となった。
北が右となっている切絵図であるが、千駄ヶ谷から新宿にかけてを描いている。
右上に「十二社権現」とあり、これが当社である。
慶長十一年(1606)、伊丹播磨守が用水溜として大小の池を開発。
これが十二社池と呼ばれるようになり、当社は景勝地として知られるようになっていく。
享保年間(1716年-1735年)には、八代将軍・徳川吉宗が鷹狩を機会に参拝しており、こうした縁で幕府による社殿の整備や修復も行われた。
以後、徳川将軍家からの崇敬も篤く、この頃から茶店などが多く立ち並ぶようになる。
文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。
(角筈村)
熊野社
十二所権現を勧請せるを持って此邊の地名を十二所と呼ふ。本地正観音なり。別当は多摩郡本郷村成願寺なり。縁起に云、応永の頃鈴木九郎某と云もの紀州藤白より中野の郷に来住す。鈴木三郎重家の子孫にて、珠に若一王子の祠官たる余胤なり。依て仮の小社を創建して、先若一王子のみ勧請しけるが、同き十年宮社を再造して十二所の神悉く備れり。夫より日夜崇信おこたらさりし験やありけん、終に家富み倉庫軒を並へて栄名あり、よりて郷民挙て中野長者と称す。其後遥の星霜歴て、僅に里長某か進退せる社なりしを、日頃崇敬の余り菩提寺成願寺と議し、且村民共に願上て享保年中成願寺奉祠の宮となせしより、更に修造を加へて旧観に復すと云。
供所。社に向て左にあり。丘の下より造りし棲にて、棲上平地に接し、且前に仮山水を設けていと風雅なる営作なり。供所とは称すれと、其実は成願寺隠棲の庵なり。春秋の頃は遊賞の人尋来もの多し。
末社稲荷。
角筈村の「熊野社」として記されている。
十二所と呼ばれる所以や、中野長者と呼ばれた鈴木九郎の話も記されている。
別当寺は同じく九郎が開山した「成願寺」が担っていた。
江戸名所図会に描かれた当社・熊野の滝
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「角筈村熊野十二所権現社」と描かれている。
当時は十二所・十二社のどちらも併用して使われていたのが分かる。
大きな池があり大変雅な神社であった事が伝わる。
神社境内には大きな滝があり、また隣接して十二社池と呼ばれていた大小2つの池があり、江戸近郊の景勝地として知られていた。
十二社池は角筈村の用水池として利用されていたようだ。
こちらは東側にあった「熊野の滝」と呼ばれた滝。
玉川上水と神田上水を貫く助水堀を普請した際、社殿の北東に位置する崖のところに作られた人工の滝であり、境内のどこからでも、その轟が聞こえたという名瀑であったと記されている。
邪魔になった赤子をこの滝に捨てようとするが、その赤子の父親である亡霊が現れて未遂に終わるといった話があり、明治の頃にも名瀑として知られた滝であった事が分かる。
景勝地として浮世絵に描かれた当社
このように江戸時代には、江戸郊外の景勝地として賑わう事になる。
付近には茶屋や料亭などが立ち並ぶ。
最盛期には茶屋や料亭が約100軒も並んでいたという。
こうした名所の様子は浮世絵にも多く描かれている。
歌川広重が『江戸名所之内』で描いた「四谷角筈十二そうの池熊のゝ社」。
十二社池の様子が描かれており、茶店などが多く並んでいるのが分かる。
左下には当社の鳥居があり、こうした名勝の地の神社として人気を博した。
同じく広重による『名所江戸百景』から「角筈熊野十二社俗称十二そう」。
こうした池は用水池として使われており当時の江戸の治水技術も知る事ができる。
こちらは歌川国芳の門人である歌川芳宗が描いた『十二荘菖蒲図』。
賑わう十二社池を描いており、池で泳ぐ人たちの姿も見える。
左上にあるのが当社で幕末から明治にかけて、大変な賑わいを見せた事が分かる。
他にも熊野の滝を描いた浮世絵もあったりと、当社は江戸郊外の景勝地として人気となり、明治以降は花街として賑わう事となっていく。
明治維新とその後
明治になり神仏分離。
熊野信仰は神仏習合の色合いが大変強かったため、御祭神を櫛御気野大神・伊邪奈美大神に改め「熊野神社」に改称した。
当社は郷社に列した。
明治以降も、景勝地として人気を博した当地は、その後大きな料亭が出来、花街として発展していく。
明治二十二年(1889)、角筈村と柏木村が合併し淀橋町が誕生。
当地は淀橋町大字角筈となる。
明治三十一年(1898)に、淀橋浄水場が建設される。
この事で景勝地であった当地の様相が少しずつ減っていく事になる。
熊野滝などもこの頃に埋め立てられてしまっている。
大正十二年(1923)の関東大震災以降は、西新宿に多くの新興住人が流れ込み住宅地となっていったため、当地周辺も開拓されていく。
昭和七年(1932)、淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町が東京市に編入、4町の区域をもって淀橋区が発足。
昭和九年(1934)、「明治神宮」が改築された際に、古材を譲り受けて拝殿が造営。
これが現存している。
戦時中には十二社池の多くが埋め立てられている。
戦後の昭和二十二年(1947)、淀橋区が、四谷区・牛込区と合併して新宿区となり、昭和五十三年(1978)をもって町名の角筈は廃止となってしまい現在は角筈の名は残っていない。
昭和四十三年(1968)、十二社池が全て埋め立てられ、江戸時代より続いた景色が消える事となった。
同年、都立公園として現在の新宿中央公園が開園。
現在は、日本を代表する高層ビル街と変貌した新宿の鎮守として崇敬を集めている。
当社の氏子区域は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守(「花園神社」と共に)となっている。
新宿中央公園の隣に鎮座
西新宿の十二社通り沿いが表参道となっており、社号碑が立つ。
緩やかな坂を上ると鳥居が見えてくる。
鳥居の先が拝殿となっている。
当社は新宿中央公園の隣に鎮座している。
元々、江戸時代の頃は現在の中央公園がある当地は当社の敷地であり、明治以後・戦後と経てこうした形となった。
中央公園側から入る事もできるのだが、社殿の横に出るので、できれば表参道から入るのが望ましい。
鳥居を潜って左手に神楽殿、その奥に手水舎。
なお、手水舎の奥にも鳥居がありこちらから入る事もできる。
立派な社殿・境内社や文化財
社殿はとても立派な造りとなっている。
奥の高層ビル群とのコントラストが映える。
拝殿は、昭和九年(1934)に「明治神宮」が改築された際に、古材を譲り受けて造営されたものとなっている。
派手さはないものの渋みのあるよい出来。
拝殿内部には七人役者図絵馬など多くの文化財が置かれている。
社殿の右手には小さな神池と弁財天社。
小さな神橋があり綺麗に管理されている。
境内右手奥には大鳥三社。
11月の酉の日には酉の市が開催される。
熊手商などは出ないが社務所で熊手の授与が行われる。
なお、大鳥三社の前にある狛犬は、享保十二年(1727)に寄進されたもので、腹の下がくりぬきになっていない珍しい形となっている。
その右手に胡桃下稲荷神社。
『新編武蔵風土記稿』に末社稲荷と書かれているのがこちらだろう。
社号は茨城県笠間市の「笠間稲荷神社」の別称のため、そちらからの勧請と思われる。
社殿の右手には大田南畝(蜀山人)の水鉢。
文政三年(1820)に奉納され、狂歌師として有名な大田南畝の書による銘文が刻まれている。
鳥居の右手には多くの石碑が置かれている。
左手の碑が十二社の碑と呼ばれるもので、新宿区指定史跡となっている。
嘉永四年(1851)に建てられたもので、十二社の池が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑。
所感
新宿の総鎮守として崇敬を集める当社。
中野長者と呼ばれた鈴木九郎によって創建し、角筈村など西新宿周辺から崇敬を集めた。
江戸時代になり用水溜として大小の池が出来、これが十二社池として人気を博すようになり、江戸時代から明治にかけては景勝地として名高い地であった。
そうした景勝地としての風景は今はないものの、日本を代表する高層ビル群の中で新宿中央公園と共に、地域の憩いの場となっている。
現在は高層ビルとの対比が面白い景観となっていて、かつての姿との違いが感慨深い。
現在も新宿総鎮守として多くの崇敬を集める良い神社である。
神社画像
[ 社号碑・参道 ]
[ 鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 案内板 ]
[ 参集殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 大田南畝の水鉢 ]
[ 大鳥三社 ]
[ 胡桃下稲荷神社 ]
[ 銅像 ]
[ 弁財天社 ]
[ 社号碑・中央公園側入口 ]
[ 西側鳥居 ]
[ 神楽殿 ]
[ 神輿庫 ]
[ 石碑 ]
[ 十二社の碑・石碑 ]
[ 社務所 ]
[ 案内板 ]