花園神社 / 東京都新宿区

新宿区

概要

新宿総鎮守の花園神社

東京都新宿区新宿に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、「新宿十二社熊野神社」と共に新宿の総鎮守。
現在の新宿の東側の総鎮守を担う。
甲州街道の宿場である内藤新宿が成立して以来の新宿の氏神。
元は稲荷信仰の神社であり「花園稲荷」と呼ばれていた。
11月酉の日の「酉の市」は関東三大酉の市にも数えられ大変賑わう事で知られている。

神社情報

花園神社(はなぞのじんじゃ)

御祭神:倉稲魂命・日本武尊・受持神
社格等:郷社
例大祭:5月下旬(大祭)・11月酉の日(酉の市)
所在地:東京都新宿区新宿5-17-3
最寄駅:新宿三丁目駅・新宿駅
公式サイト:http://www.hanazono-jinja.or.jp/

御由緒

花園神社は古来新宿の総鎮守として内藤新宿に於ける最も重要な位置を占め来たった神社である。徳川氏武蔵国入国以前の御鎮座にして大和国吉野山より御勧請せられたと歌えられる。寛永年中以前の社地は現在の株式会社伊勢丹の地域にあり、東西六十五間、南北七十五間に亘った神域であった。朝倉筑後守此の地に下屋敷を拝領されるに及び、神社をも下屋敷の内に囲い込まれたのでその由を御訴えに及び、現在の社地を代地に拝領したと伝えられる。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2021/11/09(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2018/12/30(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/12/22(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:500円(通常)・1,000円(切り絵)
社務所にて。

※酉の市などに限定御朱印あり。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。

御朱印帳

初穂料:1,300円(2018年時点)
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意している。
黄緑を基調に当社の拝殿と桜がデザインされた御朱印帳。
えんじ色で裏に金の箔押しで神紋と社号が押された御朱印帳。
木製の御朱印帳も用意。
社務所に掲示されていないものの声をかけると奥から出して見せて頂ける。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

授与品・頒布品

花熊手
初穂料:1,000円
社務所にて。

※酉の日限定授与の花熊手。

撤饌
初穂料:─
社務所にて。

※酉の市で切り絵御朱印を頂いた際に下さった撤饌。

歴史考察

徳川家康入府以前より創建のお稲荷様

社伝によると創建年代は不詳。
大和国吉野山よりの勧請したと伝えられている。

天正十八年(1590)に徳川家康が江戸入府した頃には既に創建していたとされる。

当時は現在よりも約250m南に鎮座。

現在の「伊勢丹新宿店」があるあたりが当時の社地であった。
https://www.mistore.jp/store/shinjuku.html

当地周辺(現・新宿)の鎮守とされ、「稲荷社」として崇敬を集めた。

まだ甲州街道が整備される前、内藤新宿が成立する前の話で、当時の新宿は農村であった。

尾張藩下屋敷へ遷座・花園の由来

寛永年間(1624年-1644年)、掛川城主・朝倉筑後守(朝倉宣正)が当社周辺に下屋敷を拝領。

朝倉宣正(あさくらのぶまさ)
徳川家康の孫で駿河大納言と呼ばれた徳川忠長の御附家老。
掛川城主で大名格であったが、あくまで忠長の家老という立場で正式な大名ではなかった。
筑後守に任官されたため、朝倉筑後守と称された。

そのため、当社は朝倉氏の下屋敷に囲まれる形となり氏子の参拝ができなくなってしまう。
氏子がその旨を幕府に訴えたところ、尾張藩下屋敷の庭の一部であった現在地を拝領・遷座。

尾張藩(おわりはん)
尾張徳川家を藩主とし、名古屋城を居城とした格式高い藩。
尾張藩の尾張徳川家、紀州藩の紀州徳川家、水戸藩の水戸徳川家を「徳川御三家」と呼ぶ。
徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた三家のことで、そのうちの筆頭格が尾張徳川家で、徳川将軍家の次ぐ格式のある藩であった。

格式高い尾張藩の下屋敷の庭には多数の花が咲き乱れていたと伝わる。
美しい花園の跡地に遷座したため、当社は「花園稲荷」と称された。
これが現在の花園の由来とされている。

「花園稲荷」の他、当社の別当寺を「三光院」(現・廃寺)が担っていたため、「三光院稲荷」とも呼ばれたり、地名に因んで「四谷追分稲荷」とも呼ばれていたという。

内藤新宿の開設と総鎮守・新宿の地名由来

慶長九年(1604)、幕府により日本橋が五街道の起点として定められる。
現在の新宿は甲斐国(山梨県)へと繋がる甲州街道に面していた。

五街道(ごかいどう)
江戸の日本橋を起点に伸びる東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の5つの街道。

甲州街道沿いに宿場が整備されたものの、当時の最初の宿場は高井戸宿(現在の杉並区高井戸)。
日本橋から約4里(約16km)と遠く離れた宿場町で、街道の利用者にとって不便であった。

甲州街道以外の五街道の最初の宿場町は、いずれも日本橋から約2里(約8km)ほどの距離の江戸近郊が宿場となっていた事からも、甲州街道だけが不便であった事が分かる。

現在の新宿は、そうした日本橋と高井戸宿の中間に位置していたため、甲州街道を利用する旅人達に幕府非公認ながら「内藤宿」と呼ばれるようになっていった。

内藤宿(ないとうじゅく)は内藤清成と云う大名が家康より四谷から代々木までの一帯を拝領していた事に由来。

元禄十年(1697)、幕府に対して浅草商人達が甲州街道の日本橋-高井戸宿の間に新しい宿場を開設したいと願い出、翌年許可を得て新たな宿場が設けられる事となる。
正式に内藤家の下屋敷の一部に宿駅が整備。

元禄十二年(1699)、商人らによって整備された内藤新宿が開設。

新宿(しんじゅく)の由来
内藤宿に新しく整備された宿で「内藤新宿(ないとうしんじゅく)」。
これが現在の「新宿」の地名由来。
新宿区について(名前の由来・歴史・地勢)
新宿区の公式ウェブサイトです。

内藤新宿が整備された事で内藤新宿の総鎮守とされたのが当社。
内藤新宿の人々、さらに尾張徳川家からの崇敬も篤く、元禄十一年(1698)・正徳二年(1712)には社殿を造営した記録が残っている。

広重の浮世絵など江戸時代に描かれた内藤新宿

その後、内藤新宿は廃止と再開を経て、江戸時代後期には大いに栄えた。

文化五年(1808)の記録には、旅籠屋が50軒・引手茶屋80軒とある。

江戸四宿の中でも東海道の品川宿に次ぐ賑わいを見せる事となる。

江戸四宿(えどしじゅく)
江戸の日本橋に最も近い宿場町の総称。
品川宿(東海道)・内藤新宿(奥州街道)・千住宿(奥州街道・日光街道)・板橋宿(中山道)

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「四谷内藤新宿」として描かれている。
大変な交通量であった事が窺え、江戸庶民にとっても重要な宿場町であった。
旅籠には飯盛女・茶屋女として、いわゆる遊女に近い女も置かれたため、岡場所(色街)としても発展していく事となる。

こうした内藤新宿の様子は歌川広重の浮世絵にも描かれている。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

(名所江戸百景)

広重による『名所江戸百景』の「四谷内藤新宿」。

馬の後ろからの大胆な構図となっていてインパクトのある作品。
当時の整備された町並み、多くの旅籠も見る事ができる。

内藤新宿が発展し利用者が増えるにつれ、内藤新宿の鎮守であった当社も多大な崇敬を集める事となった。

幾度か大きな火災の類焼によって社殿の焼失もあったとされ、享和三年(1803)には大火に遭った社殿復興を願って内藤新宿の氏子より奉納された額面に「花園社」と記されていたとあり、当時から「花園」と呼ばれていた事が窺える。

明治以降の当社の歩み・戦後の再建

明治になり神仏分離。

別当寺であった「三光院」は廃寺。

当社は村社に列し、社号は単に「稲荷神社」となった。

これは届け出の際に「花園」を書き忘れたからと伝わる。

明治二年(1869)、内藤新宿は内藤新宿町となる。
当社は内藤新宿町の鎮守であった。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
当時の地図に「花園神社」と記載がある事から、「稲荷神社」で届け出を出したものの、一般的には「花園神社」の名で浸透していた事が窺える。
内藤新宿町という地名も見る事ができる。

大正五年(1916)、東京府知事に改名願を提出し「花園稲荷神社」に改称。
現在も表参道の社号碑には「花園稲荷神社」の文字が残る。

大正九年(1920)、内藤新宿町が四谷区に編入される。
これによって新宿・旭町・番衆町・三光町・花園町といった町名に編成され、公式地名からは内藤新宿が消える事となり、現在の「新宿」という地名が誕生する事となる。
一帯の総鎮守として崇敬を集めた。

昭和三年(1928)、現在の新宿4丁目に鎮座していた「雷電稲荷神社」を合祀。
同年、昭和天皇の御大典に際して郷社に昇格。
古い社号碑には郷社列格の文字が残る。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
戦後に再建している。

昭和二十二年(1947)、四谷区・淀橋区・牛込区と合併して新宿区となる。
こうした経緯があり、当社は新宿の総鎮守となっている。

淀橋区の郷社であった「新宿十二社熊野神社」も新宿西側の総鎮守であったため、当社と共に新宿の総鎮守を担う。
新宿十二社熊野神社 / 東京都新宿区
新宿総鎮守の一社。中野長者の鈴木九郎が創建・熊野十二所権現を勧請。十二社(じゅうにそう)と呼ばれる由来。限定御朱印・八咫烏と社殿の御朱印帳。八咫烏みくじ・手作り座布団。龍ぬいぐるみ・干支辰お守り。浮世絵に描かれた当社と十二社池。角筈村鎮守。

昭和四十年(1965)、現在の社殿が再造営。
この際に末社・大鳥神社を本殿に合祀。
社号を現在の「花園神社」に改称。

現在はこの合祀した大鳥神社に由来する11月酉の日の「酉の市」が特に有名。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

表参道には朱色の大鳥居・広い参道

最寄駅の新宿三丁目駅からはE2出口を出てすぐ、新宿駅からも徒歩で数分の距離に鎮座。
入り口や参道は複数あり、特に明治通り、靖国通りに面した2つの参道の利用者が多い。

歌舞伎町も隣接していて正に繁華街の鎮守らしい神社となっている。

表参道は明治通りに面した東向き。
社号碑には古い社号である「花園稲荷神社」の文字が残る。
平成八年(1996)に建立された朱色の大鳥居。
新宿総鎮守たる立派な鳥居。

大鳥居の前に一対の狛犬。大鳥居に負けない大きなサイズの狛犬だが、全体的にスラッとスマートな体躯。
昭和十一年(1936)奉納によるもので、子持ちと球持ちの阿吽。

鳥居を潜ると広い参道。
元日や例大祭、酉の市などではこの広い参道も人で埋め尽くされ身動きが取れないくらいに賑わう。

参道途中の左手に手水舎。
全体的に朱色に統一された境内が特徴的。

南参道には文化財に指定された銅の唐獅子像

靖国通り沿いには南参道。
靖国通りを挟んでテアトル新宿や伊勢丹メンズ館などがあり、通りの往来もかなりのもの。
酉の市では靖国通りからずらっと南参道まで出店が並び、こちらの参道を利用される方が多い。

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鳥居を潜ると一対の狛犬。銅製の狛犬で実に素晴らしい造り。
凛々しい表情で、銅の唐獅子として新宿区有形文化財に指定。
文政四年(1821)に名工とされた村田整珉により鋳造。
以前は保護のため金網に囲われていたのだが、最近は金網も取れてその美しい体躯をじっくりと眺める事ができるので必見。

唐獅子像(狛犬)の先に参道が続く。
朱色の二之鳥居・三之鳥居と続き、社殿の左手に出る形となる。

新宿ゴールデン街側の裏参道には古い狛犬

表参道と南参道の利用者が多いが、新宿ゴールデン街側にも裏参道(西参道)。
新宿駅に向かうにはこの裏参道を通りのが一番の近道。
石段の上に「稲荷神社」の扁額が掛けられた古い鳥居。

鳥居の手前両脇に一対の狛犬。表情からも初期型狛犬の流れを汲むのが分かる古い狛犬。延享二年(1745)奉納と大変古い。ややダメージが大きく破損した箇所もあるが、貴重な古い狛犬。こうした新宿の繁華街に残っているのが素晴らしい。

戦後に造営された朱色の社殿・三社の扁額

表参道途中にやや石段。
石段の先に、とても立派な拝殿。
昭和四十年(1965)に造営された社殿。
朱色に塗装された鉄筋コンクリート造。
新宿総鎮守たる立派な社殿。

拝殿に掲げられた扁額には三社が並ぶ。
当社こと「花園神社(旧・花園稲荷神社)」、昭和三年(1928)に合祀された「雷電神社」、昭和四十年(1965)に合祀された「大鳥神社」の三社。
よって御祭神は「花園神社」の倉稲魂命、「雷電神社」の受持神、「大鳥神社」の日本武尊の三柱となっている。
拝殿横には古い扁額があり「花園・雷電・稲荷大明神」と記してある。

境内社の威徳稲荷神社と芸能浅間神社

参道の右手に境内社の威徳稲荷神社。
多くの奉納鳥居が並ぶ一画。
そのため外国人観光客などからも人気が高い。
昭和三年(1928)に境内社として建立。
資料が紛失しており詳細は不明との事だが、近隣の稲荷社が合わさり合祀されたものかもしれない。

境内の右隅には芸能浅間神社。
昭和四十二年(1967)に移築。
ちょっとした富士塚のようになっているのが特徴的。
江戸時代から芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、芸能関係の奉納が多い。
社号にも「芸能」の文字が付くため、玉垣にも芸能関係の人物や事務所などの名が並ぶ。
宇多田ヒカルの母親として知られる藤圭子の歌碑も隣に建立。

社殿の向かいに納め大明神。
いわるゆ納め所で、当社では納め大明神として境内社のような形で整備。

朱色に統一された山車庫・宝物殿・神楽殿

手水舎の奥にはとても大きな山車庫。
昭和六十年(1985)に山車(だし)と共に奉納され、山車は例大祭の際に宮神輿を先導する。

その向かいに宝物殿。
本社神輿と雷電神輿の二基と獅子頭が納められている。

参道の右手に神楽殿。
祭事の際に神楽やお囃子が披露される。

いずれも社殿と同様に朱色に統一された空間。

関東三大酉の市・大変な賑わいを見せる酉の市

5月には例大祭があるが、当社では11月の酉の日に行われる「酉の市」が特に有名。
11月の新宿の風物詩として浸透している。

酉の市(とりのいち)
例年11月の酉の日に行われる祭。
日本武尊を御祭神とする大鳥信仰系の神社で行われる事が多い特殊神事。
花畑大鷲神社」(足立区花畑)が発祥とされ、江戸時代から現在にかけては吉原遊廓に隣接していた「浅草鷲神社」の酉の市が日本最大の酉の市として知られる。
花畑大鷲神社 / 東京都足立区
酉の市発祥の神社。花畑(旧花又村)鎮守。酉年限定頒布の鷲掴み守。11月酉の日は酉の市・起源と歴史。源義光(新羅三郎)の伝承。義光の末裔とされる秋田藩主・佐竹氏からの寄進。見事な彫刻がある本殿は必見。立派な神苑を有する境内。御朱印。御朱印帳。

当社の酉の市は明治時代より始まっており、新宿の発展と共に賑わいを増していった。
当社の「大鳥神社」は尾張徳川家に祀られていたと伝わり、かつては境内社であった。
昭和四十年(1965)に本殿に合祀され、更に賑わいを増すようになる。

現在では毎年60万人もの人が訪れ、江戸時代から日本一の賑わいと称された「浅草鷲神社」、武蔵国総社「大國魂神社」と共に「関東三大酉の市」の1つにも数えられている。
浅草鷲神社 / 東京都台東区
日本最大の酉の市で知られるお酉さま。浅草田圃に鎮座・裏手に吉原遊郭(新吉原)が移転。酉の市起源発祥の考察。24時間開催!酉の市・粋な熊手の買い方。幸福を呼ぶ「なでおかめ」・願い事を納める叶鷲。限定御朱印。鷲の御朱印帳。酉の市を描いた浮世絵。
大國魂神社 / 東京都府中市
武蔵国総社の六所宮。武蔵国そのものを神格化・大國魂大神。武蔵国府が設置・武蔵国総社。一之宮から六之宮を祀る。鎌倉幕府や江戸幕府からの庇護。GWに開催・関東三大奇祭・くらやみ祭り。すもも祭。馬場大門のケヤキ並木。御朱印。全国総社会御朱印帳。

当社の酉の市は11月の酉の日の0時から24時まで24時間開催。(2021年はコロナ禍で22時まで)
その前日から前夜祭が行われており新宿の繁華街も近いとあって大いに賑わう。
境内には大変多くの奉納提灯が並び実に壮観。(以下画像は2021年酉の市の様子)
多くの熊手商も立ち並び、勢いのある掛け声はお馴染みの光景。

熊手の粋な買い方
威勢のよい掛け声の熊手商との値切りの駆け引き。
たっぷり値切って「まけたまけた」と言わせれば勝ち。
とは言え、値切った分だけ「ご祝儀」として熊手商に置いてくるのが、粋な買い方とされているので、あくまで駆け引きを楽しむもの。(もちろん値切った値段で購入しても構わない)
ある程度の金額以上の熊手を求めた場合は、最後に手締めとなる。
「家内安全・商売繁盛」と大勢で手を打ち、熊手を高く掲げて持ち帰る。
翌年の酉の市で、前年購入した熊手を納め、また新しいのを購入。
その際に前年より大きいのを購入するのが良いとされている。
毎年、同じ熊手商から購入し贔屓になると、入山(自分の名前を入れた札)を差してくれるようになる。

関東三大酉の市として有数の賑わいを見せる酉の市。
数多くの熊手商。
新宿の11月の風物詩となっている。

過去には見世物小屋の興行も(2023年より復活)
更に当社の酉の市では、今では大変珍しくなった見世物小屋の興行が行われる。
昔ながらのディープでアングラな見世物小屋。(画像は2016年のもの)
※コロナ禍では見世物小屋は中止。2023年より復活。
かつては「靖国神社」のみたままつりなどでも見かける事ができたが、現在では都内で見世物小屋が出るのはおそらく当社の酉の市くらいではないだろうか。色々と覚悟の上でご覧されたし。

こうした大変な賑わいと昔ながらの雰囲気も残す酉の市は当社の見所であろう。

令和五年(2023)の酉の市
一の酉:11月11日(土)
二の酉:11月23日(木)
※三の酉はなし

御朱印・限定の切り絵御朱印・御朱印帳

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂ける。

中央上に桜の花に「花園」の社紋、下は「花園神社」の文字。
墨書きでは「新宿総鎮守」の文字が添えられる。

例大祭や、酉の市の開催日はその旨の墨書きが加わる限定御朱印となる。

2021年の酉の市では限定の切り絵御朱印を用意。
精細に社殿や桜を切り取った切り絵御朱印。
当社こと「花園神社(旧・花園稲荷神社)」、昭和三年(1928)に合祀された「雷電神社」、昭和四十年(1965)に合祀された「大鳥神社」の三社の社紋も切り取られている。

オリジナルの御朱印帳も用意。
黄緑を基調に当社の拝殿と桜がデザインされた御朱印帳、えんじ色で裏に金の箔押しで神紋と社号が押された御朱印帳、木製の御朱印帳の3種類。

御朱印帳は社務所に掲示されていないものの、声をかけると奥から出して頂ける。

所感

新宿総鎮守の一社として崇敬を集める当社。
甲州街道が整備され内藤新宿が開設された後は、内藤新宿の総鎮守となった。
この内藤新宿が現在の新宿の基礎を作ったとも云え、新宿の総鎮守と云われる所以。
新宿の繁華街にありながら広々とした境内と立派な社殿は、多くの氏子崇敬者によって崇敬を集めている証拠とも云え、常に多くの参拝者を見かける事ができ、その姿は絶える事がない。
また新宿という場所柄もあって、外国人観光客もよく訪れるため、多国籍な参拝者を見る事ができ、こうした懐の深さも当社の魅力であろう。
5月に行われる例大祭、そして11月酉の日の酉の市は、境内が大いに賑わいつつも、どこかレトロな雰囲気を漂わせるのが魅力の良社である。

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