神社情報
厳嶋神社(いつくしまじんしゃ)
抜弁天(ぬけべんてん)
御祭神:市杵島姫命
社格等:─
例大祭:9月5日
所在地:東京都新宿区余丁町8-5
最寄駅:東新宿駅
公式サイト:─
御由緒
一、由来
白河天皇の御世、応徳三年(1086年)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当厳島神社の始めと伝えられている。(豊多摩郡誌参照)
二、江戸時代
参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられている。また山之手七福神を構成する弁財天でもある。
江戸時代の地誌、大久保絵図(安政四年)には、別当二尊院・抜弁天と記載され、また他の絵図にはここに稲荷神社があったことも示されている。
徳川綱吉将軍の「生類憐みの令」により、この附近に二万五千坪の犬小屋が設けられていた。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2017/12/14
御朱印
初穂料:300円
「西向天神社」社務所にて。
※正月7日までは当社の社務所にて御朱印を頂ける。
※正月8日以降は「西向天神社」社務所にて御朱印を頂ける。
歴史考察
抜弁天の通称で知られる弁天様
東京都新宿区余丁町に鎮座する神社。
旧社格は無格社。
正式名称は「厳嶋神社」であるが、苦難を切り抜けたと云う由来や、参道が南北に通り抜けできる事から、古くから「抜弁天(ぬけべんてん)」と呼ばれ親しまれている。
江戸時代には江戸六弁天の一社に数えられ、現在は新宿山ノ手七福神の弁財天を担う。
近くに鎮座する「西向天神社」の兼務社となっている。
源義家によって創建の伝承
社伝によると、応徳三年(1086)の創建とされる。
源義家が、後三年の役で奥州に向かう途中で当地に立ち寄った際、遠く富士を望み更にその先にある安芸の「厳島神社」(現・広島県廿日市市)に戦勝祈願。
凱旋後に御礼として当地に「厳島神社」を勧請し、神社を建立したと伝わる。
義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。
これらは伝承に近いものであるが、当地の近くを旧鎌倉街道が通っていたため、奥州へ向かう源義家の伝承が残っていると云う。
抜弁天(ぬけべんてん)と呼ばれた由来
江戸時代の頃には、当社は「抜弁天(ぬけべんてん)」と呼ばれ、親しまれるようになった。
- 源義家が、当地に立ち寄り戦勝祈願をして、苦難を切り抜けたという伝承。
- 境内が南北に通り抜けできるという事。
こうした事から「切り抜け・通り抜けの弁天様」として「抜弁天」と崇敬されたと云う。
現在も境内が南北に通り抜けできるようになっている。
生類憐れみの令によって犬小屋が設けられた地・江戸六弁天に数えられる
貞享二年(1685)、五代将軍・徳川綱吉によって最初の「生類憐れみの令」が制定。
犬だけでなく、猫、鳥、魚類、貝類、虫類などの殺生を禁止した。
元禄八年(1695)、大久保と四谷に犬小屋が作られる。
このうち大久保の犬小屋が当地周辺であり、約25,000坪もの犬小屋が設けられていた。
宝永六年(1709)、綱吉の死後になって犬小屋が廃止となり、当地の住民も戻ってきたと伝わる。
その頃の当社は小さな社で維持されていたが、犬小屋が廃止されると住民たちによって再建。
「江戸六弁天」の一社に数えられた。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(東大久保村)
辨天社
童形の像なり、弘法大師の作。稲荷・淡島を相殿とす。当所は元禄の頃犬小屋を建られし地にて、其頃よりの小社を後村民等願上て再建すと云。
別當二尊院
新義真言宗、愛宕円福寺地中金剛院の末。雨宝山と称す。本尊大日を置。
東大久保村の「辨天社」として記されているのが当社。
弘法大師作と伝わる童形の像を御神体としていて、この頃は弁財天の他に、稲荷社・淡島社を合祀していたと云う。
上述した通り、元禄年間に「生類憐れみの令」によって犬小屋が設置された地で、この頃は小社であったが、その後に東大久保村の村民が再建したと記されている。
江戸切絵図から見る当社
江戸時代の当社については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。
こちらは江戸後期の大久保周辺の切絵図。
図の右が北になっていて、当社は図の左上に描かれている。
北を上にして、当社周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲んだのが当社で「辨財天・別當二尊院」と記されている。
通りの地形など現在も通じるものになっている。
嘉永六年(1853)、別当寺「二尊院」が火災に遭った記録が残っているため、当社も焼失して再建されたものと思われる。
明治以降の歩み・戦後の再建
明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。
明治二十二年(1889)、市制町村制によって東大久保村・西大久保村・大久保百人町が合併し大久保村が成立。
当社は一時「西向天神社」の境外末社となっていたが、再び独立している。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
地図上には「抜弁天」の文字も記されているように、今も昔も「抜弁天」の名で親しまれていた。
昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿を焼失。
境内の建造物は悉く焼失したが、戦後になって仮社殿で造営された。
昭和三十五年(1960)、社殿が再建。
これが現在の社殿で、境内整備も行われ現在に至る。
現在は新宿山ノ手七福神の弁財天を担っている。
境内案内
交差点や通りの名にも残る抜弁天・南北に通り抜けできる境内
最寄駅の東新宿駅から徒歩数分の距離。
抜弁天通りと団子坂下との交差点に鎮座し、交差点の名は「抜弁天」。
交差点の角に境内が置かれ、「山ノ手七福神・抜弁天厳嶋神社」の提灯が掲げられている。
鳥居は南北に2基。
南の通りから北の鳥居へ、参道が南北に通り、通り抜けできる境内。
通り抜けできる事が「抜弁天」の名の由来の1つとなっている。
境内が南北に通り抜けできるという事。
「切り抜け・通り抜けの弁天様」として「抜弁天」と崇敬された。
鳥居の扁額には「抜弁天・厳嶋神社」の文字。
当社が「抜弁天」で知られる事が、ここからも伝わる。
狭いながらも弁天池が整備された境内
鳥居を潜ると南側に手水石。
この手水石は元禄十六年(1703)のものが現存。
狭い境内ながら弁天池が整備。
交通量の多い交差点にありながら、水が張られ清々しく、こうして綺麗に維持されているのも、地域からの崇敬の賜物であろう。
戦後に再建された社殿
社殿の前に鳥居。
その先に小さめな社殿となっている。
昭和三十五年(1960)に再建された社殿。
境内や弁天池同様に、こちらも綺麗に手入れされている。
新宿山ノ手七福神の弁財天・御朱印について
当社は現在、新宿山ノ手七福神の弁財天を担っている。
そのため、七福神巡り開催中の正月7日までは境内の社務所にて、御朱印などを対応して頂ける。
正月8日以降は、本務社「西向天神社」(徒歩3分ほど)にて御朱印などの対応をして頂ける。
境内には「西向天神社」への地図も記されているので確認するとよいだろう。
所感
「抜弁天」と呼ばれ親しまれている当社。
苦難を切り抜ける・南北に通り抜ける、そうした由来から「抜弁天」。
現在の正式名称は「厳嶋神社」であるが、今も「抜弁天」と呼ぶ方のほうが圧倒的に多く、それは交差点や通りの名、バス停などに使われている事からも分かる。
交差点の角にあるとても小さな神社にも関わらず、境内には弁天池もあり、常に綺麗に維持されている事からも、地域の方にとって大切にされているのが伝わる。
小さな社にも様々な伝承や歴史があり、そうした面白味を感じる弁天様だと思う。
神社画像
[ 玉垣・提灯 ]
[ 南鳥居 ]
[ 北鳥居 ]
[ 社号碑 ]
[ 手水石 ]
[ 弁天池 ]
[ 鳥居・社殿 ]
[ 社殿 ]
[ 社務所 ]
[ 案内板 ]
コメント