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東山稲荷神社(東山藤稲荷神社) / 東京都新宿区

4.5
新宿区

概要

おとめ山公園に鎮座するお稲荷様

東京都新宿区下落合に鎮座する神社。
旧社格は無格社。
社号については社号碑には「東山藤稲荷神社」と記されているが、御朱印には「東山稲荷神社」とあり、更には古い資料には「藤稲荷」などとも記されている。
源経基による創建の伝承を持つお稲荷様で、源氏の守護神としても崇敬を集めた。
江戸時代には周辺が徳川将軍家の御狩場・御留山(おとめやま)として整備され、現在も「おとめ山公園」の南側に鎮座している。
現在は下落合鎮守「新宿下落合氷川神社」の兼務社となっている。

神社情報

東山稲荷神社(ひがしやまいなりじんじゃ)
東山藤稲荷神社(ひがしやまふじいなりじんじゃ)

御祭神:宇迦之御魂大神・大宮能売大神・佐田彦大神
社格等:─
例大祭:5月8日
所在地:東京都下落合2-10-5
最寄駅:下落合駅・高田馬場駅・下落合駅
公式サイト:─

御由緒

当社は清和天皇の皇孫 源経基 が後醍醐天皇の御世、延長五年初午の日に京都稲荷山より勧請申し上げた御社といわれています。社伝によれば経基は平将門が関東で叛乱を企てた際、当東山稲荷の大神様より頂いたご神託によってこれを平定、その功を以て源の姓を賜り、以来当社を清和源氏の守り神として崇敬したと伝えられています。
江戸時代には武家のみならず庶民からの信仰も厚くなり、遠方より稲荷講参りをする、また商売繁盛の祈願をする商人たちからの崇敬を集めたとのことです。
藤の花が美しかったことから藤稲荷とも呼ばれています。(頒布の用紙より)

参拝情報

参拝日:2021/04/30

御朱印

初穂料:500円
新宿下落合氷川神社」社務所にて。

※無人社のため御朱印は本務社「新宿下落合氷川神社」にて頂ける。

歴史考察

平安時代に源経基によって創建・源氏の守護神

社伝によると、延長五年(927)初午の日に創建したと伝わる。
清和源氏の祖・源経基が京都の「伏見稲荷大社」より勧請したと云う。

源経基(みなもとのつねもと)
清和源氏の祖とされ、平将門と敵対した武将。
父は清和天皇の第6皇子・貞純親王であったため、皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとも伝わる。(但し当時の文献には見る事ができない)
将門が謀反を共謀していると朝廷に誣告(わざと事実を偽って告げる事)したものの、事実無根の証明書が出されたため、ありもしない事を密告した讒言罪として拘禁された。
しかし、平将門の乱が発生すると、結果的に誣告が現実となった事により放免。
さらには征東大将軍・藤原忠文の副将の一人となり、平将門の乱の平定に向かうものの、関東に到着した時には、既に将門が追討された事を知り帰京、その後出世をして最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。
子孫には鎌倉幕府の源氏将軍家(源頼朝など)、室町幕府の足利将軍家(足利尊氏など)がいて、武家政権を支配した。

(大日本名将鑑 六孫王経基)

幕末から明治前期に活躍した浮世絵師・月岡芳年による『大日本名将鑑 六孫王経基』。

源経基は、当社の稲荷大神より御神託を受け平将門の謀反を察知。
それを朝廷に伝え、実際に平将門の乱が発生すると将門追討の副将に任命されこれを平定。
この戦功によって源の姓を賜ったと云う。
経基は当社を清和源氏の守り神として崇敬したと伝えられている。

源氏の氏神は八幡神であるが、稲荷神である当社は「清和源氏の守り神」とされたと云う。

以後、清和源氏の守り神として武家より崇敬を集めた。

新編武蔵風土記稿に記された藤稲荷

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(下落合村)
稲荷社三
一は藤稲荷と云。山上にあり。喬木生茂れり近き頃鳥居の傍に瀧を設て垢離場とす。薬王院持。二は上落合村最勝寺持。

下落合村の「稲荷社」として記されているのが当社。
稲荷社が3社あり、そのうちの1社が「藤稲荷」と称されていた当社。
「喬木生茂れり近き頃鳥居の傍に瀧を設て垢離場とす」とあり、鳥居のそばに滝があった事が記してある。

社伝によると、江戸時代には武家のみではなく庶民からの信仰も篤く「知恵と勇気」を御授け下さる福徳の神様として関東一円に信者がいたと云う。
藤稲荷(ふじいなり)の由来
藤の大木があった事から「藤稲荷」と称された。
また同音の「富士稲荷」とも記される事があった。

別当寺は「薬王院」であった。

薬王院(やくおういん)
新宿区下落合にある真言宗豊山派の寺院。
鎌倉時代に開山され、江戸時代に中興、当社の別当寺を担った。
総本山の奈良「長谷寺」から移植された100株が約40種1,000株にまで増えたため、牡丹の名所として知られ「牡丹寺」とも称される。
薬王院(東長谷寺) | 一般社団法人新宿観光振興協会
鎌倉時代に開山された、真言宗豊山派の寺院です。牡丹の名所として知られ、別名は牡丹寺です。 総本山の奈良長谷寺から移植された100株が約40種・1,000株にまで増え、見頃を迎える4月中旬から下旬にかけては、都心とは思えない美しく雅やか…

徳川将軍家の御狩場だった御留山(おとめやま)

江戸時代に入ると当社周辺が徳川将軍家の御狩場に指定。
当社がある山は「御留山(おとめやま)」と称された。

御留山(おとめやま)の由来
徳川将軍家が鷹狩などで利用する御狩場と御留山。
一帯は一般人の立ち入りが禁止されており「御留山」「御禁止山」と書いた事が由来。
当社はその御留山の中腹に鎮座していた。
御留山は現在の「おとめ山公園」一帯。
おとめ山公園:新宿区

当社は庶民から篤い崇敬を集めたと伝わるので、一般人の立ち入りが禁止されていた御留山の中でも当社は庶民の立ち入りが許され、参拝者が相次いだものと推測できる。

江戸名所図会に描かれた藤森稲荷社(東山稲荷)

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「藤森稲荷社」として見開きで描かれたもの。
御留山の山裾から中腹にかけて鎮座。
参道に繋がる入口には茶屋らしいものが見えていて、多くの参拝者の姿も見ることができる。
「東山稲荷ともいふ」ともあり、当時から「東山稲荷」「藤稲荷」のどちらでも呼ばれていた。

(江戸名所図会)

当社を中心に拡大したのが上図。

参道には二基の鳥居がありその奥に社殿。
石段には幟旗が数多く立ち並び信仰を集めた事が伝わる。
藤棚も用意されていて「藤稲荷」と称された当社を象徴している。

当時は更に奥之院も
社殿よりさらに奥に千本鳥居のように鳥居が立ち並び建物と穴を見る事ができる。
奥之院・奥宮と呼ばれるもので、当社が今よりも広い社地を有していた事が分かる。
穴は狐穴で稲荷信仰の神使である狐が多く出入りし住み着いていたと云う。

(江戸名所図会)

「落合惣圖」として見開きで描かれたもの。
題名の通り落合一帯を俯瞰で描いたものとなっている。
河川と自然溢れる地域だった事が窺える。

(江戸名所図会)

御留山を中心に拡大したのが上図。

山裾にかけて「氷川」の文字があり、これが下落合村鎮守で現在は当社の本務社になっている「新宿下落合氷川神社」。

新宿下落合氷川神社 / 東京都新宿区
下落合鎮守の氷川さま。蛍の名所だった落合・落合の地名由来。江戸時代には「女体の宮」と称される・高田氷川神社と合わせて「夫婦の宮」。江戸名所図会に描かれた落合と当社。2,400年以上前に創建の伝承を持つ古社。幕末の狛犬(石獅子)。御朱印。

当社の裏手に見える大きな山が「御留山(おとめやま)」で、現在の「おとめ山公園」。
画像の右上、御留山の中腹に「富士」の文字があり、これが当社。
藤の大木があった事で「藤稲荷」と称された当社だが、「富士」の字を当てる事もあったようだ。

推測になるが山の中腹に鎮座していたこともあり、富士山を望むこともできたのだと思われる。

明治以降の歩み・戦後の再建

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
落合村や丸山といった地名も見る事ができる。(御留山を丸山と呼んだ)
御留山の近くには近衛邸があり、華族・近衛篤麿の邸宅とされていて、御留山の一部も所有していた。

近衛篤麿(このえあつまろ)
明治時代後期の華族・政治家。
五摂家(鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家)の1つ近衛家の出身で、公爵に叙せられる。
3代貴族院議長、7代学習院院長、帝国教育会初代会長などを歴任した。
御留山は近衛家の他に相馬家が所有する形となり、大正時代になると相馬家によって「林泉園」と云う庭園に整備されていった。

昭和二十年(1945)、空襲によって社殿を焼失。

戦後になり境内整備が進む。

昭和二十八年(1953)、仮殿にて再建。

昭和四十四年(1969)、東京都によって御留山が「おとめ山公園」として整備・開園。

戦後は国有地として荒れ果て国家公務員住宅の建設予定地に。しかし近隣住民から「落合秘境」と呼ばれていた自然を残して欲しいと云う声が多くあがり公園として整備。開園と同時に新宿区に移管され区立公園となった。
おとめ山公園:新宿区

昭和四十五年(1970)、社殿を再建。
これが現在の社殿となっている。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

おとめ山通りから入る参道・旧社号碑など

最寄駅である高田馬場駅からは徒歩10分以内の距離。
自然溢れる「おとめ山公園」を縦断するおとめ山通り沿いに参道入口。
「東山藤稲荷神社」の社号碑。
「正一位 東山藤稲荷大明神」の社号碑。

かつてはこのあたりまで参道が伸び社殿も置かれ大いに賑わう神社であった。

旧社号碑が置かれた箇所から西へ参道が伸びる。
住宅街を通る形の参道。

おとめ山公園の南に鎮座

住宅街の参道の先に朱色の鳥居。
鳥居の先に石段。
石段を上って右手に再び朱色の鳥居。
この先が境内となる。

鎮座地は「おとめ山公園」に隣接する南側だが、公園からは境内に入れない。
社殿横には「おとめ山公園」の散策コースも見えるが、参道からお参りする形。

戦後に再建された社殿・知恵と勇気の神様

参道を進むとその先に社殿。
かつて多くの参拝者を有した当社であるが、戦災によって焼失。
昭和二十八年(1953)に仮殿にて再建。
現在の社殿は昭和四十五年(1970)に再建されたもの。
無人社ながら綺麗な状態を維持できているのは、崇敬者による崇敬と整備の賜物であろう。
江戸時代の『江戸名所図会』には更に高い位置に奥之院が置かれ、千本鳥居が立ち並び参拝できた様子が描かれているが、現在はこの社殿のみとなっている。

江戸時代の頃より「知恵と勇気」を御授け下さる福徳の神様として崇敬を集めたと伝わる。

江戸時代の神狐像や水盤など・藤棚も整備

参道の左手には無造作に置かれた多くの石造物。
寛延三年(1750)と天保九年(1838)奉納の水盤。
かなり無造作に置かれていて銘の確認ができないが、いずれも古いもの。
当社が江戸時代に多く崇敬を集めた事が伝わる。
お顔がなくなってしまった神狐像。
こちらも神狐像と思われ、一部は文化十五年(1818)奉納だと云う。
鳥居近くの神狐像は比較的新しい。
今も昔も崇敬を集めるお稲荷様。

参道の右手には藤棚も整備。
藤の大木があった事から「藤稲荷」とも称された当社。
現在もこうして藤棚を設けているのは喜ばしい。

御朱印は本務社の新宿下落合氷川神社にて

当社の境内には社務所も整備。
但し、普段は無人の神社のためこちらでは御朱印の対応はなく、御朱印は本務社の「新宿下落合氷川神社」にて頂ける。

新宿下落合氷川神社 / 東京都新宿区
下落合鎮守の氷川さま。蛍の名所だった落合・落合の地名由来。江戸時代には「女体の宮」と称される・高田氷川神社と合わせて「夫婦の宮」。江戸名所図会に描かれた落合と当社。2,400年以上前に創建の伝承を持つ古社。幕末の狛犬(石獅子)。御朱印。

御朱印は「東山稲荷神社」の朱印。
「おとめ山 東山稲荷神社」の墨書き。

「藤稲荷」と呼ばれていた当社だが現在の通称は「東山稲荷神社」なのが分かる。但し頂いた御由緒書きには「東山(藤)稲荷神社」と記してあったり、旧社号碑には「東山藤稲荷神社」とも称してある。

所感

自然溢れる「おとめ山公園」の一画に鎮座する当社。
かつては源経基による創建の伝承が残り、源氏の守護神として崇敬を集めたと云う。
武家からの崇敬を集め、江戸時代になると御留山が徳川将軍家の御狩場として整備。
御留山は一般人の立ち入りを禁止とされるが、一般庶民も当社には参拝ができたようで、参道には小さな茶屋も立ち、多くの参拝者で賑わい、さらに山奥には奥之院が設けられたほどであった。
明治維新、さらに戦後と規模はとても小さくなり、今では無人の神社となっている。
一見すると無人の寂れた神社であるが社殿は綺麗に維持されていて、今も崇敬者がいる事が分かる。
無造作に置かれた石造物からは江戸時代の当社への崇敬と歴史が伝わる。
おとめ山周辺の歴史を伝える貴重なお稲荷様である。

神社画像

Google Maps

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