市谷亀岡八幡宮 / 東京都新宿区

神社情報

市谷亀岡八幡宮(いちがやかめがおかはちまんぐう)

御祭神:誉田別命・気長足姫尊・与登比売神
旧社格:郷社
例大祭:8月13-15日
所在地:東京都新宿区市谷八幡町15
最寄駅:市ヶ谷駅
公式サイト:http://www.ichigayahachiman.or.jp/

御由緒

亀岡八幡宮を謹請した道灌は、築城と歌の名人。
 永享四年(1432)、扇谷上杉家の重臣の子として生まれ、幼名を鶴千代、元服して持資、晩年入道してからの号が道灌です。太田道灌はわずか二十五歳の若さで、関東平野の要として江戸城を築きます。河越(埼玉県)、岩槻(同)にも城をつくりますが、いずれも地形をたくみに利用した要害で、近代築城術に、なみなみならぬ手腕を示します。道灌の戦法は出撃専門で、迎撃したことは一度もなく、したがって城下を侵されたこともありません。このため編み出したのが、農民用兵の新戦術。足軽や農兵をゲリラ的に駆使して、敵陣を切り崩して行くという、意表をついた機動作戦です。そのころ戦場で道灌が愛用した軍配団扇が、当社の宝物として残っています。江戸の城下町は大いに栄え、現在の常盤橋付近には、毎日にぎやかな市が立ち、全国各地からさまざまな物資が集まってきました。狩りの途中でにわか雨に会い、一軒のあばら屋でミノの借用を申し入れたところ、少女に無言のまま、山吹の小枝をさしだされましたが、その意味がわかりません。あとになって、『七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞ悲しき』の古歌にことよせ、ミノのないことを暗示したことを知り、一念発起して、歌の道に精進したという伝説は有名です。
茶の木稲荷社地内に、江戸城西方の守護として鶴岡八幡宮の分霊を勧請。
 道灌は、文明十一年(1479)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を、江戸城西方の守護神として勧請し、これを鶴に対して、亀岡八幡宮と称しました。のちになって、外濠が完成すると、さらに外郭の地、市谷の稲荷社地内に遷座。この稲荷神社が、現在の茶の木稲荷で、市谷には古くからあったものです。鎌倉時代、この周辺は市買村と呼ばれ、豪族市谷氏が所領したといわれています。その市買村の鎮守が、田の神をまつる稲荷神だったわけです。江戸城と河越城を拠点に、太田道灌の名声が高まるにつれ、その実力に不安を抱いた主君の上杉定正は、道灌を相模国糟谷の館によびよせ、浴室で斬殺してしまいました。五十五歳の生涯でした。
三代将軍家光や桂昌院も厚い信仰。
 この由緒ある亀岡八幡宮も、天正年間に戦火で破壊され、荒地と化してしまいました。慶長のころ、この荒廃に憤激した、別当源空少僧都は自力で再建しましたが、むかしの規模にはくらべようもありません。徳川家康が江戸城入城の折、当社の由来をたずね、その後、三代将軍家光から莫大な援助がありました。元禄十五年、将軍綱吉の母桂昌院が亀岡八幡宮の来歴を聞き、神輿のたらないのを悲しまれて、黄金を寄進。これによって、三基の神輿が完成するとともに、社のにぎわいも、ますます盛大になって行きました。桂昌院はたいへん振興深い方だったのです。同じ元禄年間に綱吉の側用人で、その権威並ぶ者なしといわれた柳沢吉保が、当社に参詣し、詩歌を献上しています。また、お参りのおり、境内に立ちならぶ露店の品々を、残らず買い上げ、露天商を感激させたという逸話もあります。
江戸市中きっての祭礼の華やかさ。
 江戸時代、亀岡八幡宮の祭礼のにぎわいは、目覚ましく、山の手地区の伊達をつくしたといわれています。祭の参加者は、旗本に奉公するキリッとした若者や、いなせな町奴がほとんどで、それを見物する腰元や武家の娘たちがあで姿をきそい、それを見ようとして、江戸中のひとびとが集まり、たいへんなさわぎでした。そのころの市谷は江戸を代表する盛り場だったのです。 祭は八月十五日で、一年おきに開催されましたが、当日は不思議なほどよく晴れ渡ったといわれています。 境内には、茶屋、芝居小屋、相撲小屋、仲見世、露店が軒をつらねて並び、終日にぎわったのです。左どなりの茶の木稲荷への石段は女坂といって、ここにも茶屋が軒をきそっていましたが、その中に、江戸の侠客、幡随院長兵衛が見染めた茶屋女がいたといわれています。 石段の上には、江戸八所の一つである時の鐘があって、江戸ッ子に時刻を知らせていましたが、明治初年の神仏分離の際に、「神社内に、鐘撞堂あるべからず」の達しによって、これを撤去してしまいました。むかしは、七ツの時(午後四時)を合図に境内の諸門をいっせいに閉じたのです。
火災の後遺症も深く、ひっそり迎える明治時代。
 亨保十年(1725)、青山から出火した火事は、みるみる紅蓮のつむじ風となって、赤坂、四谷、市谷となめつくし、その火勢に本社も類焼、楼門から鐘楼、本殿までことごとく灰になってしまったのです。 二年後の亨保十二年に、再建工事にとりかかりましたが、楼門が随身門になり、鐘楼が平棟になるなど、元禄時代の盛大さに比べると、いささか淋しいたたずまいとなりました。 それでも人出が多かったのは、社前の大路が四谷への往来で、ひとびとが混雑するうえ、門前町として、商家が軒をならべていたからです。明治五年に、郷社となりましたが、仏殿や芝居小屋、茶屋などをとりこわし、そのあとに樹木を植えたために、江戸の喧燥が嘘のように、すっかり静かになってしまいました。
五百年を越える歴史、多くの人に役立つ神社に。
 昭和二十年五月二十五日、空襲によって全焼。このとき、高さ実に五丈(約十五メートル)、周囲一丈五尺(約五メートル)という神木(もと天然記念物)クスノキも焼け落ちてしまいました。昭和三十七年に、現社殿に再建。
1979年(昭和五十四)には、亀岡八幡宮五百年祭を無事開催。1999年(平成十一)には、この市谷亀岡八幡宮公式サイト開設。2000年(平成十二)には新生崇敬会発足。今後もますます、応神天皇の学問神、八幡太郎義家の弓矢の神、つまり、学問研究と商売的中の神威ますます盛んになりますよう勤めて行きます。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/02/08(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/09/28(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※「市谷亀岡八幡宮」の御朱印と、境内社「茶ノ木稲荷神社」の2種類を頂ける。

(市谷亀岡八幡宮)

(茶ノ木稲荷神社)

御朱印帳

初穂料:1,200円
社務所にて。

オリジナルではなく汎用御朱印帳。
6種類を用意していた。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

授与品・頒布品

ペット傷病平癒御守
初穂料:800円
社務所にて。

※他にも百守鈴(ももりん)やペットの堀り札守りなどペット用御守が豊富。

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歴史考察

市谷総鎮守の八幡さま

東京都新宿区市谷八幡町に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、市谷一帯の総鎮守。
「亀岡」と書いて「かめがおか」と読む。
江戸城が築城された際に城西の鎮護として創建され、江戸時代には大いに賑わう人気の神社となっており、江戸八所八幡宮のうちの一社に数えられた。
最近ではペット初詣やペット祈願などを催し、豊富なペット御守なども用意しており、ペットと参拝できる神社としての知名度が高く、ペットに焦点を当てた神社の先駆け的一社となっている。

江戸城を築城した太田道灌により城西之鎮護として創建

社伝によると、文明十一年(1479)に太田道灌が創建したと伝えられる。

太田道灌は文明十年(1478)に江戸城を築城した人物。

道灌が江戸城築城の際、西方の守護神(城西之鎮護)として鎌倉の「鶴岡八幡宮」の分霊を祀ったのが創建とされており、当時は市谷御門の中に鎮座していた。

「鶴岡八幡宮」の「鶴」に対して、「亀岡八幡宮」と称した。

つるかめ(鶴亀)の縁起物に由来する。

道灌は江戸城を築城するにあたり、多くの寺社の創建や遷座をさせており、寺社に江戸城を鎮護させるという考えの元、当社には八幡神を祀り創建されたものと思われる。

戦国時代の荒廃と江戸時代の再建・遷座

天正年間(1573年-1593年)、戦乱によって荒廃。

天正という年号は、織田信長が公卿や朝廷を通じて改元させた年号で、いわゆる戦国時代にあたる。

天正十八年(1590)、関東移封によって江戸入りした徳川家康は、江戸城を居城とする。
その際に当社の由来を尋ねたと伝わる。

慶長年間(1596年-1615年)、別当「東圓寺」(現・廃寺)の源空少僧都が荒廃していた当社を再建。
しかしながら、かつての規模には遥かに及ばない小さな社であったと云う。

寛永年間(1624年-1644年)、第三代将軍・徳川家光の時代に江戸城の拡張と大工事である天下普請が行われ、江戸城の外濠が完成。
それに伴い市谷御門の中にあった当社は、現在地に遷座となった。

当地は市谷の稲荷山と呼ばれた地であり、古くから「茶ノ木稲荷神社」(現・当社の境内摂社)が鎮座しており、「茶ノ木稲荷神社」の境内に遷座したという形。
そのため、「茶ノ木稲荷神社」は地主神という扱いになる。

家光からは朱印地を賜り、莫大な援助があったとされる。
以後、徳川将軍家より崇敬を集めた。

徳川綱吉の生母・桂昌院からの崇敬による再興

元禄十五年(1702)、第五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、当社の来歴を聞き、神輿の数が足りていない事を残念に思い、黄金を寄進したため、三基の神輿が完成。

桂昌院は家光に見初められ、側室として綱吉を産んだ。

元禄年間(1688年-1704年)、綱吉の側用人・柳沢吉保も当社に参詣し詩歌を献上している。
参拝の折に、境内に立ちならぶ露店の品々を、残らず買い上げ、露天商を感激さたという逸話も残っている。

柳沢吉保は、綱吉から寵愛を受け大老格として幕政を主導した人物。

このように綱吉の時代に特に幕府より崇敬を集め、隆盛を迎える事となる。
特に祭礼の賑わいは目覚ましく、山の手地区を代表する賑わいだったと云う。

しかしながら、享保十年(1725)の青山火事で類焼。
享保十二年(1727)、再建となっている。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(市ヶ谷牛込絵図)

こちらは江戸後期の市谷牛込の切絵図。
右下が北の切絵図となっており、当社は左上に描かれている。

(市ヶ谷牛込絵図)

180度回転(北を左上に)させて当社周辺を拡大したものが上図になる。
赤円で囲った場所が当社で、「市ヶ谷八幡宮」「茶木稲荷社」「別當東圓寺」と記されている。
右手にあるのが「市谷御門」で、青いエリアが外濠となっている。
かつての当社はこの市谷御門の中にあり、こうして門前に遷座したのが分かる。

江戸名所図会や浮世絵に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「市谷八幡宮」として描かれているのが当社。
現在同様に小高い山(稲荷山)の上に鎮座しており、当時のほうが規模としては大きく賑やかな様相ではあるが、境内の配置などは現在とあまり相違がない。

石段途中の左手に「茶ノ木稲荷神社」が境内摂社として置かれているのも同じ。
石段に置かれた銅鳥居は文化元年(1804)建立のもので、現存している。
また、山頂の境内右手には「芝居」「茶や」の文字、左手には「土弓」の文字を見受けられ、当社が観光地として栄えた事も伝わる。

この他、当社は歌川広重の『名所江戸百景』にも「市ヶ谷八幡」として描かれている。

(歌川広重・名所江戸百景)

歌川広重による『名所江戸百景』から「市ヶ谷八幡」。
市谷御門の方角から当社を描いたもので、桜が咲く春の様子を描いている。
市谷の町並みと稲荷山、立派な社殿が見て取る事ができる。
江戸の名所の一つであった。

こうした『江戸名所図会』や『名所江戸百景』で描かれた当社であるが、享保十年(1725)の青山火事で類焼する以前は、更に盛大であったとされ、元禄年間(1688年-1704年)の頃の隆盛は、それ程凄かったのであろう。

江戸時代には、江戸八所八幡宮の一社に数えられた。

明治以降の歩み・戦後の再建

明治になり神仏分離。
明治五年(1873)、郷社に列した。

旧別当寺の「東圓寺」は、神仏分離の影響を受け明治四年(1872)に廃寺となっり、江戸八所の鐘に数えられた鐘楼も撤去されている。

明治以降は、江戸時代に賑わった芝居小屋などが撤退。
かつての賑わいは鳴りを潜めたと云う。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿や御神木など殆どが灰燼に帰した。
昭和三十七年(1962)、現在の社殿が再建されている。
その後も境内整備が進み、市谷総鎮守「市谷亀岡八幡宮」として現在に至っている。

現在は、ペット祈願やペット御守などペットと参拝できる神社として人気を集めている。

境内案内

江戸時代の銅鳥居が現存・八幡造の社殿

市ヶ谷駅より徒歩すぐ靖国通り沿いに参道。
左手に児童公園があり、右手には駿台予備校、石段が当社の参道となる。
急勾配になっており、石段途中には境内社「茶ノ木稲荷神社」が鎮座。(詳細は後述)

石段を上りきると明神型の銅鳥居。
文化元年(1804)に建立されたものが現存しており、新宿区内では現存する唯一の銅鳥居となっていて、細かい意匠も見事なもの。

鳥居の近くには二対の狛犬。
銅鳥居手前の狛犬は個性的な表情。
その先にある狛犬は銅鳥居と同年の文化元年(1804)に奉納。

鳥居を潜ると更に石段があり、参道途中右手に手水舎。
参道の先に社殿となる。

社殿は昭和三十七年(1962)に再建されたもの。
鉄筋コンクリート造の社殿となっているのだが、都内では珍しい八幡造社殿となっている。
八幡造から派生した権現造の社殿が多い中、八幡信仰らしい八幡造となっている。

八幡造とは、八幡信仰総本社「宇佐神宮」(大分県)代表される建築様式で、切妻造・平入りの建物が前後に二棟並ぶ形。

眼病平癒の霊験・空海伝説が残る茶ノ木稲荷神社

石段途中、左手に境内摂社の「茶ノ木稲荷神社」が鎮座。
摂社の規模としては珍しく、大変立派な社殿が用意されている。
当社が当地に遷座する前より鎮座していた稲荷様であり、当地の高台が古くは「稲荷山」と呼ばれていたように、こちらが地主神であった。

弘法大師・空海が関東下向の際に開山したとの伝説が残る。
江戸市中のみならず、遠方からも崇敬を集め、眼病平癒の霊験があったと伝わる。

昔この山に白狐がいたものの、ある時あやまって茶の木で目をつき、それ以来崇敬者は茶を忌み、正月の三ヶ日は茶を呑まない習俗残っていた。
特に眼病の人は17日、或は37日、21日の間茶をたって願えば霊験があらたかであったと伝わり、願いが成就したと云う。
それ故に「茶ノ木稲荷神社」と呼ばれた。

当社と同様に東京大空襲で焼失してしまい荒廃。
平成十二年(2000)に再建され、再び崇敬を集めるに至っている。
拝殿・本殿が用意され、しっかりとした独立した神社にも見える規模になっているのは、それだけ篤い崇敬を集めている証拠であろう。

その他の境内社や文化財

石段を上って銅鳥居の先、左手に金刀比羅宮。
さらに参道の右手に出世稲荷神社が鎮座。
稲荷山と呼ばれていた当地には多くのお稲荷様が祀られていたそうで、そのうちの一社と伝わる。

参道の左手には百度石。
お百度参りをした名残で崇敬者によるものであろう。
拝殿前には力石が置かれ、文政八年(1825)のものなど力比べに使われたものが並ぶ。

御朱印は社務所にて。
出世稲荷の右手に入口があるのでそちらでお願いできる。
「市谷亀ヶ岡八幡宮」「茶ノ木稲荷神社」の御朱印を頂ける。

ペットと参拝できる神社の先駆け的存在

最近では、ペットと参拝できる神社として、ペットを飼う方に知られる。
ペットに焦点を当てた神社の先駆けとも云える存在。

ペットと一緒の初詣、ご祈祷なども行われるのが特徴的。
犬猫に限らず、兎、小鳥、亀、フェレット、ハムスター、爬虫類など、ペットなら基本的に受け付けて下さる。
詳しくは下記の公式サイトを参照。

それと共にペット向けの御守など授与品も豊富。
カプセルタイプの百守鈴や、オーダーメイドタイプの彫り札守りなど様々なものを用意。

ペット御守は参拝が困難な遠方者向けに発送も行っている。

現代社会において、ペットというのは家族の一員と捉える方も多く、そこに焦点を当てて柔軟な発想で色々と対応されるのは興味深い。

所感

江戸城の城西之鎮護として創建された当社。
鎌倉の「鶴岡八幡宮」に対して「亀岡八幡宮」と称したように縁起のよい社号となっている。
徳川幕府からの崇敬も篤く、元禄の頃には大いに賑わったと伝わり、その後類焼の被害を受けるものの、広重の浮世絵にも残るように江戸の名所の1つであった。
空海伝説の残る境内社「茶ノ木稲荷神社」は、当地の地主神であり、こちらも立派な社殿が用意されていて、今も大切に祀られている事が伝わる。
現在はペット神社として別のアプローチで崇敬者を集めて人気になっており、参拝した日も愛犬を連れて祈願に訪れる方や撮影をされている方などの姿を見る事ができた。
現在のニーズに対応しつつ、氏子からの崇敬を依然と集め続けており、そうしたバランスも程よく色々な努力をされている良い神社である。

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神社画像

[ 社号碑・石段 ]

[ 石段 ]

[ 銅鳥居 ]

[ 石段 ]

[ 狛犬 ]




[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]



[ 本殿(前殿・後殿) ]

[ 茶ノ木稲荷神社 ]





[ 金刀比羅宮 ]

[ 出世稲荷神社 ]

[ 社務所 ]


[ 絵馬掛 ]

[ 石碑 ]

[ 力石 ]

[ 花物語碑 ]

[ 百度石 ]

[ 案内板 ]

Google Maps