神社情報
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)
御祭神:応神天皇・比売神・神功皇后
社格等:相模国一之宮(諸国一宮)・国幣中社・別表神社
例大祭:9月15日
所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
最寄駅:鎌倉駅
公式サイト:https://www.hachimangu.or.jp/
御由緒
康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、材木座に源氏の氏神として八幡宮をお祀りしたのがはじまりです。
その後、源源頼朝公はが鎌倉に入るや直ちに現在の地に遷し祀り、 建久2年(1191)には上下両宮の現在の姿に整えられました。鶴岡八幡宮は関東の守護、国家鎮護の神社となり、全国から崇敬を集め、各地に八幡宮(八幡神社)がお祀りされるようになりました。
現在の建物は、文政11年(1828)造営で流権現造りの代表的な江戸建築です。若宮(下宮)は、寛永元年(1624)に修復したもので、上宮とともに国の重要文化財に指定されています。
御本殿をはじめ、静御前が舞をおさめた若宮廻廊跡に建つ舞殿、そして源平池等、境内の様々な史跡が800年を超える長い歴史を語りかけてくれるかのようです。表参道である段葛、若宮大路から眺める八幡宮は、漆の朱と山の緑と空の青、更に遠近を考慮した色調と高低とを見事に演出させており、その美しさには驚嘆するばかりです。(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2017/06/09
御朱印
初穂料:500円(鶴岡八幡宮)・300円(旗上弁財天社)
各授与所にて。
※舞殿右手の授与所(御朱印所)にて「鶴岡八幡宮」の御朱印を頂ける。
※旗上弁財天社の右手の授与所にて「旗上弁財天社」の御朱印を頂ける。
御朱印帳
初穂料:各1,700円
授与所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意している。
表面に境内、裏面に段葛をデザインしたもの。
桜を基調として表面に巫女舞、裏面に社紋と社号をデザインしたもの。
それぞれ大サイズの御朱印帳となっている。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
授与品・頒布品
健康長寿御守
初穂料:1,000円
授与所にて。
鳩鈴守(銀)
初穂料:1,000円
授与所にて。
※金・銀・白の3色あり。
交通安全ステッカー
初穂料:800円
授与所にて。
※他に交通安全エンブレム(2種)あり。
歴史考察
源氏や鎌倉武士の守護神
神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座する神社。
源頼朝ゆかりの神社であり、鎌倉幕府と密接な関係を持つ源氏や鎌倉武士の守護神。
旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
「全国一の宮会」に加盟しており、相模国一之宮(歴史的には「寒川神社」)とされる事もある。
近年では「三大八幡宮」の一社に数える事もあり、全国的にも有名な八幡さま。
建造物の多くが重要文化財に指定されており、鎌倉国宝館には多数の国宝の工芸品を有し、境内は国の史跡に指定されている事でも知られている。
源頼義により鶴岡若宮として創建
社伝によると、康平六年(1063)創建とされる。
源頼義が奥州を平定し鎌倉に凱旋した際、源氏の氏神であり頼義が戦勝祈願した「石清水八幡宮」(現・京都府八幡市)を勧請したのが始まりと伝わる。
当時は、現在よりもやや南の地(現・鎌倉市材木座1-7)に鎮座しており「鶴岡若宮」と称した。
創建の地には、現在も「元鶴岡八幡宮(由比若宮)」が鎮座している。
永保元年(1081)、源義家(八幡太郎)が社殿を修復。
源頼朝により現在地に遷座
治承四年(1180年)、源頼朝が平氏追討のため、父・義朝が館を構えた鎌倉へ入る。
大倉の地(現・当宮の東一帯)に「大倉御所」を構えて、政治の拠点とした。
頼朝が鎌倉入りして最初に行った事は、当宮の遷宮であった。
小林郷北山(現在地)に遷座させ、先祖である源頼義・義家父子が創建修復し、源氏の氏神を祀った当宮を、鎌倉の中枢として整備を行っていく。
治承五年(1181)、本格的な社殿の造営を行い、遷宮祭が斎行。
養和二年(1182)、妻・北条政子の安産祈願のため、社殿より由比ヶ浜に至る参道(若宮大路)を造営。
有力御家人たちが土や石を運んで段葛を造り、頼朝が自ら監督を行った。
さらに社殿近くの水田三町余を池に改めるなど、境内整備を行った。
この池が現在の源平池である。
静御前が舞った若宮廻廊(現・舞殿)
文治二年(1186)、捕らえられた静御前が鎌倉に送られる。
同年、静は頼朝に当宮で白拍子の舞を命じられた。
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
上の錦絵は『大日本歴史錦繪』に収録された歌川国芳による『頼朝公鶴岡の神前において靜御前のまひを見給ふ圖」で、元は江戸時代後期の作品。
当宮の若宮廻廊で舞った静御前とそれを鑑賞する頼朝を描いている。
当時はまだ舞殿が造営される前の時代であり、静御前が舞ったのは若宮廻廊であったとされる。
後に境内整備される際に、若宮廻廊跡に舞殿が造営された。
上宮・下宮の体制に整備
建久二年(1191)、鎌倉に大火が発生。
完成したばかりの五重塔に燃え移り、御所・社殿・廻廊・経所が悉く灰燼と化してしまう。
同年、すぐに再建が開始。
若宮(現・下宮)を再建すると、新たに上宮を創建し、改めて「石清水八幡宮」を勧請。
現在の上宮・下宮の体制に整えた。
承元二年(1208)、神宮寺が創建されている。
鎌倉幕府が成立後は、源氏や鎌倉武士の守護神として武家より大いに崇敬を集めた。
鎌倉三代将軍・源実朝の落命の地
建久十年(1199)、源頼朝が薨去し、嫡男・頼家が将軍職を継ぐ。
建仁三年(1203)、比企能員の変により頼家は将軍職を失う。
代わりに弟の実朝が征夷大将軍に就き、鎌倉三代将軍となる。
実朝が暗殺された地が当宮の境内であり、関わりが深い。
建保六年(1218)、武士として初めて右大臣に任命される。
建保七年(1219)、就任を祝う鶴岡八幡宮拝賀を迎える。
実朝は御所を出発し当宮へ入り、夜になり神拝を終え退出。
その際に「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ兄の頼家の子・公暁に襲われ落命した。
鎌倉八幡宮の戦いで焼失・再建
鎌倉時代には、幕府や御家人から崇敬を集めた当宮も、鎌倉幕府の衰退と共に一時荒廃。
大永六年(1526)、相模国の北条氏綱と、安房国の里見義豊・実堯との間で戦が行われる。
里見軍は鎌倉に突入し、兵火が当宮に燃え移り社殿が焼失。
天文九年(1540)、焼失した社殿を北条氏綱が再建。
その後勢力を伸ばし関東を支配した後北条氏(小田原北条氏)によって崇敬される。
江戸幕府による庇護と発展
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡。
秀吉は当宮に立ち寄り、社殿造営を約束したと云う。
同年、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
天正十九年(1591)、秀吉の命を受け、家康によって当宮の改築が開始される。
以後、徳川将軍家より多大な崇敬を集め、庇護を受ける。
家康は、仁王門・護摩堂・輪蔵・神楽殿・愛染堂・六角堂・観音堂・法華堂・弁天堂などが造営。
寛永元年(1624)、二代将軍・徳川秀忠により上下両宮の遷宮が行われた。
下宮(若宮)はこの当時のものが改修されつつ現存、国の重要文化財に指定されている。
三代将軍・徳川家光の代には、薬師堂・鐘楼・楼門などが造営された。
寛文八年(1668)、浜の大鳥居と呼ばれていた鳥居が石造にて再造営。
これが現存する一之鳥居である。
貞享二年(1685)に編纂された『新編鎌倉志』に当宮の図が描かれている。
当宮の境内だけでなく由比ヶ浜からの参道・若宮大路を記してある。
現存する一之鳥居や、その先の二之鳥居・段葛など、現在の当宮や鎌倉の町並みの基礎が既に出来上がっていた事が窺える史料である。
当宮の上宮下宮を中心に拡大したのが上図。
舞殿、横に下宮、大石段の横には大銀杏があり、大石段を上った先に上宮と、現在の境内にかなり近い。
仁王門や愛染堂、六角堂、薬師堂など神仏習合のもとで崇敬を集めた。
十一代将軍・徳川家斉による再建
文政四年(1821)、火災によって上宮本殿が焼失。
文政十一年(1828)、十一代将軍・徳川家斉によって再建。
これが現存する本殿で、国の重要文化財に指定されている。
画像の楼門の奥が本殿になるが内部は撮影禁止につき、公式サイトをご覧頂きたい。
本殿九間社流造による美しい権現造となっている。
明治以降の歩み・古写真で見る当宮
明治になり神仏分離。
明治四年(1871)、県社に列した。
明治六年(1873)、明治天皇が陸軍の野外演習を上宮裏の大臣山で天覧し、その後当宮に行幸。
明治十五年(1882)、国幣中社に昇格。
明治四十年(1907)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当宮の鎮座地は今も昔も変わらない。
当宮の境内や鎌倉の地形もほぼ変わらず、歴史ある古都鎌倉を引き継いでいる。
大正七年(1918)、段葛が改修。
桜を植えられ、現在の桜の名所となる基礎を作った。
上の古写真は、大正十一年(1922)に皇国敬神会より出版された『全国有名神社御写真帖』から当宮の写真。
現在とかなり近い形式で舞殿、大石段、上宮と見る事ができる。
大石段の左手には今はなき大銀杏の姿も見る事ができる。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
上宮の楼門、舞殿や一之鳥居などが倒壊しており、上の写真は倒壊前の姿である。
昭和七年(1932)、上宮楼門と舞殿、一之鳥居などが再建。
上の古写真は昭和十四年(1939)に萬朝報横濱支局より出版された『神奈川縣神社寫眞帖』から、当宮の当時の写真。
関東大震災から復興され、以前の姿にほぼ戻った舞殿と上宮楼門を見る事ができる。
右手には下宮(若宮)の姿を見る事もでき、今の形にかなり近い。
戦後になり神社本庁の別表神社となる。
その後も境内整備が進む。
昭和五十五年(1980)、遷宮八百年記念で「旗上弁財天社」が再建。
文政年間(1818年-1830年)の古図を元に復元された。
平成二十二年(2010)、強風によって大石段左の大銀杏が倒伏。
樹齢1,000年とも云われた大銀杏であったが、現在は再生の若芽が成長している。
平成二十八年(2016)、史跡整備工事を行っていた段葛が竣工している。
現在は「全国一の宮会」に加盟しており、相模国一之宮(歴史的には「寒川神社」)とされる事もある。
境内案内
重要文化財の一之鳥居
最寄駅は鎌倉駅で長い参道(若宮大路)が整備されているので分かりやすい。
駅から当宮の境内とは逆方向に大鳥居(一之鳥居)が置かれている。
由比ヶ浜から県道21号線を進むとあるのが大変立派な石造の一之鳥居。
海側に建つ事から「浜の大鳥居」とも呼ばれ、現在の大鳥居は寛文八年(1668)に造営されたものが現存。
崇源院は当宮を篤く崇敬し、ある日「備前国犬島に奇石あり、その石を以って鶴岡社前の大鳥居を建立し給ふべし」という八幡大神の霊夢を見たため、次の社頭修営の時には必ずそのお告げを実行するように息子の家光に頼み他界。
寛文八年(1668)、家光の子の四代将軍・徳川家綱の代になりようやく実現に至った。
政子の安産祈願のために造営された若宮大路と段葛
由比ヶ浜から当宮までの長い参道を「若宮大路」と呼ぶ。
一之鳥居から進むとあるのが二之鳥居。
鎌倉駅から参詣する場合は、この二之鳥居から目にする事が殆どであろう。
二之鳥居の先は、段葛(だんかずら)として整備されている。
有力御家人たちが土や石を運んで段葛を造り、頼朝が自ら監督を行った。
かつての段葛は両脇に何も植えられていなかったそうだが、明治の頃に松や梅が植えられ、大正七年(1918)には桜が植えられたため、桜のトンネルが名所となる。
平成二十八年(2016)、史跡整備工事を行っていた段葛が竣工し、桜の本数は少し減らされたが新たに植えられた桜が春になると美しく咲く。
段葛を進むと信号があり、その先に三之鳥居。
その先が大変立派な境内となる。
高低が美しい境内・下拝殿とも呼ばれる舞殿
三之鳥居を潜ると正面に石橋(太鼓橋)。
かつてはこの石橋を自由に渡る事ができ、撮影スポットとしても知られた。
現在は安全のため立ち入りは禁止となっている。
石橋の先には広く長い参道があり、その先に舞殿・上宮(本宮)を見る事ができる。
色調と高低を意識した実に美しい造り。
参道には平日でも多くの露店が出て賑わいを見せる。
参道の正面にあるのが舞殿。
かつて静御前が舞った若宮廻廊跡に造営された。
美しい舞殿は拝殿も兼ねているため「下拝殿」とも呼ばれる。
舞殿と大石段、上宮(本宮)の高低差が美しい。
これぞ大社と云うべき計算された造りとなっている。
若宮(下宮)と倒伏した大銀杏
大石段の右手には若宮社が鎮座。
2017年6月に参拝時は残念ながら改修中であったが、寛永元年(1624)に造営で、国の重要文化財。
上宮(本宮)に対して下宮とも呼ばれ、かつての社殿はこの若宮側に鎮座していた。
大石段の左手にあるのが御神木の大銀杏。
かつては樹齢1,000年とも云われた立派な御神木であった。
当宮のシンボルの1つでもあった大銀杏。
平成二十二年(2010)、強風のため大銀杏が根元から倒伏。
倒伏した樹幹部分は、再生可能な高さ4mに切断され、移されたのが現在の幹の部分。
親銀杏として今も大切に保護されている。
その右隣、元の大銀杏があった場所には、再生への努力が実を結び若芽が出現。
子銀杏として剪定をしながら数年をかけて「後継樹」として成長を続けている。
数年前に参詣した際はまだ小さな木であったが、現在は大石段を超える高さにまで成長。
このまま長い年月をかけてかつての御神木のように成長して欲しいものである。
大石段上の本宮(上宮)と鳩の扁額
舞殿の先には大石段。
石段を上ると鎌倉の街を一望する事ができる。
上った先にあるのが本宮の楼門。
扁額には「八幡宮」の文字が記され、八の文字は鳩で形作られている。
そのため当宮の境内には鳩が多く、授与品などにも鳩のものが多い。
鎌倉名物「鳩サブレー」も当宮が由来。
楼門を潜るとその先に本宮(上宮)。
文政十一年(1828)、十一代将軍・徳川家斉によって再建。
これが現存する本殿で、国の重要文化財に指定されている。
内部は撮影禁止につき、公式サイトをご覧頂きたい。
本殿九間社流造による美しい権現造となっている。
御朱印は大石段の下にある授与所にて。
御祈祷受付の一画に御朱印用の受付所があるのでそちらで対応して頂ける。
産土神の丸山稲荷社・境外にある今宮(新宮)
本宮(上宮)の左手に境内社の「丸山稲荷社」が鎮座。
本宮よりも高い位置に鎮座しており、石段を上った先に社殿となる。
『新編鎌倉志』には、「本社の地に、初は稲荷の社ありしを、建久年中、頼朝卿稲荷の社を此山に移して今の本社を剏建せらる」とある事から、頼朝が遷座させる前より鎮座していた稲荷社で、いわば当地の産土神と云えるであろう。
社殿は室町時代中期のものとされており、当宮において最古の建造物として、国の重要文化財に指定されている。
丸山稲荷社の脇の石段を下りると、境内の左手に出る。
北に向かうと大型バス用の駐車場や休憩所があり、境外に出て鶴岡文庫の先を進むと住宅街の路地へ。
その奥に当宮の「今宮(新宮)」が鎮座している。
大変静かな空間でこちらまで参拝する人はほぼいないため静寂に包まれる。
御祭神は後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇の三天皇(上皇)で、いずれも承久の乱で流された天皇である
宝治元年(1247)、幕府が後鳥羽上皇の怨霊を畏れて社を建立。
本宮に対して新しく造られたため、今宮(新宮)と称された。
怨霊を畏れて創建された、いわば御霊信仰の神社となっている。
緑に囲まれた一画。
人気の当宮の中で、唯一と言っていい程、人の気配を感じない一画なので、ぜひこちらまで足を伸ばしてみて欲しい。
源平池の島に再建された旗上弁財天社
三之鳥居を潜ってすぐ、参道の両脇に池が整備されており、これを源平池と呼ぶ。
養和二年(1182)、源頼朝が妻・北条政子の安産祈願のために若宮大路を整備したが、その際にこうして池も整備され、現在も名勝の一画として整備され、夏には紅白の蓮の花が咲く。
源平池の東の島に鎮座するのが「旗上弁財天社」。
橋を渡った先に鳥居。
その先に鎮座。
明治の神仏分離で一時は廃仏毀釈の煽りを受け廃れたものの、昭和五十五年(1980)に再建。
文政年間(1818年-1830年)の古図を元に復元された。
「鶴岡八幡宮」の御朱印の他に、この「旗上弁財天社」の御朱印も用意されている。
旗上弁財天社の社殿の右手に授与所が用意されているので、旗上弁財天社の御朱印はこちらでお受けできる。
鎌倉江の島七福神の専用御朱印帳も用意されている。
その他、旗上弁財天社の裏手には政子石と呼ばれる夫婦円満の祈願石も置かれている。
頼朝と実朝を祀る白旗神社・一帯にはリスの姿も
境内の右手に境内社の「白旗神社」が鎮座。
御祭神は源頼朝公と実朝公で、黒塗りの社殿が印象的。
白旗は源氏の旗印から来ており、当宮の白旗神社には豊臣秀吉の逸話が残る。
お祀りされていた頼朝像を見て「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり。」と云い、笑いながら頼朝像をポンポンと叩いたという逸話。
秀吉らしい逸話とも云えるだろう。
若宮(下宮)から、この白旗神社までの一帯には、よくリスを見る事ができる。
至る所にちょこちょこと歩いているタイワンリス。
かなり人に馴れていて可愛らしいが、接し方には気を付ける事。
他にも多数見どころがあるので、公式サイトの施設案内を確認してから参拝すると、より楽しめると思う。
所感
鎌倉の歴史を伝える当宮。
源頼朝によって遷座され境内整備が行われ、鎌倉武士の守護神として崇敬を集めた。
頼朝が整備し、静御前が舞い、実朝が落命した当宮は、鎌倉幕府の歴史そのものが多く詰まっている神社と云う事ができるだろう。
その後も武家からの崇敬が篤く、江戸時代の整備によって今の姿が形作られた。
舞殿・若宮(下宮)・本宮(上宮)の高低による配置は実に美しく、大社たる存在感のある境内で、鎌倉には名所が多くあるが、その中でも代表する一社であり、1日じっくりかけて当宮だけ巡る事もできるくらい、素晴らしい歴史が詰まった神社だと思う。
観光地としても常に賑わいを見せる当宮は、今も昔も崇敬を集める、全国を代表する八幡さまである。
神社画像
[ 一之鳥居 ]
[ 二之鳥居・社号碑・狛犬 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 狛犬 ]
[ 段葛 ]
[ 三之鳥居 ]
[ 石橋 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 舞殿(下拝殿) ]
[ 本宮(上宮)・舞殿 ]
[ 若宮(下宮) ]
[ 若宮儀式殿 ]
[ 授与所・祈祷受付所 ]
[ 大銀杏 ]
[ 狛犬 ]
[ 大石段・本宮(上宮)楼門 ]
[ 本宮(上宮)楼門 ]
[ 授与所 ]
[ 丸山稲荷社 ]
[ 西鳥居 ]
[ 流鏑馬馬場 ]
[ 祖霊社脇 ]
[ 祖霊社 ]
[ 奉献樽 ]
[ 授与所 ]
[ 旗上弁財天社 ]
[ 旗上弁財天社授与所 ]
[ 源平池 ]
[ 案内板 ]
[ タイワンリス・鳩 ]
[ タイワンリス ]
[ 柳原神池 ]
[ 参道 ]
[ 由比若宮遥拝所 ]
[ 鶴亀石 ]
[ 歌碑 ]
[ 白旗神社手水舎 ]
[ 白旗神社 ]
[ 鎌倉国宝館 ]
[ 東鳥居 ]
[ 斎館 ]
[ さざれ石 ]
[ 今宮(新宮)参道 ]
[ 今宮(新宮) ]
[ 案内板 ]
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