嶺御嶽神社 / 東京都大田区

大田区

概要

木曽御嶽山関東第一分社・嶺の御嶽山

東京都大田区北嶺町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧嶺村の鎮守。
木曽御嶽山を信仰する木曽御嶽信仰の神社で、木曽御嶽山関東第一分社。
御嶽信仰の崇敬者からは「嶺の御嶽山」と呼ばれる。
正式名称は「御嶽神社」だが、他との区別のため「嶺御嶽神社」とさせて頂く。
公式サイトには「大田区御嶽神社」とも記されている。

神社情報

嶺御嶽神社(みねおんたけじんじゃ)

御祭神:国常立命・国狭槌命・豊雲野尊
社格等:村社
例大祭:9月第2か第3の土・日曜
所在地:東京都大田区北嶺町37-20
最寄駅:御嶽山駅
公式サイト:http://mineno-ontake.com/

御由緒

御嶽神社の創祀は、嶺村(現嶺町地区)ができた天文4年(1535年)頃と謂われる。
当時は小社であり祠に近いものであったと推察されるが、後の天保年間(江戸時代後期)に木曾御嶽山で修業をされた一山行者が来社して以来信者が激増し、天保2年(1831年)に現在の大きな社殿を建立し御霊を遷座した。信者の中には江戸の豪商なども多くあり、かなりの寄進がされたようである。関東一円から木曾御嶽山を信仰する信者たちが多数訪れ、その勢いは江戸、明治、大正、昭和へと続く。「嶺の御嶽神社に三度参拝すれば、木曾御嶽山へ一回行ったのと同じ」と言われていたようだ。第二次大戦後は、木曾御嶽山の信者数全体が減少傾向にあるが、現在でも猶、講社が団体で定期的に参拝に来ている。一方、六地区の氏子地域を持ち奉賛会も組織されていることから、地元氏子にも大きく支えられ祭礼も年々盛大になっている。また、20年に一度、本山へ神輿を運んで担ぐ式年祭も執行されている(平成23年8月が第二回目)。神社境内地奥には「霊神の杜」と名付けられた鎮守の森があり、霊神碑と共に神域になっている。森の植樹には横浜国立大学名誉教授宮脇昭先生が監修された。中央に鎮座する本殿は大田区の文化財であり、殊に壁面の彫刻は圧巻。また、樹齢四百年の黒松が「夫婦松」として崇敬を集めている。その他様々な名所が境内地に点在し、商店街の中とは思えない静謐な空間を作り出している。公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2021/09/24(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/11/05(御朱印拝受)
参拝日:2015/11/30(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:500円
第一社務所にて。

※兼務社である「嶺白山神社」「嶺天祖神社」「嶺稲荷神社」の御朱印もお受けできる。
※以前は初穂料300円だったが2021年参拝時は500円に変更。

歴史考察

室町時代後期・嶺村の成立と共に創建

社伝によると、天文四年(1535)に創建と伝わる。
嶺村の成立と同時期に創建したものとされている。

嶺村(みねむら)
現在の北嶺町・東嶺町・西嶺町などの大田区嶺町エリア。
武蔵国での嶺とは多摩川北部の段丘(国分寺崖線)上の高地を表す事が多い。
当地が周囲よりやや小高い地形になっていたことから村名が付けられたと思われる。

当時はまだ小さな祠であったと云う。

木曽御嶽山を崇敬していた村の信者によって建てられたのであろう。
木曽御嶽山(きそおんたけさん)
長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市に跨る標高3,067 mの複合成層火山。
古くから山岳信仰のあった山で、江戸後期には覚明・普寛によって「木曽御嶽信仰(きそおんたけしんこう)」と云う信仰が成立。
講社が多く結成され庶民の信仰を集めた。
※2014年の御嶽山が噴火し登山者の多くが巻き込まれ日本における戦後最悪の火山災害があった事が記憶に新しい。

新編武蔵風土記稿に記された嶺村の御嶽社

江戸時代に入っても、創建から300年余りは小さな祠であったとされる。
農村の外れに置かれた規模の小さな祠であった。

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(嶺村)
御嶽社
見捨地四畝。これも村の北にあり。小祠なり。

「御嶽社」として記されている。
「小祠なり」とあるように、創建から300年近く経った当時もまだ小さな祠であった事が窺える。

嶺村には他に「釋護子八幡社」「太神宮」「女體権現社」「稲荷社」の記述があるのだが、その中でも当社はとても短く触れられているだけである。

一山行者により木曽御嶽山関東第一分社へ

天保二年(1831)、一山行者が当社を「木曽御嶽山関東第一分社」として木曽御嶽山の御分霊を勧請。
小さな祠しかなかった当地に現存する立派な社殿を建立。
これにより江戸や関東一円の御嶽信仰崇敬者による参拝が増える事となる。

一山行者(いっさんぎょうじゃ)
江戸時代後期の木曽御嶽信仰の高名な行者。
木曽御嶽山に修験者として入り修行に励んだと云う。

一山行者が当社を「木曽御嶽山関東第一分社」としたのには以下の伝承が残っている。

木曽御嶽山関東第一分社(きそおんたけさんかんとうだいいちぶんしゃ)
一山行者が木曽御嶽山で修行中、夢に御嶽三社の大神が現れ「早々下山し世間大衆の苦悩を救え、幸い汝に因縁の地あり、都を去る三里。」と告げる。
一山行者は霊夢に従い江戸に赴き布教をしながら霊夢の地を探す事となる。
武州荏原郡嶺村(当地)に御嶽社の小さな祠を発見。
これが霊夢の地であると確信し当地で教えを説くを決め、天保二年(1831)に社殿を造営した。

高名であった一山行者の教えを聞くため各地に多くの信者を得るようになり、当社の名が広まるようになった。

当社には境内社として一山行者や祖霊を祀る「一山神社(祖霊社)」も鎮座している。

当社に3度参拝すれば木曽御嶽山へ1回行ったのと同じ

木曽御嶽山を信仰する御嶽講は、一山行者によって「木曽御嶽山関東第一分社」とされた当社を中心として関東一円に広まる事となり、現在の規模の神社へと発展。
当社は「嶺村」に鎮座していた事から「嶺の御嶽山」と呼ばれ崇敬を集めた。

江戸時代には山岳信仰が盛んになっていた背景があり、江戸で流行した代表的な山岳信仰としては富士山信仰の富士講、さらに大山信仰の大山講などがある。
当社の御利益
「嶺の御嶽山(当社)に3度参拝すれば木曽御嶽山へ1回行ったのと同じ。」
信者からはそう信じられ篤く崇敬を集めた。
古くは富士講の富士塚のように高さ4mほどの人工の御嶽塚があったとされ、その塚に登拝すると木曽御嶽山へ登拝した事と同じような御利益を得られると信じられたため、大変に賑わったとされる。

そのため木曽御嶽山まで行けない江戸近郊の崇敬者も当社まで参詣する事が多く、今もなお当社へ参拝するための講も存在すると云う。

明治以降の歩み・御嶽山駅の由来

明治になり神仏分離。
当社は嶺村の鎮守として村社に列した。

江戸後期までは小さな祠であった当社であるが、一山行者が当社を「木曽御嶽山関東第一分社」として勧請して以降は嶺村の鎮守とされていた事からも、多くの崇敬者を集めた事が分かる。

明治二十二年(1889)、市町村制の施行に伴い嶺村・上沼部村・下沼部村・鵜ノ木村の4村が合併し調布村が発足。
この頃は東京府荏原郡調布村大字嶺に鎮座していた。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
地図上に「御嶽神社」と名称も記されている事からも当地周辺の目印になる規模だった事が窺える。
まだ池上線も開通前で、農村地帯の中に当社を中心として発展した町屋があった。

嶺村から引き継いだ嶺という地名の他、当社周辺は神岡とも呼ばれていたようで、当社に由来するのであろう。

大正十二年(1923)、池上電気鉄道により池上線「御嶽山前駅」が開業。
昭和四年(1929)、現在の「御嶽山駅」に改称されている。

駅名の由来は当社による。

昭和七年(1932)、大森区が成立し当地は調布嶺町となる。

戦時中の戦災では神門や額堂が焼失したが社殿の被災は免れている。

昭和四十五年(1970)、順次行われていた住居表示により現在の町名となる。

平成二十年(2008)、杜の霊神水を整備。
平成二十一年(2009)、境内に霊神の杜を整備。
その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

御嶽山駅からすぐに鎮座・社頭の大きな社号碑

当社が駅名由来となった御嶽山駅から徒歩ですぐイオンスタイル御嶽山駅前の先に鎮座。
大変大きな社号碑が特徴的で存在感を放つ。
書家・中島司有氏の揮毫と云い、「御嶽神社」と書いて「おんたけじんじゃ」と読む。

「おんたけ」と「みたけ」の違い
全国各地にある「御嶽神社」は、大和国吉野(現・奈良県)の金峯山寺本堂である蔵王権現を根底にしている、いわゆる蔵王信仰を基礎としたものが多く、この場合は読みとしては「御嶽(みたけ)神社」と読む場合が殆ど。
しかし、当社など木曽御嶽山を信仰し木曽御嶽山に鎮座する「木曽御嶽神社」が基礎となっている神社は「御嶽(おんたけ)神社」と読む。

参道には大きな鳥居。
戦前には鳥居の位置に立派な神門もあったと云う。
鳥居の左手には「開山・一山行者」の碑。

幕末奉納の狛犬・拝殿前には狼の狛犬

参道途中に一対の狛犬。
慶応三年(1867)奉納の狛犬。
木の柵で囲われているが中々に個性的な表情の狛犬。
顔つきもユニークで他では中々見る事ができない。

その手前に百度石。
明治十五年(1882)のもので「御嶽に丸に三つ引き」の社紋も彫られている。

参道の左手に手水舎。
身を清める事ができる。

拝殿前にも一対の狛犬。
その形は狼。
山岳信仰では、神使が狼(山犬)とされる事が多い。
木曽御嶽信仰の当社にもこうして狼の狛犬が置かれている。

彫刻が見事な江戸時代の社殿が現存

参道の正面に立派な社殿。
社殿は天保二年(1831)に造営されたものが現存。
当社の中興の祖と云える一山行者によって造営された社殿。
拝殿の彫刻も中々に見事。
拝殿中央には「三社宮」の扁額があり、御嶽信仰の三柱を祀った事による。
社紋は「御嶽に丸に三つ引き」であり、三柱の神によるものであろう。

本社である木曽御嶽山も同様の社紋となっている。

特筆すべきは本殿の彫刻。
宮大工であった藤原篤意が天保二年(1831)の社殿造営に併せて製作した彫刻。
浦島太郎、養老の滝、司馬温公甕かめ割りなど和漢の物語、故事に因んだものが彫られている。
見事な彫刻で、大田区の指定文化財。
公式サイトにも詳しい説明があるので見てみるのがよいだろう。

御嶽神社の文化財

水行堂・延命地蔵

参道の左手には水行堂。
切妻造りで信徒が水行をするために明治期に建てられたもの。

その右手には延命地蔵が置かれている。
昭和十三年(1938)の阪神大水害の際、兵庫県西宮市を流れる夙川の土手にあった地蔵の傍らで数人の女の子が助かった事もあり、我が子を救われた前田氏が荒れ果てた土手からお地蔵様を引き取った。
その後、前田氏が大田区へ移住した縁もあり、平成九年(1997)に当地に安置されたもの。

一山行者を祀る一山神社

社殿の左手には境内社の一山神社。
当社が小さな祠から現在の規模になるに至った中興の祖である一山行者を祀る。
扁額には一山霊神の文字があり、一山行者を神格化したもの。
その左手には稲荷神社も置かれている。

大鳥神社・11月には酉の市も

社殿の右手には大鳥神社。
11月の酉の日には「酉の市」が開催され熊手商なども出る。

酉の市(とりのいち)
例年11月の酉の日に行われる祭。
日本武尊を御祭神とする大鳥信仰系の神社で行われる事が多い特殊神事。
花畑大鷲神社」(足立区花畑)が発祥とされ、江戸時代から現在にかけては吉原遊廓に隣接していた「浅草鷲神社」の酉の市が日本最大の酉の市として知られる。
花畑大鷲神社 / 東京都足立区
酉の市発祥の神社。花畑(旧花又村)鎮守。酉年限定頒布の鷲掴み守。11月酉の日は酉の市・起源と歴史。源義光(新羅三郎)の伝承。義光の末裔とされる秋田藩主・佐竹氏からの寄進。見事な彫刻がある本殿は必見。立派な神苑を有する境内。御朱印。御朱印帳。
浅草鷲神社 / 東京都台東区
日本最大の酉の市で知られるお酉さま。浅草田圃に鎮座・裏手に吉原遊郭(新吉原)が移転。酉の市起源発祥の考察。24時間開催!酉の市・粋な熊手の買い方。幸福を呼ぶ「なでおかめ」・願い事を納める叶鷲。限定御朱印。鷲の御朱印帳。酉の市を描いた浮世絵。
令和三年(2021)の酉の市
一の酉:11月9日(火)
二の酉:11月21日(日)
※三の酉はなし

大鳥神社の前にも一対の狛犬。
ずんぐりとした体躯の狛犬は天保九年(1838)奉納。
くるくるとした巻毛が可愛らしい。

杜の霊神水・霊神の杜など整備された境内

社殿の左手奥には杜の霊神水として整備された一画。
かつて一山行者が水行をしていたと伝わる古井戸だったと云う。
長く参拝者から顧みられない状態が続いたため、平成二十年(2008)に杜の霊神水として再整備。
お水取りなどはできないが、凛とした空気に満ちた一画となっている。

その先(社殿の裏手)には霊神の杜・霊神碑として整備された区画。
平成二十一年(2009)に整備された場所であり、当社に祀られた石碑や講による霊神碑などが綺麗に配列。
当地への崇敬と歴史を伝えている。
左手には御嶽教の創始者・渡辺菊太郎の像。
他にも木曽御嶽山長崎稲荷大明神など、大変多くの碑や像が並べられている。

大鳥神社の近くには夫婦松。
樹齢400年の黒松が2本。
高く聳え立ち、古くから崇敬を集めている。

兼務社含め計4社の御朱印を頂ける

御朱印は水行堂の奥にある第一社務所にて。
鳥居潜ってすぐ左手に社務所兼御嶽会館があるが、そちらは氏子崇敬者の参集殿になっているので、こちらの第一社務所にて対応して頂ける。

御朱印は「嶺御嶽神社印」の朱印。
上には「御嶽に丸に三つ引き」の社紋。

案内はないが兼務社である「嶺白山神社」「嶺天祖神社」「嶺稲荷神社」の御朱印も頂ける。
嶺白山神社 / 東京都大田区
樹齢600年の御神木を有する嶺の白山神社。パワースポットとされる御神木のタブノキ。「SEKAI NO OWARI」結成ゆかりの神社。古くは女體権現社と称される。環八沿いに鎮座。大正期の社殿が現存。庚申塔。御朱印は本務社の「嶺御嶽神社」にて。
嶺天祖神社 / 東京都大田区
嶺の天祖神社。環八通り沿いに鎮座する小さなお伊勢様。都内で唯一の禰宜舞が行われる例祭。「伊勢神宮」に参拝した嶺村の村人によって創建。新編武蔵風土記稿に記された当社。明治維新後の歩み・地域の集いの場となる。本務社は「嶺御嶽神社」。御朱印。
嶺稲荷神社 / 東京都大田区
住宅街の嶺稲荷児童遊園に鎮座する小さな稲荷神社。江戸後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に記された当社。明治維新後の歩み。勤労奉仕による整備。戦後になり区立の児童遊園へ。鉄柵で保護された戦前の神狐像・小さな社。本務社は「嶺御嶽神社」。御朱印。
兼務社の御朱印も頂く際は必ず兼務社にも参詣する事。

所感

木曽御嶽山の関東第一分社として関東一円の御嶽信仰信者に崇敬された当社。
2014年に木曽御嶽山が噴火した影響もあり、御嶽山の知名度が色々な意味で上がってしまったものと思うが、木曽御嶽山は古くから信仰の対象として崇められていた山。
そんな木曽御嶽山を信仰する当社には中興当時の社殿が現存していたり、石碑などからも御嶽信仰の歴史を感じさせてくれ大変見どころも多い。
今もなお「嶺の御嶽山」として崇敬を集めており、現在でも講による団体参拝が行われている他、旧嶺村の鎮守として氏子による崇敬も篤い。
参拝するといつも参拝者が後を絶たないし、近所の方々が通りがてら参拝していく姿を見る事ができるのは、それだけ地域に根付いた神社という事であろう。
朝に訪れると氏子が掃除をしている姿を見る事ができ、神職や氏子崇敬者の手によってこうした綺麗な境内を維持できているのが窺え、清々しい気分にさせてくれる良社である。

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