神社情報
嶺白山神社(みねいなりじんじゃ)
御祭神:倉稲魂命
社格等:─
例大祭:2月初午日
所在地:東京都大田区西嶺町18-2
最寄駅:久が原駅・鵜の木駅
公式サイト:─
御由緒
不詳。
参拝情報
参拝日:2017/11/05
御朱印
初穂料:300円
「嶺御嶽神社」第一社務所にて。
※本務社である「嶺御嶽神社」にてお受けできる。
歴史考察
児童遊園の中にある小さな稲荷神社
東京都大田区西嶺町に鎮座する神社。
旧社格は無格社。
創建年代や御由緒は不詳ながら江戸後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に名を見る事ができる。
正式名称は「稲荷神社」だが、他との区別のため「嶺稲荷神社」とさせて頂く。
現在は「大田区立嶺稲荷児童遊園」として整備された一画に鎮座しており、「嶺御嶽神社」の兼務社となっている。
新編武蔵風土記稿に記された当社
創建年代は不詳で、御由緒なども不詳。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に当社の項目を見る事ができる。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(嶺村)
稲荷社
見捨地三畝。小祠。
嶺村の「稲荷社」として記されている。
この事から江戸後期までには創建していた事が窺える。
当時から小祠の神社であったようだが、三畝(約300平方m)ほどの境内を有していたようで、当時にしては小規模ではあるものの、現在の西嶺町18丁目全域が境内だったのではないだろうか。
当時の当地周辺はのどかな農村であり、穀物・農業の神として嶺村の村民から崇敬を集めたと見られる。
明治維新後の歩み・戦後になり児童遊園への整備
明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。
明治二十二年(1889)、市町村制の施行に伴い、嶺村・上沼部村・下沼部村・鵜ノ木村の4村が合併し調布村が発足。
この頃は、東京府荏原郡調布村大字嶺という住所表記になっていた。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地。
当時の古地図には当社の位置に神社の地図記号が見えない事から、既に規模の小さな祠の神社だった事と思われる。
嶺村から引き継いだ嶺という地名も残り、環八通りが整備される前であったが、当社周辺は発展した町屋があった事が窺える。
昭和六年(1931)、現在も境内に置かれる神狐像が奉納。
小さいながらも地元の崇敬者によって維持されていたのだろう。
昭和十六年(1941)、勤労奉仕によって境内整備。
玉垣には当時の銘が残っており、こうした人々によって境内が維持されていた。
昭和四十一年(1966)、当社境内が「嶺稲荷児童遊園」として開園。
大田区立の公園として整備された。
現在は「嶺御嶽神社」の兼務社となっている。
境内案内
住宅街の嶺稲荷児童遊園に鎮座
最寄駅の久が原駅から西へ徒歩数分の距離で、環八通りを渡り、その先の住宅街に鎮座。
細い一方通行の路地に面しており、規模の小さな一画。
境内は「大田区立嶺稲荷児童遊園」となっていて、公園となっているのが特徴。
公園としては小規模な児童遊園。
一画には小さな鉄棒。
あとはブランコが置かれている小さなものであるが、一帯は綺麗に管理されている。
鉄柵で保護された戦前の神狐像・小さな社
公園内にありながらも、玉垣と鳥居から神社としての姿を残している。
石段を上り鳥居を潜ると両脇に神狐像。
昭和六年(1931)に奉納された神狐像で、鉄柵によって保護されている。
参道(公園)は左手に伸びる。
その先に小さな社が立つ。
神狐像同様に赤い鉄柵で保護された社には、小さな神狐も置かれている。
おそらく戦前の勤労奉仕によって境内の玉垣と同様に建てられたものであろう。
普段は神職の常駐がない兼務社のため、御朱印は本務社「嶺御嶽神社」にて頂ける。
所感
創建年代や御由緒も不詳の小さな稲荷神社。
当地は江戸郊外であるが、江戸では町の至る所で見かけられるものとして「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」とまで云われる程、至る所に稲荷社があり、民衆の信仰を集めていた。
当社もそうした数ある小さな稲荷社の一社で、穀物・農業の神として嶺村の村民に大切にされたのであろう。
小さな社は明治の合祀政策で合祀されてしまう事が多い中、当社はこうして維持されており、戦後になって児童遊園として整備されてからも、今も大切に残されている。
御由緒など不詳であっても、こうして住宅街の一画に残されているのが喜ばしい。
神社画像
[ 鳥居 ]
[ 嶺稲荷児童遊園 ]
[ 神狐像 ]
[ 参道 ]
[ 社殿 ]
[ 児童遊園 ]
[ 玉垣 ]
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