新宿諏訪神社 / 東京都新宿区

新宿区

概要

旧諏訪村などの総鎮守・新宿のお諏訪さま

東京都新宿区高田馬場に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧諏訪村・旧戸塚村・旧大久保百人町・旧西大久保村(現在の西早稲田・高田馬場・大久保地区)などの総鎮守。
平安時代初期に創建したと伝わる古社で、当時は「松原神社」と称された。
江戸時代初期に徳川義直が諏訪神を勧請したため「諏訪神社」と改称。
当地周辺は諏訪森と称され、地域一帯の総鎮守として大いに崇敬を集め、現在も「おすわさま」と呼ばれ親しまれている。
また在原業平の伝承から「恋の森」とも言い伝えられた。
徳川家からの崇敬も篤く、徳川家の鷹狩と深い関係をもつ神社として知られる。

神社情報

新宿諏訪神社(しんじゅくすわじんじゃ)

御祭神:大国主命・事代主命・建御名方命
社格等:村社
例大祭:8月27日
所在地:東京都新宿区高田馬場1-12-6
最寄駅:西早稲田駅・高田馬場駅
公式サイト(Instagram):https://www.instagram.com/koinomori_suwajinja/

御由緒

 当社の創建は、弘仁年中(西暦810-820)小野篁朝臣が、大国主命、事代主命を祭祀すと云われます。 当時当神社は、奥羽街道の一部松原街道に面しておりましたので、松原神社と称されておりました。 承和年中(西暦834-848)には、空海の弟真雅僧正再営と伝えられます。 永承年中(西暦1046-1053)源頼義、義家父子が陸奥の国の阿倍氏反乱(前九年の役)鎮定の折、当社に祈願せられ、凱陣の節には武器を納められました。
 文治五年(西暦1189)の春、源頼朝公が藤原泰衡討伐の為、陸奥発向のみぎり、当社に祈願あり、凱陣の後に社殿を造営せられました。 この時頼朝公は、頼義、義家父子を当社境内に白旗社として祀られました。 建長六年(西暦1254)北条時頼が、厳島神社を境内に祭祀しました。 この神社は当神社の飛地に池と共に祀られておりましたが、現在は本社に合祀されております。
 応仁三年(西暦1469)春、太田道灌が社殿を再営しましたが、北条早雲の為悉く焼失しました。
 その後江戸時代初期に、尾張の徳川家の祖である徳川義直公が、信濃国の諏訪神を勧請し、当社に合祀せられ、現在の諏訪神社と改称致しました。 又人皇第百八代後水尾天皇が、当社に御神体を御寄附になりました。 寛永年中(西暦1624-1644)将軍徳川家光公が造営せられ、続いて家綱公が当時当社近隣地域は鷹狩りの名所でありましたので手鷹を奉納され、 これより老鳥は代々当社へ奉納することになりました。 又これにちなみ、鷹狩りの絵馬が数多く奉納されるようになり、今でも新宿区内随一多数の貴重な絵馬が神社に保存されております。
 明和年中(西暦1764-1772)家治公が鷹狩りの節に参詣されて、当社の御祭神を御城庭へ遷祭の上意があり、 依って紅葉山(今の宮城内)、吹上(浜離宮)両御庭へ遷祭致しました。 その後、営繕の儀は全て徳川家に於て奉仕せられました。天保六年(西暦1835)に社務所より出火し、神庫、末社に至るまで、悉く焼失しました。
 明治三年社殿もひどく破損しましたので、氏子一同が修復を致しました。
 その後、社殿も大変老朽化し破損もはなはだしくなりましたので、明治百年の記念事業として神社の建造物全般にわたる新築計画がなされ、 昭和四十九年に社務所新筋工事より着手し、翌年完成、続いて宮神輿庫が、奈良県唐招提寺の国宝の校倉を模して建て替えられました。 そして昭和五十二年にいよいよ本殿御造営工事が始められ、三年を費やし、昭和五十五年に、荘厳にして華麗なる新社殿が落成致しました。公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2023/12/20(御朱印拝受)
参拝日:2023/11/06(御朱印拝受)
参拝日:2022/04/05(御朱印拝受)
参拝日:2022/02/15(御朱印拝受)
参拝日:2021/12/23(御朱印拝受)
参拝日:2021/08/03(御朱印拝受)
参拝日:2021/04/30(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2018/12/18(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:500円
社務所にて。

※2019年より月替りの御朱印を用意。(2023年3月で終了し現在は違う形の月替り御朱印を授与)
※以前は初穂料300円だったが現在は初穂料500円に変更。

最新の御朱印情報
4月27日は「二十七日御朱印」
4月1日-30日まで「春御朱印」「龍御朱印」「恋の森御朱印」
※書き置きのみ。通常御朱印は直書き可。詳細は公式Instagramにて。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:1,500円
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意している。
当社の社殿をデザインした御朱印帳。
裏面は社紋と「新宿諏訪神社」の文字。
緑色と黄色の2色展開。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

歴史考察

平安時代初期に小野篁によって創建

社伝によると、弘仁年間(810年-820年)に創建と伝わる。
小野篁が大国主命・事代主命を祀った事に始まると云う。

小野篁(おののたかむら)
平安時代初期の公卿・文人。
反骨精神から野相公・野宰相・野狂の異名で知られた人物。
政務能力に優れ、漢詩文では屈指の詩人とされただけでなく、和歌にも秀でて『古今和歌集』などにその歌を見る事ができ、『小倉百人一首』では参議篁の名で知られ、書においても当時天下無双と評された。
昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王の補佐を行ったと云う伝説が残る。
余談になるが、都内には小野篁を祀る神社として「小野照崎神社」がある。
小野照崎神社 / 東京都台東区
学問・芸能の神。小野篁を祀る。月参りや二重構造の月替り御朱印。極薄御朱印帳のうすいんちょう。仕事運向上の神・渥美清が願掛け『男はつらいよ』寅さんの大役を掴む。江戸時代に菅原道真公を祀る。江戸時代の社殿。富士塚・下谷坂本富士。庚申塚。猫神社。

創建当時は大国主命・事代主命の2柱を祀る神社で、現在のように諏訪信仰の神社ではなかった。

大国主命(おおくにぬしのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、武力交渉の末に、天津神に国土を献上した事から「国譲りの神」とも呼ばれる神。
国津神(天孫降臨以前より国土を治めていた土着の神)の最高神ともされ、古くから「出雲大社」の御祭神として知られる。
民間信仰によって「大国」が「だいこく」と読める事から、七福神でもある「大黒天(大黒様)」と習合していった。
事代主命(ことしろぬしのみこと)
大国主神の第一息子で、国譲りでは天照大御神の使者に大国主神に代わって国譲りの誓約をしたため「託宣の神」と呼ばれる神。
民間信仰によって、七福神でもある「恵比寿神(恵比寿様)」と習合していった。

今で云う、大黒様と恵比寿様を祀る神社であったとされる。

松原神社と称される・真雅僧正(空海の弟)による再興

創建当時の当社は「松原神社」と称された。

当時の奥羽街道の一部である松原街道に面していた事による。

承和年間(834年-848)、真雅僧正によって再興。

真雅(しんが)
弘法大師(空海)の弟として知られる僧侶。
空海の十大弟子の一人。

以後も「松原神社」として多くの崇敬を集めたと云う。

在原業平の伝承・恋の森の言い伝え

当社には古くから在原業平の伝承と「恋の森」と呼ばれた言い伝えが残る。

在原業平(ありわらのなりひら)
平安時代の貴族・歌人。
第51代天皇・平城天皇の孫。
「六歌仙」「三十六歌仙」の1人に挙げられる平安時代の代表的な歌人。
平安時代に成立した『伊勢物語』は、古くから主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、業平が主人公の物語であるとされてきた。

江戸中期に酒井忠昌によって書かれた随筆『南向茶話 追考』(下巻にあたる)にも記された伝承。

(南向茶話 追考)

赤で囲った箇所が当社と在原業平について記されている箇所。国書データベース」より引用。
恋の森の言い伝え
在原業平が妻と当地周辺を彷徨っていると離れ離れになってしまう。
彷徨い続けたまま夜になり、業平は妻を想い歌を詠んだ。
「あすはかたここにうつしの宮居かな そのねぎ言をきくや神垣」
(あしたはここに神がいて願いを聞いてくれるだろうか)
夜が明けると、業平夫婦はお互いすぐ側で寝ていて、実は同じ大木の下で一夜を過ごしていた事が分かった。
それ以来、この周辺は「恋の森」と呼ばれるようになったと云う。

源頼義と義家父子の戦勝祈願

永承年間(1046年-1053年)、前九年の役で源頼義・義家父子が奥州に向かう途中、当社に立ち寄り戦勝祈願を行った。

源頼義(みなもとのよりよし)
河内源氏2代目棟梁。
長男は八幡太郎と称した源義家で知られる。
源義家(みなもとのよしいえ)
源頼義の嫡男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称し、関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされた。
義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。
前九年の役(ぜんくねんのえき)
奥州の陸奥守に任命された源頼義(みなもとのよりよし)が、奥州(陸奥国)で半独立的な勢力を形成していた有力豪族・安倍氏を滅亡させた戦い。
源頼義と、その嫡男で「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」を名乗った源義家(みなもとのよしいえ)の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝が出ており、室町幕府を開いた足利尊氏も祖としたため、「前九年の役」は神話化されていく事となる。

凱旋の際、当社に武器を納めたと伝えられている。

現在の諏訪信仰ではなく「松原神社」と呼ばれた大国主命・事代主命の2柱に対して戦勝祈願をしている。

源頼朝が故事に倣い戦勝祈願・社殿造営

文治五年(1189)、奥州征伐に向かった源頼朝も途中で当社に立ち寄り戦勝祈願。
凱旋後、当社の社殿を造営し、境内に頼義・義家父子を祀った白旗社を建立した。

源頼朝(みなもとのよりとも)
鎌倉幕府の初代征夷大将軍。
鎌倉を本拠として関東を制圧し、源義仲や平氏を滅亡させ、戦功のあった弟の源義経を追放、奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定。
前九年の役に倣った頼朝の奥州合戦
頼朝は、奥州藤原氏の征伐(奥州合戦)の際に、祖先である源頼義・義家父子の「前九年の役」を倣ったとされる。
奥州藤原氏の拠点である平泉攻略後も更に北上し、祖先が安倍氏を討った厨川柵へ赴き、同じように大将首を晒し首にして、「前九年の役」を再現している。
当社で戦勝祈願をしたのも、その一環であったと見られる。

建長六年(西暦1254)、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼が厳島社を境内に創建。

厳島社は当社の飛地に池と共に祀られていたものの、現在は本社に合祀されていると云う。

このように鎌倉時代には源氏を始めとした武家より多大な崇敬を集めた。

太田道灌による社殿再建・戦国時代の荒廃

応仁三年(1469)、太田道灌が社殿を再建。

太田道灌(おおたどうかん)
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。

室町時代中後期になると、道灌によって建立された社殿が焼失。
これは後北条氏の祖である北条早雲が原因とされている。

北条早雲(ほうじょうそううん)
戦国時代初期の武将。
関東を治める戦国大名・後北条氏の祖とされ、伊勢宗瑞(いせそうずい)とも呼ばれる。

戦国時代に入ると各地が戦地となったため、当社も荒廃。

尾張徳川家の始祖・徳川義直によって諏訪神社に改称

天正十八年(1590)、徳川家康が関東移封によって江戸入り。
武家より崇敬を集めた当社も再興される事となる。

江戸時代初期、尾張藩初代藩主・徳川義直によって信濃国「諏訪大社」の御分霊を勧請し合祀。
諏訪信仰の神社となり「諏訪神社」と改称。

信濃國一之宮 諏訪大社
諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社です。信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされております。
徳川義直(とくがわよしなお)
徳川家康の9男で、尾張藩の初代藩主。
御三家の筆頭格である尾張徳川家の始祖。

その際に、後水尾天皇が当社に御神体を寄進したと云う。
「諏訪神社」「諏訪社」「諏訪宮」などと称され崇敬を集めた。

古くから「松原神社」と呼ばれた大国主命・事代主命の2柱を祀る当社であったが、江戸時代には徳川義直によって「諏訪神社」へ改められ、諏訪信仰の神社となっていた事が窺える。

徳川家綱が老鷹を奉納・徳川家の鷹狩と深い繋がり

寛永年間(1624年-1644年)、第三代将軍・徳川家光により社殿造営。

当社に諏訪神を勧請した徳川義直は家光の叔父にあたる。

その後、第四代将軍・徳川家綱が鷹狩に使用していた手鷹を当社へ奉納。
以降、老鳥は代々当社へ奉納することになった。

鷹狩(たかがり)
鷹などの鳥を使った狩猟の一種で、鷹を扱う人間を鷹匠(たかじょう)と呼ぶ。
戦国武将の間で広まるが、特に徳川家康が鷹狩を好んだことで知られ、家光も非常に好んで行った。
第五代将軍・徳川綱吉の生類憐れみの令によって段階的に廃止されたものの、第八代将軍・徳川吉宗の時代に復活。

明和年間(1764年-1772年)、第十代将軍・徳川家治が鷹狩りの際に参詣。
当社の御分霊を江戸城内の紅葉山と吹上御殿(現・浜離宮)に勧請した。

浜離宮恩賜庭園|公園へ行こう!

この事からも徳川将軍家の鷹狩と深い繋がりを持ち、徳川将軍家から崇敬を集めた事が分かる。

新編武蔵風土記稿に記された諏訪社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(諏訪村)
諏訪社
八幡、弁天、天満宮、不動、薬師、観音を相殿とす。当村及戸塚村、大久保百人町、西大久保村等の鎮守なり。例祭九月廿七日。縁起は付会の説なれば略す。
末社。上諏訪。下諏訪。
神楽殿。
別當玄國寺

諏訪村の「諏訪社」と記されているのが当社。
「八幡、弁天、天満宮、不動、薬師、観音を相殿とす」とあるように、当時は様々な神仏を合祀。
また諏訪村・戸塚村・大久保百人町、西大久保村等の鎮守であった事が記してあり、当地一体の総鎮守であった。

諏訪村は当社がある事で名付けられた村名。現在の住所は高田馬場になるが、当時、高田馬場と呼ばれた一画は西早稲田にあり当地とは別の場所であった。後に高田馬場駅が近くに出来た事で、諏訪村・戸塚村などを含む一帯が高田馬場になる事となる。

別当寺は現在も隣接する「玄国寺」。

玄国寺 | 一般社団法人新宿観光振興協会
玄国寺は近くにある諏訪神社の別当寺でした。現在は独立しているが、かつては同社と一体となって活動していました。 慶長6年(1601)創建という伝承があります。墓所内部には田植地蔵と呼ばれる石の地蔵尊を祭る堂があります。田植え時期になると…

江戸名所図会に描かれた諏訪明神社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「諏訪村 諏訪明神社」として描かれているのが当社。
諏訪村を含む地域一帯の総鎮守であった。
鬱蒼とした木々の森のような境内だった事が窺え、当地周辺は「諏訪森」と呼ばれた。

左手には別当寺の「玄国寺」も見る事ができ、神仏習合のもと一体となり信仰を集めた。

(江戸名所図会)

当社境内をやや拡大したのが上図。

総門があり、鳥居、そして参道と云う境内。
立派な権現造りの社殿の姿も見る事ができる。
この社殿は家光が建立したものと思われ、大変荘厳な社殿であった。

天保六年(1835)、火災によって社務所より火災が発生し、末社など多くが焼失している。
安政三年(1856)、嵐によって境内にあった白旗社(源頼朝が建立)など多くの末社が破損したため本社に合祀。

多くの神社が合祀されているが、現在の御祭神は創建時の大国主命・事代主命と、諏訪神である建御名方命の3柱である。

明治以降の当社の歩み・明治天皇の行幸

明治になり神仏分離。
明治三年(1870)、破損していた社殿を氏子一同によって修復。
明治五年(1872)、村社に列した。

明治十五年(1882)、諏訪森と呼ばれていた当社周辺に、諏訪森近衛射的場が設営。
同年、明治天皇が行幸され天覧。
当社へ神酒と鴨を奉納。

この事から当社の社殿に菊の御紋が付けられるようになる。

明治二十二年(1889)、市制町村制によって諏訪村・戸塚村・下戸塚村・源兵衛村・高田村飛地が合併し、戸塚村が成立。
当地は戸塚村諏訪となり、当社は戸塚村一帯の総鎮守であった。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
戸塚村、諏訪といった地名を見る事ができる。

緑色で囲ったのが明治天皇が天覧した諏訪森近衛射的場で、射撃場と記してあるのが分かる。

昭和十八年(1943)、明治天皇が行幸した地として、都の行幸史跡に指定。

戦後になり境内整備が進む。

昭和五十年(1975)、新しい社務所が完成。
昭和五十五年(1980)、約3年をかけて現在の社殿が竣工。
その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

諏訪通り沿いに鎮座・手水舎は霊験ある霊水

最寄駅の西早稲田駅から徒歩すぐ、諏訪通り沿いに鎮座。
通り沿いに立派な大鳥居。
黒系の渋みのある大鳥居。
社号碑や扁額には「諏訪神社」の文字。
「西早稲田・高田馬場・大久保地区総氏神」の看板。

諏訪通りと明治通りの交差点の名は諏訪町。当社に由来する諏訪村(その後に諏訪町)が由来。今はなき地名を僅かに残す。

大鳥居を潜ると緑がある参道。
大きな石灯籠があり、参道の左手に手水舎。

手水舎は霊水と知られる湧き水を使用。
当社の境内より湧き出る水は、古くから眼病や諸病に霊験有りとして知られる。
地下水を汲み出していて龍の吐水口より流れる。
何百年も湧き出している霊水。

二対の狛犬・大正時代の二之鳥居

その先に一対の狛犬。
昭和十一年(1936)奉納の狛犬。
岡崎現代型に近いものの、江戸尾立ちなど江戸時代の狛犬のデザインも踏襲。

その先に二之鳥居。
大正四年(1915)奉納の石鳥居。

二之鳥居のすぐ先にも一対の狛犬。
やや柔らかい印象を受けるフォルムが特徴的な狛犬で、顔はどことなくユニーク。
奉納年の刻印が確認できないため不明。
奉納者たちの名前や造りからして江戸時代のものと推測できる。

菊紋と多重の千鳥破風が特徴的な社殿

社殿は昭和五十五年(1980)に造営されたもの。
約3年の年月をかけて造営された鉄筋コンクリート造の社殿。
存在感があり立派な造り。
拝殿には菊紋が据え付けてあり、これは明治天皇が行幸し奉納した事による。
高さがあり壮観な社殿となっている。

社殿の菊紋
明治十五年(1882)、諏訪森と呼ばれていた当社周辺に諏訪森近衛射的場が設営され、明治天皇が行幸し、当社へ神酒と鴨を奉納。
この事から当社の社殿に菊の御紋が付けられるようになる。

正面からだと分からないが、やや斜めから拝殿を見ると屋根がとても特徴的。
唐破風、さらに千鳥破風が2つ連なる形。
この屋根を見るだけでも価値があるくらい珍しく荘厳な造り。

本殿も高さが特徴的。
拝殿と同じ高さとなっているため、実際に間近で見るとかなり迫力のある本殿。

境内社の御嶽神社・稲荷神社

境内社はかつては数多くあったと云うが、本社に合祀されたのが多いため現在は2社。
境内の左手にあるのが御嶽神社で、御祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)・太玉命(ふとたまのみこと)の2柱。

更に鳥居を設ける形で稲荷神社。
古くから末社として鎮座しているお稲荷さんで崇敬が篤い。

歌舞伎町鎮座の稲荷鬼王神社との関係
稲荷鬼王神社」は、承応二年(1653)に大久保村の氏神として創建。
一帯の総鎮守が当社であったため、当社の末社「福瑳稲荷」を勧請して創建したと伝わっており、当社の末社のお稲荷様と関係が深い。
稲荷鬼王神社 / 東京都新宿区
全国唯一鬼王の名が付く神社。歌舞伎町鎮座。謎多き鬼王権現。鬼王は平将門の幼名・将門の噂と伝承。力様と呼ばれる鬼の水鉢・不思議な狛犬。美しい音色を奏でる天水琴(水琴窟)。新宿山ノ手七福神の開運恵比寿。豆腐断ちと撫で守り。富士塚。御朱印。

文化財の塞神三柱の塔・庚申塔・夫婦楠

御嶽神社の近くに、塞神三柱の塔。
天和二年(1682)に建立された舟形の石塔で、新宿区登録有形民俗文化財。
中央に「塞神三柱」、右側に「諏訪上下大明神」「正八幡大菩薩」、 左側に「天(以下欠損)」「稲荷大明神」と刻まれていて、新宿区内唯一の現存する塞神塔。

塞神(さえのかみ)
村や集落などの境に置かれ、他から侵入するものを防ぐ神。
道祖神(どうそじん)として置かれる事も多い。

その向かいに庚申塔。
三猿が彫られたものでおそらく江戸時代のものと思われる。

この一画に夫婦楠。
共生しているクスノキの大木。
夫婦和合などの御利益があるとされ、御神木の1つとして信仰を集めている。

手水舎の裏手奥に記念碑。
明治天皇射的砲術天覧所阯の記念碑で、明治天皇が行幸し天覧したことを記す。

珍しい鉄筋コンクリート造の校倉造りの神輿庫

参道の左手に神輿庫。
唐招提寺(奈良県奈良市)にある国宝の校倉を模して建立された宮神輿を納める神輿庫。
本来は校倉造りは木造だが、当社のは鉄筋コンクリート造となっていて大変珍しい。
昭和五十二年(1977)に建立されたものであるが、今も状態よく維持されている。

境内の右手には神楽殿。
例大祭では里神楽が奉納される。

恋の森御朱印・月替りの御朱印

御朱印は社務所にて。
参道沿いに社務所があるが受付窓口は回り込む形の北側にある。

最新の御朱印情報
毎月授与していた「勝御朱印」「月替り御朱印」は2023年3月で終了。現在は違う形で月替り御朱印などを再開している。(宮司さんは今も昔も変わっていないがそれまで御朱印対応していた方がやめたため)

2023年11月に頂いた新しい御朱印。
右が通年の通常御朱印で、真ん中と左が11月の限定御朱印。
恋の森御朱印は先代宮司さんのイラストに現在の宮司さんが揮毫したもので、月替り仕様。
社務所の掲示がこちら。

2023年12月に頂いた25日まで限定授与のクリア御朱印。
透明感のある御朱印になっていてどことなくクリスマスぽさのある御朱印。

以前授与していた御朱印
2023年3月まで定期的に授与していた可愛らしいカラフルな御朱印。
右が通常御朱印で、左は2021年4月に頂いた月替りの御朱印。
右が2021年8月の御朱印で、左が大祭限定勝朱印。
2021年12月の御朱印。
2022年2月の御朱印。
2022年4月は美しい桜と寅の御朱印。
以前授与していた勝御朱印
2020年より2023年3月までは毎月27日限定で「勝朱印」を授与していた。
お諏訪さんの御祭神である建御名方命(たけみなかたのみこと)は武神として信仰を集めた神であるため「何事にも勝ち切り拓いていく」意味を込めての授与となる。
絵馬にも「勝」の文字。
2021年8月は例大祭月とあって8月中に特別仕様の金の勝朱印が授与された。
平成に頂いた御朱印
2018年に頂いた通常御朱印は諏訪信仰の社紋・三つ梶の葉を押印。
右上には「東京諏訪森鎮座」とあり、当地が諏訪森と呼ばれていた事を伝える。

社殿をデザインした御朱印帳

オリジナルの御朱印帳も用意。
緑を基調として当社の社殿をデザインしていて菊紋もしっかりと再現。

以前は緑色のみだったが現在は黄色も用意。

他にも授与品を色々と用意しているので頂くのもよいだろう。

所感

旧諏訪村・旧戸塚村・旧大久保百人町・旧西大久保村など地域一帯の総鎮守であった当社。
古くは今で言う大黒様と恵比寿様を祀る神社として小野篁によって創建。
中世は武家から篤い崇敬を集めた神社であった。
諏訪信仰の神社となったのは、江戸時代になってからのこと。
御三家の筆頭格である尾張徳川家の始祖・徳川義直が諏訪神を祀り「諏訪神社」に改称。
更に第四代将軍・徳川家綱が老鷹を奉納した事から、徳川家の鷹狩と深い繋がりを持つ事となる。
徳川家から信仰を集めたのも、当社が古くから武家から崇敬を集めたからこそであろう。
現在は当社が鎮座していた諏訪村といった地名は消失し、交差点や通りの名に諏訪町として名前を残すのみであるが、今も地域一帯の鎮守として広く崇敬を集めている。
鉄筋コンクリート造で再建された社殿は実に荘厳で、氏子崇敬者からの気持ちが伝わる。
諏訪森と呼ばれた一帯の歴史を伝えるよい神社である。

Google Maps

コメント

タイトルとURLをコピーしました