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概要
あらゆる「落ちない」御神徳で知られる三島神社
東京都台東区根岸に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧金杉村(旧金杉上町周辺)の鎮守。
台東区には下谷に鎮座する「三島神社」(当社)を含め、「元三島神社」「本社三島神社」と「三島神社」の社号が付く神社が3社鎮座しており、いずれも同一の御由緒を有する元々は1つの神社であった。
雷を封じ込めたため雷が落ちなくなったと伝わる「雷の井戸」が境内にある。
「雷の井戸」の伝承から「不落守」が授与され、試験・業績・人気・運気などあらゆる「落ちない」を守護する授与品として知られる。
神社情報
三島神社(みしまじんじゃ)
御祭神:大山祇命
相殿神:和足彦命・身島姫命・上津姫命・下津姫命
社格等:村社
例大祭:6月14日・15日
所在地:東京都台東区下谷3-7-5
最寄駅:入谷駅・三ノ輪駅・鶯谷駅
公式サイト:https://www.mishimajinjya.or.jp/
御由緒
弘安四年元寇の役の砌、勇将河野通有は氏神三島大明神に戦勝祈願して白鷺の瑞祥によって、遂に夷狄を潰滅した。赫々たる武勲を立て、帰陣にあたり夢のなかに神のお告げを受けて、大山祇大明神を武蔵国豊島郡に勧請すべく発願し、分霊を奉じて上野山内の河野氏の館に鎮座した処里人深く尊崇した事に始まると云う。その後慶安三年上野山内から徳川三代将軍家光公より社地移転を命ぜられ、金杉村に社地四石の朱印地を頂き社地替えをした。
更に宝永七年社地が幕府の御用地に指定されたので浅草小揚町(寿町)に換地遷座したが、氏神様が遠くて困るとあって、金杉村、根岸の氏子一同協議の末に根岸の熊野神社に合祀し元三島神社と称し、また金杉村字金杉町にも三島神社を遷座されて今日に至って居ります。当神社の宮司河野氏は代々河野通有の子孫が奉仕して居ります。社殿は昭和二十年三月戦災により焼失。現社殿は昭和三十年氏子各位の真心に依り再建された神明造に向拝を配したものであります。(頒布の資料より)
歴史考察
上野山内に伊予国一之宮の大山祇神社(三島大明神)を祀り創建
社伝によると、弘安四年(1281)に創建と伝わる。
河野通有によって伊予国一之宮「大山祇神社(三島大明神)」を勧請され創建したと云う。
愛媛県今治市大三島町宮浦に鎮座する神社で、伊予国一之宮。
式内社(名神大社)、旧社格は国幣大社、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある「山祇神社(大山祇神社)」の総本社、主祭神の大山祇神は「三島大明神」と称される事から「三島神社」の名で勧請される事も多い。
山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から崇敬され「日本総鎮守」とも称された。
伊予水軍の将・河野通有は元寇(弘安の役)に際し、氏神である伊予国一之宮「大山祇神社」に戦勝祈願して出陣し多くの武勲を挙げた。
帰陣の際、霊夢によって「武蔵国に三島大明神を勧請せよ」と云うお告げを受け、上野山内(現・上野恩賜公園周辺)の河野氏の館に奉斎したのが始まりと伝えられている。
鎌倉時代中期の伊予国(愛媛県松山市)を拠点とした武将で、鎌倉幕府御家人。
六波羅探題の命を受け国内の水軍を束ね、伊予水軍を率いて元寇(弘安の役)で活躍。
元軍船を攻撃し通有本人は石弓により負傷するも、元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る武勲を挙げた。
元寇の役で武勲を挙げた河野通有の屋敷を訪れた竹崎季長を描いた場面。
右から1番目が竹崎季長で、2番目が当社の関わりのある河野通有、3番目が嫡子の河野八郎。
通有は烏帽子を着けていないが、河野家では合戦の最中に烏帽子を着けないことが慣わしであったと云った説明書きもされている。
創建時から長らく上野山内(現・上野恩賜公園周辺)に鎮座。
「三島社」と称され地域からの崇敬を集め、室町時代には隆盛を誇った。
寛永寺の建立によって金杉村に遷座
寛永二年(1625)、上野山内(現・上野恩賜公園周辺)に「寛永寺」が建立。
上野山内に鎮座していた当社は遷座を余儀なくされる。
台東区上野桜木にある天台宗関東総本山の寺院。
徳川家光と天海によって徳川将軍家の祈祷所・菩提寺として創建され、江戸時代には天台宗の本山として強大な権勢を誇った。
現在の上野恩賜公園は殆どが寛永寺の敷地であった。
慶安三年(1650)、替地として金杉村(現・根岸周辺)に朱印地4石を与えられて遷座。
幕府より寺社領として安堵された土地。
朱印が押された朱印状によって安堵された事から朱印地と呼んだ。
再遷座によって元三島・本社三島・三島(下谷)に分社
宝永七年(1710)、再び社地が御用地とされ、替地として浅草小揚町(現・台東区寿)を賜る。
浅草小揚町に遷座する事になり、これが現在の「本社三島神社」(台東区寿)である。
しかし、金杉村根岸の住民は氏神様が遠くなり困ってしまい、金杉村根岸の氏子一同が協議。
根岸に鎮座していた「熊野社」に分霊を勧請して合祀し「元三島神社」と称した。
これが「元三島神社」(台東区根岸)である。
寛永年中(1624年-1625年)に上野山内の社地が御用地として接収された際、替地が与えられるまでの間、「熊野社」に御神体を安置していたと伝わる。
そのため「熊野社」に勧請された三島大明神を「元三島」と称した。
その後、さらに金杉村字金杉町にも「火除稲荷社」社地に分霊を勧請。
これが現・下谷の「三島神社」(当社)である。
当地はもともと火除地(防火用の空地)でお稲荷様が鎮座。
古くは「御先稲荷(みさきいなり)」と称された稲荷であったが、その後に火除地として整備されたため「火除稲荷」と称された。
更にはこの火除地には土蔵があって「三島神社」の神輿が保管されていたと云う。
新編武蔵風土記稿に記された金杉村の火除地
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当地についてこう書かれている。
(金杉村)
火除
了源院火除観音の邊を云。
金杉村「火除」として記されているのが当社周辺。
現在も当社に隣接する「了源院」のあたりを火除と呼んだと云う。
当地が火除地(防火用の空地)であった事が窺える。
江戸切絵図から見る当社と金杉周辺
江戸時代の当社周辺については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。
こちらは江戸後期の今戸・浅草の切絵図。
右が北の地図で、当社は上部に描かれている。
赤円で囲った箇所に「ミサキイナリ」と記されているのが分かる。
この一帯が火除地とされていたそうで、これが現在の当社境内社「火除稲荷神社」(旧称「御先稲荷」)。
周辺には金杉上町・金杉下町といった金杉町の町名を見る事ができる。
この古地図は嘉永六年(1853)のものなので、当時はまだお稲荷様の社地だった事が窺え、これ以降に「御先稲荷」(現在の「火除稲荷神社」)の社地へ、金杉町の氏子たちによって「三島神社」が遷され、現在の当社となったと推測できる。
江戸時代には遷されていたそうなので、幕末の事と思われる。
明治以降の歩み・戦後の再建
明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。(後に村社に昇格)
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
金杉の名を冠した町名を見ることもできる。
当社はこうした金杉上町周辺の鎮守として崇敬を集めた。
江戸時代の頃には金杉村・金杉町と呼ばれていた当地周辺。
明治以降は下谷金杉上町に改称された後、昭和十二年(1937)に金杉に町名変更。
戦後の昭和四十年(1965)に住居表示実施によって現在の下谷となり「金杉」の地名は消滅している。
昭和二十年(1945)、東京大空襲で社殿を焼失。
昭和三十年(1955)、社殿を再建して復興を果たした。
この社殿が現存。(建て替え予定)
令和六年(2024)、社殿老朽化に伴い社殿の建て替えを予定。
現在の社殿の姿はもう時期見納めとなる。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
金杉通りに面して鎮座・明治の鳥居
最寄駅の入谷駅から徒歩10分程の距離に鎮座。
旧地名の名を残す「金杉通り」に面して、明治三十五年(1902)建立の鳥居が現存。
鳥居を潜り、参道左手に手水舎。
身を清めることができる。
時期によっては花手水にも。
大きな向拝が特徴的な神明造社殿(2024年で建て替え予定)
参道の正面に社殿。
旧社殿は東京大空襲にて焼失。
昭和三十年(1955)に現在の社殿が再建された。
神明造に大きな向拝が設けられているのが特徴的。
木造社殿。
氏子崇敬者からの再建への思いが伝わる。
現在の社殿は令和六年(2024)に建て替え予定。
社殿の老朽化に伴うもので新築される。
建築計画を見ると神社とともに地上14階のビルができるそうで竣工予定は2026年。
拝殿前の狛犬
拝殿前に一対の狛犬。
筋肉隆々の存在感ある狛犬。
表情も参道をぐっと睨めつける。
昭和二十九年(1954)に社殿御造営記念で奉納されたもので、この翌年に社殿が再建された。
当地の地主神である火除稲荷社
参道の左手に境内社の火除稲荷社。
古くは御先稲荷(みさきいなり)と称されて古くから当地に鎮座していたお稲荷様。
当地が火除地(防火用の空き地 )となった事で、火除稲荷と称された。
その後、三島神社が当地に遷座してきたため、この火除稲荷社が地主神の扱いになる。
また火除稲荷社の右側、当社の横にある道路はかつて川であったと云う。
その川にかかる橋を渡って当社に参拝し、橋は「三島様の石橋」として親しまれた。
石橋の一部。
こうして石橋は東参道に保存されている。
雷を封じ込めた雷井戸・落ちない御神徳・不落守
参道の左手に雷井戸。
この井戸には雷を封じ込めたと云う伝説が残っている。
かつて武蔵野の原野は雷が多く里人たちは常に雷を恐れていた。
ある日、当社の境内に雷が落ちたため、神職が雷を井戸の中に封じ込めたところ、雷が「井戸から出してくれ」と頼んできたので、神職は「二度と此地に落ちるな」と雷を許してあげたと云う。
以来、当地には雷が落ちないと云われ、井戸は雷除けの井戸として信仰を集めた。
雷除けの井戸として信仰を集めた雷井戸。
雷に関する神社として信仰を集める。
現在では「雷が落ちない」事が転じて、あらゆる「落ちない」御神徳があると信仰を集めている。
試験・売上・業績・人気・運気・選挙・舞台・山・高い所などあらゆる「落ちない」を叶える御守。
貼り付け型、通常の御守型、木札と用意されている。
※不落祈願と云う御祈願も受け付けている。
2種の御朱印・限定御朱印・御朱印帳
御朱印は上に「折敷に三文字」の社紋、下は「三島神社之印」の朱印。
「東京下谷鎮座」「雷井戸ゆかり」「金運上昇」「防災厄除」の押印も。
2021年元日より「雷限定御朱印」を授与。
境内にある「雷の井戸」を由来とした御朱印で、月替りで色が変わる。
2021年お正月の御朱印。
この他、季節や祭事に応じて限定御朱印を用意している。
2023年より雷限定御朱印に替わって授与されているのが木花開耶姫命御朱印。
通称「桜御朱印」で毎月色が変わる。
他に朔日(1日)限定の磐長姫命御朱印も。
弥栄長寿の御朱印。
オリジナル御朱印帳も用意。
御祭神の大山祇命を表す山、木花咲耶姫命を表す桜の花、磐長姫命を表す岩の印をデザイン。
社殿建て替え記念・金銀の切り絵御朱印
2024年から始まる社殿建て替え工事に際して記念御朱印を授与。
金銀の2種類あるご造営記念御朱印で切り絵御朱印となっている。
金版は正面からの社殿と桜。
銀版は斜めからの社殿と桜。
切り絵御朱印と云う形で社殿の姿を残すという試みで、初穂料は社殿建て替えの寄付金となる。
所感
旧金杉町周辺の鎮守とされる「三島神社」。
古くは上野山内に創建された「三島神社」で、その後遷座した歴史を持つ。
遷座をきっかけに「本社三島神社」「元三島神社」「三島神社(下谷)」と3社が分立しており、いずれも台東区に鎮座していて、かつては同じ御由緒を持つ神社であった。
当社が遷座する前は火除地だったと云い、地主神の「火除稲荷社」は今も篤い崇敬を集める。
また雷井戸の伝説からあらゆる「落ちない」に御利益があると信仰される。
三島神社や旧金杉町周辺の歴史を伝える良い神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円(通常)・1,000円(2面限定)・2,000円(切り絵)
社務所にて。
※「三島神社」「火除稲荷神社」の御朱印を用意。
※祭事や季節に応じて限定御朱印あり。(詳細は公式サイトにて)
御朱印帳
初穂料:1,500円(2種朱印代込)・2,000円・2,500円(2種朱印代込)
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
御祭神の大山祇命を表す山、木花咲耶姫命を表す桜の花、磐長姫命を表す岩の印をデザイン。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
参拝情報
参拝日:2023/12/02(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2021/01/06(御朱印拝受)
参拝日:2019/12/09(御朱印拝受)
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