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概要
鳥越祭で知られる白鳥の飛ぶ古社
東京都台東区鳥越に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、鳥越・三筋・小島など周辺の鎮守。
白雉二年(651)に日本武尊の伝承が残る当地に村人が創建したと伝わる都内有数の古社。
源義家(八幡太郎)が白鳥に浅瀬を教えられ無事に渡った事から「鳥越明神」と名付けられた。
かつては広大な社地を有しており、鳥越三所明神(他の2社は移転)と称され崇敬を集めた。
例大祭である鳥越祭では都内随一の重さを誇る千貫神輿が渡御し、特に夜に行われる宮入は幻想的かつ荘厳な姿から「鳥越の夜祭り」としても知られている。
神社情報
鳥越神社(とりこえじんじゃ)
御祭神:日本武尊
相殿神:天児屋根命・東照宮公
社格等:郷社
例大祭:6月9日に近い土・日曜
所在地:東京都台東区鳥越2-4-1
最寄駅:蔵前駅・浅草橋駅
公式サイト(Facebook):https://www.facebook.com/torikoej/
御由緒
鳥越神社は景行天皇(人皇十二代)の皇子、日本武尊が東夷を御征伐の御時に、この所へ 暫く御駐在遊ばされました。土地の人々はその御徳を慕い尊び奉り白鳥神社(明神さま)をその地へお祀り申し上げました。
相殿の天児屋根命は天照皇大神に仕へ、御功績勝れた御方で、奈良時代藤原氏の人が国司としてこの武蔵の国へ下られた時、御祖先たる故を以てお祀り申されたのです。
又、東照宮(徳川家康公)は、昔の南元町(蔵前四丁目)に、三代将軍徳川家光公の発願によって寛永十一年に江戸城の鬼門除けとして祀られ、大正十四年合祀され相殿にお祀り申し上げました。
北國紀行に『隅田川の鳥越と云へる海村に…』と書かれています様に、五百年ほどの昔は海村で、樹木の茂った小高い山の上に御鎮座になり、東南の方は海(今の東京湾)に面した街道筋の村であったようです。
回國雑記に『暮れにけり やどりいずくと いそぐ日に なれも寝に行く 鳥越の里』と詠まれ鳥がねぐらを求めて鎮守の杜に群がり、閑静な懐かしい気分にさえなります。
永承頃、八幡太郎義家公奥州征伐の折、白い鳥に浅瀬を教えられ、軍勢をやすやすと渡すことができました。義家公これ白鳥大明神の御加護と称え、御社号を奉られてより鳥越の地名が起こりました。
尚、昔は社の境内は頗る広く、小島町・下谷竹町の境にあった三味線堀は、境内の一部で姫が池といい御手洗の池であった(不忍池-忍川-隅田川の間の堀で三味線に似ていた)と伝えられています。
徳川幕府が江戸に開かれるにあたり、堀は埋め立てられ、旗元・大名屋敷地として没収され幕府の市街地整備・米蔵・矢の蔵の土工の為、鳥越の山は取り崩され、埋め立てに使用されました。森田町に榊神社(第六天)・三味線堀に熱田神社が末社としてお祀りされておりましたが、榊神社は堀田原へ、熱田神社は三谷へ移され、吉野橋付近を新鳥越町と称しましたので、鳥越を元鳥越と称しました。この時、本社も他に遷されそうになりましたが、第二代神主鏑木胤正が幕府に様々に請願し元地に残り、鳥越三所明神と称えられるに至りました。(境内の掲示より)
歴史考察
日本武尊伝説・日本武尊を祀り白鳥明神と称する
社伝によると、白雉二年(651)の創建と伝わる。
村人が日本武尊を「白鳥明神」として祀ったと云う。
当地には古くから日本武尊の伝承が残る。
景行天皇御代(71年-130年)、日本武尊が東征の途中でしばらく当地に留まったとされる。
第12代景行天皇皇子。
東国征討や熊襲征討を行った伝説的な英雄として『日本書紀』『古事記』などに載る。
白雉二年(651)、白鳥村の村民が日本武尊の御威徳を慕い祀ったのが始まりと伝わる。
仁明天皇御代(833-850)、武蔵国の国司として赴任してきた藤原氏の人が祖神である天児屋根命を祀る。
現在も相殿と云う形で天児屋根命が祀られている。
春日権現とも称される神で、中臣連の祖神。
中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰された。
源義家(八幡太郎)と白鳥伝説・鳥越大明神と称される
永承年間(1046年-1052年)、源頼義・義家父子が「前九年の役」鎮圧のために奥州へ向かう。
その途中、当地に立ち寄り大川(旧宮戸川・隅田川)越えを試みたが大変困難を極めた。
河内源氏2代目棟梁。
長男は八幡太郎と称した源義家で知られ、後の源頼朝や足利尊氏といった武家の先祖にあたる。
永承六年(1051)に頼義が陸奥守(後に鎮守府将軍となる)となってから、奥州で独自勢力を築いた有力豪族の安倍氏を滅亡させた康平五年(1062)までの戦いを云う。
そこに白鳥が飛来し川の浅瀬に下り立ち大川を渡っていったため、そこが浅瀬である事を知る事ができた軍勢は無事に大川を渡る事ができた。
義家は白鳥明神の御加護であるとして山頂(白鳥山/鳥越山)の本社に参拝。
鳥が大川越えを教えてくれた事から「鳥越大明神」の社号を奉ったと云う。
源頼義の嫡男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称し、関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされた。
義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。
以後、当社は「鳥越大明神」と称され、現在の「鳥越神社」に至る。
広大な社地を有した鳥越三所明神
かつての社地はとても広大だったと伝えられている。
江戸時代までは約2万坪もの社地を有しており、当社は鳥越山(古くは白鳥山)と呼ばれた丘の上に鎮座。
そうした当社の広大な社地には、「鳥越大明神」と称された当社の他に、「熱田明神」「第六天神」の2社が鎮座していて、これらを合わせて「鳥越三所明神」と称した。
当時の「熱田明神」「第六天神」は当社の末社と云う扱いで当社が本社として山頂に鎮座。
広大な社地を有し、大いに崇敬を集めたと云う。
江戸の再開発・鳥越山も切り崩され規模縮小
天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
江戸の再開発が進み、鳥越の地もその影響を受ける事となる。
元和六年(1620)に全国の天領からの米を収蔵するため、隅田川沿いに浅草御蔵を造営。
埋め立てに必要な土の確保のため、当社が鎮座していた鳥越山を切り崩す事となる。
そのため広大だった敷地の多くを幕府に接収された。
さらに北側にあった姫ヶ池も埋め立てられ、これらは旗本や大名屋敷などの御用地とされた。
広大な敷地を有した三社の「鳥越三所明神」は移転を余儀なくされてしまう。
正保二年(1645)、鳥越山は完全に取り崩され消滅。
「熱田明神」は山谷(新鳥越町)へ遷座、「第六天神」は堀田原に遷座させられた。
結果的に「鳥越三所明神」のうち鳥越に残ったのは当社のみで、規模をかなり縮小される事となった。
江戸切絵図から見る当社と鳥越周辺
江戸時代の当社周辺については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。
こちらは江戸後期の浅草や蔵前周辺の切絵図。
右が北の地図で、当社は中央付近に描かれている。
赤円で囲った箇所に「鳥越明神」と記されているのが当社。
周辺には元鳥越町の地名が記されている。
鳥越三所明神の中で、唯一鳥越の地に留まった当社周辺は元鳥越町と呼ばれた。
緑円で囲ったのが隅田川沿いの浅草御蔵。
全国の天領からの米を収蔵するための蔵で、この浅草御蔵を造営するために、当社が鎮座していた鳥越山は切り崩された。
明治以降の歩み・戦後の再建
明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列し「鳥越神社」へ改称。
明治六年(1873)、郷社に昇格。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
元鳥越の地名も見る事ができ、江戸時代の地名を引き継いでいるのが分かる。
「鳥越神社」として、当時の写真が記録されている。
関東大震災以前の当社の貴重な姿が掲載。
既に社地はかなり削られ小さな神社となっていた事が窺えるが、郷社に列していたように、地域の総鎮守として大いに崇敬を集めた。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
御本社神輿が焼失してしまう。
大正十四年(1925)、関東大震災で焼失した蔵前の「松平神社」が当社へ合祀。
昭和三年(1928)、関東大震災で焼失した御本社神輿を復元。
これが現在の千貫神輿で現存している。
昭和二十年(1945)、東京大空襲で社殿を焼失。
昭和二十一年(1946)、社殿を再建。
これが改修されつつ現存。
その後も境内整備が進み現在に至る。
古くから噂される平将門伝説・その考察
当社には御由緒にない伝承があると噂される。
それは平将門にまつわる話で、少なくとも江戸時代の頃から当社と平将門についての記録が残る。
平安時代中期の関東の豪族・桓武天皇の五世子孫。
下総国・常陸国で伯父の平国香・平良兼ら一族と将門との争いが発生し、一族の争いが、やがては関東諸国を巻き込む争いへ発展する事になり「平将門の乱」が勃発。
争いの延長でやむを得ず将門は国府を襲撃して印綬を没収、関東一円を手中に収め京の朝廷・朱雀天皇に対抗して「新皇(しんのう)」を自称し、独自に岩井(現・茨城県坂東市)に政庁を置いて東国(坂東)の独立を標榜した。
朝廷は将門を朝敵とみなし討伐軍を結成、天慶三年(940)2月14日、藤原秀郷・平貞盛らとの戦いで、飛んできた矢が将門の額に命中し討死。
明治四十年(1907)出版の織田完之著『平将門故績考』には当社について詳しく記されている。
赤で囲った箇所が当社についての記述。
「鳥越神社」として記されていて「此の社も将門の霊を祀る」「今は日本武尊を祀ると云ふは後世の事なり」といった中々に興味深い事が記してある。
元々は将門を祀っていた神社で、日本武尊を祀るようになったのは後世の事だと云う。
日本の農政家・歴史学者。
明治期の印旛沼干拓に尽力した人物。
平将門の研究者としても名高く、『国宝将門記伝』『平将門故蹟考』などの著作がある。
明治に再び朝敵とされた将門であったが、その復権に織田完之の著作が果たした功績は大きい。
こうした将門についての噂は、江戸時代以前より伝えられていた。
いくつか挙げて考察。
将門の首が飛び越していったので鳥越(=飛び越え)となった説
江戸時代よりこういった噂話は伝えられていたと云う。
事の発端はおそらく江戸っ子の洒落によるものだろう。
当時は「神田明神」が江戸総鎮守として崇敬を集めていた時代。
御祭神であった平将門も江戸庶民には崇敬された。
その神田には将門の胴体があり「からだ」が訛って「かんだ」となったとも伝えられている。
そこで「鳥越」は「飛び越え」という言葉遊びを使い、将門の首を飛び越していったので「鳥越」なんて洒落を云うようになったと推測できる。(将門公の首は「将門塚/首塚」にあるとされている)
鳥越で 食えば神田で 腹が減り(古今前句集)
この川柳は寛政八年(1796)の『古今前句集』に掲載されたもの。
意味合いとしては「首が鳥越にあって、胴体は神田にあるので、いくら食べても腹が減る」というトンチの効いた洒落川柳。
以上のように、江戸時代より当社は将門伝説を噂されるようになったのが分かるが、江戸っ子特有の言葉遊びによる洒落と受け取るべきであろう。
将門の身体はバラバラにされて当社には手が埋められた説
当社には将門の手が埋められたと云った話は完全に後世の創作と思われる。
平成になって出版された加門七海氏の『将門は神になれたか』『平将門魔法陣(文庫版)』にて将門にまつわると噂される神社の配置と北斗七星をオカルト的に結びつけている。
社紋が七曜紋なので九曜紋を使った将門公との関係が深い説
当社の社紋は七曜紋。
宮司(鏑木氏)が千葉氏の系譜という事から使われている。
鏑木家という千葉氏の中でも重宝された家系で、千葉氏は妙見信仰の九曜紋系の家紋を好んで使ったため、その流れで当社の御神紋も七曜紋となっている。
平将門は妙見を信仰したとされ、千葉氏祖先と近い筋ではあるが、当社と直接の関連性はない。
以上の事から、当社にまつわる平将門の噂話については「洒落の効いた噂話」と思うのが筆者の見解。
こういったオカルト的な要素は、面白さもあり興味深いものではあるが、都市伝説的な側面もあるものだと理解した上で楽しむのがよいと思う。
境内案内
蔵前橋通り沿いに鎮座・鳥居前には白鳥橋
最寄駅の蔵前駅からは徒歩数分の距離、蔵前橋通り沿いに鎮座。
通りに面して昭和七年(1932)奉納の鳥居、右手に社号碑。
社号碑の「鳥越神社」は第52-54代内閣総理大臣・鳩山一郎氏による揮毫。
鳥居の手前は石橋が置かれている。
白鳥橋と名付けられた橋で、かつて当社が白鳥明神と称された事に因む。
橋を渡り、左手横から覗き込むと水を見る事ができる。
小川と云う程ではないが、境内にひっそりと水が流れる空間を設けている。
鳥居を潜り左手に参道が続く。
手水舎も綺麗に整備されていて身を清める事ができる。
手水舎の隣にはデジタルサイネージの案内板。
タッチパネル式で色々と見る事ができるので有り難い。
戦後に再建され白を基調とした社殿
参道の正面に社殿。
戦後の昭和二十一年(1946)に再建されたもの。
白を基調とした美しい社殿。
創建時の当社が白鳥明神と称された御由緒からもしっくりくる。
賽銭箱には社紋の七曜紋。
本殿も拝殿と同様に綺麗に整備されている。
色々と精巧に造形された力強い体躯の狛犬
拝殿前に一対の狛犬。
昭和七年(1932)奉納の狛犬。
ぐっと力強い体躯の招魂社系。
特徴的なのは阿吽どちらも性器が精巧に造形されている事。
両方とも雄のようで、性器まで精巧に造形された狛犬は少し珍しい。
境内社の福寿社と志々岐神社
鳥居を潜った正面に境内社の福寿社。
御祭神は稲荷神である倉稲魂命、大黒天神と恵比寿神、学問の神である菅原道真公。
「伏見稲荷大社」辺りの山の途中にある福寿社より勧請されたとも伝わる。
奥には神狐像や朱色の鳥居など可愛らしいものが多く置かれていた。
社殿の左手に志志岐神社(ししきじんじゃ)。
対馬の「志々伎神社」から勧請されたという珍しい境内社。
豊玉姫命が御祭神で、安産の神として信仰を集めている。
都内随一の千貫神輿・鳥越祭(鳥越の夜祭)
当社の例大祭は「鳥越祭」と称される。
特に宮神輿である千貫神輿が知られ、都内随一の重さと大きさを誇る。
普段は立派な神輿庫に保管。
関東大震災で焼失してしまった宮神輿を昭和三年(1928)に復元。
東京大空襲などの被害を免れ現存。
台輪幅4尺3寸で、都内で最も重い神輿と云われており、神輿渡御される神輿としては都内でも最大級かつ重い神輿。
鳥越祭では、日が落ちた夜に宮入りを迎える。
20時を過ぎた頃に宮入道中となり、幻想的かつ荘厳な様子から「鳥越の夜祭」とも云われ知られている。
境内社の御朱印も用意・限定御朱印や御朱印帳も
御朱印は中央に「鳥越神社之印」の朱印、七曜紋と月星紋の社紋が押されている。
左が2016年、右が2019年に頂いたもので朱印部分の書体が変わっている。
2023年に頂いた御朱印。
境内社の御朱印も用意。
「福寿神社」「志志伎神社」の御朱印を頂きたい場合は合わせてお願いするのがよいだろう。
祭事に応じて限定御朱印を用意する場合がある。
こちらは2021年正月の新春特別御朱印で、新型コロナウイルス対策のため前倒しして前年12月15日より頒布を開始した。
2022年正月の新春特別御朱印。
昨年同様に分散参拝を推奨するため前年12月20日より頒布を開始した。
オリジナル御朱印帳も用意。
社紋である七曜紋と月星紋の社紋をデザインしたもの。
所感
鳥越に鎮座する都内有数の古社。
江戸時代を迎えるまでは大変広大な社地を有していて、「鳥越三所明神」として崇敬を集めた本社として大いに崇敬を集めた。
かつて鳥越山と呼ばれた丘の山頂に鎮座していたものの、江戸の再開発にあたり埋め立て用として切り崩され、その後は規模が小さくなってしまう。
そうした中でも鳥越の地に残されたのは、当地にとって当社が大切だったからこそだろう。
現在も崇敬が篤く、特に例大祭の鳥越祭では地域からの崇敬の篤さを窺う事ができる。
鳥越祭で出る本社神輿は都内最大級の神輿で、お祭りも大変活気のあり、夜祭でも知られる。
下町らしさと鳥越の歴史を伝える良い神社だと思う。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
※境内社「福寿神社」「志志伎神社」の御朱印も頂ける。
※祭事に応じて限定御朱印を用意する場合がある。
※以前は初穂料300円だったが現在は初穂料500円に変更。
御朱印帳
初穂料:2,000円
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
社紋の七曜紋と月星紋がデザインされた御朱印帳。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
授与品・頒布品
御守護御守ステッカー(小)
初穂料:500円
社務所にて。
七曜紋が入った小さなステッカーで黒と赤の2色用意。
参拝情報
参拝日:2023/10/13(御朱印拝受)
参拝日:2021/12/27(御朱印拝受)
参拝日:2020/12/21(御朱印拝受)
参拝日:2019/09/19(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/04/06(御朱印拝受)
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